7.そんなこと、俺に聞くな。俺に
基本的に、俺は陸を駆ける男だけど、水中も得意なわけで、そこそこ泳げるわけだ。
これ、ハッキリ言って、自慢! だってさー、ほら、陸上部の奴とか、陸では敵無しみたいな奴に限って、
水泳が不得意な奴が多いじゃん。
俺んとこの学校じゃあ、2学期に水泳の授業評価が付くんだけど、1学期と3学期はめちゃ良いのに、2学期だけ悪いの。水泳のせいでさー。
そんな奴が多い中、俺は年間通して5段階評価の5!オール5!体育だけは5!
……だけは、っていうのが悲しいけど、まあそんなわけで、プールに投げ込まれた俺は問題無く、ドボンッと一度深く沈んでから、すぐに腕で水をかき、水面に顔を出した。
「はぁっ」
大きく息を吸ってから、プールサイドまで泳ぐ。
信じられないことに足が底につかないのだ。学校のプール、しかも小学校のプールとは思えないほどの深さである。底を見ようとしても、暗闇が見えるだけだった。
プールサイドに泳ぎ着くと、直久はゆずるの姿を探した。
自分より先に飛び込んだはずのゆずるの姿がないと気が付いたのは、自分の呼吸が確保されてからしばらくたった後だった。
「ゆずる?」
まさか……。
ゆずるがプールに飛び込むのを渋っていたのは、高所恐怖症だからじゃなくて、泳げないからではなかったか?
直久は青ざめる。本当に血が引いていく感じがした。
「うそだろ? 泳げないのかよ?」
直久は再び水中に顔をつけて、ゆずるの姿を探した。
水面から見つからないとすれば、深く沈んでしまったのだろう。両腕を掻き、深く潜る。
泳げないのなら、泳げないって言えつーの!
だが、ゆずるのプライドの高さから考えて、できないとは言えなかったのだろう。
察してやれなかった自分が悪かったのか? ――いいんや、んなわけがない!
あいつのプライドの高さが悪いんだ!
ブツブツ言いながら、直久は水を蹴った。光が遠くなっていく。暗闇の中、弱々しく光るものを見つけて、手を伸ばした。
たぶん、ゆずるだろうと直感する。ゆずるは直久から見て、いつだって光の中で生きていたから……。
思った通り、それはゆずるだった。
力一杯に水を掻き、ゆずるの体を引き寄せると、直久は水面を見上げた。
遠い。気まで遠くなりそうな距離だ。だが、ここで気絶している場合じゃない。絞り出した力で水を蹴る。
片手でゆずるを抱きながら、もう一方の腕で水をかく。苦しい。息が。
酸素が欲しくて、半ば藻掻くように、上へ、上へ、泳ぐ。
「はあっ」
口が空気に触れたと同時に、水もろとも酸素を肺の中に詰め込む。
「ぐっ。げほっ。ごほっ、ごほっ」
あまりの苦しさに涙が流れ出た。咳き込みながら、やっとの思いでプールサイドにたどり着くと、まずはゆずるを水から上げ、自分も上がる。
「おいっ」
呼ぶが返事がない。揺すっても反応がない。
息は? 口元に顔を近付ける。していない……?
心臓は? ……動いている。弱々しくはあるが確かに動いている。
わずかにホッとして、直久はゆずるの頬を叩く。
「ゆずる、おいっ。しっかりしろよ」
どうするんだよ、こういう時! もっとしっかり真面目に保健の授業を聞いとくんだった。今更ながら後悔する。
こういう時はやっぱし、人工呼吸か? 心臓マッサージは心臓が動いている時はしちゃいけないんだよな。
人工呼吸なのか? やっぱし。するのか? 俺が?
――つーか、俺しかいねぇーし! 俺がやるしかないんだよな。
直久はゆずるの顎に手をかける。
「……と、その前に襟元開けた方が良いのか?」
学ランは詰め襟だから、普通の時でさえ苦しい。
直久などは上の方の金具は止めないで、できるだけ緩ませてしまうそれを、ゆずるは律儀にしっかりと閉めていた。震える指でそれを外す。
ボタンは? ……2つくらい開けてやるか。
金ボタンに手をかける。ボタンを外すと上着が開き、ゆずるの喉元が露わになった。
上着の下は白いシャツを着ている。濡れたそれは、肌色を透かせていた。再びゆずるの顎に手をかけ、上を向かせる。いつか読んだ教科書の挿絵を思い出しながら、直久はゆずるに顔を近付けた。
直久の髪から落ちた雫がゆずるの頬の上を滑るように流れる。それを見送ると、直久は大きく息を吸い込んだ。直久の影が、ゆずるにゆっくりと覆い被さった。
「んっ」
何度か息を吹き込んでいると、うめき声が聞こえた気がして、直久は口を離した。
とたん、ゆずるは水を吐き出し、咳き込んだ。
「げほっ。げほっ」
「ゆずる、大丈夫かよ?」
返事はなかったが、規則正しく聞こえてきた呼吸に直久は安堵する。
――よかった〜。
濡れて冷え切った身体を抱き締めた。しばらくの間、暖めるようにさすっていた直久は、ゆずるの身体の不思議な触感に気が付いた。
なんでこいつ、こんなに柔らかいんだ?
細い、細いとは思っていたけど、マジで筋肉ないよな。男なら、もっとガッチリしてた方がいいんでない?
つーか、なんでこいつ……。
もっとよく確かめようと、肩から腕、腹筋へと触れているうちに胸へと手が伸びた。
え?
他の部分とは比べようにない柔らかさを感じ取って、直久の思考回路が停止する。
――えぇ? なんだ、これ?
手だけじゃなくて目でも確かめようと上着の中を覗き込む。見え難いと思い、ボタンに手をかける。
上から3番目のボタン、4番目のボタンと、ゆっくりと外していく。すべてのボタンを外し終えると、上着を左右に開いた。思わず唾を飲み込んだ。
すっかり透けてしまった白いシャツ。くっきりと形を露わにした肌。
「マジかよ……」
濡れたシャツは肌色を透かせながら、胸の辺りで膨らんでいた。その山のてっぺんのピンク色の丸い小さな突起に、直久は顔を赤らめる。
「マジでぇー?」
これも夢だからか? そうなのか? 夢だから、ゆずるが女になっちまったのか?
そうなんだよなぁ? ああーっ、もぉーっ、今、ここに数がいてくれれば!
んで、
「そうなんだよ、直ちゃん。夢ってすごいよねぇ。いろんなことが起こっちゃうんだから」
……って、言って欲しい!!
数ぅ、俺はどうすればいいんだぁ〜っ。
「んー」
「うわっ!」
「痛っ」
ゆずるのうめき声に驚いた直久が思わず手を離したために、ゆずるの身体が固いタイルに打ちつけられた。
すぐに謝ろうと口を開くが、言葉が出てこなかった。
痛みを感じたおかげで、意識を戻したらしいゆずるは、ゆっくりと身体を起こす。
その拍子にハラリと上着が大きく開いて、胸が露わになったのだ。
見たくない、いや、見るつもりはないのに、直久の目は自然にゆずるの胸へと向けられてしまう。
「お、おま、お前っ」
「なんだよ?」
口を開いたり閉じたりして、言葉にもならない声を発している直久に、ゆずるは眉を寄せる。
「そ、それ。つーか、何それ?」
「はあ?」
直久が指差すものを追って、自分の胸元を見る。その瞬間、ゆずるは頭の中が真っ白になる。
透けて見える自分の胸の輪郭に驚き、声も出ない。慌てて上着の前を掻き合わせて、直久を睨んだ。
「見たのか?」
見ていないはずはないと知りながら、見ていないで欲しいと願う。
声も、身体も震えてしまう。ゆずるは返答次第では殴ってやろうと固く握り拳を作った。
その時、ゆずるの頬を流れていったものは、水の雫だったのだろうか?
それとも、瞳から溢れ漏れたものだっただろうか。
緊張した面持ちで答えを待つゆずるに、直久は頭を縦に振り落とした。そして、ゆずるの想像の域を超えた言葉を言い放ったのだ。
「お前、女になってるぞ」
「はあ?」
「女になってる。これも夢だからなのか?」
「ゆめ……?」
「もしかして、俺もいきなり性別が変わっちまったりするのか?」
直久の真剣な顔に、ゆずるは小さくため息をついた。
「……お前がバカで良かった」
「へ?」
聞き返した直久にゆずるは、なんでもないと手を振ると、胸元を閉じてからゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫なのか? その、苦しいとか、どっか痛いとか?」
男が女になってしまったのだ。ただ事じゃない。あたあたと慌てふためいている直久に、ゆずるは笑う。
「ホント、ばか、お前」
「人が心配してるつーのに、そういうこと言うか?」
そう言って直久が眉を歪ませた時、さあーっと風がどこからともなく吹き抜けていった。
「風通いか」
直久から目を逸らし、どこか空を見上げると、見えない相手と話を始めるゆずる。
「そうか、分かった」
「どうしたって?」
その相手との会話が終わるのを見計らって直久が尋ねると、ゆずるはホッとしたような笑顔を見せた。
「莉恵ちゃんが見つかったらしい。今、先見がここに連れてくる」
「莉恵ちゃんが? そっか」
ゆずるの式神たちが見つけてくれたらしい。直久もホッと息をついた。
しばらく待っていると、酒の臭いと共に空を浮いた子どもの姿が二人の前に現れた。
「ご苦労」
二匹の式神にねぎらいの言葉をかけると、ゆずるは両腕を差し出して、莉恵の身体を受け止めた。
トサッ、と柔らかな音を立てて莉恵は、ゆずるの腕の中に収まる。
「莉恵ちゃん」
穏やかな声で名前を呼ぶと、幼い少女は涙で濡れた顔をゆっくりと上げた。そして、ゆずるの顔を確認すると、驚いたように目を見開いた。
「優香ちゃんのお兄さま?」
「そうだよ。大丈夫? ケガはない?」
ゆずるは莉恵を腕から下ろすと、目線が合うように膝をついた。莉恵は首を振った。
「りえのこと、助けに来てくれたの?」
「そうだよ。遅くなってゴメンね。可哀想に、怖い思いをしたんだね」
次々に溢れ出てくる涙をそっと拭いてやると、ゆずるは莉恵を安心させようと抱き寄せた。
「もう大丈夫だから」
今度は頭を縦に振って、莉恵はゆずるの肩に額を押しつけ、ひしっとしがみついてきた。
ゆずるはその背中を軽く叩きながら、直久を見上げる。
「掃除用具箱に隠れていたらしい。何かに追われていた様子だったと風通いが言っていた」
「何かって?」
「おそらく、夢魔だ」
直久の脳裏に、あのピエロの笑いが浮かぶ。白い顔に黄色い歯を剥き出しにして、甲高い声で笑うのだ。
思い出すだけでも、ぞっとする。
笑顔のままで斧を振り回す姿。おどけた様子で、ふざけた口調で殺気を振りまく。
もう二度と会いたくない。
「ピエロに見つかる前に、とっとと夢から逃げようぜ」
「そうだな」
ゆずるも同じ思いなのか、莉恵を片手で抱き締めながら、もう一方の手を直久に差し出した。
▲▽
どさっ。
不意に、何かが空から落っこちて来た。どす黒い塊。それが何かと目を向けると、猫の死体だと分かった。
ゆずるは慌てて莉恵の目を塞いだが、遅かったようで、空気が避けるような悲鳴が上がった。
どこからか、笑い声が聞こえてきた。あのピエロの笑い声だ。パノンと名乗ったピエロの。
「ねこふんじゃった。ねこふんじゃった。――ふふっ。ほらほら、見てごらん。お空に飛んじゃった猫が降りてきたよ。でもね、勢いよく降りてきたものだから、ぶっつぶれちゃった。おかしいね。ペッタンコだよ。おもしろいね。目ん玉飛び出しちゃってるよ」
パノンの言う通り、血塗れになった猫は頭が砕け、目玉が飛び出し、腹が裂け、内蔵がはみ出ていた。
ゆずるは猫から目を背け、空に向かって怒鳴った。
「どこにいる? 出てこい!」
ゴボゴボと水音がした。何かと思い音の方を振り返る。プールの方だ。
プールの中を覗き込むと、ずっと下の方にピエロが沈んでいて、じっとこちらを見上げていた。
にやにや、とピエロが笑った。その笑顔を崩さないまま、ピエロの体がすうーっと浮上する。
大きな水音をたてながら、ピエロは水から姿を現し、そのまま水面の数センチ上で体を浮かした。
水の中にいたと言うのに、少しも衣類を濡らしていなかった。ゆずるは舌打ちすると、莉恵を庇うようにパノンと対峙する。
「確か、お前、俺の肉が食いたいだの言っていたな。あいにく、お前に食わせられるような無駄な肉はない。この子の夢から、すぐに出て行け!」
そう言うと、ゆずるは先見と風通いを呼ぶ。ほぼ同時に、激しく風が吹き荒れた。
これを『かまいたち』とでも言うのだろうか? パノンの肌がスッパリ切り裂かれた。
だが、痛みを感じていないらしく、ニタニタ笑い、大きく腕を振り上げた。
右から左へ、何かに指示を与えているようだった。それに気付いた時、猫の頭がゆずる目掛けて飛んできた。
直久は慌ててゆずるの前に飛び出す。猫の頭はグワッと口を大きく開けて、直久の腕に噛みついた。
「痛っ」
「直久!」
直久の腕から引き離そうと、ゆずるが猫の頭を掴むと、瞼のない猫の瞳がギロリとゆずるを睨み上げた。
血走った目に一瞬怯むと、その間に猫は、ガブリガブリと直久の腕を噛み直した。
ポタポタと直久の腕から血が滴る。
「こいつ!」
今度は力一杯引き剥がしにかかると、猫は散々抵抗したあげくにやっと剥がれ落ち、地面にゴロゴロと転がった。 すかさず、直久はその頭を遠くに蹴り飛ばした。
「大丈夫か?」
「お前こそ」
直久に言われて手の平を見ると、猫の牙に裂かれたのだろう、小さな傷がいくつも付いていて、血が滲んでいた。
「俺は、大したこと無い」
ゆずるがそう答えると、パノンがケラケラ笑う。
「そうだよね、全然大したこと無いよね。もっと痛くならなきゃ。苦しまなきゃ」
ほぉら、とパノンは斧を振り上げた。ゆずるは両手を広げる。
「火刈り、炎を! 風通い、風をあの腐れピエロへ!」
声を張り上げると、ゆずるの手の平から炎が現れ、風が吹き荒れ、熱風となってパノンを襲う。
パノンが放った斧は熱風を切り裂き、ゆずるの足下に突き刺さった。
「相殺?」
いや、向こうの方が少しばかり力が上だ。直久は猫に噛まれた傷口を押さえながら、呻いた。
勝てない。逃げることも難しいだろう。
「火刈り、炎を!」
再び、ゆずるが炎を放つ。
「先見、風通い、行け!」
巨大な火の玉と、それを取り巻く熱風が刃のようにピエロを切り裂き、その切り口から肌を燃やしていく。
異様な物が焦げる臭いが辺りに漂った。だが、ゆずるの攻撃はパノンの笑い声を止めることさえできなかった。
「次は2本いっぺんいくよ」
ケラケラ笑って両手に一本ずつ斧を振り上げる。
「ほぉら、受け取れ!」
パノンの手から放たれた2本の斧は、回転しながらゆずるの元へ飛んでいく。
「ゆずるっ」
駆け寄って、身を挺して庇ってやりたかったが、直久の体は思うように動かなかった。
地面から生えた何本もの腕が直久をつかみ取って、その動きを封じていたのだ。
「くそっ」
だめだっ、と目を閉じた時、白い影が直久の脇を擦り抜け、ゆずるの元へ駆けていった。
「ん?」
そっと目を開くと、斧がゆずるの両脇に突き刺さっていた。唖然とするゆずるの目と目が合う。
「雲居が、雲居が助けてくれた」
「雲居が?」
どうして数の式神が?
直久が首を傾げている間に、ゆずるは雲居と言葉を交わし、大きく頷くと、礼を述べた。
「お前がケガをしたことで、数が、夢魔と俺たちが接触したことに気が付いたんだ。それで雲居を寄こしてくれたんだ」
「なぁる」
腕の傷を眺めて直久も頷く。
依然として血が止まる様子はない。ボタボタと流れ続けている。これだけの傷を負ったのだ。数久もただ事じゃないと気付いてくれたのだろう。
「雲居、あいつをやっつけるのに協力して欲しい。火刈り、風通い、先見。一斉攻撃だ」
行け!とゆずるが命じると、ごぉーーーーーっと低い唸り声と共に熱風がパノン目掛けて駆け抜けていった。式神4匹による一斉攻撃にさすがのパノンも恐れを感じたのか、ここで初めてその顔から笑みを消した。
「君がそんなにたくさんおともだちを呼ぶのなら、僕だって呼んでやる」
風から逃げまどいながら、指笛を吹く。すると、プールの底から人形たちが這い上がってきた。
直久はクスクスという笑い声に自分の足下を見た。
自分の体を戒めていた地面から生えた手がニュルリと長く伸び、肘が出、肩が出、頭が地面から出てきた。
「捕まえた。捕まえた。絶対に離さないんだから」
子どもの姿をした人形が3体、直久の体に長い腕を絡ませて歌いだす。この夢では何度も聞かされている『ねこふんじゃった』だ。
――くっそー。もう耳ダコだ〜〜〜っ。
引き離そうと人形の体を押しやるが、人形はベッタリ直久にくっついて離れない。それどころか、ますますきつくしがみついてくる。
ゆずるの方もプールから這い上がってきた人形にジリジリと間合いを詰められている。ゆずるの助けは期待できないと分かった直久は、両手を組んで高く振り上げた。
ドスッ。
それを首の付け根に打ちつける。人形が怯んで力を弱めた隙に蹴り飛ばす。人形は高く舞い上がり、地面に転がった。仰向けに転がった人形の顔がみるみるうちに猫の顔になっていく。
――ねこ?
「こいつらの正体、猫なのか?」
「猫……?」
呟くように言った直久の言葉を聞き取ってゆずるは聞き返した。
「なんで、猫?」
――そんなこと、俺に聞くな。俺に。
とにかく人形たちの正体は猫らしいと判断したゆずるは、先見を呼ぶ。
「猫には犬だ。猫を追い払え!」
すると、ゴールデンレトリバーなどの大型犬よりも更に大きな茶色い犬が姿を現す。
茶色というより赤に近いかもしれない。首回りだけは他の部分より濃い茶色で、長い毛を全身に生やしている。
二三歩足踏みをすると、犬は大きく口を開いた。
『犬じゃねぇー!オレは狼だぁぁぁぁ〜〜〜っ』
直久にも聞こえる声で吠える。
ピンと三角にとんがった耳。鋭い牙。本人が言うように、狼にも見えなくない。
ゆずるは額を抑えた。
「いいから行け!」
『へいへい』
先見はガバッと口を開いて直久にしがみついていた人形を追い払うと、ゆずるに這い寄ってきていた人形も追い払う。
思った通り正体は猫だったらしく、先見が脅すと、猫の姿になって一目散に逃げていった。ゆずるは空に浮いているピエロに向き直って、睨み上げた。
「お前の“おともだち”とやらは、お前を置いて逃げていったぞ」
「まったく、ヒドイ友達だよ」
ゆずるの瞳を真っ直ぐに受け止めて、パノンは泣き真似をする。
「代わりに君が“おともだち”になってくれるかい?」
「断る!」
ゆずるは両手をパノンに向けた。
「先見、風通い、火刈り、雲居、行け!」
ゆずるの命を受けて先見はパノンに向かって駆け出す。しだいに狼の姿が空気に溶けていき、赤い光となってピエロを襲った。
同時に白い影がピエロを捕らえ、熱風が吹き荒れる。パノンの悲鳴が大気を震えさせた。
その口からどす黒い液が流れ出た。
「ぐわぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜っ」
それは、耳を塞ぎたくなるほどの醜い悲鳴だった。しばらくして熱風が治まり、黒い煙に包まれたピエロが姿を現した。よろよろとしながらも、それでもまだ空に浮いていた。
「ちくしょう!」
パノンは最後の力を振り絞って斧を振り上げた。斧はゆずるの足下よりも数メートル手前で転がった。
だが、ゆずるや直久の目を逸らし、逃げるだけの時間を稼ぐのには十分だった。
パノンは片手をぐるりと振り回すと、空間を歪ませた。
「逃げる気か!」
「残念だけど、君の肉は諦めるよ。また今度遊ぼうね、九堂家の坊ちゃん」
顔を苦痛に歪ませながらも、パノンはケラケラ笑って手を振った。
「待て!」
ゆずるが何かをする前に、パノンはさっさと歪んだ空間の中に体を滑り込ませる。
とたん、夜空が青空に変わった。悪夢が終わったのだ。
「逃げたのか?」
「ああ」
「あと少しで倒せたのに……」
「いや、それは分からない。あいつは全力を出していなかった気がする」
「マジでぇ?」
信じられないと聞き返した直久に、ゆずるは肩をすくめる。
「確かなことは、分からない」
そして、見えない相手を振り返った。
「4人ともご苦労。戻っていい。雲居、一足先に戻って数に礼を言ってくれ。俺たちもすぐに戻ると伝えて欲しい」
さぁーっと風が吹き抜けた。
見送るように、しばらく何もない空間を見つめていたゆずるが振り返ると、直久はホッと息を吐き出した。
やっと夢から出られるのだ。
ゆずるは莉恵の前に膝を着くと、その肩に両手を乗せた。目線を合わせる。
「さあ、莉恵ちゃん。起きる時間だよ」
「起きる?」
「君は今、眠って居るんだ。ここは夢の中なんだよ」
「夢?」
「そう」
ゆずるは、直久に振り向くと手を差し出した。直久はその手を取った。
「目を開いて。さあ」
ゆずるは莉恵の額にもう一方の手を置いて、ゆっくりと瞼を閉じる。
澄んだ声が流れるように聞こえてきて、それは徐々に小さくなって、やがて聞こえなくなっていった。