第十話 世界の終わり
そして、俺たちは関係を幼馴染とから恋人ってやつに昇華させた。でも別に何が変わるわけでもない。ふつうに学校へ行って、あいつの作った弁当を食べて、一緒に帰って。いつも通りの日々を過ごすだけだ。
「付き合い始めたの? まったく、やっとかよぉ。あたしもうほんとやきもきしててさあ」
「ですよね、本当におめでとうございます。末永く関係が続くといいですね」
サモリもシズ姉も祝福してくれた。学校生活も変わりない。そう、変わりないんだ。一つ変わったのは、食べ物が少なくなったということかな。
「政府は今日、食料品を含む生活必需品の安定的な供給が将来的に不可能となることから、いわゆる配給制の導入も含めて検討する有識者会議を……」
どのチャンネルを回しても遠い海を黒いカーテンがびっしりおおっている映像ばかりが流れていた。慌てている大人たちもいたが、俺たちはその点まだまだ現実感を持っていなかった。でもきっと気付いているんだ、みんな。世界の終わりが近いってことに。だからこそ、努めていつも通りでいようとする。いじらしいことだった。みんなが不安に耐えていた。押しつぶされそうな不安に。 ナイとミンの両親は行くべき場所がこの地球上のどこにもなくなって、ずっと家にいる。何も困ったことはないみたいだし、何かあっても家と助け合えばいいことだ。
またあの夢を見た。
「もうすぐ。もうすぐよ」
まただれかわからない声が響く。何だっていうんだ。これから世界が終ろうとしているのに、何だっていうんだ。
悪夢から覚めると、祖父の形見のペンダントを身に着けて、一階に降りて、顔を洗って、母さんの朝食を食べて。今日は日曜だ。ナイやミンが家に来ることはめっきり少なくなったが、代わりに日曜にナイと二人だけで会うことが多くなった。サモリなんかは「チェッ、こっちにあんまり構ってくれなくなったんだ」なんて言ってるが、許してほしい。
「おまたせー!」
「遅いぞ、ナイ」
今日は特に予定もなく、街をぶらぶらする予定だった。大声でこれがいいかなー? とか小うるさく時間をかけて服を選ぶナイに付き合い、カフェで簡単に食事を済ませ、公園でダラダラと時間を過ごした。お互いにも、誰にも、気兼ねしない大切な時間がそこにはあった。世の中の喧騒も背景に、俺たちは幸せだった。ナイも同じ気持ちだったに違いない。両親ともだんだんと健全なコミュニケーションを復活させつつあったナイは本当に心を安らかに保てているようで。
「ナイ、最近調子はどうだ?」
「どうって?」
公園の芝生に座りながら、俺は彼女に語り掛けた。無論、ご両親との関係だ。ああ、とナイは思い至ったようで、近況を話し始める。
「私もミンもね、本当に随分親とやり取りしてこなかったんだなっていうか。お母さんなんかひどいんだよ。私の好物だって知らなかったんだから。でもね。思うんだ。これからなんだって。これから、今まで何も伝えられなかった時間と同じだけの時間をかけて、いろんなことを知ってもらえばいいんだって」
「そっか」
俺は広がっていると言われている『闇』のことも、世界の終わりのことも言わなかった。ナイだってわかっているんだろう。時間をかけたいと言いつつ残された時間がもうないということを。
「ありがとうね、ヒィロ」
「うん?」
「ヒィロの御蔭。こうなれたのは。だって、私のお父さんとお母さんにあんな風に言ってくれなかったら、本当に帰ってこなかっただろうから。そうしたら、二度と戻ってこれない『闇』に飲まれて、御終い。もう永遠に会えなかった。お父さんもお母さんもヒィロには感謝してるみたいだよ」
「そっか」
俺はふっ息をつくと、それだけ言った。よかった。少なくとも最低限のところには、ナイとご両親は立つことができたんだ。残されている時間がごくわずかだろうと、永遠に離れ離れになってしまうよりかはいい。ところで、俺たちに残された時間はどのくらいあるんだろう。俺は芝生に寝っ転がって空を仰ぐと、そんな考えても仕方のない問いを頭から振り払う。草の感触を顔に感じつつ横のナイを見る。ナイは疲れ切った兵士のようにずっと遠くを見ていたが、その実内面は希望に満ちていることを俺は知っている。だって、これからのみんなとの関係はいい方向にしか行かないのだから。俺との関係、親との関係。いつか知らぬ間に突然ぶっつりと消え去ってしまう運命だとしても、絶望を抱くことはないんだ。そのはずだ。公園を行きかう人を見る。みんな、絶対にこの世の終わりが近いことを確信しているはずなんだ。なのに誰もかれも笑い合って、頭を抱え込んで泣き叫んでいる人なんか一人もいない。当然だ。残された時間を悲嘆の中で過ごしたい人間なんて、よほど余裕のない状態にある人間だけだろうから。
一人の小さな男の子がおもちゃ片手にとてとてと走るのが目に留まった。何故気になったかはわからない。後ろをお母さんが追いかけている。満面の笑みで。だが唐突にその笑みはかき消えてしまった。
「きゃあああ~~~~~~っ!!」
俺は飛び起きた。悲鳴は俺が見つめていた親子から聞こえたものだった。先ほどその場所を走っていた男の子の姿は今はない。男の子が今しがたまでいたその場所には……黒い揺らめく壁が。暗幕型観測不能界面、『闇のカーテン』だ。まったくの正体不明。わかっていることは、突如半径数キロの範囲にわたって出現し、上空で口が閉じるようにしてその空間をすっぽり覆ってしまうこと。そして、出現前に内部にあったもの、出現後に内部に入ったものは、二度と外へと戻っては来ないこと。今それが俺たちの町の公園の半分以上を覆っていた。出現した『闇』の中心は公園の外だろうが、半端な一部分であっても狭い公園の大部分を切り取ってその内部に収めてしまうのは簡単な話だった。俺の目の前にはカーテンさながらにゆらゆらと不気味にうごめくく巨大な黒い壁が出現している。ふつうの黒さではない。闇よりも黒い、本能が「絶対に近づいてはならない」と警鐘を鳴らす圧倒的邪悪さ。
「何……これ」
隣でナイが呟くのがわかった。状況を受け入れられていないようだ。俺はとっさにナイに手を伸ばして落ち着かせようとする。しかし目に入ったのはあの消えた男の子の母親らしき女性だった。
「ダメだ! 入っちゃダメだ!」
俺は叫んだ。半分は無駄だと分かっていながら。女性は『闇』に消えた男の子の後を追うようにその中に手を伸ばし……。その中へと消えて行った。女性を飲み込んだ『闇』はわずかに揺らめきを強めたが、それも一瞬のことで、また前のような静かなリズムで境界面を波打たせる。
「ああ……」
俺は声にならない声を上げるのだった。公園はもはや阿鼻叫喚。みんながみんな泣きわめきながら黒い壁から遠ざかろうとしている。鳴り響く着信音。ナイのだ。俺もハッとなって両親に電話をする。心配しているだろう。俺がまだ親と話している間、既に通話を終えたナイは泣きそうな顔をこちらに向けて来た。
「日本のあちこちで『カーテン』が出てきてるんだって! この町にも! 早く逃げなさいって!」
俺は絶句した。耳元で母親が何度も俺の名を呼んだ。ナイは絞り出すような、泣き叫ぶような声で続ける。
「お父さんお母さんからバラバラに逃げろって言われたの! そっちの方が助かる可能性が高いからって!」
確かにそうかもしれない。こういう時はなるべくそうした方がいいとテレビで見たことがある。
「ミンは!?」
「お父さんと一緒にいるって! お前もはやく逃げろって!」
俺は頷くと自分の親にも早く逃げろ、と伝える。当然、お前はどこに逃げるの!? と返ってきた。そうだ。どこへ逃げればいいんだろう。あまりな事に頭が働かない。そうだよ。事前予測不可能な、突然現れる空間が相手なら、どこへ逃げようが同じなんじゃないのか? 俺はナイに訊ねる。
「お前のご両親はどこへ行くって!?」
「今すぐに逃げる場所はわからないけど、昔ほんの数回だけ家族みんなで言った定食屋で落ち合おうって」
「じゃあお前はそこに行くんだ!」
えっ、という表情をするナイ。何だっていうんだ。そうするのが一番だろう!?
「世界が終わる前に、お父さんお母さんに、直接お前の口から! 伝えたい気持ちを伝えるんだよ、ナイ! もうチャンスがないだろう!? 抱きしめてもらって来いよ!」
ナイはうつむいて、
「でも、でも」
「どうしてもたもたしてるんだ!? 早く!」
「ヒィロと今別れたらもう二度と会えないかもしれないんだよ!?」
ギクッ、とした。そうだ。そのことを忘れていた。この『闇』の急な攻勢はスピードを上げこそすれ落とすことはないだろう。だとするなら世界に、俺たちに残された時間はいよいよ少ない。その時、俺はあることを思いついた。
「学校だ」
「えっ?」
「学校へ行くんだ。俺達の高校なら高台にあるから、きっと最後まで残るはずだ」
根拠はなかった。高台にあるからと言って比較的に安全かだなんてわからなかった。
「学校が最後まで残ったら、そこで落ち合おう!」
「うん、わかった。それじゃ、急いでいくね!? それじゃ!」
そう言って振り返るとナイは全速力で走り去った。だが途中で振り返り、
「絶対、また会えるよね!?」
「当たり前だ!」
俺は当たり前でも何でもないことを言った。そして俺たちは別れる。うかうかはしてられない。父さん、母さん、ごめん、家よりもまず学校に行くよ。ごめん、見捨てるみたいで。でも、きっとまた会えるよな?
「助けてくれ、御爺さん」
俺は首から下げたペンダントをぎゅっと握りしめた。不思議なことだがそれは、わずかに震えているように感じたが、気のせいだと思った。
俺は走る。街の中を。学校に向けて。公園の『闇』から遠ざかるようにして。学校へ逃げ込むという、ただそれだけを目的に。他の全てを捨て去って。逃げ惑う人々とすれ違ったり追い抜いたりした。みんなどこへ行けばいいかわからないのだろう。視界の隅に黒い領域ができる。新たな『闇』だ。ポコポコと、湧き上がるように次々と出現している。今までは想像もできないことだった。世界は終わりつつあるんだな。諦めたようにそう心の中でつぶやいた。
(シズ姉やサモリも学校へ逃げる選択肢を取るだろうか)
いや、あの二人は家が電車で二駅以上離れてる。わざわざ学校を避難場所に選んだりしないはずだ。ならもう学校でナイと落ち合えるかどうかだけ考えるべきか。学校へ向かう坂を上がっていく。嫌でも街の様子が手に取るように分かった。眼下に広がる市街には黒い幕の柱が幾本もそそり立っている。あの中には巻き込まれて閉じ込められた人が大勢いるはずだ。「閉じ込められた」という表現が適切かはわからないのだが。なにせ誰も中で何が起こっているか調べた人はいないのだ。中の人はもうみんな死んでいるかもしれないし、生きているかもしれない。テレビやネットで聞いた、一番楽観的な意見は、内部の時間は完全に停止していて、いつかの『闇』の消失と共に内部の人間たちは自身に何が起こったのかもわからず解放されるというもの。もっとも悲観的なものは宗教家による、内部の罪深き人間は地獄の業火で焼かれているというものだ。本当のところは分かりっこない。こうして見ている今も『闇』はその数を増していた。
学校に到着した。もともと広域避難場所だったから、そこには多数の人々が集まっていた。しかし地震や洪水などの他の災害の時と比べると恐らくその数は少ないのだろう。みんな避難所が根本的救いにはならないことをよく理解しているはずだから。見知った顔はほとんどいない。学校の生徒も極度に少ないようだ。これから来る人間はいるだろうか。同じクラスの人間は、いた。烈都ニハヤだ。長いストレートの髪がスッと地面へと延びていて、喧騒と不安の校庭で、そこだけが台風の目のように静かだった。俺は近寄って何がしか話をしようとしたが、こちらを振り返った彼女の顔を見て、なんとなくたじろいでしまう。こんな状況だというのに澄ました冷静な顔をこちらに向けている。その真っ白な顔の口の部分が動いたような気がした。数メートル先にいるのに誰かの耳元にささやいているような、不思議な感じがあった。もういい。あんな不思議ちゃんに関わっている場合じゃない。俺はニハヤから視線を切ると学校の入口へと戻る。
校門のところでナイを待った。スマホを取り出してみる。圏外。多分、基地局がやられたのだろう。くそっ、役立たずめ。投げ捨てようと腕を振り上げるが、何かの拍子につながるかも知れず、手から離すことはなかった。そのうちいてもたってもいられなくなり、校門から飛び出て学校へと登る坂を見下ろす。一本で曲がりくねっていないから上から下まで完璧に見通すことができた。俺はずっと坂の上に立って滅びゆく街に目をやりながら彼女の来るのを待った。
ナイはそれから三十分してからやってきた。街は大分『闇』に侵食されて、黒くなっていない部分の方が少ない。ナイの背後で黒いカーテンが今まさに出現して坂の入り口を飲み込んだが、一つも焦ることなくトボトボと登って来る。心ここにあらずと言った風。
「何やってるんだ! 走れ! 走れよ、ナイ!」
俺は叫んでいた。それでもナイの歩みは変わらない。チッ、と舌打ちして坂を駆け下り、走り寄る。『闇』は間近に迫っていた。
「一体どうしたっていうんだよ!? さ、上がるぞ」
ナイは抜け殻のような表情をしていた。
「ダメだった。あのお店、カーテンの向こう側になっちゃってて、多分、みんな……」
「そんな」
俺はナイの肩を抱きながら坂を上がる。ナイはしきりに短い半袖の肩口の部分で顔をぬぐっている。ハンカチを落としてしまったのか。
「最後にね、電話をしてたんだ」
涙に濡れた声だった。
「お父さんとお母さんがかわるがわる電話に出てた。今までごめんなさいって言ってた。ナイはいい子なんだと思ってたし、実際その通りだったんだけど、そうじゃないんだって」
ナイは俺の顔を見た。涙の痕が頬に光っていた。
「あなたが無理にいい子を演じなくても、愛してあげなきゃいけなかったんだって。わかってくれたの。最後に」
「そっか」
よかった、とは言えない。ナイはそれだけ言った後、それでもミンがかわいそうだ、としきりに呟いていた。校舎に上がった俺たちはナイを落ち着かせるため、中庭へ向かったが、避難者で満員だった。では校舎の中ならと思ったが、教室もいつの間にかそうなっていて、居場所がない。仕方なく、追いやられるように階段を上る。俺たちの教室のある二階から三階へ。そしてその上へ。ドアを開くと、そこは屋上だった。ここには誰もいない。なにせ、この街で一番高い場所だ。町全体に広がった『闇』もよく見えた。こんなもの好き好んでみる者はいない、ということだろう。今やそびえ立つ『闇』は天空から垂れた幾筋もの柱となって、空を覆っていた。肝心の空は『闇』の隙間からしか見えなかった。そして新しく出現する『闇』のせいで隙間はどんどん減っていく。必然、辺りは暗くなっていく。
「終わりだね、私たちの世界」
「ああ」
俺たちはどちらからともなく手をつないでいた。二人で屋上のフェンスの向こうに広がる世界の終わりを眺めていた。途端、あたりが真っ暗になった。突然に夜になったとでも言うように。完全に覆われたんだ、学校以外の世界が。隣のナイの横顔も見えない。俺は恐怖を感じるも、右手に握った感触に我を取り戻した。痛いほど強く握られ、そして震えているのがわかった。ああ、いよいよだ。それは強い確信だった。すべての終わりの瞬間を、自分の体の全細胞が感知したような。俺は今までの人生を思い出す。両親のこと、クラスのみんなのこと、中学校のこと、小学校のこと、学校に入る前のこと、ナイとの思い出、死んだおじいさんのこと。開いている左手で胸のペンダントを握る。そう言えばこれをもらった記憶が人生で一番最初だったな。そんなことを思いながら。
「ヒィロ? いるよね?」
「ああ。いるよ」
手を握ってるんだから当たり前じゃないか。いや、わかる。この手の先にいるのが本当に相手なのかわからないんだ。それくらいの闇だった。もう周りのきゃあきゃあと言う声も聞こえない。みんな押し黙って運命を受け入れているのだろう。
「ヒィロ、ありがとうね。今まで」
「うん。いや、こちらこそ。お前がいて楽しかったよ」
握られたナイの手が軽く開かれ、また固く結ばれた。俺もつられて左手に握ったペンダントを握りなおす。
それが合図だった。ペンダントが大きく震え始めたのだ。
「な、何だ!?」
「どうしたの、ヒィロ?」
ナイの不思議そうな声が耳に届く。思わず手を離してしまう。
「ヒィロ……?」
ペンダントが確かに自らの力だけで震えている。自分が震えているわけじゃあ断じてない。一体何なんだ?
「ヒィロ!」
再度俺を呼ぶ声がした。無論、ナイの声だ。だが俺はペンダントに起こった不思議な現象に気を取られ、それどころではない。
「一体どうしたっていうんだ!」
「どうしたの!?」
唐突にナイの顔が闇の中に浮かんだ。光だ。ペンダントから淡いエメラルドグリーンの光があふれている。二人でボケっとその光に見入る。顔を見合わせる。
「これって」
ナイのそんな言葉は耳に入らなかった。頭の中に別の声が響いたからだ。
「あなたは、選ばなければいけない」
「選ぶ!? 何のことだ!?」
「何!? ヒィロ! 何のこと!?」
夢の声だった。何度も聞いた、眠れぬ原因のあの声。
「あなたは、選ばなければならない」
「わかった! 選ぶ! 選ぶから何とかしてくれ!」
もったいぶった間の後に、こう聞こえた。
「あなたはまだ、選ぶ時ではない」
そして光が、全てを包んだのだった。ナイは見えなくなった。