第一六話 取引をしよう
森はどよめいて居た。
振動は大地を伝って木々を揺らし、そこで暮らしている動物達に恐怖を与える。
この得体のしれない物に身の危険を感じて、少しでも安全な場所へ逃げる動物達、その鳴き声や羽ばたく音などが森に響き渡った、まるで森自体が唸っている様に聞こえた。
「…………」
そんな森の中を、一つの人影が歩いて居る。
白いフードで顔を隠していて、手には身の丈の倍以上ある木製の杖を持っていた。
背格好からして子供の様だ。
鬱蒼と茂る枝葉の奥にかすかに見える空を仰ぎながら、その影は呟いた。
「……君子」
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気が付いたら、一人だった。
何処までも真っ白な空間が広がっていて果てがなく、君子は一人そこに立っている。
「アンネさーん……ユウちゃーんランちゃーん……ベアッグさーん……ブルスさーん……ヴィルムさーん……」
出せるだけの大きな声を出したが、返事は無く自分の声が響いて空間へと溶けていく。
どうやら誰もいないらしい、心細くて君子は誰もいない空間でうなだれる。
背後に気配を感じて振り返ると、見覚えのある後ろ姿があった。
「ギル……?」
赤みがかった金髪に赤い服、腰にはグラムを下げたギルベルトが立っている。
「ギルっ、ギル!」
名前を呼びながら駆け寄る、しかしギルベルトはいくら名前を呼んでも振り返らない、いつもなら名前を呼ばなくても、近寄ってくるのに。
「ギル……どうしたの?」
指が背中に触れかけたその時――――。
「調子に乗りすぎですわよ、あなた」
冷たくて、胸にぐさりと突き刺さった言葉。
ギルベルトの後ろから出て来た、カルミナが言ったのだ。
「ひっ……」
恐怖で身の毛がよだつ、だがなんでこんなにカルミナが怖いのだろう。
「あらあら、ごめんなさぁい……これ、あなたのだったわね」
そういうと、一つの耳を見せて来た。
「あっ……あっああああああああ!」
瞬間右耳があった場所から血が噴き出してきて、真っ白な空間を真っ赤に染め上げた。
激痛に悶える君子の前で、カルミナは嬉しそうに微笑む。
「ブスに耳なんて要らないわよねぇ、だからコレはこうしてあーげるっ」
ぽいっと、君子の耳を投げると黒い大きな犬が現れて、耳を一口で食べてしまった。
犬は耳がよほど気に入ったのか、尻尾を振ってカルミナに催促をしている。
「あら、そんなに美味しかったの? ならぜーんぶ食べてしまいなさいな」
「いやっ……」
後ずさり、ギルベルトを探すがいつの間にか居なくなってしまった。
ここにいるのは君子とカルミナと犬、他には誰もいない。
「よかったじゃない、ブスだけど犬の餌にはなれるんだから!」
「いっいやだぁぁぁぁぁぁぁ!」
襲いかかる犬から、君子は逃げる。
喰われたくない、死にたくない、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
「だっ誰か! 誰かぁ!」
走りながら助けを求めるが、真っ赤な空間には誰もいない、自分と犬しかいない。
「誰か! 誰かたすけてぇ!」
お腹の底から声を張り上げて助けを求めた時、何か柔らかい物にぶつかった。
尻もちをつく君子、見上げるとそこには見覚えのある人が立っている。
「……お、お母さん?」
「どうしたの君子ちゃん、そんなにびっくりして……」
その声は間違えなく母の物で、微笑む母の顔を見るのは本当に久しぶりの事だった。
「……おかぁさぁん」
「あらあらどうしたの君子ちゃん、顔がこんなに汚れちゃってるじゃない」
そう言って君子の頬をハンカチで拭う、その手は本当に柔らかくて優しい。
(お母さんの匂いだ……)
懐かしい香水の香り、それが君子に安らぎを与えてくれる。
母がここにいる、それだけで嬉しくて恐怖が吹き飛んで行った。
「……お母さん、もう良いよ」
まだ頬を拭う母、これではまるで子供だ。残りは自分で拭くのだが手は止まらず、むしろもっと強くなっている。
「おっお母さん、いっ痛いよ」
「可笑しいわねぇ全然落ちないわ……これじゃあ私の可愛い君子ちゃんが台無しだわ」
母はもっと力を込めて頬を拭い続け皮膚がはがれそうな激痛がする、離れ様としても、腕を力一杯握られていて逃げられない。
そして痛がる君子に向けて、母はとても不思議そうに言う。
「可笑しいわねぇ、このそばかす、全然落ちないわ」
そばかす、そばかすをハンカチで拭き取るつもりだったのだろうか。
そんな事出来る訳がない。
「これじゃあ私の君子ちゃんじゃないわぁ、こんなそばかすだらけのブスは違うわぁ、これじゃぁだぁめぇよぉ」
「おっおかぁ……さん」
母の顔がどんどん変わっていく、黒い毛が栗毛の髪を飲み込んで、犬歯が伸びて、柔らかい手には鋭い爪が生える。
君子の前で、母が真っ黒な犬へと変じていく。
「ブサイクナオマエハ、イヌノエサダァ!」
犬は吠えながら君子の腕を引く。
逃げなくちゃ喰われる、そう思って手を振り払おうとするのだが、力が強くて払えない。
「いっいやだぁ……いやだよぉ……」
恐怖が戻って来た。喰われるなんて嫌だ、死にたくなんて無い。
だが大きな口が、パックリと開いて君子を一飲みにしようとしている。
(助けて……助けてよぉ……)
口の中は真っ黒で、無限の闇が続いている。
飲み込まれたら最後、あの闇の中に溶けてしまう。
(助けて……)
困った時いつだって助けてくれた、たった一人の家族であり、たった一人の理解者。
君子は願い想像する、己を助けてくれる最強のヒーローの姿を――。
「助けて……お姉ちゃん」
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ガキンーッ
何かが強い力でぶつかり合う様な音が響く。
鈍いその音が一体何から出たのか、ヴィルムはすぐには分からなかった。
ただ襲いかかった使い魔が、死にかけの君子の体から出て来た黒い靄によって、その一撃を防がれたのだけは、肉眼でしっかりと見た。
「なっ……んだ」
闇魔法よりも黒く朧気な靄、ヴィルムの知識の中にそれに該当するものが存在しない。
煙の様に実体のない物なのに、それはしっかりと使い魔を掴んでいた。
『ガウッ』
首をつかまれ動けない使い魔、なんとかその得体の知れない敵を倒そうと、前足でひっ掻くが、それは煙の様に霧散してまるでダメージを受けていない。
それどころか、靄は形を変えて行く。
立ち込める煙の形状から、手足が伸び頭が出来てまるで人間の様だ。黒い靄は真っ黒な小柄な人の形を取っている。
しっかりと使い魔を腕で掴んだまま、靄は天を仰いだ。
そして――。
『Gaaaaaaaaaaaaa――――』
咆哮。
いや、咆哮で正しいのかわからない、それは人の様に四肢と頭部らしき物があるものの、あまりにも人間からかけ離れていて、生物とは思えない。
音を出すと、靄は拳を握り腕を引いた。
使い魔はぶん殴られた。
靄だというのにその拳は力強く、人の身丈ほどある使い魔をぶっ飛ばした。
地面にバウンドしてようやく止まった使い魔を見て、飾らずにそのままの言葉でヴィルムはつぶやく。
「なんだ……アレは?」
使い魔をぶっ飛ばした黒い靄。
その正体は、博識なヴィルムにも分からない。
(キーコが出したのか? いや、しかし魔法でも『複製』の能力でもあんなものを作れる訳がない)
そもそも魔法にしても『複製』にしても、魔力が必要になる。
魔力はもっと明るい色をして光り輝いている、君子の体から出てきたのは真っ黒な靄で魔力ではない。
ならば、アレはなんだ。
『グウウウ……』
使い魔は起き上がると、突然現れた黒い靄に向かって唸る。
その異質な存在に警戒している様子だ。
『Ga、Ga、Ga――』
しかし黒い靄は、言葉どころか声にさえなっていない怪音を上げ、君子へ手を向ける。
すると未だ湧き出ている靄が、形状を変えていき、棒状のものになる。
(……剣?)
棒にしては平ったく、剣と言われた方がしっくりとくる。
人型は靄の剣をしっかりと握ると、瞬時に間合いを詰め、使い魔目掛けて剣を振るう。
『ギャン――』
首を裂いた切っ先は、間違えなく実体があり、靄ではなく本当の剣である。
更に素早く剣を振り上げると、使い魔目掛けて、それを振り下ろした。
『ガ――――』
断末魔を上げる暇もなく、両断された使い魔。
しかし未だ攻撃は終らず、更に剣を振るい続ける。
『Ga、GaGaGaaaaaaaaaaaa――』
怪音を上げ何度も何度も剣を振るう。
振り下ろされるたびに、血が飛び肉が細切れになり骨が砕け散る。
それでも止まらず、草原に赤い血溜まりが広がり肉片が散らばっていった。
ヴィルムは考える、目の前の虐殺を見ながら、冷静に分析をする。
(アレは生物なのか? いや魔法でも『複製』でも、生物を造る事は不可能なはず……)
命を作れるのは、この世界を作った創造神のみ。
ならアレはなんだ、なぜ君子から出て来たのか、分からない事だらけだ。
(それより、キーコは……)
今は君子の身の方が優先される、幸いにも靄は使い魔だった物を細かくするのに夢中でこちらには見向きもしない。
ひとまず君子の生死を確認する為に、彼女の元へと駆け寄った。
『Ga、Gaaaaaaa――』
しかし、ヴィルムが近づいた瞬間、まるでこちらに見向きもしていなかった靄が、振り返り咆哮を上げながら向かって来た。
「――くっ!」
斬りかかろうとしている、とっさ気に剣を振いその一撃を防いだ。
靄の剣は、煙の様におぼろげでかろうじて剣としての形をとどめているにすぎないのに、強い衝撃が剣を伝ってヴィルムの腕へと伝わる。
だが乱雑に力を振っているにすぎない、この程度の剣技、軍人であり騎士である彼にはたやすく振り払える。
「はっ――」
力で靄の剣を振り払う、衝撃でのけぞる人型。
正体は解らないが、明らかに敵意を持って襲ってきたので、その無防備になった胴体に向かって、剣を振り下ろす。
しかし剣は靄をすり抜けた。
斬った感覚が無く、靄は傷一つ付いて居ない。
(実体が無くなっている?)
使い魔を殴りとばした時も、剣で斬りつけていた時も間違えなく有ったはず。
なぜなくなったのか解らないが、ヴィルムはこの訳の分からない物体から距離を取った。
(実体が有る時と無い時があるのか?)
何と言う不安定な存在なのだ、だがこの得体のしれない物との戦いは不利。
奇怪な外見と存在だが、一応人の形を取っているので、あるいは意思疎通が出来るかも知れないと思い、声をかける。
「貴様は何者だ!」
『Ga……GaGa』
しかし案の定、帰って来たのは音。
人の形に見えるだけで、そこには人らしい知性など微塵も感じられない。
人型は君子に覆い被さり、ヴィルムを決して近づけさせない。
(どうする……アレが居てはキーコを連れて行けない、しかしこちらの攻撃は効かないとなるとどう対処すればいいのか……)
剣が効かないのならば凍らせる事も出来ないだろう、正体不明のこれに対してどのような行動をとれば君子を確保できるのか、ヴィルムは考えるが思い浮かばない。
すると、聞いた事のない声がした。
「騒がしいと思ったら、妙な事になっているな」
ヴィルムが振り返ると、森から一人の子供が出て来た。
真っ白なフードに、黒を基調とした前掛け。そして身長よりも圧倒的に大きな木製の杖を持った子供。
しかしフードの隙間から見える顔は、凛々しく、何もかも見透かしている様な、大人びた表情が見える。
(……誰だ)
村人、と思ったが、ヴィルムはその考えを振り払った。
目の前の子供は、村人という小さな器に収まりきらないほどの風格が有る。
警戒するヴィルムを、子供は見つめる。
「そう構えるでない、ヴィルム」
初対面だと言うのに名前を呼んだ。
驚くヴィルムを、どこか楽しむ様なそんな意地悪な表情で見る。
(……読心魔法か? そんな高度な魔法を魔法陣も詠唱も省略して行ったのか?)
となると目の前の子供はとんでもない魔法使いという事になる。
ヴィルムは警戒しながらも、目の前の子供へと問う。
「さぞ名のある魔法使いとお見受けするが……、貴殿は何者か?」
「……ワシはクロノ、ハルドラで最も古き魔法使いであり、古の賢人の内が一人」
知らぬ名であるが、自ら豪語するだけあってよほど優秀な魔法使いなのだろう。
此処まで気配なく近づくといい、ヴィルムの名を良い当てるといい、普通ではない。
得体の知れぬ靄にクロノ、状況が余計厄介になった。
「だからそう構えるな闘うつもりはない、今のワシはお主にも負けるほど弱い存在だ」
彼の足元を見ると、透けていて、向こう側の景色が見える。
(……これは思念体、分身魔法か!)
魔力によって、遠隔操作出来る個体を作りだす分身魔法。
難易度の高い物で、滅多に見られる物ではないが、どうやらこの目の前に居るクロノは、分身の思念体で、本人では無い様だ。
「分身ではワシが負けるに決まっておる、無益な争いは好まぬ」
そう言うとクロノは、視線をヴィルムから人型の靄へと移す。
やはり君子を守る様に覆い被さって居て、こちらを威嚇している。
「…………これはまた、随分醜い物だ」
『Gaaa……』
靄は唸ると、近づいて来たクロノへ向かって靄の剣を振う。
あの靄は実体が不確かな物で、普通の攻撃は通用しない、あの魔法使いが如何に強力でも得体のしれない相手では分が悪い、そう思った時には、クロノが靄へと杖を向けていた。
次の瞬間、君子ごと靄は透明な球体の中に閉じ込められた。
透明だったはずの球体は、漆黒の靄によって塗りつぶされ、黒い球が一つ浮いている様だった。
(捕縛魔法と結界魔法との複合魔法、しかも詠唱も魔法陣も破棄するなど……やはり普通の魔法使いではない)
ヴィルムが見た事もない魔法を使い、しかもそれらを瞬時に扱う。
クロノは只者ではない、実力を見せつけられている様だ。
「…………君子」
クロノは黒い球体を撫でて、どこか悲しそうな表情でそう言う。
どうやら君子と知り合いらしい。こんな魔法使いと面識が有るなど、正直驚きだ。
「魔法使いクロノ、貴殿はその靄について何か知っているのか……」
あの異質な人型に対して驚いている様子が無かった。
しかも君子ごと結界の中に閉じ込めるなど、何か意図があってやった事としか思えない。
「…………やれやれ、面倒な男だな」
「――――っ」
ヴィルムを睨むクロノ。
フードの間から見える眼には、確かなる殺意があった。
軍人としての行動か、あるいは生物としての本能なのか、とっさに剣を構えた。
「…………よせよせ、堅い男は嫌われるぞ」
しかしクロノはそう言って殺意を消すと笑みを浮かべた。
「アレは、君子の防衛本能が『複製』で造り出した産物に過ぎない」
「『複製』が……」
アレは命ある物は造れない、そんな事が出来るのは創造神のみ、君子の特殊技能と魔力量では到底作りだせる訳がない。
「生き物ではない人形の様な物だ、創造主を守るゴーレムの様な存在だ……だがまだまだ、粗悪品」
クロノの言う事がどこまで信じられるかは解らない。
だが間違えなく、アレは君子の特殊技能『複製』によって作り出された物というのだけは解った。
「……では行くぞ」
そう言ってクロノは、戸惑うヴィルムを無視して、来た道とは逆方向へ歩いて行った。
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「『爆裂』」
右手から光が射出されて、爆発が起こる。
土と草を巻き上げ土煙が立ち込めた。
「……やった?」
魔法を放った凛華は、土煙を見ながら呟いたのだが、隣に居た海人が突き飛ばして来た。
「上だ!」
海人がそう叫んだ瞬間、上空から斬撃が降って来た。
なんとかその一撃を受け止める海人、しかし力が強く体ごと剣を弾き飛ばされる。
「うおっ!」
両足で踏ん張り、どうにか体勢を立て直したが腕には先ほどの衝撃が、剣を持つ事もままならないほどの痺れとなって残っている。
「……くそっ」
海人は目の前の敵、紅の魔人ギルベルトを睨む。
先ほどまでこちらが優勢だったはずなのに、なぜか急に強くなった。
だが力よりも、体から発せられる気迫に、二人の勇者は完全に圧倒されている。
勝てるという自信はどこかへ飛んでいってしまった、今はただ攻撃を防ぐ事で精一杯。
「うがあああああっ!」
黒い大剣を振いながら、ギルベルトが瞬時に間合いを詰める。
海人は何とかその一撃を剣で受け止めるが、やはり体ごと弾き飛ばされる。
一撃一撃の重さが違う、打ちあう度にこちらの体力を根こそぎ持っていかれる様だ。
「くっくそぉ……」
海人が剣を構えると、轟音と共に木々が倒れ、何かが飛んで来た。
それは鎧も剣も砕かれ、いくつもの切り傷を負ったシャーグだった。
「シャっ、シャーグさん!」
あの強い戦士で有るシャーグが、ボロボロになって力なく地面に倒れている。
海人よりも強く、戦闘経験豊富だった彼が、負けた――。
「グオオオオオオッ、ハルドラの戦士など、我が力に及ばず!」
黒獅子の獣人が、咆哮を上げて森から出て来る。
胸から血が出ていると言うのに、軽快な足取りでやって来た。
「くっそ……がぁ」
シャーグは弱弱しい声を出していて、どうやら息はある。
だが傷が酷く立つ事すらままならない様だ。
「ぐはははっ、まだ生きている様だな、その運としぶとさを褒めてくれるぞ!」
獣人はそう高笑いしながら、ボロボロになったシャーグを蹴り飛ばした。
重傷を負ったシャーグに反抗する力など無い、成るがまま地面へと打ちつけられる。
「シャーグさん!」
剣術を教わった海人は解る、彼は間違えなく強い。それを獣人が打ち破るなど考えられない、一体何が有ったと言うのか――。
「はっ……はぁっ、カイ……トぉ、リ、ンカ」
更に反対側の森から、ラナイがやって来た。
「ラナイさん!」
しかし彼女もまた酷い怪我を負って居て、杖にもたれかかる様にして、どうにか此処まで歩いて来た様子だった。
「……シャっ、シャーグ!」
彼女もまたシャーグの敗北に驚いている様子だった。
ハルドラで彼以上の戦士など居ないし、彼女以上の魔法使いも居ない。
それが負けるなど――。
「いったい……どういう……」
ラナイは腹部の痛みをこらえながら、特殊技能で獣人を見る。
ブルス・レーガン
特殊技能 『狂乱』 ランク3
職業 戦士
攻撃 A 耐久 A 魔力 E- 幸運 E
総合技量 B
「……なっ、『狂乱』」
剛力を上回るランク3の特殊技能で有り、一度発動すると理性が戻るまで暴れ続ける凶悪な特殊技能である。
獣人と言う元々人間を上回る腕力でそんな特殊技能を使われては、如何にシャーグといえども追い込まれるだろう。
「これが臣下の力……ならあの魔人は――」
ラナイは慌てて紅の魔人ギルベルトを鑑定する。
進化がこれほどの力を持っていると言うのなら、主人であるギルベルトはいかなる技量なのか――。
ギルベルト=ヴィンツェンツ・ヴェルハルガルド
特殊技能『覇者気質』 ランク4
職業 魔王子
攻撃 A+ 耐久 A 魔力 B 幸運 A+
総合技量 A
「総合技量A……?」
ラナイは自らの特殊技能をこの時ばかりは疑った。
ハルドラで最も力が有る将軍はB、この国で最も強い者は皆Bランクなのだ。
皆死に物狂いで修業してその力を手に入れたと言うのに、それを上回るAランク。
それは一九〇年生きるラナイさえ初めて見る物だった。
「Aランカー……そんな、そんな物が実在するなんて」
伝説の中だけの存在で有った物が、目の前に存在する。
この国の最強を上回る強さ、此処には彼と対等にやりあえる人間など居る訳が無い。
「勝てる……訳が無い」
ラナイはこの時漸く思い知った。
これに勝てるとなぜ思ったのか、メイドに負けBランクで最強と思って居た者が、こんな化物に倒せる訳が無い。
この国は、この化物に滅ぼされるのだ――。
「そんな事関係無い!」
ラナイの考えを打ち払ったのは、真っ直ぐな瞳をした勇者だった。
「ランクなんて関係無い、俺達は負ける訳にはいかないんだ!」
「そうよ、ハルドラも君子ちゃんも、全部大切なんだから、こんな奴に滅茶苦茶される訳にはいかないのよ!」
二人はそう言って、ギルベルトへとそれぞれの武器を向ける。
彼らよりずっと大人で有るはずのラナイが、これほど心折られそうだと言うのに、なぜ彼等は立ち向かえると言うのだろうか――。
「諦めたりなんかしない、何度やられたって、絶対に諦めない!」
「諦めたら、そこで終わりだ! 諦めなければ絶対何とかなる!」
これが勇者、絶対に諦めず挫けない者だけが、伝説と同じ存在を名乗る事が出来るのだろうか――。
「だあああああああっ!」
海人は両手で剣を握りしめると、ギルベルトへと斬りかかる。
しかし渾身の力を込めた一撃は、片手で握った剣で軽々と防がれてしまう。
ギルベルトは剣を振り払うと、無防備になった彼の胴へと漆黒の刃を振り下ろした。
「海人!」
剣で防ごうにも、あらぬ方へ弾き飛ばされて居て防御が間に合わない。
このままでは海人が真っ二つに斬られてしまう、誰もがその結末を覚悟した。
「るあああああああっ!」
だが海人だけは違う、その結末を打ち砕く。
ギルベルトの剣に合わせて、海人はしゃがむと――海人の頭すれすれを刃が通過した。
後数センチずれていれば、頭が無くなっていただろう。
そして海人は、引き寄せた剣をしっかりと握り直すと、剣を振って無防備になっているギルベルトへ向けて、切っ先を向けたまま立ち上がった。
「だあああああああああああっ!」
真っ直ぐに無防備な左胸に向かって、全身全霊の力を込めた刃を突き立てる。
しかし、その渾身の一撃は空を斬った。
何が起こったのか、理解できなかった海人。
容易く、簡単に、半身を引いただけでギルベルトはそれを避けたのだ。
そしてギルベルトは驚く海人を蹴り飛ばした。
「がはっ!」
蹴られたと言うのに鈍器にでも殴られた様な衝撃が体を突き抜けて行く。
ただの蹴りだと言うのに、海人を軽々と宙へと舞い上げて、三メートルは持ち上がり地面へと叩きつけられる様に落っこちた。
「う……ああっ」
全身の痛みに襲われながらも、海人は必死に立ち上がろうとする。
しかし、ギルベルトは海人の剣を蹴り飛ばすと、彼の腹を踏み潰した。
「ぐああああああっ!」
腹部に掛かる荷重でミシミシと音を立てている。
このままでは鎧が砕けて内臓破裂で海人が死んでしまう。
「海人っ!」
凛華は苦しむ幼馴染を見て、駈け出した。
「リンカ!」
勝てる訳がない、ラナイは無謀にも駈け出した彼女を止め様と叫ぶ。
しかし止まらない。凛華は飛び上がると、ギルベルトへ杖を振り下ろす。
「海人を、離せぇぇ!」
しかし杖は武器ではないし、ましてや凛華は魔法使い系の勇者である、腕力が無い彼女の攻撃では、強靭な魔人種でありAランクのギルベルトには効果がない。
避けるどころか、手さえ使わず角で受け止められてしまう。
金色の眼と視線があったその時、杖の先に山吹色の魔法陣が展開される。
「喰らいなさい!」
一段と輝きを増したその瞬間、凛華はそれを放った。
「『爆裂』!」
光と共に爆発が起こる。
避ける隙を与えない、ゼロ距離の爆風ならば回避は不可能。
自分と海人を巻き添えにしない為に、爆発の威力を下げざる負えなかったが、この回避不可能の超近距離攻撃ならば致命傷は間違いない。
「やった……っ!」
確かなる手ごたえを感じた凛華――しかし爆発の合間から見えたのは真っ黒な刃。
そして紅い文字が刻まれた漆黒の刃の奥に見えたのは、一つの傷も負って居ない、無傷のギルベルト。
「なっ」
あの一瞬の間に剣で防いだと言うのか、その動体視力と反射神経にも驚きだが、何よりも爆発を防いだ大剣。
幾ら威力を下げたといえども、爆裂をゼロ距離から喰らって折れるどころか刃こぼれも変形も無いその強靭さは、剣の域を大きく逸脱している
「――――っ!」
驚く凛華の首をギルベルトは素早く掴み上げた。
少女の細い首など、魔人の彼にとっては小枝の様に細く枯れ枝の様に脆い物だ。
「がっ……ああっ……」
そしてそのまま片手で凛華を持ち上げると、首を絞める。
両手で何とかその手をはがそうとするのだが、びくともしない。
ただ力がどんどん強くなって、それ応じて苦しさが増す。
「りん……かぁ……」
凛華が死んでしまう、しかし海人の腹にはギルベルトの足がのっかっていて、踏む力どんどん強くなって居てって、助けるどころか動く事も出来ない。
「カイト!」
「リンカ!」
このままでは凛華も海人も、二人とも殺されてしまう。
ハルドラの希望である勇者が死んでしまえば、この国は滅びの道しかなくなる。
そんな道は絶対に阻止しなければならないのだが――、シャーグもラナイもどちらも彼らを救うどころか動く事すらままならない。
敵に刃を向けるどころか自分の武器を握る事さえも、二人には出来なかった。
無情にも二つの希望が潰えるその瞬間を、ただ見ている事しか出来なかった。
「止めよ!」
それは澄んだ美しい声。
闇の中を照らす一条の光の様に、この絶望を振り払う様なそんな声だった。
「…………」
ギルベルトが振り返ると、そこには真っ白なフードを被り大きな木製の杖を持った、一人の少年――魔法使いクロノが居た。
此処に居る訳が無いその存在にラナイとシャーグは戸惑い、突然のその乱入者にギルベルトとブルスは驚いている。
「魔人の王の息子よ、その手足を止めよ」
決して強く言って居る訳でも、叫んでいる訳でもないのに、その言葉には力があり、ギルベルトは二人を殺そうとしている手と足の力を緩めざる負えなかった。
そして辺りを見渡す。
剣を折られ立ち上がれないシャーグ、怪我をしてまともに歩けないラナイ、傷つきながらも警戒しているブルス、腹を踏みつぶされている海人、首を絞め上げられている凛華。
そして金色の瞳で睨むギルベルト。
彼らを見終えると、フードの奥の顔にどことなくニヒルな笑みを浮かべ、言い放つ。
その顔にはどこか表裏をはっきりさせない、得体のしれない何があった。
「取引をしよう、ギルベルト=ヴィンツェンツ」