第六九話 裏切り者
ドレファス・コルダン領。
ドレファス北部のこの領は、人口が少なく未開の地も多い。
深い森に囲まれている事もあり、実に静な土地で人が滅多に訪れない場所なのだが、この日は珍しく違う。
もう日が沈んでだいぶ経ったというのに、一軒の民家のドアがノックされた。
住人である赤鹿夫婦は戸惑った。
「誰だろうか、こんな時間に」
「……さぁ?」
妻は夕飯の準備を止め、夫は泥棒撃退用の棍棒を掴むと、恐る恐るドアへと近付く。
「だっ誰だ?」
「すまない、旅の者なんだがちょっと食べ物を分けてくれないか?」
夫婦は顔を見合わせると、ゆっくりとドアを開けた。
そこにいたのは、グリズリーの獣人とドワーフの双子。
見慣れない組み合わせに、夫は戸惑いながらも尋ねる。
「あんたら、一体どっから来たんだ」
「聖都だよ、実は海魔に追われて何とかドレファスに戻って来たんだが、ご主人様の食べ物が底を尽きそうなんだ、分けてくれないか?」
「分けろったって……言われてもなぁ」
こんな田舎では夫婦も食べるのがやっと、大変なのは解るがこちらも生活がある。
二人が渋っていると、獣人は夫の耳元に顔を近づけ小さな皮袋を見せた。
「まぁそう言うなよ、うちのご主人様は気前がいいぞ、ほらっ」
そう言って布袋の中を開くと――そこには大粒のダイヤやサファイヤなどの宝石がゴロゴロと入っていた。
「いっ――!」
「頼むからパンと野菜、あとは果物でもあれば、この中からいくつか見繕ってもいいんだけどよ」
こんな田舎ではこれほど大きな宝石などまずお目にかかれない、試しに一つルビーを手渡されると、その重量感と冷たさがなんだか本物だと言っているようだった。
「わっ……分かった、いっいまじゅっ準備します」
「できれば塩と胡椒も分けてくれ」
夫婦は慌てて準備を始めて、家の中をひっくり返して食料という食料をかき集める。
備蓄してあった保存食まで出して来た。
「いや助かったよ、コレ受け取ってくれ」
かなり大きな荷物になってしまったが、獣人はソレを軽々と背負う。
双子も持つのを手伝って、三人は礼を言って来た道を引き返す。
「あっ、あんたら聖都から帰って来たって事は巡礼者だよな、どこの国の人なんだ?」
獣人ならドレファスの可能性はあるが、ドワーフが一緒というのは珍しい。
一体どこの人か気になって尋ねたのだが――。
「まぁ……しらねぇ方が互いの為だぜ」
そう言って、去って行った。
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コルダン領・フォルガ砦。
この砦はドレファスの最も北西に位置する砦で、コルダンをヴェルハルガルド軍が攻めた時にヴェルハルガルド軍が急造したもので、二〇〇年前のドレファスとの休戦に伴い、投棄された。
「まさか、またこの砦にくるなんてなぁ」
「ムローラ様はフォルド様と共に、二〇〇年前までここからドレファスを攻めていたのでしたね」
ギルベルト達巡礼者一行は、フォルドの案内で通常の港ではなく、人気のない海岸に船をつけ、そこからは徒歩で国境を目指した。
何か乗り物を手配しようにも、明らかに何者かが狙っている中迂闊に痕跡を残す事は出来ない、フォルドもムローラもワイバーンに乗らず、どうにか全員この砦にやって来ることが出来た。
「フォルド様とムローラ様の案内のおかげで、たった二日で国境沿いまで来ることが出来ました……本当になんとお礼を申し上げればよろしいかわかりません」
「……本当に似てるのは顔だけだなぁ」
「……はい?」
「あっ……いやぁ、君のお兄さんにこの間会ったばっかりだからさ、弟って聞いてたから君もなんて言うか……そのぉマイペースな人なのかと」
「まぁ……兄は他人に流されない人なので」
本当に氷の魔人らしくないのです、とヴィルムは付け加えた。
ムローラは苦笑いで返すと、これからの事を話し始める。
「でもここまでくれば、半日もしない間に目的の国境沿いに行ける、明日の夜明け前に出発すれば、きっと何事もなく本国へ戻れるはずさ」
「ええ……このまま何事もなければよいのですが」
ヴィルムはそう言って暗くなった空を見つめる。
しかし彼の心配など他所に――フォルドが大きな音を立ててやって来た。
「おいムローラ、酒はないのか!」
「ある訳ないでしょう、ていうかほんっとうに飲まないで! あんた消毒用のウイスキーまで飲んだんだから!」
「アレは強くて、ガツーンと効く感じで良かったぞ!」
「あ~もっ、全然懲りてないし! ここは僕達が二〇〇年前まで攻めてたドレファスなんですよ、もしもヴェルハルガルドの者だってバレたら何されるかわかんないんですよぉ!」
ムローラの言う通り、いくら同盟関係を結んでいるとはいえここは異国の地。
いつどんなものが敵になるか分からないのである。
「お~いヴィルムさん、今戻ったぜ」
「いっぱいもらってきたよ!」
「もらってきたよいっぱい!」
ベアッグと双子、そして『浪』の船長が食料を持って戻って来た。
「いや~、何とか今日は凌げそうだぜ」
「すいませんねベアッグ、人間や魔人が行くわけにはいきませんから」
同じ獣人のベアッグなら、相手も警戒しにくいだろうと思い頼んだのだが正解だった。
ここはヴェルハルガルドとハルドラの国境沿い、下手に魔人や人間が行くと何が起こるか分かったものではない。
「いやいや、ヴィルムさんが渡してくれた宝石のおかげで撃沈でしたよ……ほらワインまでくれましたよ」
他国で自国のガルド金貨を使うとどこの国の者か分かってしまうので、念の為金を宝石に変えて置いたのは正解だった、よく『浪』やスパイなどが使う手だが、この際仕方ない。
「おおっ酒は儂が頂くぞっ!」
がさつに笑いながらフォルドは酒を強奪する。
もしこれで魔王でなければ山賊にしか見えない、そんな彼をユウとランが見上げた。
「ほほぉチビ共は我が同胞か」
「チビじゃないよ、ユウだよ」
「チビじゃないよ、ランだよ」
「ユウにラン……、北西のドワーフにはそういう名が多いと聞く、お前達の祖はきっとそこから流れて来た者達だ、儂と同じ戦闘種のドワーフじゃな」
ドワーフは二種類いる。
ガルド城の様な美しく機能的な建築物を造ったり、細かい細工を施した装飾品を造ったりと、手先の器用な技師向きのドワーフ達。
そして、フォルドのように戦場を駆ける、血気盛んな戦闘向きのドワーフ達。
どちらも同じドワーフだが、住んでいる土地が違い、前者は華奢で小さいが職人気質、後者はがたいが良く豪胆な性格と違いがある。
手先が不器用な双子は、おそらく後者と推測される。
「ぬははっチビ共よ、この魔王フォルドと同じ種である事を大いに喜ぶが良い、飲むぞムローラ、酌をせい」
「だから飲むなってのぉ、あっちょっとまってぇ!」
半ば強引にムローラは連れて行かれてしまった。
ヴィルムはそんな彼らを見送ると、改めてベアッグ達に向き直る。
「ベアッグ、では食事の支度をお願いします……、それと炊事の火を外に見られない様にして下さい」
この砦はまだ人が住めるだけの機能が残っているとはいえ、無人の場所。
明かりがついているのを見られればどうなるか分からない、なるべく窓を塞いで、光が漏れないようにしなければならない。
「船長、こんな所まで付き合わせて申し訳ない」
「いやいやとんでもないぜヴィルムの旦那、あのレヴィアタンの島に行っちまったのは、船を預かる俺の責任だ……荷物持ちでもなんでもやらせてもらうぜ」
国籍のない『浪』とはいえ、彼らは自分達の仕事に誇りを持ってやっている。
だからこそ、こういう不測の事態の時は、全力で雇い主をサポートしてくるのだろう。
「とは言っても残ったのは俺と何人かですけど、まぁなんでも使ってくだせぇ」
「我々はこういう旅には慣れていないので、本当に助かっています」
あとでお礼は十分させて貰うつもりだ、思えば『浪』の彼らが船にいなければ、出港する事は出来ず、聖都で海魔の餌食になっていただろう。
「本当なら、航海士の奴がこの辺にも詳しくて適任なんですけどね、あいつ海魔にやられてビビって閉じこもってやがるんですよ、たく海の男がだらしねぇ」
「航海士が、海魔にやられたのですか?」
「あれ……あいつですよ、あの右手にバンダナしてる、ベアッグさんと女の子達と、水を探しに行ったでしょう」
船長の説明でようやく誰だか分かった、君子を助けてくれたあの魔人の『浪』だ。
「彼はずいぶん色々と使える魔人ですね、どういう出自なんでしょうか?」
「あっ……実はよく知らないんですよ」
自分の航海士なのに、知らないなど可笑しい話だ。
不思議がるヴィルムに、船長は説明を始めた。
「実はうちの本当の航海士は急に病気になっちまって、代役を探していたら仲介人の人が紹介してくれたんですよ」
仲介人と言うのは、聖都に行く巡礼者の為にドレファスで船と船員を確保し、それで生計を立てる職業の人である。
「いやぁ綺麗な人でしたよ、ああいう女はそうそう見ねぇよ」
「……女? オオカミの獣人ではなかったのですか?」
「いいや、帽子をかぶった半獣人の女さ……、船も俺達船員も皆その人に集められたのさ」
今回の船はジャロードが全て手配してくれたものだと思っていた、もしかすると彼がドレファスの知り合いにでも頼んだのだろうか。
「でも優秀な航海士だと思ったら、航路を外れてレヴィアタンの巣に行っちまうんだからとんでもねぇ奴だよ……もう次からは仕事はしねぇぞ」
「…………航路を外れていたのですか?」
「そうさ、じゃなかったらあんなレヴィアタンの巣なんか通りませんよ」
「船長の貴方は気が付かなかったのですか?」
「……いや、俺は波は読めるけど星はてんで駄目でな、基本的には航海士に任せてるんだ……ていうかほとんどの船がそうだと思うぞ」
内陸育ちのヴィルムはそんな海の常識を知るはずもなかった。
しばらくの間を開けたのち、ヴィルムは静かに口を開く。
「…………なるほど、そうですか」
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某所。
薄暗い森を歩いているのは、リュマである。
どこか張り付けた様な笑みを浮かべる彼を、呼び止める声があった。
『リュマ、首尾はどうなっている』
彼を呼ぶ声の主はいない。
これは念話、語り掛けている人物はここではない別の所にいる。
「すいませんボス、失敗したみたいです……」
『……現状はどうなっている』
「一行は聖章を失くしたのでハルドラの連中と一緒にいるみたいです」
『ハルドラだとぉ……』
「前に報告した勇者とその他もろもろです……、双方ともに仲が悪くて接触は控えているみたいなんですけどぉ、もしかしたらゴンゾナの件気が付かれちゃうかもぉ……」
まるで悪い事をした少女のようにぶりっこしながら謝るリュマ。
まったくもって誠意が感じられない、しかしいつもの事で声の主は咎めはしなかった。
「折角、海魔による海難事故に見せかけようとしたのに残念ですね、連中をわざわざレヴィアタンの巣に閉じ込めたのに」
『レヴィアタンを迎撃するだけの能力が、奴らにあるという事か?』
海魔最強種であるレヴィアタンを倒せる物などそうそういう訳がない、ましてや彼らは術中にはまり他の海魔と連戦続きだったはずだ、そんな息も絶え絶えの状態で迎撃が出来る訳がない。
疑問に思う声の主に、リュマはどこか面白そうに付け足す。
「言い忘れてました、援軍が来たそうでそいつがレヴィアタンを倒したんですよー」
『レヴィアタンを倒せる援軍……だと、どこの部隊だ』
「部隊じゃなくて、魔王フォルドですよ」
『…………』
その名を聞いて、声の主は押し黙る。
「謹慎処分中の癖にとんでもない事してくれちゃってますよねー、あと三〇年くらい大人しくしてれば前線復帰も出来たのに……ははっどぉしますぅボスぅ」
『…………どうもしない、ただ予定通りにギルベルト王子を殺すだけだ、作戦をBに切り替える』
「あらまボス自らやるんですか、アレは念の為の作戦じゃなかったんですか?」
『この場合仕方があるまい……、分かっているだろうなこの作戦には人質が不可欠だという事を』
「分かってますよぉ……まぁレヴィアタンの巣で人質を確保できなかったのは、僕の見込み違いっていうか『蝙蝠』の不手際っていうか……」
何とか責任を誤魔化そうとするリュマに、声の主は念話でも分かる大きなため息をつく。
『それで……お前はこの失態をどうにかするだけの策はあるのか?』
「ご安心をボス、幸運な事に僕の手駒が奴らの中に潜入しました、使えない『蝙蝠』ではなくこちらを使いますよ」
『……お前の手駒なら間違いあるまい、ぬかるでないぞ……捨て子といえどもAランカー、やすやすと倒せるものではない』
「分りましたボス、任務はしっかりと果たしますよ」
その返事を聞くと、声の主は念話を切った。
リュマは顔を上げると、輝く星を見つめる。
「全部分かってますよご主人様、もしもの時は……ちゃあんとね……」
そう遠くの誰かに言うと、リュマは再び歩き出し森の闇へと消えていった。
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フォルガ砦。
君子と時子は、与えられた部屋にいた。
相変わらず君子は時子にべったりで、時子は彼女を満足そうに撫でている。
「お姉ちゃん、そのお茶ポンテ茶って言うんだよ、美味しいでしょう」
「ああ、美味しいよ」
「えへへっコレ好きなんだぁ、きっとお姉ちゃんも好きだと思って」
二人が与えられたのは、比較的綺麗な部屋である。
テーブルとイス、それにベッドまであってとても投棄された砦の部屋とは思えなかった。
「……この砦二〇〇年前から使われてないらしいけど、それにしては綺麗だよねこのベッドだって使えるし、毛布だってあるよ」
人が住んでいない家はすぐに駄目になると聞いた事がある、一〇年もかからないうちに駄目になるのだから二〇〇年も放置されたら色々とガタが来そうなものなのに。
「……そうだね、でもおかげで君子とベッドで寝られるんだからいいさ」
「そっか……そうだね、今日はスラりんとお姉ちゃんと君子で川の字になろう!」
果たしてスライムを挟んで寝る事を川の字と呼んでいいのか分からないが、可愛い妹の提案に、時子は嬉しそうにほほ笑んでいた。
しかし――そんな幸せな空間を、ドアをノックする音が邪魔をした。
「ごめんなさい……ヴィルムさんが広間に集まって欲しいって」
アンネがちょっと申し訳なさそうにそう言った。
せっかくの二人きりの時間を邪魔されて、君子は少し残念そうだったが、仕方なく広間へと向かう。
姉に手を引かれながら、廊下を進んでいると――四角から誰かがものすごい勢いで走って来たのでぶつかりそうになった。
「はわわっ、ごっごめんなさい、大丈夫です……あっ」
それは一緒に水汲みに行った『浪』だった。
あの時は色々あってパニックに陥り、ちゃんとお礼を言えていなかったので、君子は命の恩人に感謝の意を伝えようとする。
「あっあの、この間は――」
だが、『浪』の彼は君子と時子を見ると、明らかに顔色を変えた。
見開かれた眼は酷く怯えている様子で、震える手で君子と時子を指さしながら、呂律の回らない口で音を発する。
「ばっ、ばっ……ばっ――」
しかし彼の言葉は途中で遮られた。
時子が、睨んだ。
人も殺せそうなその恐ろしい眼に、ありったけの圧と気を込めた。
軍人でもしり込みしそうなその気迫に、ただの『浪』が耐えられるわけがない。
「うっ、うぎゃあああああああああっ」
狂った様な悲鳴を上げると、彼はそのままあらぬ方へと走って行ってしまった。
それを見て、君子はとても戸惑っている。
「どっ……どうしたんだろう、ただお礼を言おうとしただけなのに」
「……さぁ、海魔が怖くてきっと可笑しくなっちゃったんだよ」
時子はそう言って君子の頭を撫でる。
しかしその眼は、『浪』が逃げて行った方向を睨み続けていた。
「…………来ましたね」
広間の扉の前に立っていたヴィルムが、そう声をかけた。
「全員揃ってます、これから国境越えの話をします」
ヴェルハルガルド、ハルドラ、ドレファスの国境は少し変形した逆さまのY字だ。
この三国の境が交わるポイントで、それぞれの巡礼者は別れる事になっている。
このまま北に半日ほど歩いた地点で、本来ならこの砦から両国に分かれた方がすぐに国境を越えられるのだが、聖章の安全を確実にするためには仕方がないという判断で落ち着いた。
「では出発は明日の日の出の二時間前にここを経ちます、夜道は危険ですがなるべく日が昇る前に国境を越えたいので理解をお願いします」
ギルベルトもアルバート達も、海人も凜華達もそれで了承した。
ドレファスに入ってから危険はないが、海魔に襲われ続けたので神経質になっている。
「食事はそれぞれ決められた量をベアッグから受け取って下さい、それとムローラ様から話がひとつ」
「あっあぁこの砦に結界を張ったんだ、何が起こるか解らないからね……、今この砦にいる者しか自由に出入りできないんだ」
結界と一括りにいう事が多いがソレには様々な種類がある。
ムローラが張ったのは、特定の人物しか出入りできないもの。
今回その対象なのは、今この砦の中にいる者だけである。
「だからとりあえず寝込みを襲われる心配はないよ、妖獣にもその他にも……」
「ていうか……あの魔王はなんでミィーティングに来てないんだよ」
ムローラはいるのだが、フォルドの姿がない。
不審に思う海人達だが――、ムローラはどこか言いづらそうに口を開く。
「……酔っぱらって寝てる、正直あの人は話し合いに向かないし、そもそもいたらいたで面倒だから、このまま寝かせといた方がいいんだよ」
「……ふん、そんなんで魔王が出来るなんて、ヴェルハルガルドはずいぶん緩いんだな」
その言葉に流石にムローラもカチンときたのか、顔を顰めた。
しかし特に彼らに言い返す事はせず、言葉を飲み込んだ。
「……それとここからは提案ですが、就寝前に周囲の索敵をしたいと思います」
ムローラの結界で安全面はほとんど保証されたものだが、それでも念には念を入れておきたいのだろう。
「戦える者は全員来ていただきたいのですが?」
ヴィルムはそう言ってハルドラの五人を見つめる。
不服だが彼の言っている事は賛成できる、海人と凜華は渋々了承する。
「……それにあなたも」
ヴィルムは更に時子にそう言った。
このメンバーの中で最強と言える彼女の参加は不可欠である。
しかしそれを聞いて怪訝な表情をするのは君子だ。
「お姉ちゃんは危ない事しなくていいよぉ……、君子の傍にいて」
そう言って姉に抱き着く。それを見てギルベルトとアルバートは機嫌を悪くする。
「けっ、偉そうな事言って、結局口だけじゃねぇか」
「汗はかかずに口だけ出すのか、いいご身分だな」
半分以上君子を独占している事についての嫉妬なのだが、それを言われて誰よりも怒ったのが当の君子である。
「お姉ちゃんを悪く言わないでぇ!」
いつになく声を張り上げて、まるで威嚇する小動物の様な目で二人を睨みつける。
明らかに嫌われている、ギルベルトもアルバートも身を抉られる様なダメージを心に受けた。
「止めるんだ、君子にそんな顔は似合わない」
「お姉ちゃん……」
時子は君子の頭を撫でると、ヴィルムを見ながら答えた。
「分ったボクも参加しよう」
「でっでもお姉ちゃん……」
「大丈夫すぐに帰って来る……、約束しただろうボクはもう君子から離れないって」
優しい姉に頬を撫でられて落ち着いたのか、君子は一応頷いてくれた。
だが納得はしていないようで、名残惜しそうに頬ずりをしている。
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姉の後ろ姿を見送ったものの、君子は不安だった。
また時子がいなくなってしまうのは絶対に嫌だ。
しかし一緒に行きたいと言っても、時子は連れて行ってくれなかった。
(私じゃ……お姉ちゃんの足手まといになっちゃうもんね)
完璧な姉、漫画やアニメの主人公の様な彼女は、モブで脇役の君子とは根本的に違う。
彼女の足手まといになるのは絶対に嫌だ。
(でも……心配だなぁ)
夜道は危険だし、凶暴な妖獣に襲われてしまうかもしれない。
一度心配すると、もう色々と考えてしまう。
「あれ……ここ屋上があるんだ」
時子とずっと部屋でイチャラブしていたので、砦の構造なんて気にもしなかった。
しかし高い所からなら、姉の姿が見えるかもしれないと、君子は階段を上る。
しばらく行くとぼろい木製のドアがあった。
恐る恐るドアを引くと――ムローラが立っていた。
「うおおおっ、びっびっくりしたぁ!」
軍人とは思えないくらいびっくりした様子で、吸っていた煙草を落とす寸前だった。
「どうしたんだい、こんな所に来て……」
「えっ……あっ、おっお姉ちゃんが……」
君子が俯きながら言うと、なんとなく事情を察したのかムローラは小さく笑うと、まだ十分に長い煙草を床に落として足で消す。
「あっそんな……気にしないで吸って下さい」
「駄目駄目、僕は女の子の前では煙草は吸わないって決めてるんだよ」
ムローラはそう言って、毛布を床に敷いて座るところを造ってくれる、君子はその厚意に甘えて、座った。
「えっとぉ……ムローラさん、でしたっけ、なんでこんな所に?」
「いやぁ……ほらそこ」
そう言って隣を指さすと、大の字になって眠るフォルドがいた。
ワインを飲んで眠ってしまったのだが、動かそうにも大男のフォルドを抱える腕力などムローラにある筈もなく、仕方なく起きるまでここで待っているのである。
「ホント、歳なんだから飲みすぎは止めろって言ってるんだけどさ……ちっとも止めないんだよ、少しは体の事に気を使えってんだよ全く」
呆れた様子でそう言っているが、ムローラの表情は怒っているというよりも心配しているように見える。
なんだかそれは、魔王の右腕と言うイメージから程遠い物だった。
「……ムローラさんって、軍人……なんですよね」
「そうだけど……ぜんぜんらしくないでしょ」
「えっ……えっとぉ」
それは果たして同意していいのだろうか。
君子が悩んでいると、ムローラは笑いながら口を開く。
「良いんだよ自覚あるから、戦ってもあんまり強くないんだよね、僕」
「戦う…………ムローラさんも、やっぱり戦争をしてるんですか」
君子はちょっと怖がりながら訪ねた。
魔王が将、つまり戦争をする人と言う事は頭では理解していた、しかしそれは表面上だけで、それが人を殺す事であって、怖い事だという本質的な事が欠けていた。
こんな軍人らしくないムローラも、戦場に行って人を殺しているのだろう。
「…………まあね、でも、戦争なんて本当に嫌なものだよ」
意外だった、軍人なのだから戦うのが好きでやっているのかと思ったのだが、そうではないようで、彼はどこか悲しげな表情をしていた。
「……キーコちゃん、だっけ? ギルベルト王子殿下が戦争しているのが、やっぱり怖いのかい?」
ムローラは詳しい事情は知らないが、ここ数日一緒にいて明らかに君子がギルベルトを避けているのは分かっていた。
ギルベルトのピアスを付けているのに彼を避けていて、しかも質問をしてくるのだから、すぐに分かった。
「……そっか、そうだよね女の子だもんなぁ、そう言うの嫌だよなぁ」
嫌じゃない人もいるが、大体こういう血生臭い事は好まないだろう。
ムローラはしばらく無言で空を見上げた、そしてどれくらいか経った時なぜか右腕の上着を腕まくりし始めた。
「コレ……なんだか知ってる?」
そう言って見せて来たのは、刺青だった。
オシャレでやる様なタトゥーではなく、真っ黒な×の印が書かれていた。
なんだかわからない君子が首を振る。
「これはね、俺が昔エルゴンにいた時に押された烙印なんだよ」
「えっ……烙印?」
ムローラは深く頷くと、続きを言った。
「僕はね、奴隷だったんだ」
奴隷。
物として扱われ売買される人。
現代日本で生まれた君子は、その存在こそ知っているだけで、それをみた事はない。
「キーコちゃんは異邦人だから知らないかもしれないけどね、ベルカリュースには昔大きな人間だけの帝国があって、そこは人間以外の種族はみんな下等な生き物だって言って、殺したり捕まえて奴隷にしたりしてたんだ」
それは大昔あった人間至上主義のシャヘラザーンの事。
千年前までこのベルカリュースで最大の国土と国力を持っていた国家だ。
「それが崩壊した時にハルドラとエルゴンとフィーレスって国に分かれたんだ、でもね国が分かれたくらいじゃ皆変わらないんだよ、エルゴンって国はそれからも僕みたいな耳長種や、他の種族を奴隷として使ったんだ」
「…………ムローラさんも?」
「仕方ないんだよ、僕のひい爺さんが奴隷狩りで捕まったから、奴隷の子供は奴隷、その子供も奴隷だしその子供も奴隷、僕は生まれた時から奴隷になる事が決まってたんだよ」
奴隷になる為に生まれる者などいない、人は皆自由がある筈なのに、ムローラにはそれが許されなかった。
それどころか、奴隷以外の選択を知らなかった。
「キーコちゃんには見せられないような傷が体に残っててね……、でも奴隷しか知らないから奴隷でしか生きていけなくてさ、そこから抜け出そうとも考えられなかった」
選択肢がない状況では、どれが正解などわからない。
ただ抜け出したくても逃げられない蟻地獄のような、奴隷としての生活を続けることしかできなかったのだ。
しかし――そこに現れたのは、予想もしなかった救世主だった。
「そんな時に領土拡大を目指していたヴェルハルガルド軍が攻めて来てね、それが当時東の戦線を任されていた魔王、フォルド様だったんだ」
「…………フォルドさんが」
「僕も奴隷兵として戦わされたけど、まーヴェルハルガルド軍の強い事ったらありゃしない、あっという間に捕まってね、砦も街も陥落だよ」
当時のヴェルハルガルド軍はシャヘラザーンの陥落後、一気に東を制圧しようと、かなりの戦力を東に傾けていた。
そんな魔王の軍が負けることなく、圧勝だった。
「当時人間からはさ、魔人は野蛮で極悪だ、捕まった瞬間今より酷い扱いを受けるぞって言い含められてさ、それを本気にして、あー僕も殺されるんだって思ってたら、フォルド様が奴隷全員の前に来たんだ」
「……そっそれでどうなったんですか」
興味津々で聞く君子に、ムローラはちょっと思い出し笑いをする。
そして到底奴隷だったとは思えない程、穏やかな表情で言う。
「僕達をヴェルハルガルドの魔人にしてくれたんだ、奴隷じゃない……ちゃんとした国民にね」
名を与え、国籍を与え、住む場所を与え、職を与え、一人の人として扱って貰えた。
それはエルゴンの奴隷だった時では考えられない、真っ当な人としての自由があった。
「そんな感じで助けて貰ったから、僕はフォルド様の為に働こうと思って軍人を志したんだ……まぁ補助系の魔法とか、呪いをかけたり解いたりする事しかできないけどね」
読み書きも出来ない奴隷が、魔法を覚えるなど並大抵の努力ではない。
ムローラはそれだけ、フォルドに感謝しているという証であった。
「僕は僕に人としての人生をくれたフォルド様に本当に感謝してる、だからね……きっとギルベルト王子殿下に感謝している人もいると思うんだ」
エルゴンは、今でも他種族を差別している。
まだ多くの者が奴隷として虐げられているし、ヴェルハルガルドとの国境付近では、奴隷狩りが今でも行われているのも事実だ。
戦争は確かに怖い物、人が死ぬし決して正しい事とは言えない。
しかしそれによってムローラの様に助けられた者もいる、悪い事が必ずしも悪い事とは限らない。
正しい事であってもそれで人が死ぬこともあるし、それで不幸な目に合う者もいる。
結局言うと善悪の判断というものは、見る視点によって変わり、考え方によっていつでも逆転するものなのだ。
「…………でも」
だが君子は納得できなかった。
ムローラの様に救われた人がいたとしても、やっぱり王子として満たされた生活を送っているギルベルトが、戦争をするなんて許されることではないと思う。
俯く君子を見て、ムローラは優しく微笑んだ。
「そりゃそうだ……納得なんてできないよね、これは所詮僕達側の言い分だし、エルゴン側から見たら間違えなく侵略者だ……難しいよ、善と悪とか正しいとか間違ってるとかさ」
「…………ムローラさん」
「でも……これだけは分かってよ、僕はフォルド様に助けて貰って、自分を『肯定』してもらえて、すごく嬉しかったんだ……だからこの人の為ならなんだって出来るって事だけはさ」
照れくさそうに言うムローラの顔は、なんだか父親に感謝する息子の物に似ていた。
しかしそんな彼のはにかんだ笑みを邪魔したのは、とうのフォルドの寝返りだった。
「うごっ」
拳が鳩尾に入って、ムローラはせき込んでしまう。
君子は彼の背中をさすって介抱するのだが、その騒ぎでフォルドが起きた。
「なんじゃ~うるさいぞムローラ」
「こっ……ごのぉ脳筋魔王べぇ……だっれのぜいで……ごほっごほっ」
涙目で睨むムローラなど無視して、フォルドは起き上がると背伸びをする。
「おいムローラ喉が渇いたぞ、水をよこせ」
「水は持ってきてないでしょう、下まで取りにいかないとないですよ」
「ならば持ってこい、三〇秒でな」
「んなのひどすぎるぅ!」
ムローラは文句こそ言うが、いそいそと水を取りに行った。
普段は罵っているが、やはりフォルドの事を本当に尊敬しているのだというのが、よくわかった。
「……そなた、異邦人であったな」
「えっ……はっはい、あっあの、レヴィアタンに襲われた時助けてくれてありがとうございました」
あの時はお礼が言えなかったので、今更だが丁寧に頭を下げてお礼を言った。
「なんじゃ礼を言うのだな……てっきり将の儂も怖がっているとばかり思っておったぞ」
どうやら先ほど話聞いていたようだ。
という事はムローラを殴ったのは、照れ隠しだったのだろうか。
「怖いです……、でも命を助けてくれた人にはお礼を言うのが当然だと思うから……」
たとえ怖くとも命を助けて貰ったからには、お礼をしなければ失礼だ。
考え方が変だと思われてもいい、ただそうしないと君子自身が嫌だったからそうした。
「ふははっ、あくまでも礼節を重んじるか……うむ、良いぞ」
フォルドは豪快に笑うと、君子を見下ろす。
その表情は一軍を率いる将としての鬼気迫る、迫力あるものではなく、昔を懐かしむ老兵の物だった。
それがちょっと意外だったから、君子は普通に話をすることが出来た。
「……千年前の勇者に会ったって、本当なんですか?」
「うむ、儂がまだ少年兵のころにな、そなたと同じ黒髪黒目の少年じゃった」
黒髪黒目、という事は同じ日本人かもしれない。
一体どんな人かは知らないが、魔王を倒したのだからすごい人に違いない。
「どちらかと言えば、あの小童二人よりも、そなたに似ておるぞ」
「うええっ、わっ私にぃ!」
勇者とは無縁の凡人に一体何を言っているのだ。
「……そなたはあの勇者と同郷であろう、奴を知らぬか?」
「いっ……いえ、分からないです」
「そうか、そうであろう……もう千年も経つのだからな」
「…………フォルドさんは、もう一回勇者さんに会いたいんですか?」
「……そうじゃのぉ、奴に再び相まみえるまでは魔王をやめる訳にはいかんな」
千年前の勇者は元の世界に帰ってしまったのだろう。
果たして一度戻った者が、この世界に再びやって来る事などあるのだろうか。
「……あの、やっぱり魔王を殺されたから、恨んでいるんですか?」
勇者に会いたいのは、敬愛していた魔王の仇を取ろうとしているからなのだろうか。
君子はちょっと怖がりながらそう尋ねた。
やっぱり怒られるだろうか、少し後悔していると――。
「いいや、今はもう奴を恨んでいない」
フォルドはとても真剣で、でもどこか悲しそうな顔でそう言った。
仲間である魔王を殺されたのに、恨んでいないというのはどういうことなのだろうか、普通だったら敵討ちに燃える者だろう。
「……誰にも言っていなかったのだがな、奴と同じ異邦人であるそなたになら、話してもいいかもしれぬ」
フォルドは静かな口調で話し始めた。
「ロザベール様は確かに勇者と戦い、そして負けた……だが奴は、ロザベール様にとどめを刺さなかった……」
「……それって、伝説と違う」
ハルドラで王から聞いた話では、千年前の勇者が魔王を倒した事になっていた。
「ロザベール様は自ら毒を飲んで自決したのだ……、一軍の将が自ら死を、ましてや毒を飲んで死ぬなどそれは不名誉な事で、儂は誰にも言えなかった」
強さこそ全てであるヴェルハルガルドでは、敵に討たれて死ぬのは美談として語られるが、敵を前にして毒で死ぬなどあってはならない、不名誉だ。
フォルドは尊敬するロザベールの名を汚したくなくて、勇者に討たれたと言った。
「ロザベール様の遺体を目にして、儂は取り返さなければならないと思った……敵に遺体が渡れば痛めつけられて轢き回される、命を賭してでも取り返そうと思った」
「……それで、どうしたんですか」
「…………勇者が、自分からロザベール様を返したのだ」
今でも、昨日の事のように思い出せる。
四肢を失い、変わり果てた姿となったロザベールを勇者は自ら返した。
その時の彼の行為が、ずっと胸に引っかかっていた。
「あの時は激情していて勇者に仇討ちを誓った、そしていつか勇者をこの手で殺してやろうと思って必死に力をつけ、魔王の地位まで上り詰めた…………じゃが、その時に気が付いたのじゃ」
フォルドは十分すぎる間を開けてから、再び口を開いた。
「勇者は、憎しみの連鎖を断とうしたのではないだろうかと」
なぜロザベールが自決をしなければならなかったのか。
四肢を失い、戦えない魔王なんて簡単に殺せたはずだ、それなのにロザベールが自決を選んだという事は、勇者に彼を殺す気がなかったという事だ。
「もしロザベール様を痛めつけられ轢き回されていたら、儂はきっと誰よりも人間を恨み、そして人間を殺戮することでしか喜びを感じぬ怪物になっておっただろう」
戦争は憎しみの連鎖でもある。
憎しみこそが争いの火種を生み、それが大火となってまた人が死に、また憎しみが生まれる、これがずっと続いていくから、戦争は無くならないのだろう。
だが、千年前の勇者は違った。
「奴はきっと、儂をそんな怪物にさせない為に、ロザベール様を返してくれたのだと思う」
千年前の勇者の顔は、ロザベールの死を悼んでいるようにも見えた。
彼はハルドラに伝えられている様な、悪である魔人を滅する光の存在などではなく、更に上の、善悪の垣根を持たない人を完全に平等に見られる、聖人の様な人なのだろう。
「……とは言っても、それに気が付いたのはずいぶん歳を取ってからじゃ、まだ若いというのにそれを悟っている勇者とは埋められぬ差があるという事を突き付けられたがのぉ」
ちょっと悔しそうにフォルドは付け足した。
だが、そういう彼の表情は決して憎悪にまみれた物ではない。
「でも、どうして恨んでないのにもう一回勇者に会いたいんですか?」
復讐以外で勇者に会おうという理由が思いつかない。
フォルドは首を傾げる君子に、恥ずかしそうに口を開いた。
「……ロザベール様を返してくれた、礼を言いたいのじゃ」
長い時はかかってしまったが、あの時勇者がしてくれたことの意味がようやく分かった。
一度は恨んだが、彼の慈悲に今更ながら感謝を示したかった。
例え彼が礼を求めていなかったとしても、彼のおかげで、自分は武人としての誇りを持ち続ける事が出来たのだ、その礼を一言ぐらい言いたい。
「……がははっ魔王でなければ奴に会う時に箔がなかろう、だから儂はこんな歳になっても続けておるのじゃ」
戦で負け謹慎処分を受け、誰にどんな事を言われても魔王という席から降りなかったのは、勇者に対して自分がただの爺では見劣りしてしまうという、ただの見栄なのである。
「…………いつか会えるといいですね」
君子の言葉に、フォルドは魔王とは思えない優しい笑みを浮かべていた。
なんだか考えていた魔王像とは大きく違う。
人を殺している人物とは思えない、何が正しいのか分からなかった。
「フォルド様、水持ってきましたよ」
「遅いぞムローラ、のろまめもっと筋肉を付けろ」
「それは関係ないでしょう、もうっほんっとうに脳筋なんだからぁ!」
ムローラは口ではそう言っているが、口元は微笑んでいる。
君子は二人の邪魔をしては悪いと思い、その場を後にした。
階段を下りながら、君子はさっきの事を考えていた。
フォルドもムローラも軍人で、人を殺しているはずなのに、ちっとも怖くなかった。
二人ともむしろ穏やかで優しく、ちゃんと礼儀を知っている人だ。
(…………ギルも、本当は)
ギルベルトも横暴で乱暴だけど、優しいところがある。
あの優しさは嘘かと思ったが、本当は違うのかもしれない。
フォルドとムローラの様に嘘なんてついていない、どちらも本当のギルベルトなのではないだろうかと――そんな風にも思えて来た。
(怖い……けど、ギルともう一回話をした方がいいのかな……)
ずっとギルベルトを避けていたのでろくに会話もしていなかった。
もしかしたら、君子が思っている物と違うかもしれない。
姉が帰って来たらついていてもらおうか、そんな事を考えながら自室へと向かう。
「……キーコさん」
突然声をかけられた。
振り返るとロータスが立っている、彼は確か海人達と一緒に周囲の見回りに行ったはず。
「ロータス君、どうしたんですか?」
ここにいるのは彼だけで、他の皆はまだいない様だ。
不思議そうに首を傾げる君子に、ロータスは続ける。
「実は……あなたのお姉さんが怪我をして動けなくなってるんです」
「おっお姉ちゃんが、怪我っ!」
姉の負傷を聞いて君子は青ざめ、ロータスの両肩を掴む。
「お姉ちゃんは大丈夫なの! 死んじゃったりしないよねぇ!」
「命には問題ないんですけど動けないんです、キーコさん一緒に来てくれませんか?」
「もちろんだよ、ロータス君案内して!」
ロータスは頷くと、砦の外へと君子を案内する。
もう頭の中は時子の事でいっぱいで、ギルベルトの事も、砦から出てはいけないと言われた事も――すっかり忘れてしまった。
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男は、森の中を走っていた。
夜の闇のせいで全く見えないというのに、その男は慣れた足取りで走っている。
(早く報告をして、もうこの仕事から手を引こう)
男は酷く後悔していた、こんな仕事なんて受けなければ良かった。
金が良かったから引き受けたが、あんな奴が乗っているならもうこれ以上は無理だ。
しばらく走ると、目的の廃屋に着いた。
ここなら誰も来ない、皆周辺の見回りをしているらしいが、ここはかなり離れているし絶対に気が付かない。
男は急いで中に入ると、明かりも付けずに懐から通信魔法用の水晶を取り出す。
そして魔法を通信魔法で雇い主へと連絡を取る。
「やはり、裏切り者は貴方でしたか」
男はその言葉に戸惑った。
そして振り返ると、松明を持ったヴィルムがこちらを冷たく睨みつけていた。
「あぁ、見回りは貴方をおびき出すための罠です、こちらが動けば動くと思いましたので」
周辺の索敵を提案したのは、全てこの男をおびき出すための罠。
ヴィルムは一人、ギルベルト達から離れてこいつをずっと尾行していたのだ。
「海魔の襲撃といいレヴィアタンの巣の事といい、明らかに何者かが我々を罠にはめていると思っていました、それも何重にも策を弄する策士がね」
ヴィルムは抜き身の剣を携えて、ゆっくりと廃屋へと入って来る。
鋭い眼光で睨みつけながら――。
「我々が聖都襲撃から船に乗って逃げたのは偶然です、それに積んだ水が少なかったからあの島に上陸しました、これは全て偶然で我々の意思です、その策士の物ではありません」
ずっと疑問に思っていた、これが暗殺計画だとすれば、実にずさんで運任せだ。
聖都から船で逃げなかったかもしれないし、水が十分あればレヴィアタンの巣にも寄る事はなかった。
「だから暗殺かどうか解らなかったのですが、ここで一つ裏切り者がいると仮定すると、全て辻褄が合うんですよ」
敵の内部へと侵入しそれとなく誘導できる者がいれば、聖都から船で脱出させ、レヴィアタンの巣に連れて行く事は出来る。
「でも、船に乗っていたのは偶然乗って来たハルドラを除けば皆顔見知り、それにアルバート様達もフォルド様達も、本来ならばこの巡礼の旅に参加していなかった……となれば我々マグニのメンバーという事になりますが、裏切るなど到底考えられません……、ならば一体誰がそれとなく誘導しているのかと考えていたら――――いたんですよ、我々に怪しまれず、しかも的確に事故に見せかけて暗殺出来る人物が」
ヴィルムはそう言って、松明を向ける。
煌々と光る炎が、裏切り者を照らし出した。
「……航海士の『浪』、貴方ですよ」
「なっ何言ってるんだよ、ヴィルムさん」
青いバンダナを右手に巻いた『浪』は戸惑いながら、口を開く。
しかし、もう何を言ってもヴィルムは引かない、なぜなら絶対の確信があるから。
「言い逃れは出来ませんよ……よくよく考えると『浪』ほど暗殺に向いた人間はいません、国籍はなく汚れ仕事も請け負いやすい、しかも普段は警護が厳重な要人に巡礼の時は船という密室で近づく事が出来る……、本当に国籍がないとろくでもない仕事ができますね」
「ちょっちょっと待ってくれよ、だったら俺だけじゃない……船長や他の奴らだって――」
「いいえ、貴方しか考えられません」
ヴィルムは男の言葉を遮って、そう断言する。
彼はもう確信しているのだ、それっぽい言い訳など無駄である。
「貴方なんですよ、我々に聖都から船で逃げるように促したのも、島へ水を取りに行けと促したのも」
そう、全て自分で判断したと思っていたが、それは間違いだった。
実に自然に策士の思惑へと誘導させられていたのだ。
「あの巣は航路から随分離れた所だそうではありませんか、そんな場所に船を誘導できるのは、航海士である貴方だけなんですよ」
普通の船員が航路から離れたあの島へ船を誘導するのは難しいが、船を動かしている航海士ならば話は別、実に自然に事を進める。
「それにベアッグから聞きましたよ、貴方に言われて水を先に少しだけ積んでおいたと」
あらかじめあの島周辺で水がなくなるくらいの量を積んだのだ、もし少なければ聖都に引き返してしまうし、多すぎれば島へは行かないだろう。
「これは実に計画的な暗殺です……様々な幸運がなければ死んでいました、あの妨害魔法といい海魔を操るといいこの計画といい、ただの『浪』が思い付き、実行できるものとは思えません」
ヴィルムは剣を向けて詰め寄って来るが、男はもう廃屋の壁ぎりぎりまで追い込まれているので逃げ場がなかった。
「さあ、この暗殺の首謀者についてお話願いましょうか?」
「うっ……」
「話して下さいませんか……ならまず耳から削ぎ落しましょう、貴方がご所望でしたら我が氷の魔人に伝わる伝統的な拷問を披露してもよろしいのですが?」
「まっ待ってくれ、おっ俺はもうこの仕事から手を引くつもりなんだ」
拷問と聞いて、男は必死に命乞いをする。
だが今更そんな嘘で騙されはしない、ヴィルムは剣を男の左耳へと当てた。
「おっ俺だって騙されたんだ、あっあんな化物がいるならこんな仕事受けなかったぁ」
「化物……レヴィアタンの事ですか?」
「ちっ違う……海魔じゃない! あんな、あんな化物を連れて来いなんて無理に決まってるぅ! 俺はもう金も何も要らない……頼むからもうあの化物と関わらせないでくれぇ!」
男は異常なほど、『化物』を怖がっている。
レヴィアタンよりも恐ろしい者などいる訳がない、しかし男の様子は決して普通ではない、ヴィルムは耳から剣を離すと首謀者についてよりも先に、その事に着いて尋ねる。
「化物とは一体、誰の事なんですか?」
ヴィルムの問いに、男は恐怖に怯え、呂律が上手く回らない口で、静かに話し始めた。
「おっ……俺は、見たんだ、あの時――」
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君子は、ロータスに案内されるがまま森の中を歩いていた。
鬱蒼とした森というだけで怖いのに、それが夜となると三倍くらい怖い。
「ロっロータス君、まっまだつかないの?」
だいぶ西に歩いた気がするのだが、怪我をしたという姉の所には着かないのだろうか。
「…………」
「ロータス……君?」
暗い森で松明も焚かずに歩くのは怖い、何かしゃべって欲しいのに、ロータスは先ほどから黙ったままだ。
姉の怪我といい、胸を押し潰されるような不安が湧き出てくる。
(……おっお姉ちゃん)
無事だと良い、姉がまたいなくなってしまったら、自分は一体何に縋って生きて行けばいいのか分からなくなってしまう。
もう山田君子という人間の中心を奪わないで欲しい。
「……キーコさん着きました、あの大岩の向こうにお姉さんがいます」
ロータスはそう言って大きな岩を指さす。
やっと姉に会える、君子は急いで走り出した。
「お姉ちゃん!」
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「……そんな、馬鹿な」
『浪』の男の話を聞いてたヴィルムは、言葉を失った。
かなり驚いた様子で、困惑している。
何とか固まった脳細胞を動かし思考を続けて、話を整理した。
「…………ありえない、で済ませられる状況ではありませんね」
確かに不可解な事はいくつもあった、確かにそれなら納得がいくつもある。
だがその為には、あまりにも信じられない事柄を飲み込まなければならない。
暗殺者も大事だが、もっととんでもない物を先に片付けなければならない。
ヴィルム自身まだ困惑しているので上手く説明できるかわからないが、この事実を一刻も早く伝えなければ、手遅れになる前に。
「この事を、早くギルベルト様とアルバート様に伝え――――」
しかしその時、ヴィルムは背中に衝撃受けた。
高い思考能力を持つ彼でも、それがなんだか分からなかった。
ただ下腹部に強烈な痛みが走り、それがだんだんと強く大きくなっていく。
ヴィルムは痛む下腹部へと視線をやる。
腹を刺されていた。
背後から刺され、剣の切っ先が完全に貫通している。
『浪』は目の前にいる、なら一体誰が――。
ヴィルムは激痛を耐えながら、後ろを見る。
刺した人物を、見る。
「――――なっ」
長い栗毛と紅いコートを靡かせた、『彼女』の姿を――見た。
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「お姉ちゃん!」
君子は急いで大岩の後ろへと行ったのだが――誰もいない。
怪我をして動けない姉がいると言っていたのに、一体時子はどこに行ったのだ。
「あっあれ……おっお姉ちゃん?」
辺りを見渡す君子、でもやっぱり誰もいない。
一体どういう事なのかロータスに聞こうと思った時、背後で茂みが揺れる音がした。
良かった、姉はやっぱりいたのだ。
「お姉ちゃん、無事だったんだね!」
君子は安堵の笑みを浮かべながら振り返るのだが――――現れた影は、姉ではない。
それが誰なのか君子の脳が理解した瞬間に、恐怖が湧き上がった。
悲鳴を上げるその前に――影は君子を殴り飛ばす。
「あっ――」
倒れた衝撃で頭を打った君子の意識は徐々に薄れていく。
徐々に狭くなる視界に、ロータスが映る。
助けてくれない、ただ無表情で君子を見下ろすロータスの姿が――。
そして完全に気を失った君子に、影は憎々しく呟く。
「――調子に乗るんじゃないわよ」
夜の森は、全てを包み込む。
誰にも分らない様に――隠してしまうだけだった。




