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ゆうやけこやけ

茜色に染まり始めた空を見て、ホームに続く階段を駆け上がる。

肩にかけた鞄が、左手に下げた紙袋が暴れる。

電車から駆け下りてくる人の群れをかき分けて進む。肩がぶつかって落ちそうになるところを、すぐ後ろの客に押し返される。

たどりついたホームの目の前でドアが閉まった。真後ろの客が舌打ちをする。

乗り遅れた乗客たちの怒号が響き渡る中、電車は無表情に出発する。

――待って。ねぇ、待ってよ。一人くらい乗せてくれてもいいじゃない。

口にしても仕方ない言葉を飲み込んだ。

『次の電車は、最終、星乃川駅どまりとなります。

 どなた様も、お乗り遅れの無いように、願います』

アナウンスを聞いた人々が動き始める。あるものは乗車位置で落ちつかなげに線路の先をのぞき込み、あるものは潔く諦めて駅の外へ出て行く。おそらくは近くに宿を取るつもりなのだろう。

最終電車は自宅最寄り駅の2つ前までしか行ってくれない。現在地から自宅までの経路を携帯で調べる。7分電車に乗り、降りてから25分歩く。日没まではあと47分。

間に合う。まだ間に合う。確認して携帯を握りしめる。


2分ほど遅れてきた電車に飛び乗る。荷物点検をしていたとのアナウンス。そんなもの放っておけばいいのに。忘れものなんか、どうせ明日まで取りに来られないのだから。

最終電車は人影がまばらだ。こんな危険を冒す人はそういない。

乗客は皆窓の外を見つめ、太陽の位置を確認して不安げな顔をしている。ドアが開くたび、誰かが駆け下りて行く。

30年ほど前までは、こんなではなかったのだと母は言う。

「昔は電車だって深夜1時くらいまで走っていたのよ。みんなで流星群を見に行ったこともあるじゃない。覚えてない?」

そんな話を聞くとぞっとする。

夜が安全だった頃。そんな昔、幼稚園に入る前のことなんか覚えていない。

ロマンティック、幻想的、夜がそんな形容詞で表現される文化がかつてあったことは知っている。けれど私にとって写真で見る夜空はただ黒い紙に穿たれた小さな穴にしか見えない。

夜は、太陽の光が及ばない闇の世界はいまや、”やつら”の世界だ。


『次は、星乃川、星乃川、終点です。5分ほどの遅れを持っての到着です』

とっさに怒りを覚える。遅延時間が伸びている。荷物を確認し、ドア前の集団に加わる。

『この電車は、車庫に入ります。どなた様もご乗車にはなれません』

乗客は我先にと飛び出し、改札に向かって走り始める。ぐずぐずしてはいられない。

バスはもう終わっている。日没が近づくと危険手当と称して料金を釣り上げるタクシーも、この時間にはもういない。

携帯の地図機能を起動して、自宅までの最短経路を探す

到着予定時刻は、16:43、日没時間は、16:47。

まだ日が短いのだからと職場への宿泊を勧めてくれた同僚たちの不安顔を思い出す。

普段なら、ここまで遅くなったなら危険を冒して帰宅することはない。家に連絡を入れて職場に留まり、夜まで仕事をして朝まで仮眠室で過ごす。そうすれば、翌日は代休を取ることができるのだから。

けれど今日は特別な日だ。私の娘の、たった2人だけの家族の誕生日。いつも待たせてばかりいる彼女に、今日だけは絶対に帰ると約束したのに。

あの子を一人にするわけにはいかない。絶対に、家までたどり着かなくてはならない。


走り出したい衝動を抑え、慎重に道を確認して歩き始める。20分以上全力疾走する体力はない。

力尽きないように、間違えないように。なるべく急いで道を歩く。

越してきたばかりで慣れない町の住宅地を通り抜ける。

夜に備えて住人たちは雨戸を引き、鎧戸を落とす。厳重に鍵をかけ、光が漏れないように厚いカーテンを引く。そうしてみな家の中に明かりを灯し、闇の侵入を拒むのだ。

夜が明けるまで、太陽の光が戻るまで、そうしておびえて過ごすのだ。

駅から離れるにつれ、民家はだんだんと減っていく。

小さな公園を斜めに突っ切る。少しでも時間の短縮をしないと耐えられない。

足元の茂みが揺れ、思わず悲鳴が口をつく。

猫だ。もちろん猫だ。日没にはまだ10分以上はある。

紙袋を落としそうになり、しっかりと抱えなおす。娘への誕生日プレゼント。前から予約していたケーキを取りに遠回りなどするべきではなかったのかもしれない。

プレゼントのひとつもない誕生日なんて。確かにそうは思った。けれど、無事に家に帰りつけないのなら何の意味もないのではないか。

公園を抜けた先に大きな立て看板がある。

『←シェルターまで徒歩10分』

矢印の下に赤い文字でくっきりと描かれている。

『閉門は日没15分前です』

走ってももう間に合わない。

日没までには到着する。ドアをたたけば、懇願すれば中に入れてくれるだろうか?もし私が中にいたら、扉を開けてあげるだろうか?

『右方向です』

携帯のナビに従って、歩みを早める。

猫は、家のない動物たちは、どうやって夜を乗り切るのだろうか?


道端に嫌なものを見つけて立ち止まる。子供だ。迷子にでもなったのか、声を出さずにただしくしくと男の子が泣いている。

他人にかかわっている時間はない。人を気にしている暇があったら、まず自分の身を守らなければならない。

そう思いたくても切り捨てることができない。幼い日の娘の姿に重なってしまう。夕暮れの中、いつも一人で夜支度をして私を待っていた娘に。

地図を確かめると、少し行ったところに交番がある。男の子を抱き上げて走る。

『ルートを外れました』『ルートを外れました』ナビを無視して道を急ぐ。

着いたところは無人の派出所だった。タイマー制御で赤色灯は消えている。それでもかまわない。カウンターの奥の詰所へのカギは開いているのが通例だ。

男の子を中へ押し込み、内側から鍵をかけるように言い含める。時計を示し、懐中電灯を探し当てて朝が来るまで絶対にドアを開けないようにと繰り返す。

閉まるドアの向こうでカチリと音がするのを聞いて安心する。これであの子は大丈夫だ。

――私も、中にいればよかったかもしれない。

とっさの考えを後ろめたく振り払う。

私は家に帰らなければならない。娘のところに帰らなくてはならない。


歩道橋を超え、橋を渡り、坂を上ったところで私は立ち尽くす。

「なによ、これ」

現れたのは工事用のフェンス。『ご迷惑をおかけします』頭を下げるかわいらしいキャラクターを蹴りつけてやりたい。ここを直進しろという携帯のナビを投げつけてやりたい。

一本道を引き返す。『ルートを外れました』『ルートを外れました』うるさいナビを黙らせる。

歩きながら帰宅経路を再検索する。この道を通れ、あの道を通れ。一番近いルートでも、5分以上余計な時間がかかる。泣きたくなるが、いまさらどうしようもない。とにかく少しでも早く、急いで帰るよりほかはない。

新しく示されたルートにそって、小さく走りだす。もう時間がない。

走り、息が切れて歩みを緩め、呼吸を整えてまた走り出す。


どこからともなくサイレンが聞こえる。大きな唸り声の後に響くのは、もの悲しいメロディ。

『夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘が鳴る』

地平線に沈む刹那、太陽はひときわ眩しい光を放つ。


夜が、始まる。


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