第一五話 特殊技能、発動
時は少し戻り、原っぱの戦闘が開始されてしばらくたった頃。
チリシェンから少し離れた森の中。
そこから周囲の様子をうかがって居たのは、魔人ヴィルムだった。
「……始まったか」
気配を消して隠れていた彼は、自分のワイバーンの頭を撫でてやる。
紅い鱗のワイバーンは、主人へとその身を委ねて、気持ち良さそうだ。
「では、そろそろ私も動くとしますか……」
ワイバーンを置いて、ヴィルムは走り出した。
索敵魔法を展開させて、常に周囲の生物反応を見ながら、アンネに教えて貰った人間の村を目指す。
「《ギルベルト様、これよりキーコの捜索を開始します、索敵魔法による情報をそちらにお送りいたしますので、解析をお願いしたします》」
遠くで闘っている主へ、通信魔法『念話』を使って語りかける。
そして改めて、自分の役割の重要性とこの作戦の危険性を思い出した。
(全く、ギルベルト様はとんでもない作戦を思いつかれる物だ……)
マグニを出てしばらくたった。
もう少しで国境を超えると言う時、ワイバーンで編隊を組んで飛行中だったヴィルム、ブルス、アンネは、ギルベルトの突然の降下命令に驚いた。
まだ国境まで距離があると言うのに、なぜ降りるのかは解らないが、三人はその命令に従い、森の中へと降りる。
「……如何なさいましたギルベルト様」
何かあったのだろうかとヴィルムが駆け寄ると、ギルベルトは真っ直ぐ国境の方向を向きながら、呟く。
「……この先臭うぞ」
「はい?」
臭うと言うが、別に異臭などしない。最も鼻のいいブルスも臭いなど感じていない様で、彼の言葉に首を傾げる。
「なんか居る気がする……嫌なもんが近くに居る」
「……嫌な物とは?」
「わかんねぇ、けどなんか居るんだ」
特に怪しい気配などはしないのだが、ギルベルトは何かを警戒している様子なので、一応調べて見る事にする。
「索敵魔法『感知』」
ヴィルムは右手を国境へ向けると、浅葱色の魔法陣を展開する。
この魔法は生命反応を感知し、目標がどのくらいの規模でどれくらいの強さの生物がどの程度居るかを探る魔法である。
範囲は術者により異なるが、ヴィルムが使用するとここから国境を超える事など訳ない。
「…………五〇前後の生命の反応を感知……しかしその中に四つ、明らかに抜きんでて強い生命反応があります」
この魔法ではどれくらい強いは解らないが、明らかに一般の人間よりも強いのは明らからだ。
「コレ等が……匂うのですかギルベルト様?」
「……おいアンネ」
「えっはっはい王子様!」
まさか自分の名を覚えているとは思いもしなかったので、アンネは驚いた。
「ヴィルムが言う場所に心当たりはあんのか」
「こっ国境を越えた先にチリシェンと言う村があります、村人は五〇人くらいですので、おそらくはそこだと思うのですけど……そこは本当に田舎なので兵士や魔法使いみたいな戦闘が出来る人間はいないはずです」
「……国境沿いの田舎の村にこの反応、本当に偶然か?」
ただの田舎の村ならいざ知れず、国境沿いの村となると、偶然とは思えない。
ハルドラ側が何らかの軍略を講じている可能性は十分ある。
此処は敵国、派手な行動は慎むべきだ。
「ここは村を避け、慎重にキーコを探すべきでしょう」
「いや、村に行く」
ヴィルムの意見を無視してギルベルトはそうきっぱりと言い切る。
何の策も無しにわざわざ危険な場所に行く必要など無いはずだ。
「ギルベルト様、それはあまりにも不用心です、此処からでは敵の能力も解らないのですよ、我々はあくまでも失踪したキーコの捜索が目的、危険を犯す必要はありません」
「キーコは村に居る、間違えねぇ」
「……まさか、キーコがこの強そうな奴四人と一緒に居るなんて事無いですよね!」
始めからこの四人に助けを求めるつもりだったのか、たまたまこの四人が居たのかは解らないが、注意は必要だ。
「刻印の反応があるのですか?」
「……すげぇ弱くて、どこにキーコが居るか分からねぇ……でも間違えねぇその村に居る」
時折ギルベルトの勘は恐ろしく当たる事がある。
おそらく臭いと言って表現したものも、勘の一種なのだろう。
実に非現実的だが、ヴィルムはそれを信じてみる事にする。どの道手がかりなど何一つないのだから。
「ではどう攻めましょうか? 日の入りを待って隠密に行動しますか、それとも敢えて奇襲をかけて敵を混乱させましょうか?」
例え敵が強くとも、こちらにはワイバーンが居る、空から遠距離攻撃をしかければ互角くらいには戦えるとヴィルムは見込んでいた。
「いやヴィルム、村に行くのはお前だ」
「……はい?」
「村に居るつえぇ奴は囮を使って外へ連れ出す、その隙にお前がキーコを探せ」
意外だった、真っ先に村を攻めて君子を探すまで暴力の限りを尽くすと思って居たので、ヴィルムはとても驚いた。
「この四人の中で、索敵魔法が使えるのはお前だけだ、しかも判断力もあるしいざって時の対応力もあるし腕も立つ……ヴィルムが一番適役だ」
「……ですが囮がブルス一人では、敵は果たして引っ掛かるでしょうか?」
二手に分かれる可能性だってあるはずだ、その場合はこの作戦が無駄になる可能性だってある。
「一人じゃねぇ、俺も囮になる」
「……それでは、ギルベルト様をお守りするのがブルスだけになります、敵は四人、これはかなり不利です」
二対一では、幾らギルベルトとブルスでも厳しいはずだ、ましてや王子である彼を囮に使う訳にはいかない、危険すぎる。
「待って下さい、私も囮をやります!」
「アンネ……貴方は案内だけで十分です」
「これでも魔法の心得はあります……それに三人で攻めてくれば、全員囮に引っ掛かるんじゃありませんか?」
確かに敵が来ればその数よりも多い人数で攻めるのは当然の事。
少なくとも三人が囮には引っ掛かるだろう、だがあまりにも危険すぎる。
「王子、どうか私にも闘わせて下さい! 一人くらいなら相手をしてみせます!」
「……良いだろう」
ギルベルトはそう言って了承した。まさかメイドまで戦闘に駆り出すなど、軍人としてヴィルムは恥ずかしさを感じた。
「ぬははっ、メイドなど使わずとも、このブルスが全員血祭りに上げて見せましょうぞ」
「倒すな、ヴィルムがキーコを見つけるまでの時間を稼げば良いんだ、合図があるまで全力で戦うんじゃねぇぞ」
目的はあくまでも君子の捜索、下手に動いてハルドラの軍隊が出張るのは面倒だ。
囮として、敵の眼を村からそらせば良いのだ。
「それとヴィルム、お前の魔法の情報を俺に送れるか?」
「通信魔法と生体リンクを使えば可能です、しかし先ほどの情報を見た所で何も……」
「ちげぇ、今からずっとだ、俺がキーコの場所を見つける」
「……なるほど、索敵魔法と刻印による二重の解析で、個人を特定しようと言う訳ですか、索敵魔法で個人を特定する事は出来ませんが、刻印ならばキーコだけを識別する事は出来る……その手がありましたか」
策を講じるのはヴィルムの専売特許だが、こんな策は思いつかない。
だがこれにはかなり大きな問題がある。
「そうなると、ギルベルト様の頭に索敵魔法の情報が入り込んでくるので、常に思考の半分は奪われる事になり、囮として敵と闘う事が出来なくなります」
「ンな事はどうだっていいンだ、速く繋げろ」
「しかし……」
「いいからやれ、ヴィルム」
ためらうヴィルムだったが、ギルベルトの眼は本気で、譲る気はないだろう。
腹をくくると、彼の手を握ってリンクを繋いだ。
これでヴィルムが知った情報を、ギルベルトへの脳へ送る事が出来る。
そしてそれはギルベルトの弱体化を意味するのだった。
(ギルベルト様がやられる前にキーコを見つけ出し、リンクを解除しなければ、幾ら強くとも危険だ)
思考を奪われた状態での戦闘がどれほど不利であるかなど、考えなくても解る事だ。
この作戦は、いかに速く君子を発見できるかに掛かっていると言っても良いだろう。
陽動であるブルスやアンネに比べると、ヴィルムの役割はとても重要で、失敗できない。
(……村に来たのですが、何やら妙ですね)
先ほどから索敵魔法で生命反応を見ているのだが、君子どころか人っ子一人いない。
ヴィルムの前にあるのは、無人の村だけ。
もっと範囲を拡大すると、少し離れた所に集団で移動する生命反応を感知した。
(なるほど、巻き込みたくはないと言う事ですか……)
村人達を逃がし村から離れた場所で闘う、よほど犠牲は出したくないのだろう。
(後手に回ったか…………人の気配がない、キーコも村人と一緒に逃げたのか)
これでは逃げた村人達を追わなければならない、ギルベルトの為にも速く君子を見つけたいが、距離がありワイバーンを使わなければ追いつけない。
「《ギルベルト様、村には生命反応がありませんでした、集団で移動する反応を感知しましたので、そちらを追います》」
報告を入れて、追跡する為ワイバーンを呼ぼうとしたのだが、通信魔法『念話』でギルベルトが話しかけて来た。
『まて、その村に居る』
索敵魔法には人間の反応はないのだが、どうやら送った情報の中に刻印の反応があった様だ。
「《では、反応のあった場所を指示していただけますか?》」
『…………』
「《……ギルベルト様?》」
突然会話が途切れ呼びかけても返事が無い、しばらくしてようやく言葉が返ってきた。
『解った……』
「《ギルベルト様、もしやそちらの戦闘はかなり手こずっているのではありませんか? やはりこの作戦ギルベルト様の負担が大きすぎます》」
やはりこの作戦は無理がある、おそらく向こうの戦闘はかなり手こずっているのだろう。リンクを解除したいヴィルムだが、ギルベルトはそれを許さない。
『良いからヴィルムはキーコを探せ……そっちに情報だけ送る、気が散るからキーコを見つけるまで話しかけるんじゃねぇぞ!』
そう言って一方的に会話を止められてしまった。
しかしヴィルムの頭には、先ほど送った情報を刻印で解析した物が送られて来ている。
(……一刻も早くキーコを見つけるしかありませんね)
眼を瞑ると、瞼の裏にぼんやりとした光として君子の反応がある。
ただ反応が小さくて正確な位置までは解らない、うっすらと方向が解る程度だ。
(この反応を索敵魔法の位置情報に上書きする……)
魔法を展開させて、村の中の生命反応をより詳細に読み取る。
人間よりも小さい動物程度の反応がある、怪しいがこれ以上の手がかりはない。
間違えなくこの村に居る事は確かなのだ、ヴィルムは反応があった方へと歩いてゆく。
たどりついたのは村の外れの空き地で、君子の姿どころか家も小屋もない更地だ。
(……間違えなく反応があるのに何もない)
索敵魔法も刻印も反応がある、しかし君子はどこにもいない。
もっと良く探してみようとヴィルムが足を踏み出すと、何かに阻まれてこれ以上前に進めなかった。
「……これは、結界?」
認知阻害魔法との併用で張られた防御用結界だ。
おそらくあの強い反応の内の誰かがやったのだろう、優秀な魔法使いだ。
「ですが……詰めが甘い」
ヴィルムは腰に吊ってある剣を引き抜くと、目の前の空を斬った。
バリンっ。
割れる音がすると、空間に裂け目が出来てヒビが入る。
ヒビはどんどん大きくなって、とうとう空間がバラバラに砕け落ちた。
すると何もなかったはずのその空き地に、小さな家が現れたのだ。
(これは確かに、刻印と索敵魔法両方無ければ見つける事は不可能でしたね……)
ギルベルトの作戦を実行していなかったら、此処に結界が張ってある事すら気がつかなかったに違いない。
おそらく逃げた村人達を追いかけてしまっただろう。
(ギルベルト様はやはり将としての才能がある……こんな田舎で喰い潰されるだけの存在ではあってはならない)
随分簡素な小屋で、家と言うよりも物置が近いだろう。
「…………」
中へ入ると、何の装飾もない部屋に運び込んだとみられる質素なベッドが、一つ置いてあるだけだった。
「……っ!」
ヴィルムはベッドの中を覗くと、そこには君子が横たわっている。
耳や手や足に、包帯を巻いただけの簡単な処置が施されているだけ。
「……キーコ!」
近寄って様子を見るが、呼吸が浅くて今にも止まってしまいそうだ。
これは睡眠ではなく昏睡、それも脈も弱い危篤状態。
尋常でないほど衰弱している、たった三日でこれほど弱るなど考えられない。
剣を収め君子へ触れる。すると左胸部に異常な魔力反応がある事に気がついた。
「……これは、『恐怖』の呪い」
呪術の魔法はかなり難しく専門の知識が無ければ使う事は出来ない、だが特殊技能ならば話は別、人を呪う事の出来る特殊技能ならばその知識が無くとも出来る。
(こんな事が出来るのは、あの半獣人しかいない……、愚かな自ら証拠を残すなど)
暗殺をするなら、もっと証拠が残らないやり方を選ぶべきだ。
こんな個人が特定される様なやり方では、犯人は自分と声高らかに叫んでいる様な物だ。
だが状況はかなりまずい、呪いはかなり進行している。
(……どうする、呪いを解く知識は私にはない、都の専門の魔法使いならば解除できるかもしれないが、時間が掛かり過ぎる……かといって普通の治療は意味が無い)
原因も犯人も解っているのに、彼女を助ける方法が何一つない。
手の施し様がないのだ。
「…………」
ヴィルムは無言で彼女を見下ろすと、耳に手を当てて遠くで囮として闘っているギルベルトへと念話を始める。
「《……ギルベルト様》」
『キーコが見つかったのか!』
「《はい……》」
『よしっ、ヴィルムはキーコを連れて来い、こいつら全員ぶっ倒して――っ』
「《ギルベルト様》」
そう言ってヴィルムは、冷静で平坦な声で報告を始めた。
出来れば報告したくない、これは彼が一番望まない結末だから――。
「《キーコは、瀕死の状態です……手の施し様のない呪いを受けていて、例え連れ帰った所で助かる見込みはありません》」
言葉は返ってこない。
無言のギルベルトに、このどうしようもない事実だけを告げる。
「《キーコは死んでしまうんですよ》」
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海人と凛華は紅の魔人ギルベルトを追い詰めていた。
戦いは一方的で、海人の剣も凛華の魔法も、ほとんどが当たっている。
それに比べてこちらは無傷、もはや戦いとも呼べない。
「次で決めるぞ、凛華!」
「ええっ、一気に行くわよ!」
こちらの攻撃でダメージはかなりの物になっている、これで終わりにする。
幼稚園から一緒だった幼馴染の二人は、自然と息が合う。
海人がギルベルトへ渾身の一撃を振り下ろし大ダメージを負わせた後、凛華の最大出力の魔法で仕留める。
今ここで、ゴンゾナの仇も、君子の復讐も全て果たす。
「だあああああああああああっ!」
留めの一撃を放つ為、海人は高く飛ぶ。
全身の力をこの剣へと注ぎ込む、重力と腕力によって最凶の一撃へと変じ、悪を斬り裂く正義の刃が、振り下ろされる。
しかしその刃は、悪しき魔人の手によって、掴み取られた。
「――っなぁ」
何が起こったのか、解らない。
ちゃんと両の眼を開けて、その光景を見ていたのに、理解が出来なかった。
魔人が素手で、渾身の一撃を受け止めているなんて――。
「海人!」
「うおっ!」
するとギルベルトは、スポーツマンで体格のいい海人を片手で簡単にぶん投げた。
何とか受け身を取る事には成功したが、戸惑う海人。
速さも威力も申し分ない一撃を片手で受け止められた、先ほどまでこれよりも弱くて遅い技を受け止めるどころか、回避すらままならなかったのに片手で防いだ。
一体何があったのか解らない、何が起ころうとしているのかも解らない。
「……うっうぅぅぅ」
ギルベルトは唸り声の様な物を出している。
今まで一度も言葉を発しなかったので、声が出せないのかと思った。
しかしその唸り声には、知性など感じられない、獣の様なもっと野性的な物。
そして彼は、二人の眼の前で天を仰いだ――そして。
「うぐああああああああああああああああああああああああああああああああああ――」
咆哮。
天を振わせ大地を揺らす、それは叫び声などと言う甘い物ではない、それはまるでこの世の全てを破壊しつくす化物の鳴き声。
体の中をその声が通り過ぎると、今まで抱かなかった物がふつふつと湧き出て来た。
「……あっ」
それは恐怖。
呼吸が乱れ、足が竦み、心臓に握り潰されそうな痛みを感じる。
今、二人は恐怖しているのだ。
そしてようやく思い知る、今まで自分達が闘って居たのはその化け物の半分であり、此処から始まる戦いこそ、本当の、本気の魔人だと言う事を――。
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(……一方的にリンクと念話を解除するなんて)
無理矢理解除されたリンクと念話は、ノイズの様な不快な音を立てて切れた。
手順を踏んで解除する物であって、この様に一方的にやるのは双方の体に害を及ぼす事になる、それすら忘れるほどギルベルトは激昂しているだろう。
「…………キーコ」
ヴィルムは瀕死の君子を見つめる。
『恐怖』の呪いは、標的を文字通り恐怖のどん底へ落とすと言う。
悪夢を見せ、徐々に衰弱させ、最後は虚無に意識を飲み込まれる。
君子は恐ろしい悪夢の中に閉じ込められ、虚無に心を侵食されているのだ。
「せめて、最後の時はギルベルト様の腕の中で……」
償いと言う訳ではない、彼女をこんな目に合わせてしまった非は間違えなくこちらにある、考えが甘かったのだ。
せめて虚無に飲み込まれ死んでいく彼女を一人にさせない、これが今出来る事だった。
「……少し冷たいですよ、キーコ」
もう聞こえる訳が無いのだが、ヴィルムはそう言うと君子を抱きかかえる。
そして出来るだけ彼女に負荷が掛からない様に、歩き出した。
小屋から出て、森へと向かおうとすると、大きな叫び声が響く。
(……ギルベルト様か、覇気も使っている様だな)
念話を止め、リンクを切ったのだ、敵は急に強くなったギルベルトにさぞ驚いている事だろう。
しかも、あの様子だとかなり怒っている。
とばっちりなど喰らいたくはない、ここはギルベルトの元へではなくワイバーンの所へ行く事にする。
(……敵には悪いですが、ギルベルト様の発散の相手になって貰いましょう)
さほど大きくない村から出て、森を駆けるヴィルムは人を抱えているとは思えないほど速い。
不規則に生えている木々の横を、最小限の動きで、縫う様に走り抜けるヴィルム、その速度は馬にも匹敵するだろう。
しかし、それに追いつくモノが居た――。
「――っ!」
走りながら、ヴィルムは何かが接近している事に気がついた。
風を切る音、茂みを揺らす音、地面を駆ける音が徐々に大きくなる。
スピードを上げても距離はじりじりと狭まり、逃げ切るのは不可能。
「くっ――」
ブルスかアンネの相手をしていた敵がこちらへやって来たのだろうか、しかしそれにしては足音が複数あり、人間が出せるスピードを超えている。
追跡者はヴィルムの真横へと迫って来て、いつ襲いかかるかタイミングを見計らう様に並走する。
「……キーコ、すいませんが少し揺れますよ!」
ヴィルムが走りながら腰の剣を抜くと、右から襲いかかって来た。
向かって来たソイツに、剣を振う。
『――ギャン』
腹を斬られ、苦しそうな声を上げたのは、大きな黒い犬。
体躯は人間の大人とさして変わらない一七〇センチ以上あり、明らかに野犬とは違う。
すると今度は左側から、全く同じ犬が襲いかかってくる。
「ちっ――」
ヴィルムは剣を振り下ろす、切っ先は犬の額から頬を斬り裂いた。
赤い血を噴き出しながら、犬は鳴き声を上げた。
距離を取り再び走り出すが、今度は背後から襲撃して来た。
『バウッ――』
口を大きく開けて、噛み付こうと飛びかかった。
鋭い犬歯がすぐそこまで迫った時、ヴィルムは上へと跳躍してそれを避けた。
木の枝へと着地し、今度は枝と枝を飛んで移動していくと、たどり着いたのは森の中に大きな原っぱ。
ギルベルト達が戦って居る所とは別で、一面膝丈ほどある草が繁茂している。
「…………」
犬達が迫る音を聞き、これ以上逃げる事は不可能と判断を下した。
君子を木の根元、草の上に寝かせると、彼女を守る様に剣を構える。
『ガウゥゥゥゥ』
唸り声を上げながら、三匹の犬が森の中から出て来た、黒い毛に長い尻尾。
その巨体はもはや犬ではない、三匹の獣は犬歯をむき出しにしてヴィルムを睨み、唸る。
「……使い魔か」
魔法使いなどが一部の獣を下僕とし、使い魔として使役すると言う。
明らかに野犬でも妖獣でもないこの獣達は、主人の命令でヴィルムを襲って居る。
(……いいや、私ではないか)
こんなタイミングで、見知らぬ誰かが襲ってくるなど考えられない、おのずと犯人は絞られる。
「あの腹黒女め……」
浅はかを通り越して呆れてくる。
特殊技能だけではなく使い魔まで、自分からボロを出している様な物。
(どうせバレるのが怖くなり使い魔にキーコを殺させ、証拠隠滅を図ろうとした腹でしょうが……あまりにも場当たり的すぎる)
帰ったら証拠を全て突き付けて、言い訳をする隙も与えさせない様に問いただしてやる。
剣の柄を握る手の力を強めた時――使い魔達は一斉に襲いかかって来た。
「――っ」
ヴィルムは長年の戦いの経験から、最善の戦い方を導き出す。
同時に襲いかかって来た様に見えるが、実際はコンマ数秒の差がある、最も速い者から迎撃する。
一番速いのは右の一匹、右下から左上へ薙ぎ払う様に剣を振い、胸部を切り裂く。
次に速いのは左の一匹、真上から真下へと剣を振り下ろし、右前脚を切断する。
そして最後中央の一匹、切っ先を突き立て突きを放つと、刃は眉間を貫いた。
一連の動きは流れる様なスピードで行われ、斬られた犬達さえも理解できなかったかもしれない。
ヴィルムは、後方に跳んで距離を取ると、剣を振い刃についた血を振り払う。
「まずは一匹」
中央の眉間を貫かれた犬が倒れて、ぴくぴくと痙攣を起こしている。
随分丈夫な種なのか、即死ではなかった様だ。
だが死ぬのは時間の問題だろう、他の二匹もかなりの重傷で放って置いても死ぬ。
飼い主の元に戻られて、現在の状況を報告されるのは迷惑千万、今ここで全部斬り殺す。
ヴィルムはこれで終わりにしようと、剣を構えた時だ。
死にかけの犬に二匹が近づいて来た、仲間思いなのかと思ったらそうではない。
近づいた犬が倒れた犬を踏むと、足と体が一体化して行き、犬の体躯が更に膨れ上がる。
それだけではない隣に居た犬の背も結合して、更に大きくなっていく。
「……なっ」
三匹が合体して形状が変わっていく。
一一本あった足は束ねられ、太い四足の脚へと変わり、胴体は三倍以上に膨れ上がり、黒い毛はまるでワイヤーの様な太さになり、体を覆い尽くしている。
そしてその変化が終わった時、六つの眼がヴィルムを見下ろす。
それは六メートル以上ある、巨大なケルベロスだった。
様々な生物がいるベルカリュースの中でも、その容姿はかなり異質。
一つの胴体に三つの頭、おぞましい容姿から地獄の番犬として恐れられる生物。
「……索敵魔法『調査』」
ヴィルムは、ケルベロスの力を量る。
合体する前は、個々の力はせいぜいDランクと行った所で、ヴィルムの敵ではない。
だが今は――。
種族名 ケルベロス
特殊技能 『同一化』 ランク3
職種 無し
攻撃 A 耐久 B 魔力 E- 耐魔 C+ 敏捷 B 幸運 E-
総合技量 B
大きく飛躍してBランク。
しかも人ではなく獣である分性質が悪い。
更に生命力を分けあったのか、瀕死だった個体も復活していて、三匹共に怪我が癒えている。
「…………わざわざ一匹にまとめてくれるなんて、親切ですね」
ヴィルムはそう嫌味を言うと、剣を中段に構える。
ケルベロスは三匹同時に咆哮を上げ、さきほどよりも圧倒的な速さで襲いかかって来た。
正面から受けるのはまずい、ヴィルムは素早く右へと跳ぶ様に避けると、ケルベロスの真横へと移動する。
(完全な死角から、急所を突く!)
犬を含め、四足の動物の心臓は前足の付け根付近にある。
頭が三つになろうが生物としての枠からは逸脱したりしない、急所は必ず存在するのだ。
剣にスピードを載せ、刃を突き立て、今出せる最速の攻撃を繰り出す。
切っ先が心臓へと迫ったその時――。
『ガオオオン――』
ケルベロスは吠えると、ヴィルムへと体の正面を向けた。
完全に死角だったはず、このまま突っ込むのは危険と判断して、右へ跳んで距離を取る。
『バウっ』
吠えると回避したヴィルムを追撃する。
ヴィルムは持ち前の機敏さを生かし、今度は左へ跳んだ。
(なるほど、頭が三つある分視野も三匹分と言う事ですか!)
死角は殆どないと言ってもいいだろう、今はとにかく様子を窺う。
ヴィルムが更に跳躍しようとした時――ケルベロスが彼の眼の前へと先回りして来た。
「――っ!」
速さはこちらが上だと確信していた分、驚きが大きかった。
ケルベロスはその大きな前足に生えている鋭い爪で、引き裂こうとする。
避けきれない、ヴィルムは剣を振ってその爪を迎え撃った。
「ぐ――っ!」
噛みあう刃と爪、しかし力はケルベロスの方が上、押し負けて吹っ飛ばされてしまう。
どうにか受け身は取れたが、あのスピードにこの力、かなり厄介だった。
「……地獄の番犬は伊達ではないと言う事ですか」
ヴィルムはその強さを誇示する様に唸る三つの顔を睨みつける。
視野だけではない、明らかにケルベロスは、一匹だった時より動きが速くなっているし力も強い。
そもそも頭が三つあるのに胴体が一つでは、頭がそれぞれ体を動かそうとした時、命令が混線して歩く事も本来なら出来ないはずだ。
しかしケルベロスは俊敏に動き、どの頭も表情が有り意思が見受けられる。
(三匹で生体リンクに近い物を結んでいるから、脳からの信号が混線しない訳か……)
しかも脳が三つになった事により、明らかにも賢くなっている。
今のケルベロスの知能は人間並みかそれ以上となって、動きに無駄がなく、ヴィルムの動きや行動を推測して動いて居て、ただの獣にはない知性が感じられる。
「……三人寄れば何とやら、ですか」
力もスピードもヴィルムを上回っていて、まともにやり合えばこちらが負けるし、逃げ回るだけではいつか消耗してしまう。
「…………仕方が、有りませんね」
ヴィルムは小さくため息をつくと、剣を構える。
すると冷気を帯びた風が、どこからともなく吹き始めた。
それはワイヤーの様に太い体毛を持つケルベロスも感じるほどの寒さ。
「使い魔風情にこれを使うのは屈辱ですが、いたしかた有りませんね」
ヴィルムはいつも以上に冷たいその視線で、ケルベロスを睨みつける。
「特殊技能、発動」
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ケルベロスは勝利を確信した。
元は三匹だったが、特殊技能『同一化』によって生体リンクを結んでいるので、思考は一つにまとめられている。
主人の命令を忠実に実行しようと獲物を追って此処まで来たが、邪魔者が居る。
強いと直感で理解したが、三匹が一つとなった今、自分達の方が勝っている。
何よりもスピードに置いては負ける気がしない。
三匹が合わさった事により、視野は三匹分になったし、筋力は三匹分以上に飛躍して、スピードも三倍は出せる様になった。
負ける事など有り得ない。
ケルベロスは吠えると、矮小な敵を噛み砕いてやろうと三つの口で襲いかかる。
このスピード、この力を前にして勝つ事など不可能――ケルベロスはヴィルムへと噛みつき、そのまま噛み千切った。
これで邪魔者は居なくなった、後は主人の命令通り、小娘を喰い殺せば終わる。
ケルベロスは瀕死の君子の元へと歩き出した。
「どこを見ているんですか?」
音がした方を振り返ると、そこには先ほど噛み殺したはずのヴィルムが立っている。
間違えなく噛みついたはずなのに、体のどこにも傷など無く、血の一滴も出ていないまるで無傷の状態。
「空を食むのはそんなに楽しいですか、それは何より」
なぜ無事なのかは解らないが、今度こそ殺す。
今度は爪で引っ掻いてぶち殺してやろうと、右前脚を振り上げる。
この爪は岩だって引き裂ける、人間の柔らかい肉くらいあっという間に裂いて、腸を掻き出す事が出来る。
そして剣よりも鋭い爪を振り下ろした。
のだが、次の瞬間にはヴィルムが消えた。
一瞬の内に消えてしまい、ケルベロスの脚は、誰も居ない空を引き裂いて、草の上へと叩きつけられる。
「どうした? 私はこっちですよ」
すると今度は真後ろにヴィルムが居る。
一体いつの間に後方に回ったと言うのか、明らかに彼の何かが変わった。
手加減などしていない、そもそも六メートルを超える巨体を持つケルベロスの動きを上回るなど不可能のはずだ。
「では次はこちらの番ですよ」
ヴィルムは剣を中段に構える。どんな技を使って居るのか解らないが、向かってくるのならそれを迎撃すれば良いだけの事。
ケルベロスは、いかなる攻撃にも反応出来る様に、六つの眼でヴィルムを見た――のだが、気がついた瞬間には、刃を突き立てるヴィルムが眼前にいた。
全く見えない、眼で追えない。
ただ気がついた時には、ヴィルムの剣が首を斬り裂いた。
『ギャウン――』
右の首を斬られ痛みから悲鳴を上げるが、走る姿どころかその太刀筋さえ全く解らない。
なぜ見えなかったのか、ケルベロスになった三匹に敵う者などありはしないのに――。
三つの脳を合わせても理解できない犬どもに向かって、ヴィルムは口を開く。
「遅いですよ、犬畜生」
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ケルベロスがヴィルムを見えなくなったのは、簡単な話だ。
ヴィルムがケルベロスより早いスピードで動いている、ただそれだけ。
もちろん彼の筋肉量では幾ら速く走った所で、獣を追い抜く様なスピードは出せない。
しかしそれはあくまでも体の話――速くなったのは、ヴィルムの思考である。
特殊技能『思案者』。
ランク4のこの特殊技能の効果は、文字通り考える事。
脳の情報処理を向上させ思考能力が加速する。
特殊技能発動中、ヴィルムには周りの景色が全てコマ送りの様にゆっくりに見えのだ。
経過する時間は変わらないにも関わらず、思考が速くなった事により、ヴィルムの体感する時間がゆっくりになった。
何らかの作業に集中した時、時間の経過を速く感じるという物に近く、一種のゾーン体験と言う物にも近いのだが、これは特殊技能によっていかなる状況も対応でき、通常の一秒を何一〇倍の時間に感じる事が出来る。
如何にケルベロスが速くなろうが、今のヴィルムにはスロー再生されている様にしか感じないのだ。
ヴィルムは剣を握ると、浅かった首筋の傷を見る。
(予想よりも筋肉が発達しているな)
ケルベロスは欠伸の様にゆっくりと、咆哮を上げる。
(ギルベルト様やブルスならともかく、私の力ではあの剛毛と筋肉を断つ腕力はない)
牙をむき出しにして、ゆっくりと両前足を持ち上げる。
(となると……ただの剣撃は効果がない……か)
上げた両前足が地面へと付き、今度は両後足が持ち上がる。
(なら、ただの剣撃ではない攻撃をすれば良いだけの話――)
ケルベロスは一歩を踏み出した――その時には、ヴィルムは数メートルの距離を走り抜けて、剣を振り上げていた。
『ガオオオオオッ――』
生物の本能として迫って来た脅威を振り払おうと、前足を振う。
しかしケルベロスの強力な腕力を持って振われたその一撃も、ヴィルムの視点から見れば止まっているのと同じ。
ヴィルムは上へ飛び上がると、体の内から冷気を引き出す。
冷気は剣を包み込み、周囲の空気を冷やし、空気中の水分を凍結させる。
氷の様に冷えたその剣に体重と重力を乗せて、未だ前足を振ったままのケルベロスへと、その一撃を振り下ろした。
ケルベロスの中央の首から胴へを、真っ直ぐに振り下ろされた一撃。
だが浅い、剛毛と堅い筋肉に阻まれて、致命傷になっていない。
『ギャアオオオオオン』
ようやく斬られた事に気がつき、叫び声を上げた時それは起こった。
斬られた所が冷たい、それどころか周囲の温度まで急激に冷めて、そして――。
凍りついた。
傷口だけではない、傷口周辺の毛も肉も骨も、何もかも一瞬の内に冷え凍りついたのだ。
どんどん凍っていくケルベロスを、ヴィルムは冷たい視線で見下ろしていた。
「氷結斬」
氷の魔人。
二〇〇〇年ほど昔は氷人種と呼ばれ、亜人種つまり人間の亜種と呼ばれて居た種族だ。
現在は魔王帝によって魔人と統合された種であるが、体温が非常に低く冷気や氷を自由自在に操る事が出来る。
彼らが放つ冷気は全てを凍らせ、ひとたびその冷気に触れると体温を奪われ、しまいには体の芯まで凍りつくと言われている。
傷口からの凍てつきはどんどん広がり、前足にまで侵食していく。
凍って動かなくなった足ではバランスが取れず転倒した。
氷結はどんどん広がっていく、ケルベロスの全てを凍らせるまで――。
「…………うっ」
ヴィルムは剣を収めると、頭を押さえた。めまいが彼を襲う。
体の奥へと意識を集中させると、特殊技能を停止させた。
特殊技能『思案者』は、強力だがその反動もまた大きい。
脳の情報処理速度を無理矢理上げているので、負荷が掛かる故あまり長い時間を使うと脳が損傷すると言うリスクを伴う。
強すぎる力の代償と言うべきか、情報処理速度が元に戻り、周囲の速度の感覚も通常に戻った。
(とんだ邪魔が入った……急いでキーコをギルベルト様の所へ連れて行かねばいけないと言うのに……)
ヴィルムは草の上に寝かせた君子を見る。
あとどれくらい持つか解らないが、ギルベルトの元へ行くまで何とか生きていて欲しい。
「……んっ」
ケルベロスの首の一つが動いた。ヴィルムの技を受け、体のほとんどが凍りつき、後は右側の頭を残すのみ。
放っておいても凍死する、特に気にする事はないと判断して、ヴィルムは歩き出した。
『ガッガガガ……ガ――』
命が尽きる間際の断末魔の様な声を漏らすと、凍っていない右側の首が本体から飛び出した。
「なっ!」
元は三匹が一匹になった生物として異質な存在である故、一匹を三匹に戻す事も出来るのだ。
だがヴィルムの一撃は間違えなく効いた様で、左後ろ足が欠損していて、決して完全な形での分離ではないのがうかがえる。
(――この程度)
三匹でようやくヴィルムと渡り合って居たのだ、一匹だけ生き残った所で敵ではない。
一瞬で斬り殺してやる、剣を抜き迎撃をするのだが――使い魔はまるで違う方向へと走り出した。
まさか逃げ出すのかと思ったが違う、使い魔の延長線上には、瀕死の君子が居る。
「しまった!」
ヴィルムには勝てないと踏み、せめて主人の命令だけでも完遂しようと試みたのだ。
既に勝負は付いたと油断していた、相手は片足を欠損しているとはいえ獣、素早くとてもヴィルムの足では追いつけない。
(間に合え!)
連続して使用するのは脳に負荷が掛かるが、一か八か『思案者』を発動させて追撃を試みる。
例え後いくばくもない命でも、彼女にはギルベルトの腕の中で最後を迎えて貰わなくては困るのだ。
しかし無情にも特殊技能を発動する間もなく、使い魔は君子へとせまる。
「キーコっ!」
ヴィルムはただ反射的に名前を叫んだ、それ以外に出来る事が無かったから――。
そして何も出来ない君子へ、使い魔の牙が襲いかかった。
感知の魔方陣の色、藍色から浅葱色に変更しました。




