第一話 学校生活
「あなたは、選ばなければならない」
夢の中で声が聞こえた。誰の声かはわからない。聞いたこともない声だ。俺は声に同意する。人生は選択の連続で出来上がっているってこと。そして、何かを選ぶことは何かを捨てるってこと。そうは言うけれど、それを意識してる人は少ないと思う。みんな選ばなかったもののことなんか考えもせずに笑顔で未来に進んでいく。でもきっとそこには、置き去りにされてしまうものは沢山あるはずなんだ。きっと俺も、沢山の可能性を置き去りにしてきたし、これからもそうするんだろう。そう考えると苦しくなる。「選ばなければならない」と言われることに大きなプレッシャーを感じる。もし、全てを捨てずに生きていける方法があるとしたら、俺はそれを何としてでも手に入れるだろう。
俺、初音ヒィロはそんな小難しいことを考えさせられる悪夢に毎夜うなされていて、ろくに眠れないでいる。目が覚めたら、布団の脇の祖父の形見のペンダントを身に着け、虚ろな頭でパジャマのままダイニングに降りて行く。テレビの声が頭に響く。
「中東各国で発生したこの現象には専門家も頭を悩ませており、一部の見解では国家規模の突発的な消滅もあり得るとの見方が……」
「ヒィロ! もう、ここのところいつも遅いからぁ。早く食べて学校行きなさい」
はぁい、と、俺は母さんに生返事をする。ここのところいつもこうだ。世界のどこかわからない場所で起こったニュース、眠気のベールに包まれた朝食、母さんの小言。先に出る、との父の言葉に聞いているのかいないのかわからない答えを返すと、俺はトーストを詰め込む。早食いのおかげで余裕を持って家を出られた。
通学路を歩く。外に出てからもあくびを欠かさない。俺は坂の上の、この町で一番高い所にある自分の高校へととぼとぼ歩いた。
「高校二年かぁ」
なんだか実感が湧かない。高校二年というものは一番楽しい時期だというが、俺には何が何だかよくわからないんだ。いつの間にかそれになっていて、いつの間にか一か月も経ってしまった。通学路に植わっている桜はもう完全に散っている。五月の陽気と暖かい風が心地よかったが、今の俺にとっては眠気を誘うだけ。一度も染めたことのない硬い髪が生えた頭をガシガシやって、無理にそれを払おうとする。
「おっはよー!」
そんな眠気も、背中に食らった張り手で吹き飛んだ。鈴のような少女らしい声の正体が誰だか当然わかっている。
「ナイ、すんげーびっくりしたんだけど」
俺の隣を歩き始めた中肉中背の同級生の名前は谷中ナイ。幼馴染だ。肩までの髪を後ろで結ったヘアスタイルはいかにも女子高生と言った風だ。
「もう、せっかく家が隣なのに何でいつも先に行っちゃうの?」
ナイはお辞儀をするように体を傾けて俺の顔を覗いた。背は俺の方が十センチ高いから、こうするのが隣を歩くときのいつもの癖なのだ。黒のポニーテールが垂れたのがわかった。
「お前が遅いからだ。それに別にいいだろ、恋人同士じゃあるまいに」
「えー?」
何がえー、だ。よくわからん。まん丸で大きくて、こげ茶の瞳を宿した目が俺の顔を映した。
「それより最近ちゃんと寝てる? なんだか眠そうじゃんさ」
「お前俺の寝起きでも監視してんの?」
心配そうに突き出されていた口がほころんだ。白い歯を見せて。
「何でそんなことするわけあるのさ! どっからどう見たって隈ができてるじゃんよ、ばればれ~」
そう言ってナイはお腹を抱えて笑う。そんなに変なこと言ったかな? 俺。
「どうだ少年! 悩みがあるならこのナイ様が聞いて進ぜようぞ。夜も眠れぬほどの悩みだろうと人に話せば楽になるというモノ……」
「少年って。俺もお前も同い年だろ。お前に話すくらいならシズ姉に話すさ」
ナイは呆けたような顔を見せて、次の瞬間精一杯プンスカ怒ってみせる。本当に昔から表情の変化の激しいやつだ。子供のまんまなのだろうか。
「あー、ひどい、せっかく相談に乗ってあげようと思ったのに!」
そう言うとひらりと俺の前に出て、
「今日はお弁当あげないんだから。サモリに全部あげちゃう!」
と宣言する。俺は、
「いいよ。お前の弁当より購買のランチセットの方が上だからな」
などと、心にもないことを言ってやる。ナイの方はそれこそ怒り心頭と言った様子で、
「もう! そんなの嘘! いっつも完食するじゃんか! そんなこと言うんだったらもう絶対作ってあげないんだから!」
プイ、と背中を見せて先へ先へ歩いて行ってしまう。もうすぐ校舎に着く。辺りにはちらほらと同じ学校に通う生徒たちの姿が見え始めた。ナイはそのまま自分だけ教室へ向かって行ってしまうかに思えたが、唐突に振り返った。
「なぁんてね。嘘でした。ヒィロのお父さんお母さんにはお世話になってるからね。例えヒィロが嫌がったって口に詰め込んでやるからね」
「そりゃあ困るな」
これが俺たちの「いつも」。今日もいつも通りのやり取りだった。
いつも、は2―Cの教室に入っても変わらない。中から二種類の挨拶が聞こえた。
「あら、おはようございます。ナイさん、ヒィロさん」
透き通った美しい声。そしてもう一方、
「うっす」
枯れた様な個性的な声。
「おはよう、二人とも」
俺は教室へ入るなり投げかけられた挨拶にいつも通り返答する。背の高い美少女、千駄木シズル、通称シズ姉。そしてクラスの問題児、チビで痩せの根津サモリだ。俺たちはいつもつるんでいる。
「おっはよー、シズ姉、サモリ! あーっ! サモリまた教室でギター弾いてる! 怒られるよ! シズ姉叱ってよ!」
「まあ、サモリさんはこういう人ですから」
ピシッと背筋を正してきちんと席についた落ち着いた物腰。シズ姉は常にこんな感じ。ふるまいの全てが優雅で美しく、優し気な笑みを浮かべているんだ。妬む以外でこの人を嫌いな人はいないんじゃないかと思える。同級生なのに「姉」と呼ばれるのには理由があるというわけだ。見た目も綺麗だし、背も高くてモデルみたいだし、胸も……うん。豊かだ。総合評価は文句なしでクラスで一番。微笑みながら顔を傾げる彼女の癖。その度に、かき上げた前髪が揺れた。
「うっさいなあ、好きな時に好きなことしてなぁにが悪いんだよ。ほっとけよあたしのことは」
サモリはそう言って窓枠に座ったままアコギの弦を撫でた。彼女は究極的ともいえる勝手気ままさを発揮する。変人なんだ。着崩した制服、あちこちに身に着けたシルバー、ベリーショートの金髪。どれをとっても教師は鼻白むだろう。小柄で貧乳のやせっぽち。可愛くないわけではないが、美少女か? と言われると首をかしげる。内面も外面も個性的な奴だ。
俺の顔に目を止めると、誰が見てもそう思うのか、シズ姉は優しくこう訊ねてきた。
「あまりいい顔をされてませんね。ヒィロさん、最近眠れてないんですか?」
「そうなの! この人寝不足なんだって!」
俺より先にお前が答えるのか。そんなに俺のことを知ってるつもりか。ナイは時々俺のお守り役のつもりでもいるんじゃないかと思う。
「そりゃダメだね。ケンコーに良くないよ、そういうの。あたしみたいに三十五で死ぬ予定でもあるの?」
と、サモリが言う。
「お前がそういうつもりだとは知らなかったよ」
「サモリったらそんなふうに考えてたの? だから私のお弁当もあんまり食べないの?」
ナイのおせっかい焼きは筋金入りだ。朝早く起きて俺やサモリの分の弁当を用意するんだから。まあナイにとっては慣れている習慣なのだが。シズ姉が、
「そういう考え方はよくないですよ、サモリさん。死ぬ歳なんか決めるべきじゃないですし、死ぬ予定があるからってちゃらんぽらんな生き方をしてもいいわけじゃありません」
と言えば、サモリの方は、
「じゃあ予定は決めないから勝手に自堕落に生きるよ。それなら文句ない?」
と来るのだ。みんな苦笑した。
俺とナイが二人と知りあった一年の頃以来、こんな調子でやってきた。いつも通りだ。いつも通り、他愛のないやり取りでこの学校の一日が始まるんだ。
休み時間が来るたび、俺たちはシズ姉の机に集まっては駄弁るのだった。ナイがサモリをしかりつける。
「それにしても君はアクセつけ過ぎ! よく何も言われないよね」
ナイの言う通りだ。サモリには校則などあってないようなもので、ジャラジャラと銀色の十字だの、チェーンだのをあちこちに着けている。趣味が悪いが、どうしたことかこいつがやると似合っているように見えるから不思議だ。
「あたしはこういう生き物だと博物学的に定義されてるから。私のパーソナリティが私を特別な存在にするんだ」
なにそれー? と言うナイを尻目に、俺は何気なくシャツの中からペンダントを引き出してみた。校則は有名無実で、結構寛容な学校なのだ。シズ姉が気づいたようで、
「そういえばヒィロさんも似たようなものを身に着けてらっしゃるんですね」
と言った。俺が快くこのペンダントの由来について話そうとすると、ナイが、
「そうなの! この人おじいちゃんからもらったものを未だに持ってるんだよ? 幼いよね!」
と水を差した。それを聞いていたシズ姉がナイを叱る。
「ナイさん、そういうのはよくないですよ。形見かも知れないんですし」
サモリも言う。ギターを掲げながら、
「そうだよ、ナイ。あたしのこれもパパの形見なんだから」
ナイはそれを聞いて反省したようで、少ししょげかえる。俺は由来を語り始める。三つの円環の重なった形のそれを掲げながら。
「これは死んだ爺さんにもらったんだ。何か困ったときにこれに祈れば解決してくれる、すごいペンダントなんだって」
いまだにちゃんと祈らなきゃならなくなるくらい困ったことはないけど、と付け加えて。
「へー! 私も初めて聞いたよそんなの! それがほんとならすごいペンダントじゃん!」
とナイ。俺はどうだか、と答えて、この話を終わりにするのだった。
授業はいつも通り滞りなく進み、昼休みが来た。ナイの弁当のお披露目の時間だ。
「今日はどこで食べるー?」
「そうですねえ。中庭がいいんじゃないですか?」
俺たちの教室のある第二校舎と主に新入生の入る第三校舎の間には桜の木のたくさんあるスペースがあり、生徒たちは中庭と呼んでいる。昼休みにはたくさんの人でごった返す人気のスペースだ。それでも俺たちはそこで食べるのが日課だ。いつも通りのプラン。いつも通りのメンバー。俺、ナイ、シズ姉、サモリ、いや、そして……。
「ニハヤちゃんも一緒に食べよ?」
いつも通りではない出来事。どういう風の吹き回しか知らないが、ナイはいつも一人ぼっちの女の子に声をかけた。烈都ニハヤ。だったか? 二年になってから一緒のクラスになった、名前の順で一番最後の。長いまっすぐな髪の、ものすごく色の白い子だった。後ろ姿で見えないが、きっとナイは顔を赤くしながら言っているに違いない。シズ姉も立ち上がって二人の元へ行こうとしたその時、
「それは何の意味があるの?」
そんなセリフが聞こえて来た。発したのはニハヤだ。何のこっちゃ。意味? 昼メシの?
「えっと、意味っていうか」
ナイも困り気だ。そりゃそうだ。こんな意味の分からないセリフを言われたら。シズ姉も反応しかねるのか、立ち上がったまま動かない。
「その」
ナイがなんとか言葉を続ける。
「いつも一人でパン食べてるし、その、お弁当、実は余っちゃってて」
出た。余分弁当大作戦。サモリもこれにやられて俺たちの仲間に加わったんだった。ニハヤは差し出された弁当をじっと見つめている。
「これ、食べていいの?」
「もちろん!」
ナイの明るい声が響いた。しかしその後のニハヤの反応は俺たちの想像を絶するものだった。
「そう。じゃ、食べておくわ。それじゃ」
そう言って、ナイの手からひったくるようにかわいらしい弁当を受け取ると、席についたまま一人で食べ始めてしまうのだった。