まちぼうけ
「あの、うちの子、そちらに伺っていませんか?…隆です。ええ、学校が終わって一度は帰宅したのですが…そうですか。はい。ありがとうございます。なにかお気づきになりましたら、お願いします」
父親が電話を切る。
電話を切り、手元のリストを一行塗りつぶし、次の電話をかける。
「あの、うちの子、そちらに伺っていませんか……?」
母親の手の中にある携帯電話は、ひっきりなしにメッセージ受信音を鳴らす。ソファに座った母親は茫然としたまま、短い振動と電子音に反応することはない。泣くでもなく笑うでもなく、ただ画面を見つめている。
彼女の肩を抱いた長男が、代わりに画面を操作する。
『ごめんなさい、知らないわ』『うちの子も見てないって』『きっと大丈夫よ』
やさしい、気遣わしげな、でも何の意味もない言葉が並ぶ。
父親の視線に首を振って、長男は弟の手がかりが何もないことを伝える。
外で遊びに夢中になった子供が時間を忘れるのはよくあることで、日没が近づくと無理に帰宅するよりも遊び仲間のうち、その場に一番近い家に宿泊するのが慣例になっている。この家に子供を泊めたこともあるし、子供がよそで泊ってきたこともある。いや、大人同士でも帰れなくなった仕事仲間を互いの家に留めるのはよくある話だ。
だから隆も、いつものように友達の家にいるだけだ。
母親と口論をしたということだからもしかしたらもう少し遠く、親戚の家にいるのかもしれない。そうして家族に心配をかけようと、わざと連絡をしないでいるんだ。
それに決まっている。もちろん、それに違いない。なんてやつだ、明日帰ったらうんと叱ってやらないと。
そう繰り返して電話をかけ続けていた父親も、リストがすべて塗りつぶされるとしばらく無言になる。
「……警察に電話するぞ」
母親が顔を上げる。
「誘拐かもしれない。多分…いや、きっとそうだ。すぐに連絡して犯人を捕まえてもらおう」
電話をかけ始める父親を、家族は固唾をのんで見守る。
「もしもし、子供が行方不明になったんです。心当たりにはすべて連絡したのですが。ですので、ええ、誘拐ではないかと思いまして」
末息子の特徴を伝えていた父親の声がだんだんと荒くなる。
「どういうことですか!朝まで何もしないっていうつもりですか?息子はまだ小学生なんですよ?」
激昂する父親をなだめる声が、受話器から漏れる。
『ですがお父さん、もう日没も間近です。犯人側も、夜のうちに何かを要求してくることはないでしょう。明日の朝一番に機材を持って伺いますので……』
「そんな悠長なことを言ってられる場合ですか!夜、犯人からの電話があったらどうしろって言うんですか?すぐに捜索を開始いしてください!」
しかし彼も、次の言葉に何も返せなくなる。
『お父さん、こちらとしても二次災害を出すわけにはいかないのです』
二次災害。それではまるで、誘拐というよりも、もっと大きな災厄に巻き込まれたかのような。
『落ち着いてください。こちらとしても、何もしないわけではないのです。近隣のシェルターや商業施設の避難ルームに問い合わせをします。もちろん、防犯カメラの解析も行います。
何か分かりましたらすぐ連絡しますので、落ち着いて、お子さんからの連絡を待ってください」
勢いをそがれた父親はそのまま電話を切る。
しばし無言のまま、時が過ぎる。
沈黙を破ったのは母親の絶叫だった。
「大体なんでこのご時世天文学なんて教えるのよ学校で!」
おびえた長男が一歩後ずさる。
「月とか惑星とか星座とか、そんなもの教えてなんの役に立つのよ!宇宙飛行士ですって?もう何十年も有人飛行なんて行われていないじゃない!これからだって、もうやるわけがないじゃない!
そんなもの教えたら、気になって当然じゃない、教えなければ、教えなければ興味を持たないかもしれないじゃない。
もっとちゃんと、”やつら”のことを教えなきゃ意味ないじゃない!」
操り人形のように彼女は立ちあがる。口の中で小さく何かをつぶやいた後、満面の笑顔を家族に向ける。
「私、探しに行ってくる」
床に投げ出された買い物袋を取り上げ、中身を机の上にぶちまける。
「ほんとに、あの子ったらしかたないわね」
羽交い締めで止めようとする長男を思いがけない強さで振り払い、母親はまっすぐに玄関に向かう。
「やめてよお母さん!もう夜だよ!」
「だいじょうぶよ、もう、おおげさなんだから」
振りかえって満面の笑顔を見せ、玄関のドアを開ける。
開けた先は、暗闇。凍りついたまま彼女は立ち尽くす。
「……駄目だ。駄目なんだ」
追いついた父親が、手を伸ばしてドアを閉める。
ぺたんとその場に座り込み、ガタガタと震え始めた母親の体をしっかりと抱きしめる。
乾いたままの瞳が閉じられることはない。
「ダメだ。外に出てはいけない。もう遅すぎるんだ」
夜が、始まっている。