第十二話 やさしさ
それから俺はろくに飯も食わずに学校を休み続けた。親にはまったく予兆のないことに思えたはずだ。部屋までご飯を運んでくれる母さんに思う。違うんだ母さん。目の前の息子は四月までを生きた初音ヒィロじゃない。九月に起こる世界の終焉を経験し、最愛の人と過ごしたはずの時間を永遠に失った初音ヒィロなんだ。そんな不思議そうな目で見ないでくれ。これは仕方ないことなんだ。だから今は、今だけは放っておいてくれ。スマホで調べてみると例の『闇』はこの世界でも変わらず国々を侵食していた。あの夢も前と同じように見続けた。相変わらず、選べ、とか、まだだ、とか勝手な声が響く夢だった。
「ヒィロさんはこの部屋ですか?」
五月の第二週。夕方。そんなくぐもった声が部屋の外から聞こえて来た。
「ごめんなさいね、シズルちゃん。久しぶりに家に来てもらったのにこんな用事で」
「いえ」
やっぱり母の中でも俺とシズ姉とは幼馴染ってことになってるのか。世界改変の手が完璧に回っていると言うわけだ。俺の頭の中以外には。コンコン、とノックの音が聞こえた。返事をする気にはなれない。
「ヒィロさん、私です。その、お元気ですか?」
元気なわけないだろう。もう一週間以上引きこもってるんだぞ。学校に行かないどころか、外にも出ずに。
わかる。わかってる。そりゃあわかってるさ。俺にかける言葉が見つからないことなんか。優しい言葉すら俺を傷つけるのではないかと恐れている。シズ姉はそう言うところに気が回る頭のいい人だ。
「何ていったらいいのかわからないですが」
慎重に言葉を選んでいるのを感じる。返事くらいしてあげた方がいいかな?
「私も正直困惑しています、今まで、とても長くお友達だったでしょう? これまでこういうことはなくって。でも急にこうなって……」
「ふざけるな!」
俺は枕をドアに投げつけていた。旧知の仲のように俺を語らないでくれ、シズ姉。あんたは俺のクラスメイトであって幼馴染じゃないだろう? なあ、そうだろう? そうだと言ってくれ。俺の記憶の通りに。
むなしい願いだった。変わってしまったこの世界においては。俺はこの世界にとって異物なんだろうな。順応を求められる、記憶だけがおかしな場違い人間。
そうですか、と言う言葉と共にドアの向こうの気配が消える。俺はベッドに横になったまま、次の日を迎えた。そんな日々がまた一週間続いた。
「ヒィロ! もう! どれだけ引きこもるつもり!? このままだとニートになっちゃうよ!? 出て来なさい!」
ある日の朝、そんな声によって目を覚まされた。うるさいなあナイ。幼馴染だからって俺の部屋まで起こしに来るなよな。俺の寝ぼけ頭はやがて雲が晴れてきて、その声がの主がもはや幼なじみと呼べる存在ではないことに気付く。そうだ。幼馴染としてのナイは「死んだ」のだ。消えてなくなったと言うべきか。「死んだ」や「消えた」の方がまだあきらめがつくかもしれない。そうじゃないのだった。今のナイは幼馴染でも恋人でもないが毎日学校で顔を合わせる友達ではあるという、残酷な残骸なのだった。
「ヒィロ? キャン・ユー・ヒア・ミー? その中で体液生成中とかでないなら出て来いっつーの。首狩族が待ってたりしないって」
サモリも一緒か。とすると当然、
「ナイさん、サモリさん、待ってください。いきなり外へ出てきて、はよくないですよ」
シズ姉も一緒だ。
「じゃあどう言えばいいの!? ずっと部屋の中で暮らしていかせるつもり? 中に友達でもいるの!? いないでしょ!? ずっと一人じゃん!」
「そういうことではないんです。ちょっと待ってあげてください」
「二週間は大分待った方だと思うけどね。カップ麺が六千七百二十回作れる時間は大分アバンギャルドだよ?」
「変な例えを使わないでください」
どうやらナイとサモリは俺を外に出そうとしているようだ。シズ姉は現状維持派か。シズ姉は優しいなあ。なんてぼーっと考えている俺がいた。ドアの向こうの寸劇はもうすこし続いた後、シズ姉が主導権を握った様だった。まああの三人なら最後にはそうなる。いつものことだ。いつものこと。その輪の中に自分がいないのはいつものことではなかった。おかしなことばかり言うサモリがいて、頼れるシズ姉がいて、幼馴染のナイがいる。そんな「いつも」はもう永遠に戻っては来ない。
「ではヒィロさん」
シズ姉の声。
「私たちは変わりありません、あなたもドアの向こうできっと苦しんでらっしゃると思いますが、どうか落ち着くまで自由にしていてください。私たちはいつでもあなたを受け入れられるんですからね」
優しい。もしナイがこの世界でも幼馴染だったら――まあその場合はそもそもこうはなっていないのだが――こんな優しい言葉をかけてくれただろうか。俺にはわからない。
静かになった。帰ったんだろう。そう言えばもう午前もだいぶ遅いが、みんな学校はどうしたんだろう? ふと俺は今日が日曜日だったという事実に思い至る。ああ、そうか。俺にはもう曜日の感覚もないのか。そう思うと本当に世界から隔離され、取り残され、一人ぼっちになった気がした。
それからシズ姉は毎日訪れてくれた。放課後になると、今日学校であった事とかを俺の部屋の前まで来て話してくれるのだ。この世界では家が隣だもんな。やろうとしてできなくはない。というか今までやらなかったのはそっとしておきたかったからだろう。その方がよいと。しかしいつまでも出てこない俺を見て方針を転換した。そんなところだろう。頭が下がる思いだった。「特別大した仲でもないのにこんなことをしてくれるなんて、重いなあ」それが俺の感想だったが。
「ヒィロさん」
五月も最終日になった。そのせいかわからないが、シズ姉が意を決して、という様子で話しかけて来た。もちろん、扉越しに。布団にくるまってそれを聞く俺だった。
「ヒィロさん、どうか聞いてくれませんか。あなたは、小さいころからいつも何かあると私に話してくれましたね」
そうなのか。この世界の初音ヒィロは。そうなんだろうな。きっと。俺だってシズ姉みたいな人が小さい頃からそばにいたら頼りきりだろう。何でも相談に乗ってくれるもんな、シズ姉は。
「でも、最近は……。とても心配していますし、困惑しています。こんなことは初めてだったから。それで、気づいたんです、私。ヒィロさんのこと、本当は何も知らなかったんだって」
知っていてもらっても困る。この世界の初音ヒィロとこの俺とがどれだけ似通っているかもわからないのだ。俺の知らない記憶や約束事を持ち出されても対応できない。もうやめてくれ。そっとしておいてくれ。幼馴染に関して以外は完全に俺の知っている世界と同じなんだ。だからナイのことさえ忘れられれば俺はこの世界に順応できるはずなんだ。まあ、終わりまで以前の世界と一緒であるなら、このまま引きこもっていてもどうせ同じなんだが。
「ヒィロさん、あの時、ヒィロさんは私を助けてくれましたよね」
これだ。きっと他人事のような、俺の記憶にない物事を語るんだろう。
「ほら、あの時ですよ。私がお父さんに叱られて、外で泣いていた時。そっとこの家に入れてくれましたよね。あの時、なんとなく、ヒィロさんのこと、ヒーローみたいだなって。何でしょう。恥ずかしいですね」
「それって十歳のときか?」
俺はつい、疑問を言葉にしていた。はっとして口を手で押さえる。布団をかぶっていたし、小声だったし、聞こえなかったよな?
「そうです! 覚えていてくれたんですね!?」
驚いた。それはナイにしてやったのとまるで同じじゃないか。もしかして、俺がナイと一緒に経験してきた記憶。それをシズ姉も、ナイに成り代わって同じ経験をしているとでも?
「一つ聞いていいか?」
俺はドア越しにシズ姉に話しかけた。
「はい! 何でも!」
向こう側から聞こえるシズ姉の声は、うれしさのあまり飛び上がらんばかりだった。俺は一つ一つ、記憶の糸を手繰りながら訊いた。
「初めて会ったのはどこだっけ」
「町内会の集まりだったと思います。もう自分では詳細を覚えていませんが、ヒィロさんが転んで怪我をして私がお父さんお母さんを呼びに行ったのだけは覚えています」
合致。ナイと初めて会ったときの俺の記憶通りだ。
「小学校のクラス分けは、どうだったっけ」
「確か、一年生と二年生の時が同じで、あとは六年生の時まで違ったと思います。登校はいつも一緒でしたけどね」
合致。シズ姉と出会ったのは高校に入ってからだというのに。ナイとの思い出そのままだ。
「じゃあさ」
この記憶はどうだろう。
「俺達の一番の秘密、知ってるよね」
少し間が空いてから、答えが返ってきた。
「ふふ、知っていますよ。ヒィロさんのお父さんが大切にしていた置物を私が壊してしまった時、代わりに叱られてくれたのがヒィロさんで……」
俺は布団を剥ぎ取って立ち上がると部屋のドアに駆け寄って、押し開いた。シズ姉はドアのすぐそばに座っていたらしく、ドアにぶつかって小さな悲鳴を上げた。ぶつけたらしい膝を擦りながらドアの影から現れる。シズ姉は比較的ラフな格好をしていた。見知った友人の家に行くというよりも、自分の家の中でするような服装だ。ナイもそうだった。俺の家を本当に心許せる場所と認識している証拠だった。何せ自分の家から出て徒歩十秒で来れるからな。「この」シズ姉にとっても俺の家はそう言う場所なんだろうか。立ち上がるシズ姉。背が少しだけ俺より高いせいで、目を合わせるには上目で見るしかない。しかし、それにしても……。
「何で、同じなんだ」
「ヒィロさん?」
「何でナイの思い出と全部同じなんだ!」
シズ姉は困惑した様子で、
「ナイさんが、どうかしたんですか?」
俺は怒りたかったが、どう考えても自分の怒りはこの世界にとって正当であるとも思えず、腹の中でこらえるしかない。ふと、シズ姉の顔に注いでいた視線が下の方に下がっていった。豊満な胸、女性らしい曲線、シルエットのよくわかる太腿。ナイとは似ても似つかないその体。俺は見てはいけないモノを注視してしまった気になり、目を逸らす。シズ姉も俺の視線に気づいたのか、顔をそらしたのがわかった。俺は意を決して、
「シズ姉、実は、俺……」
だが言葉が続かない。そりゃあそうだ。「俺は他の世界から時間を巻き戻ってやってきました。本当はあなたと幼馴染でも何でもありません」なんて言えないもんな。その時だった。
「ヒィロさん」
ナイならば絶対にやらないことだった。シズ姉は俺を抱きしめたのだった。俺の肩に両手を回して、そっと。俺は胸板に柔らかなものの当たるのを感じた。
「何か、辛いことがあったんですね」
そうなったら、俺はいきなり胸の中の何かがあふれてくる気がして、涙が止められなかった。くうっ、と情けない声を出して泣いてしまった。
「よぉし、よし。いい子いい子。大丈夫。大丈夫だからね」
シズ姉は俺の頭を撫でてくれた。遠慮も何も吹っ飛んでしまった俺は躊躇いつつもシズ姉の胸に顔をうずめて彼女の服に涙を溢れる端からしみ込ませた。二人で抱き合ったまま、いや、俺は両手をだらりと下げていただけだったから、シズ姉に抱きしめられたまま、どれくらい経ったか。落ち着いた俺は自分が何をしているかを認識して、慌てて体を離した。目の前には微笑みを湛えたシズ姉がいて。
「ごめん、その、俺、胸に顔を……」
どぎまぎしながら言うと、
「いいんですよ。それでヒィロさんが元気になるなら」
うわ、やばい、滅茶苦茶恥ずかしい。
「子供の頃はよくこうしたじゃないですか」
なんだそれ。知らないぞ、記憶にない。ナイとの思い出に抱きしめられた記憶なんてない。それはきっとシズ姉独自の、シズ姉特別のやさしさによるものだろう。初めて、記憶と違う部分を見つけた。そう、シズ姉は勝手にナイとの思い出に割り込んできたわけじゃない。シズ姉とはシズ姉との、特別な思い出があるんだ、きっと。まあ、俺にはわからないことだが、俺が成り代わってしまったこの世界の初音ヒィロにとっては自明のことだったんだろう。
「ヒィロさん」
「な、なんだい? シズ姉」
シズ姉には敵わないな。こうして優しく話しかけられるだけでなんだか、落ち着く。
「いつでもいいんです。また、学校で会いましょうね。約束ですよ」
それまでは毎日来てあげますから。とのことだった。俺は顔に残る柔らかな感触を想うと、明日学校に行くための準備をするのだった。