8.どういうことだよっ、ゆずる!
気が付くと、目の前にゆずるの顔がドアップにあって、一気に目が覚めた。
押さえつけられているかのように、体が重い。動かないのだ。
「直ちゃん、気が付いたの?」
「……か…ず……」
うわっ。うわっ。なんか、すっげぇー久しぶりに数の声を聞いた気がするぅ。
数ぅ、すっげぇー、すげぇー、会いたかったよ〜。尻尾があったら絶対振ってるって!
すっげぇー嬉しい。帰ってきた!ってカンジ。
すぐにでも数久に飛び付いて、抱き付きたいのに、直久の体はピクリとも動かない。
――なんなんだよ、いったい!
動け、動け、と念じていると、すうーっとゆずるの瞼が開いた。
「ゆずる、手、離せ。手!」
「あ、ああ」
繋がっていた手が離れると、直久の体は自由になる。とたん、ガバッと起きあがり、数久に飛び付く。
「数ぅ〜」
「な、直ちゃん」
困ったように顔を見せたが、兄の体を抱き留めて数久はホッと息を吐いた。
「直ちゃん、お帰り。よかった、無事で」
「数ぅ」
だが、すぐに直久は数久の腕に傷を見つける。萌葱色の着物が血で赤く染まっているのだ。嫌でも目に付く。
「数、どこをケガしたんだ?」
青ざめて詰め寄ると、後頭部をパコッと叩かれた。
「ケガしたのは、あんたの方でしょ」
「り、り、りんかぁ!」
何事かと後ろを振り返ると、双子たちの姉――鈴加が腕を組んで佇んでいた。
「なんで、鈴加がここに?」
「莉恵ちゃんの家の御祓いが済んだ報告に来て貰ったんだよ。莉恵ちゃん、もう大丈夫だからね」
数久は莉恵にニッコリ微笑んだ。莉恵はパッチリと大きな目を開けて大きく頷く。
それを見て、優香もホッとしたように笑って、莉恵の手を握った。
「りえちゃん、よかったね」
「ゆうかちゃん。りえ、すごく怖い夢、見てたの」
「もう大丈夫だよ。りえちゃん、りえちゃんのパパとママ、あっちの部屋で待っているよ」
「ホント?」
「うん、行こう」
優香が莉恵の身体を支えるようにして、二人はパタパタと部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送って、ゆずるは柔らかく微笑んだ。鈴加と、その後ろにいる貴樹に振り向く。
「鈴加さん、貴樹さん、お手数をおかけしました。お疲れさまです」
「ゆずる君こそ、お疲れさま。いったい何があったの? びしょ濡れよ」
鈴加に指摘された通り、ゆずるも直久も全身びしょ濡れだった。
ずっしりと紫紺の着物を摘み上げると、ゆずるは眉を寄せた。
「今、お風呂を涌かしているわ。すぐに入ってらっしゃい」
「はい」
ゆずるは鈴加の言葉に頷くと、気怠そうに立ち上がり、部屋から出ていった。その姿を見送りながら、直久は首を傾げる。
夢の中では、ゆずるも自分と同じ制服に着替えたはずなのに、現実世界ではまた狩衣を着ていた。
やはり、夢は夢。夢で起きたことは現実とは異なるのだ。そう、納得する。
その証拠に今の今まで痛いと思っていた傷も、目が覚めたとたんに痛くなくなっている。
腕を捲ってみるが、傷などまったく無かった。
「俺、ケガなんかしてないみたい」
「直ちゃんにとって、夢だったからね」
数久は苦笑して、直久の額に触れる。何かをふき取るかのように数回そこを拭うと、数久の傷もみるみるうちに消えて無くなっていった。
「夢の中でケガをすると、その時は痛いって思っちゃうんだけど、目が覚めると、やっぱりそれは夢で、どこもケガなんかしていないし、痛くもないんだ。――けど、僕にとってケガは現実で、直ちゃんの夢が覚めてもまだ痛いんだ。術を解くまではネ。術を解いてしまえば、元々は直ちゃんが負ったケガ、僕はどこも傷付いてはいない」
ほらね、と数久は自分の腕を見せて笑った。 生白く、きれいな腕を見て、直久も笑う。
「直ちゃんと繋がっていようと思って、直ちゃんがケガをすれば僕も同じケガを負うように術をかけたら、ひどい目にあったよ。ある程度は覚悟していたけど、想像以上だった」
「悪い」
「直ちゃん、むちゃし過ぎ」
「けどさ、おかげで夢魔と対決してんの、分かっただろ?」
「僕の雲居は役に立った?」
「すっげぇー、大活躍。けど、夢魔には逃げられちまった」
「逃げられた?」
双子の会話を黙って聞いていた貴樹が、怪訝そうに顔をしかめた。
「そいつは、いったいどんな夢魔だったんだ?」
「ピエロの格好したふざけた奴さ」
「ピエロ?」
「パノンって名乗っていた」
「パノン……」
顎を軽く掴んで黙り込んだ貴樹の袖を、鈴加が引っ張る。
「なんか知ってるの? 一人で考え込まないでよ」
「どこかで聞いたことがあると思って……。いや、聞いたんじゃないな。読んだんだ」
「読んだ?」
「確か、誰かの日記だったはず」
「日記?」
姉弟3人の声が綺麗にハモった。
「あんたが本を読むのを趣味としているのは知っていたけど、他人の日記まで読んじゃう人だとは知らなかったわ」
「人聞きの悪い言い方をするなよ。日記と言っても、100年近く昔の日記だ。記録みたいなものだろ? 確か、九堂家の蔵で見つけたんだ。何年も前のことで記憶に自信はないけど」
「蔵でぇ? どこにあった物か分からなくなると、すぐ蔵にあったことにしちゃうんだから」
そう言って肩をすくめた鈴加を横目に、数久は貴樹に確認するように聞き返す。
「100年前の日記に書かれていたってことは、その夢魔は100年前にも姿を現したってことですよね?」
「そういうことになるな」
「そういやー、あいつ、九堂家の者の肉を食うとか何とか言っていたぜ」
「肉? もしかして、ゆずるのことを食べようとしていたの?」
「えー、そうなの? やっだぁ〜。何ソレ!じゃあ、莉恵ちゃんは囮で、本命はゆずる君だったの? でも、なんで、ゆずる君を食べたいの?」
「なんでも、食えば強くなれるとか何とか」
「そんな三蔵法師じゃあるまいし」
「なんで三蔵法師?」
首を傾げた直久に数久が口を開いた。
「徳の高いお坊さんの血肉を喰らうと永遠の命を得られるとか、強くなれるとか、そういう話が『西遊記』の中で出てくるんだよ」
「へー」
けど、ゆずるは坊さんじゃないわけだし、食ったって仕方がないじゃん。
そう思っていると、貴樹が、とにかく、と言って襖を開けた。暖かい風が部屋の中を駆けめぐる。
「俺はもう一度その日記を探してみようと思う。倒せたのならともかく、逃げられたのなら問題だ。再び現れるかもしれない」
「そうね、私も手伝う」
「邪魔はしないでくれよ」
「しないわよっ。手伝うの!」
貴樹の後に続いて鈴加も部屋から出ていく。
数久と二人っきりで取り残されて、直久は足を投げ出して後ろに倒れ込んだ。全身が重たく、怠かった。
「びしょ濡れの格好で寝ないでよ。畳が濡れる。――って、もう濡れて、ひどい状態だけど」
「数は俺より畳の心配をするんだぁ〜」
「だぁって、畳って汚れると見苦しいじゃん」
「……」
「あと、直ちゃんの制服、濡れちゃったね。明日も学校あるのに。どうしようか?」
「しばらくジャージ登校するから良いよ。母さんに頼んでクリーニングに出して貰う。つーか、制服より、俺の心配は? 風邪ひかないようにネ、とか、ないわけ?」
「直ちゃんが風邪ひくわけないじゃん」
「……」
――あ、なんか、イジケてきた。
重たい体を起こして、よたよたと立ち上がると襖に手をかける。
「どこ行くの?」
「俺も風呂入ってくる。濡れてて気持ちわりー」
「そう」
パシャンと襖を閉められて、数久は、はてと気付く。
「え? お風呂?」
今、お風呂には、確か――。
「ちょ、ちょっと直ちゃん、待っ……」
追いかけようと襖を開けて廊下に出たが、もはや、すでに直久の姿はなかった。
数久はカリカリと頭を引っ掻く。
「ま、いいか。なんか、もう、僕も疲れちゃったし」
と、その場にしゃがみ込んだ。
▲▽
春の風が吹き込んでくる廊下を直久は、重たい足を引きずりながら風呂場に向かった。
どこからか白い花びらが舞い込んできて、直久の目の前でくるりと踊った。
庭にある桜の木からだろうか。桜を怖がっていたゆずるを思い出して、一人笑う。
どこが怖いんだ? やっぱりキレイじゃないか。
やたら広い九堂家の庭を眺め、桜の木を仰ぐ。
幼いゆずるが襲われたという魔物は、あの桜の木に取り憑いていた魔物だったのだろうか?
九堂家の回りには特別な結界が張ってあって、低級な魔物は入り込めないと言っていたから、あの桜の木ではないのかもしれない。
そんなことを考えながらも、直久は脱衣所にたどり着いた。
中に人の気配を感じたが、どうせ、ゆずるだろうと思って扉を開けた。
ゆずるは普段、他人に自分の肌を見せるのをひどく嫌がっていたが、今は緊急事態だ。我慢して貰おう。
春とは言え、まだ肌に寒い。
さすがの直久だって、いつまでも濡れたままでは風邪をひきかねないのだ。
同じ男なんだし、一緒に風呂くらい……。
そう、直久は思った。
「ゆずる、わりー、一緒させてくれ」
ガチャリ。扉が開く。
「え?」
「ん?」
驚いたゆずるの瞳と目が合う。
その瞳はしだいに恐れの色を露わにして、次には怒りの色を、そして、ひどく悲しそうな色を示した。
一方直久は、ゆずるの瞳から顔全体、首、肩、そして、胸、腰……と目線を徐々に下へ、下へと下げて、再びゆずるの顔を見た。
「嘘だろ? なんで、お前……」
ゆずるは、今まさに脱衣所から風呂場に移動しようとしていたところで、一糸纏わぬ姿をしていた。
すぐに我に返り、側に置いてあったタオルで身体を隠すが、すべてが直久の目にバッチリと焼き付いてしまった後だった。
膨らんだ胸。男ならあるはずのものがない身体。
「お前、女? だって、あれは夢だって……」
「とにかく、ここから出て行けよ」
静かに、低く、ゆずるが言い放った。
「え? あっ、ああ。ごめん」
頭の中が真っ白になってしまい、なんて言ったらいいのか分からなかった。
とりあえず謝って直久は脱衣所の扉を閉めた。それから、一度大きく深呼吸をすると、深く息を吸い込んだ。
わぁぁぁぁぁぁぁ〜っと叫びながら、やって来た廊下を逆走する。
ど、ど、どういうこっちゃぁ〜っ! ゆずるが、ゆずるが女だったなんて!
数久でも、鈴加でもいいから、詰め寄ってきちんと聞いてみたかった。
ゆずるはいつから女だったのか?と。お前は知っていたのか?
本当に、本当に、ゆずるは女なのか?と、一刻も早く聞きたかった。
ざあーーーっと、風が直久の脇を吹き抜けていった。
はっとして直久は立ち止まる。風の吹いてきた方を振り返ると、例の桜の木がじっと佇んでいた。
直久を見守るかのように静かにそこに立っていて、慰めるかのように花びらを散らす。
濡れた衣服に花びらが何枚も何枚もペタペタとくっついた。
直久は足を投げ足すようにして、その場に腰を下ろした。春風が頭をやさしく撫でていく。
どのくらいそうしていただろう?
名前を呼ぶ声に、直久は我に返った。見上げると、すぐ傍にゆずるが立っていた。
「あ」
口を開いたものの言葉は何一つ出てこなかった。
直久は諦めてゆずるの言葉を待つことにした。そんな直久にゆずるはため息をついた。
「俺は男だ」
「けど」
そうは見えなかったと顔を上げると、ゆずるに、黙れ、と睨み付けられる。
「男として育てられた。だから、これからも男として生きていく」
「育てられたって?」
「九堂家に必要なのは女子じゃない。後を継ぐことのできる男子だ」
「だからって!」
だからって、男として育てられたというのか? 本当は女なのに?
何かを言おうとした直久から、ゆずるは目を逸らし、その言葉を封じた。
「お前が俺を男として見られないと言うのなら、もう二度と俺の前に姿を現すな。本家への出入りも禁じる。祭儀にも出席するな」
「なんだよ、それ!」
元から本家への足は遠く、行事にも不参加な直久だが、出るな、禁じる、と言われるのはおもしろくない。
問い詰めようとしてゆずるの方へ手を伸ばす。だが、バシンとその手を叩かれた。
「痛っ」
「触れるな!」
吐き捨てるように短くそう言うと、ゆずるは直久に背を向けて去っていった。
「どういうことだよっ、ゆずる!」
その背中に向かって怒鳴るが、届かないのか、ゆずるは振り向きもしなかった。
大嫌いなゆずる。
顔も見たくないイトコ。
話したくないし、声も聞きたくない。
大嫌い。大嫌い。すっげぇー、ムカツク。
そう思っていた。それなのに……。
叩かれた手が痛い。遠ざかっていく背中が苦しい。
ここ数ヶ月で近付いたと思った二人の距離が、ゆずるが一歩、また一歩と遠ざかっていくほどに、引き離されていく感じがした。
桜の花びらが舞う。今はもう、それをキレイだとは思えなかった。
地面を覆い隠すように、自分もその花びらで覆い隠してくれ。そう願って、直久はその場に転がる。
なんだか、ひどく身体が重たかった。もう二度と起きあがれないかもしれない。
そう思いながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
静かな静かな廊下に、桜の花びらが積もっていく音だけが、直久の耳元で響いていた。
【完】
『蛍狩り』(http://ncode.syosetu.com/n6689d/)へ続く。