第十三話 違和感
六月になってしまったが、正直、復帰できるとは思わなかった。永遠にできないと思っていた。あの部屋でまた世界の終わりを迎えるものだと思っていた。それが一ヶ月で復帰できるなんて。俺は学生服に身を包んで、学生かばんを持って、シズ姉の家の前にいた。この大きな家の前で登校前に誰かを待つなんて初めてだ。この世界の初音ヒィロなら慣れ親しんでいるであろう行為を俺は初めてするわけだ。だが問題ない。ナイの時と同じようにここで待っていればいいはずだ。なんとなく、シズ姉を心待ちにしている俺がいた。まったく、なんだっていうんだ。ちょっと、その、胸が顔に当たっただけじゃないか。変に意識してる。よくない傾向だな。
そんなことを想っていると、ドアが開いた。聞こえてきたのは男の声だった。
「シズル、ヒィロ君は復帰できるのかね?」
「ええ、お父さん。大丈夫ですよ」
「そうか。しかし引きこもりになってしまったんだろう? 優秀な子だったし、仲よくしてくれたんだがなあ」
「今もそうですよ」
そしてドアの影から姿が見えた。もちろん、シズ姉だ。こちらを見ると一瞬驚いたような表情を浮かべた後、本当にうれしそうな笑顔を浮かべた。ドキッとした。あんな心を裸にして飛び込んできてくれるような笑顔を女性から向けられるなんて初めてだった。ナイだってそこらへん照れ屋なのか、子供のような笑顔をしてこそすれ、ああいう笑みは向けてはくれなかった。
「ヒィロさん!」
鞄を振りながら走り寄って来る、アイドルの様な美少女。心動かない男はいないだろうという光景。つい、見惚れてしまう。
「あ、おはよう、シズ姉」
ついついぎこちなくなる。シズ姉は俺の前まで来ると、はしゃいだ様子を隠すように澄まして立っている。俺がこの世界に来たあの日、一緒に登校したときの様子で。
「行きましょうか」
それだけ言うと、歩き始めた。なるほど。あまり過度に喜ぶ様子を見せても重荷になるかも知れないという配慮か。日を置かずにまた引きこもりの生活に戻ってしまったらダメージがでかいもんな。さすがは気遣いの天才、シズ姉だった。俺たちは無言で歩く。しずしずと俺の前を行くシズ姉の背中、揺れる長い黒髪から視線を逸らせなかった。
2―Cの教室に着くと早速ナイが話しかけて来た。
「サモリのライブすごかったんだよ!」
ナイ。ナイ。かつての恋の亡骸を見ている気分だった。俺は努めてそういう感情を表に出さないように、
「知ってる」
「え? 何で?」
「あ、いや……」
ナイはうーんとうなって俺の様子を見ている。「なんだか元気がなさそうだね」とか「どうしたの」とか言いたかったんだろう。だが引きこもり上がりという俺の状況に寸でのところで気を遣って言葉にしなかったというわけだ。少々おぼつかないが及第点だろう。その点こっちの不思議ちゃんは、
「で、何があったの? 二兆年くらい閉ざされた世界の住人だったけど」
サモリめ、不躾に聞いてきやがる。それに二兆年ってなんだ。宇宙が百回生まれ変わっても足りないんじゃないか?
「サモリさん」
シズ姉が横から入って来る。サモリの名を呼んだだけでそれ以上何も言わなかったが、サモリはすぐにからかいの矛を収めた。すごいな、シズ姉は。
それからみんなでノートを見せてくれることになった。かわいらしい文字が女の子らしいがあまり書き込みのないナイのノート、板書どころか先生の一言一句を書きとったシズ姉のノート、未知の言語で書かれたサモリのノート……。
だが、勉強の遅れを取り戻す気にはなれなかった。以前の世界と同じように謎の『闇』は出現し続けていたから。またこの日本が飲まれるのも確定的な未来だろう。だったら、将来のために頑張る気などなかった。
学校で過ごす一日が終わり、夕日差す帰り道。シズ姉というきれいな女性との二人きりの帰り道も悪くはなかったが、やはり道連れがナイでないのは違和感があった。
「ヒィロさん」
呼びかけに俺はシズ姉を見る。
「今日もサモリさんったらおかしかったですね」
俺が引きこもっていた理由を訊かないのか。一生懸命、そういう話題を避けているのがわかった。わけを聞きたいだろうに。心配しているだろうに。不安だろうに。そっとしておくという、俺への配慮。尋常じゃない健気さだった。俺は自然に、
「ありがとう、シズ姉」
と言った。シズ姉は一瞬怪訝そうな顔をしてから、微笑みを浮かべて、
「いいえ」
と言った。照れくさいのか、綺麗に撫でつけた前髪を一度そっとかき上げた。
「すごいな、シズ姉は」
「え?」
「成績もすごいし、気配りは人並み以上だし、これじゃあ……」
ナイは敵わないかもな。良くないことを考えているだろうか。俺はナイが好きだったはずだ。だがもういない。俺の知るナイはもういない。幼いころからの思い出は、シズ姉に盗られてしまった。もちろん、シズ姉は悪くないのだが。記憶は人を構成する重要なファクターだという。だとするなら俺がナイを未だに愛するのならシズ姉が持っている記憶を愛することもできるのだろうか。わけがわからない。少なくとももうナイとの愛情は望めないものだということはわかっている。今ナイに告白したところで、世界が終わるまでに以前の関係の十分の一も築けはしないだろう。失った思い出はあまりにも大きすぎる。
「私はそんなに出来のいい人間ではありませんよ」
シズ姉の言葉に俺の思考は止まった。何を言っているんだ。学年一位で人格も素晴らしいシズ姉が大した人間じゃなかったら何だっていうんだ。前にナイも言っていたが、おこがましいってやつだそれは。
「シズ姉は優秀じゃないか」
しばらく返答がないので見てみると、俺の数歩前で彼女は立ち止まっていた。俺も歩みを止める。
「どうかしたの?」
シズ姉はこれまでとは打って変わって、
「私は、優秀なんかじゃありませんよ」
暗い調子でそういうのだった。
「え? どうしたんだい?」
「ヒィロさんなら、わかってくれてると思ったのに」
すまない、わからない。それはもしかするとこの世界の初音ヒィロなら知っていることなのか? それともそいつでもわからないことなのか?
「ごめん、シズ姉、どういう意味……」
「いえ、いいんです」
頭を振った彼女はもういつものシズ姉だった。
「帰りましょう」
それからの帰り道は、あまり話さなかった。
「本当に良かったわあ、ヒィロが復活してくれて。シズルちゃんのおかげね」
ジュージューと炒め物の油の弾ける音を響かせながら母さんが言った。
「そうだな。どうすればいいかとずっと思案していたんだ。力づくで外へ出すのが適切とも思えんし。シズル様様だな」
と言ってソファーの父さんはビール缶を傾けた。俺はその横で黙ってテレビに目をやりつつスマホをいじっている。こういう話題は照れ臭いのだ。頭の横をポリポリと掻く。母さんは料理の手を休めずに、台所から声をかける。
「ま、母さんはいつでもよかったんだけどね。いろんな人生があるんだから。好きな時に好きなようにすればいいわ。まあ、それが本当にしたいことだったのかは知らないけど。ヒィロ。話せるようになったらいつでもわけを話して頂戴ね。母さんちゃんと聞いてあげるから」
「うん。ありがと」
「はは、母さんの言う通りだぞ。母さんに言いにくいなら父さんに言えばいい」
こういうことを言ってくれる親なんだ。本当にありがたい。そう。俺にはこんな素晴らしい両親がいる。それは世界が変わっても奪われなかった。幸せなことだと思う。世界からずれてしまって初めて分かったんだ。
スマホが震えた。ノータイムでアイコンをスライドさせて本体を耳に当てる。表示は「千駄木シズル」となっていた。俺はあだ名では登録しないタイプだ。
「何? シズ姉」
大方隣の父さんや台所の母さんに聞かれて不味い話でもないだろうと俺は気楽に構えていた。違ったらしい。
「ヒィロさん……」
その声はいつもとは全く違う、かすれた様なものだった。俺は驚いてソファーから立ち上がるとリビングを出た。父は特に反応せずにテレビに見入っていた。
「どうしたの?シズ姉」
俺は廊下に出てリビングへの扉を閉めた。これで親に聞かれることはないはず。そうしなければならない話をすることになるという雰囲気がビシバシ感じ取れた。
「勉強の合間にですね、ちょっと。ヒィロさんもそうでしたか? ならお邪魔だったかわかりませんが」
俺はただスマホをいじるだけという時間を使い方をしていた自分に後ろめたさを感じる。しかしそんなことはまあいい。
「いや、とりたてて何かしていたわけじゃないから大丈夫だよ、シズ姉。何かあったの?」
「それが、いえ。その。特に話でもないんですが」
俺は苦笑する。
「おいおい、ただ声が聞きたかったからとか、やめてくれよ。恋人同士でもないんだし」
言ってから気づく。この世界で一番俺と恋人関係に近いのは、シズ姉なんだと。この世界に来てからの短い時間を思い返しても随分親密な間柄を演じてしまったと思う。心も動かなかったと言えば嘘になる。まったく、前の世界のナイがいたらぶん殴られていただろうな。シズ姉の方は今の言葉に少々考えを巡らせているようで、言い淀みながら、
「そう、ですよね」
と言った。もし本当にシズ姉がナイと同じ立ち位置にいて、似たような気持を抱いているのなら、きっと俺にも好意を抱いているのではないか? だとしたらちょっと慮りの足りない言い方だったかもしれない。
「あー」
俺は失言をごまかすような適当な返事を探し始める。
「な、なんか元気なさそうだけどさ、どうしたの?」
また、沈黙が返って来る。辛抱強く待つ俺。すると、
「実は」
とシズ姉が切り出す。しかしその時だった。電話の向こうで他の誰かの声がした。いや、シズ姉のお父さんだろう。
「ごめんなさい、またあとでかけます」
と言ってぷっと切れてしまった。俺はスマホを耳から離して、
「何だっていうんだ」
と呟いた。その日はまたかけなおすこともせず、普通に最低限の課題をやって、スマホをいじって、風呂入って寝た。また例の悪夢を見た。
次の日、朝出かける俺の前に、シズ姉が立っていた。玄関の前で待っていてくれたのだ。おはよう、と声をかけると、おはようございます、と返ってきた。並んで学校を目指す。隣にいるのがナイでないという違和感は急速にしぼみつつあった。現金というかなんというか。シズ姉がきれいだからだろうか。
「人って、人の影響をどれくらい受けるものなんでしょうか」
唐突な質問だった。全然別のことを考えていた俺は一瞬反応できずにシズ姉の方に呆けた顔を向けてしまったと思う。だってあまりに藪から棒な質問だし。意図が読めなかったから、訊き返す。
「それってどういう意味だい?」
「そうですねえ。やっぱり人間って、他の人からいろいろな影響を受けて個を形作ってるモノだと思うんです」
難しい話なのかな? 俺は黙って聞いている。
「だから、自分が持っている素晴らしいと思える性質も、自分一人の力じゃないんです、きっと。他の人からの影響なんですから、感謝しないといけないんでしょうね、きっと」
何が言いたいんだろう。シズ姉はさらに続けた。
「例えば、教師だとか、友人だとか、出会った本の中の人物だとか、親とか……」
彼女が「親とか」の部分でトーンダウンしたのを俺は不思議に思う。そこが言いたいところなのか? 俺は、
「うーん、例えば親の影響ってやっぱり大きいんじゃないか? サモリの前では言えない話だけど。ほら、俺って大らかで優しいだろ?」
と言った。シズ姉を見ると、こちらを真剣なまなざしで見ている。そんなに力を入れる話題だったのか。だが俺は深く考えることなく続きを言う、
「それってやっぱり、俺の両親から来てるように思うんだよね。だから――」
俺は改めてシズ姉の方を見て、笑顔で、
「親に感謝かな」
と言うのだった。
――沈黙。あれ? なにかおかしなこと言ったかな? 俺。しかし次の瞬間、
「そうですよね」
作り笑いするシズ姉の顔が目に飛び込んできたのだった。作り笑い。そう、それはそんな感じだった。何が彼女にそうさせるのだろう。俺はそれを解き明かしたいと、強く思った。