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二度とは来ないレペティション  作者: 北條カズマレ
第二章 千駄木シズル
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第十六話 失敗

 夏休みの最後の週、いつものメンバーでまた集まる機会があった。定食屋で延々とりとめもないことを駄弁る。夏のうだるような暑さのせいで外に出る気がしない。畳二畳分もありそうな大きな店のウィンドウ越しに、アスファルトにべっとり貼り付いた空気が揺らいでいた。あらかたそれぞれこの夏休み中に会ったことを話し終わった後、テーブルに臥せっていたナイががばっと飛び起きてシズ姉に言った。なんだか今日のナイははしゃいだようにハイテンションな気がした。

「あー! そう言えば! ヒィロから聞いたよ!?」

 そう言えば不思議とシズ姉は全国模試一位のことを言わなかったな。もともと自慢するような人じゃなかったけど、親父さんにも褒められたんだしもっと舞い上がってもよさそうなものだが。本当にうれしいときは隠さない人のはずなんだ。見るとシズ姉はなんだか心ここにあらずと言った風で、とても悲しそうに見えた。

「ワッツ・ザ・マター? シズ姉、どうかしたん?」

 サモリが訊く。

「い、いえ、何でもないんです。はい、おかげさまで。取らせていただきました。全国一位」

 ここで初めてうれしそうな顔を見せる。しかし俺にはわかってしまう。二人にはわからないだろうが、俺にはわかるんだ。これは作り笑いだ。

「あー、またそんなこと言って! おかげさまで~じゃないでしょ!? シズ姉の実力だよ。ホント優秀なんだから、シズ姉は」

「優秀……」

 シズ姉が小さく小さくそう呟くのを俺は聞き逃さなかった。今度はサモリが、

「そそ、ゆーしゅーゆーしゅー。これ以上の優秀はないね。いるとしたら三大ギタリストくらいで……」

「私は優秀なんかじゃないです!」

 ガタリと立ち上がってそう叫んだ。あのシズ姉が、だ。あのどんな時も穏やかでたおやかなシズ姉が。絶句する俺たち。シズ姉は自分の行為に気付いたようで、やってしまった、という顔をすると店の外に駆けだすのだった。

「あ、待てよ! シズ姉!」

 俺は追った。二人に目配せすると千円札をその前に置いて。元気過ぎる太陽の下を俺たち二人は走り続ける。俺が彼女のまっすぐな背中を追って。だが体力に大きく劣るシズ姉のことだ。二、三分もしないうちにすらりとした背が折れ曲がり、苦しそうに息をつき始めた。やがて追いつく俺であった。

「一体どうしたっていうんだよ、シズ姉」

「ヒィロさん……」

 シズ姉の顔は青かった。全力で走った後だというのに。道端で荒くなった息を整えると話し出す。

「何でしょう、褒められていたのに、なんだか冷静じゃいられなくなって」

「わかるよ」

 俺はつい適当なことを言ってしまった。

「わかりませんよ、ヒィロさんには」

 こんな頑ななシズ姉は初めて観た。ごめんなさい、と聞こえた。謝るようなことでもないのに。

「優秀、ですか」

 シズ姉の物憂げな唇から先ほどの二人が言ったのと同じ単語が飛び出た。

「父もその言葉で褒めてくれたんです。この前模試のことを報告したとき。うれしいことのはずなのに、かえって悲しい。何ででしょうね」

(優秀、か)

 俺は考える。そんなに嫌な言葉か? 俺は言われてうれしいけど。俺はとりあえず俺たちのグループのタイムラインに伝言を載せた。シズ姉には追いついたから落ち着かせるために二人で帰る、と。悪いけど。二人で当て所もなくとぼとぼ歩き始める。夏の蒸し暑い空気をかき分けて、熱いアスファルトで靴を焼きながら。俺はなんとかシズ姉の心から何かを引き出そうとする。

「ねえ、シズ姉。俺はあの時、すごく救われたんだ」

「あの時、ですか?」

 パッとはわからないか。まあそれはそうかもしれない。シズ姉にとっては大したことじゃないのかもしれないのだから。

「あの時だよ、ほら。俺が引きこもっていた時に毎日訪ねてきてくれて、抱きしめてくれたこと」

 ああ、という、合点が行った顔になる彼女だった。

「お安い御用ですよ。あのくらい」

「いや、お安くないよ。あの時は俺、とても暗い闇の中にいたんだ。絶望ってやつだよ。そこからシズ姉は救い出してくれたんだ。感謝してもしきれない。なんだろ、その、とにかく、感謝してるってこと。だから今度は俺がシズ姉を助けたい。俺の助けを受け入れてくれるか?」

「しかし……」

 シズ姉は随分深い考えに沈んでいるように見えた。やがて、

「しかし、自分でもわからないんです。どうすればいいのか。どうすれば自分が満足なのか。わからなくって、今日はお友達相手に感情を爆発させてしまいました。謝らなければなりませんね、二人には」

「あの二人なら心配いらないよ。きっと許してくれるさ」

 それにしても、シズ姉の望みとは、本当の望みとは一体何なのだろう。優秀、という言葉で褒められることを拒否するその心は。

「褒めて欲しいわけじゃないのかな、シズ姉は」

「わかりません」

 その後、沈黙したまましばらく歩いた。暑い。俺は汗をぬぐう。シズ姉も白い帽子を傾けてはハンカチを額に当てている。俺はふと思いついたように、

「俺はシズ姉のことを尊敬してるよ。優しいし、気配り上手だし、それにゆうしゅ、じゃない、すごく、その、頑張り屋さんだしさ」

 と言った。シズ姉は聞いているのかいないのか、

「よく言われたんです。父から。お前は優秀じゃなきゃいけないんだって」

 と返してきた。

「そうなんだ」

 沈黙。重い空気を震わせるのはミンミンゼミの声だけだ。目を見張るような入道雲も、好きな人と心通じない現状にはなにかそぐわない。空は他人事のように青かった。

 俺はちょっと休まないか、と言って、ビルの影の自販機とベンチにシズ姉を連れて行った。座って、ベンダーから取り出した清涼飲料水を渡す。ありがとうございます、と聞こえた。二人でしばらくそこにいた。少し奥まった場所だったから、誰も通らない。太陽からすらも影になった、二人だけの時間。ゆっくりと流れる、穏やかな。だけども心は今の空のようには晴れない。抱えているのだ、問題を。

「シズ姉」

 俺はブロック塀に頭を預けながら訊ねる。

「本当はどうしたいんだい? いや、違うな。それがわからないから苦労してるんだよな。じゃあ、どうだったらよかった?」

「そうですねえ」

 ミーンミーンという声だけが周りに満ちている。暑さのせいか、俺は少しイラついて、

「シズ姉、やっぱり言えないのかい?」

 怒ったような調子でそう言ってしまう。また、沈黙。やってしまったかな。不味いことをしたと思いながら隣を見た俺は、ギクリとした。シズ姉は泣いていたのだ。汗ではないものを目から幾粒もハンカチを握った手に落としていた。

「本当はわかってるはずなんです、自分でも。でも言ったらいけないような気がして。怖いんです。自分の気持ちに向き合うのが」

「シズ姉……」

 抱きしめてあげるべきだろうか。わからない。こういう時どうすればいいか経験値が足りなさすぎる。いや、でも、初音ヒィロよ。隣で好きな女の子が泣いているんだぞ? この世界に本来いたはずの、シズ姉と幼馴染だった初音ヒィロならきっと……。

「シズ姉」

 俺はそう呼びかけて彼女の肩を抱いた。二人並んでくっついて、泣き続ける彼女の体を抱き寄せた。静かな涙はしゃくりあげる声を伴い始め、ハンカチが顔に当てられた。シズ姉は泣きながら、

「私の心をどうにかして開かせてください。ヒィロさん、御願い。自分でもどうしたらいいかわからないんです」

 自分が何をしたいのかわからないのか、わかっているのか、彼女にもよくわからないんだろう。でも、俺はそんなシズ姉の葛藤を含めて肯定してやらなければならないんだ。ひとしきり泣いた後、またミンミンゼミだけが支配する空間が戻ってきた。それでも俺はシズ姉の方に回した手を戻さなかった。

「ヒィロさん」

「何だい、シズ姉」

「ヒーローになってください、また、私の。あの時、受け入れてくれたように」

 わかったよ。俺はそう、呟いた。どうすればいいかまだ分からないが、少なくとも答えはシズ姉の親父さんが握っているはずだ。そこに突っ込むしかない。それにしても、事態は振出しに戻っちまった。急がないと。


 次の日、日本が『闇』に封鎖された。前回と同じように。

 もはや一刻の猶予もない。あと二週間でこの日本も『闇』に飲み込まれる。どうやらそのことを知っているのは前の世界から来た俺だけらしい。それまでに出来ることをするのだ。出来ることとはシズ姉のことだ。それしか俺にはできなかった。二週間後の世界の運命を公にしても、多分、何も変わらない。手元に用意できているものだけが俺の力なんだ。

 ある日のこと、シズ姉が深刻な面持ちで話しかけて来た。学校にいるときは向こうから来るのはなかなか珍しい。その内容は、

「ヒィロさん、私の父なんですけど」

 悲しがっているような、思い詰めているような、そんな調子だった。

「最近おかしいんです。とにかく来てください」

 わかる。わかるよ。誰しも世界の終わりを予感しながら生きている。おかしくなる人も出るだろう。だがまさかシズ姉の親父さんがそうなるとは。前の世界でもそうだったのか? あの時のシズ姉はそんな態度はおくびにも出していなかったが。仲間である俺たちにすら話すこともできずに苦しんでいたんだろうか。だが今度はそうじゃない。俺を信頼してくれたらしい。

 放課後、いつも通り一緒に帰る。しかしいつものように俺は自分の家には入らずにシズ姉の家の前に立つ。それは外見からは別段変わったところもなく、いつも通りだった。まあ俺は毎日見ているのだから何かあれば気付くはずだから当たり前だが。

「で? 最近どうしたって?」

「父はですね、その」

 その時、玄関のドアが音を立てて開いた。

「シズル! 遅いじゃないか! 早く入りなさい!」

「はい、ただいま!」

 そう言うとシズ姉は慌てて中に入っていく。俺への目配せは忘れなかった。俺はその後に続く。そうか。新学期になって以来、つまり日本が『闇』に包まれて以来シズ姉の下校が早かったのはこういうことか。ノイローゼか何かにかかったような憔悴した様子の千駄木の親父さんの顔を見てわかった。娘への束縛が強くなっているのだ。帰ってくるのを今か今かと待つくらいには。気持ちはわかる。俺の両親だって、『闇』が身近になってからは同じくらい心配してくれてるもんな。だけど、この親父さんの場合は少し常軌を逸し気味だった。俺を見止めると、

「ああ、ヒィロ君か。すまないねえ、ちょっと最近立て込んでて……」

 と言ったが俺は、

「シズ姉はよいと言っていました、ちょっとお邪魔させてもらいます」

 半ば強引に入ってしまった。入られてしまった以上はお茶の一つでも出さねばと思ったのだろう。お手伝いさんにそう告げると親父さんは奥へ引っ込んだ。その間に俺とシズ姉は応接間のソファーに座る。お手伝いさんの持ってきた紅茶を俺は熱いのも構わず二息で飲み干した。

「父を、呼んできますね」

 シズ姉は席を立つと奥へ消えて行った。さて、何と言うべきか。まだ親父さんがどの程度おかしくなってしまったかを聞いていない。シズ姉はこの目で見てくれと言わんばかりだ。

 やがて親子が姿を見せた。親父さんの眉は困惑の曲線を描いていた。向かいのソファーにどっかと腰を下ろした。

「折り入って話って、何なんだい? シズル、ヒィロ君」

「それなんですが……」

 シズ姉が切り出した。しかし、そう言ったまま黙っている。一分近く無言の時間が経つ。業を煮やした親父さんが、

「黙っていちゃわからないじゃないか!」

 と怒鳴った。ここは俺が受けて立たなきゃいけない。そう確信した。

「ちょっと待ってください、千駄木さん」

 親父さんはこちらを向いた。

「シズ姉は今大事なところなんです。今まで言えなかったことを何とかして言いたがっているというか。とにかく、もっと耳を傾けてあげてください」

「そうはいってもなあ。私はこの子の意思を小さい時からちゃんと聞きとってあげていたし……」

「違う」

 ボソリと、シズ姉が呟くのが聞こえた。親父さんの耳にも届いたようで、何が違うんだ? シズル。と言った。しかしそれ以上シズ姉は何も話さない。

「まったく訳が分からないよ。自分の子供ながらときどきこういうことがあるんだ。今日ヒィロ君が一緒にいるのはこういう事態を避けるためじゃなかったのかね? こうなってしまったじゃないか。どういうつもりなんだ」

「千駄木さん」

 俺は強い調子で呼びかける。また彼の注意が俺に向く。

「この前の全国模試の成績、シズ姉はがんばりましたよね? それに関してはどう思っているんです?」

 親父さんは体を後ろに倒す。ギュウッと音を立てて高そうな革製のソファーに自分の体をめり込ませる。

「それに関しては十分に評価してあげたさ。褒めてやったし、好きなものも買ってやった。それでいいじゃないか? 何が不満なんだ。これからも精進してほしいという願いを込めたつもりだ」

「それがシズ姉の本当の望みじゃないとしたら?」

 親父さんは黙った。チラッと横にいるシズ姉の方に目をやると、ぎゅっと手を握りしめ、唇をかみしめている。必死に耐えているようだった。俺はここに至ってやっと、自分が何の方策もなしにここにいるということに気が付いた。シズ姉の本当の望みをちゃんとは把握していなかったのだ。それでも俺は斬り込んだ。

「もっと、小さなことでもシズ姉を褒めてあげるとか、親なら色々あるんじゃないですか?」

「当然なんだ。できて当然のことばかりだ。この世に転がっているのは。できて当然のことは褒めても仕方がない。甘えるだけだ。そういう風に私はこの子を育てて来たんだ」

「しかしですねえ」

「人間はね、本当に難しい何事かを成さないと認められたりはしないんだよ」

「そうかもしれませんけど」

 親父さんから目を離してシズ姉を見る。端正な顔は白く色が抜けていた。今にも倒れそうでいて、人形のようにそのままでずっといられそうでもあった。

「私は娘のことを一番よくわかっているつもりだ」

 これで話を終わりにしようという意図が見え見えの調子で親父さんが言った。

「今のシズルがあるのは私のおかげだ。それは君たちも認めるところだろう。だったら、ねだる前に感謝することも必要なんじゃないかね?」

 俺はどうしても納得できないが、理論武装が足りなさ過ぎた。結局言いくるめられてしまった。続ける言葉が見つからないでいると、シズ姉が、

「ありがとうございます、父さん」

 と言った。

「ちょ!? それでいいのかよ! シズ姉」

「ええ、何か問題でも?」 

 問題あるから俺はこうして……。いまさら何を言ってるんだシズ姉。

「じゃあ、もういいね?」

 親父さんが言った。もう今にも立ち上がって家の奥に消えんばかりだ。

「待ってください、まだ話が」

「シズルはもういいんだろう? 違うのか」

 俺はシズ姉を見た。白い顔で作った微笑みを湛えている。それがなんとも痛々しかった。

「ええ、いいです、もう。いいんです」

「ならオーケーだな。それじゃあ。ヒィロ君もあまり女性の家に長居するもんではないよ」

 親父さんが部屋から出て行くと、シズ姉は心ここにあらずと言った様子で押し黙っていた。

「シズ姉」

「ごめんなさい、一人にしてもらえませんか?」

 じっと見つめる。彼女は顔を臥せったままこちらを見もしなかった。俺は、負けたのだ。シズ姉を救えるか否かの勝負に。心臓をハンマーで粉々に砕かれたような心境だった。そしてそれはシズ姉も同じだっただろう。俺は無言でソファーから立つとお手伝いさんにお邪魔しましたと言ってシズ姉の家から出るのだった。そして隣の自分の家に入ると部屋で布団に倒れ込んで後悔するのだ。あとの数日をこうして過ごそう。また、引きこもる日々に戻るのだ。

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