第十九話 サモリという謎
昼飯の時間。この世界ではサモリのお弁当は母が作るらしい。ご丁寧に、俺の分のお弁当まで作ってくれるらしかった。俺がもともといた世界ではナイが作ってくれていたし、その次の世界では買い弁、この世界では母御手製か。なるほど。これでシズ姉以外は御手製弁当ってわけだな。中庭に満ちる光の中で俺たちはこの世で一番平和な時間を過ごしていた。
「なんなのあいつぅ!?」
先ほどニハヤに申し出を断られたナイが憤慨している。烈都ニハヤ。不思議な奴だ。俺が経験した二回の世界滅亡の時、学校にいた。いや、一回いれば二回目居ても不思議ではないが、俺は特別ななにかを感じていたのだった。
最初の世界と同じやり取り。違いはサモリがハンバーガーを食べていないこととか、俺の弁当がナイではなく母御手製であることぐらい。御蔭で俺はハンバーガーのバーガー部分を押し付けられる栄誉を得ることはなかった。
「大した点数ではありませんよ」
シズ姉が言った。
「そういうの却ってよくないよ!? おこがましいってやつぅ!? 一位の癖に!」
ナイが箸を振り回しながら言う。
「素直にこう言おうよ。ジュ・トゥ・ベニヤハイ」
サモリの言葉。同じだ。あの日の昼食と同じ。
「えー!? 今なんて言ったのー!?」
「フランス語で祝福するって言ったの」
「どこで覚えたの!? …あっ」
この失言。そしてサモリは気にせずに……。あれ? 場が一気に重苦しくなったぞ? どういうことだ?
「ごめん、サモリ」
ナイが口を押えながら呆然と呟く。あれ、何だこの雰囲気は。
「サモリさん、あの」
シズ姉もいつになく慌て気味だ。どうしたっていうんだ。サモリはすっくと立ちあがる。
「ごめん、みんな」
それだけ呟くと校舎の中に入って行ってしまうのだった。俺はわけがわからない。途端、ナイとシズ姉の視線が集中する。
「行かなくていいの!? ヒィロ! いつもこういう時は追って行ってあげてるでしょ!?」
え?
「ヒィロさん。今回失言をしてしまったのはナイさんですけど、こういう時には俺に任せろ、と、いつも素早く行動してるじゃないですか。今日はどうされたんです?」
え? え? そ、そうなのか、この世界の初音ヒィロはそうなのか。それじゃあ仕方ない。俺は手に持った弁当を置くと慌ててサモリの後を追った。なるべくこの世界の自分のイメージは壊したくなかったから。だが正直わけがわからなかった。前の前の世界ではこんな失言簡単に流してたじゃないか。どうしてこの世界ではそうできないんだ。俺か? 初音ヒィロが幼馴染になったのが関係しているのか? 結局、サモリは見つからなかった。この世界の俺なら行き場所が簡単にわかったんだろうが、何も知らない俺には無理だった。その後の授業でサモリを見かけることはなかった。
その日、サモリは遅く帰ってきた。ただいまも言わずに、そしてリビングダイニングのドアを開けることすらなく階段を上がって行ってしまった。すでに夕食を摂っていた俺たち親子三人は顔を見合わせる。
「今日、学校で何かあったのか? ヒィロ」
父さんが訊く。
「いや、まあ」
あの事だ。それがこんなに尾を引いているのか。授業だってサボったくらいだもんなあ。俺は早めに夕食を終えると、二階に上がった。
二階には自分の家のはずなのに見たこともない部屋が増築されていて、そこがサモリの部屋らしいのだった。ご丁寧なことだ。ノブを見ると、ホテルでありそうな掛札がかかっていた。プリーズ・ドント・ディスターブ。.起こさないでください、だっけか。しかし俺は無視する。俺はドアをノックすると、
「サモリ? 夕飯くらいは食べろよ」
と言った。返事はない。これじゃまるで前の世界の俺じゃねえか。いったん一階に降りると、母さんにサモリの引きこもり化を報告する。
「そう。でも、いつものことだから。お腹が空いたら降りてくるでしょう。大事なのはその時に受け入れてあげることよ」
ああ、さすが母さんだな。いつもこうなら俺も安心することにしよう。しかし、俺があの時サモリの居場所を見つけられていたらどうなっていたんだろう。こんなに落ち込ませることもなかったんだろうか。俺にそんな力があるんだろうか。
そのまま寝る時間になった。結局サモリは出てこず仕舞いで今日が終わりそうだ。夜中に起きてラップのかかった晩飯を食うんだろうか。布団に潜ってあいつのことを考える。両親を亡くしていること、そのせいで俺の家で生活することになっていること、サモリ自身は親を亡くしたのを随分気にしていること――前の世界以上に――、それだけはわかっている。その部分が彼女の抱える問題なのだろうか。
電気を消したあともまんじりともせずに布団の中でぼーっとしてると、ドアの開くガチャッという音が聞こえた。びっくりして身を起こす。窓から差し込む月明かりにぼーっと浮かび上がったのは、誰であろう、サモリだった。
「どうしたんだよ、一体」
なんだっていうんだ。トイレと間違ったのか? そう思っていると、暗い中で彼女の声が響いた。
「一緒に寝よ、ヒィロ」
「はぁ?」
それだけ言うと俺の布団に倒れ込んでくるサモリだった。どさりと掛け布団にくるまる俺の脇に横たわる。俺の顔に迫るベリーショートの金髪。サモリの匂いがした。
「お、おいおいおいおい。ちょ、ちょっと待てよ。布団一枚で男女が添い寝は不味いって」
「一緒に寝ようよ。サモリとは兄妹みたいなもんだから変な気なんか起こすかよっていつも言ってるじゃん」
言ってねーよ俺は。この世界の初音ヒィロは何考えてるんだ。
「ダメだ」
「何で」
「ダメだからだ」
「何でさ。今日は来てくれなかったくせに」
ドキッとする。それは痛い部分だ。
「何で今日来てくれなかったの? ずっと屋上にいたのに」
屋上かぁ。盲点だったな。俺はごまかす。
「そろそろお前も独り立ちできないといけないと思ってな」
無言。よく見えない中でサモリが体を起こすのがわかった。
「そっか」
布団の上で立ち上がると少し間をおいて、
「いつまでもヒィロに甘えてもいられないのかもね。女よ! 立ち上がれ! なんだろうね」
「なんだって?」
「自立しろってこと」
「今まではそうじゃなかったのか?」
「知ってるでしょ? ヒィロの方がそのことはずっと。俺に頼り過ぎだ、とかずっと言ってたし」
そうなのか。確かに、昼間のナイの言葉だって、前は何ともなかったはずだ。それが、俺が幼馴染になったとたん助けなしには受け止められなくなるとは。俺に頼ってるということなんだろう。俺がいるからサモリの自立が妨げられているのか? 俺からさっさと離れた方がいいのか? この世界のサモリは。
「あたしはね、ヒィロ。本当はこの世界のどこにも居場所がない人間なんだよ。今までよくもまあ頼らせてくれたよヒィロは。あたしはいつもこの世に間借りしてるだけ。ヒィロの家にだってお邪魔してるだけなんだよ」
暗い部屋にそんな言葉が反響する。随分悲しいことを言うじゃないか。
「なんだよそれ。その割には遠慮しねーじゃねえか」
「した方がいいの? 遠慮。あたし、邪魔? 死んだ方がいい? ワニにがぶがぶ噛まれて」
「そうは言ってねえよ。だいたいワニってなんだよ。この日本じゃ動物園限定の死に方じゃねえか」
俺がツッコミをすると数舜間があった。サモリは暗闇の中、俺の体を布団の上からぎゅむぎゅむ踏みながら窓の方へと歩く。月明かりを背にすると彼女の影が俺の上に落ちた。俺も起き上がり、その横に行く。窓から見えるのは狭い道の様子だけ。お月さん以外何も面白いものなどない。てっきり月でも見ているのかと隣のサモリの顔を覗くと、斜め下の地面の方を向いていた。
「ヒィロ」
「なんだよ」
「あたし、ここにいていいのかな」
多分、それは勇気ある言葉だ。ダメだと言われる可能性を考えたらとても言えない言葉だ。本心では信頼してくれていることの証でもある。俺は精いっぱい答える。
「いいんだよ。俺と同じ。巣立っていくその瞬間まで自由にしてていいし、その後も好きなように帰ってくればいい。なんなら、大人になってからずっといたっていい。もちろん、まったく自立しないのはどうかと思うけどな。でもたとえそうであったって、俺の、いや、俺たちの両親ならきっと受け入れてくれるさ」
念頭にあるのは、前の世界での両親の最後の言葉だ。あの思いがこの世界でも共有されているはずだから、俺は全面的に信頼しているわけだ。
「『俺たちの』両親?」
「そう。俺とお前の、だ」
俺がそう発した後、闇よりも暗い沈黙があった。
「何もわかってないんだね、ヒィロ」
ぞっとするような、冷たい声だった。俺はギョッとして月明かりに照らされたサモリの顔を見る。怒ってる。暗くてもそのくらいはわかる顔つきをしていた。
「もういい。ヒィロがそんなこと言うんだったら今日は添い寝してあげない」
「いや、それは別に……」
言い終える前にガチャンとドアを開けると自分の部屋に取って返していくサモリだった。なんだったんだ、一体。明日ちゃんと話してみよう、と、俺は布団にもぐるのだった。