6.もしかして、お前、高所恐怖症?
「……夢魔?」
えっ。つーことは、もしかして、まずくねぇ?
ゆずるにさえ手に負えない相手だって言ってなかったっけ?
んで、鉢合わせしないようにしようって、言ってたよなぁ? 思いっ切りしちゃってんじゃんか!
どうするんだよ?という目をゆずるに向けて、あたあたしている直久を、嘲るようにピエロは立ち上がり、ゆったりとお辞儀をした。
「はじめまして、僕はパノンっていうんだ。君たちは?」
背丈は直久と同じくらいか、もう少し高いかだ。
少年のような声だが、年齢は分厚い化粧に隠されて、よく分からない。
パノンというのは、おそらく彼の名前なのだろう。 ……だとしたら、君たちは?という問いは、自分たちの名前を聞いていることになる。
だが、素直にそれを教えていいものか戸惑っていると、パノンは、童話とかの挿絵の妖精が履いているような、つま先が天上に向いた靴を、トントンと踏みならした。
「本当は、ちゃんと知っているんだ。九堂家のお坊ちゃんだ。君に会いたくて、この夢の中で待っていたんだよ」
隣でゆずるが息を呑む。
「君の肉を喰らうと、強くなれるってホント? 試してみていい?」
ニヤリと笑った歯が黄色い。牙のようなものが見えた。
繋がった手からゆずるの震えが直久のもとに届き、直久は背中でゆずるを庇うように立った。
直久の太股に激痛が走った。何事かと目線を下ろすと、人形が直久の左足に鉛筆を突き立てていた。
「痛い?」
直久と目が合うと、その人形は無邪気に笑って言った。
「ねえ、痛い?」
振り払おうとして、はっとする。人形は自分の幼い時にそっくりな顔をしていた。
ケラケラ笑って、直久の足から鉛筆を引き抜くと、今度は右足に突き立てようと腕を振り上げた。
だが、いつまでも大人しくやられたままになっている直久ではない。突き立てられる前にその腕を掴んで、人形の体を遠くに放り投げる。
ゴツン。
鈍い音をたてて人形は床に転がった。それを見て、パノンは信じられないと、声を上げる。
「ひどいなぁ〜。僕のおともだちをいじめないでよ。意地悪する子はお仕置きだよ」
そう言って、どこからともなく取り出した物を高々と振り上げた。
斧だった。片手で持てるほどの小さな物だったが、紛れもなく斧だ。
直久はゆずるを胸に抱いて、横に飛んだ。
床に倒れてから、斧の行方を確認すると、一瞬前まで自分たちが立っていた場所の後ろの壁に深々と突き刺さっていた。
壁には大きく亀裂が走り、刃のほとんどが埋まっている。
もしも避けずに当たっていたら、ケガしちゃった、てへ……どころの騒ぎじゃない!
胴が真っ二つになるところだった。
パノンは避けられたことに顔をしかめ、
「どうして避けるの? だめじゃないか」
と、もう一本斧を取り出す。まさか、それも投げるんじゃ……。
直久の嫌な予感は的中し、斧がパノンの手から離れる瞬間、直久は再びゆずるを抱えて、床を転がった。
ドスッ。
堅いタイルの床に斧が突き刺さる。
「次は2本いっぺんだよ」
おもしろがっている声が聞こえて振りかえると、パノンが両手に斧を掲げている。
「ゆずるっ」
なんとかしろっと直久は訴えた。
いくら反射神経と体力に自信があると言っても、百発百中で避けられる自信はないし、無限の体力を持っているわけでもない。
直久の呼びかけにゆずるは頷いて、パノンの方に両手を広げる。
「火刈り、お前の炎を貸してくれ!」
そう、ゆずるが声を張り上げると、その両手から炎が放たれる。
人間3人が向かい合って手を繋ぎ、できる限りの大きな輪を作ったくらいの大きさの青い炎だ。
「直久、今のうちに」
炎がパノンを襲っている間に逃げようと、ゆずるが直久の手を引いた。
言われなくともそうするつもりだと直久は頷いて、教室のドアを開けた。そして、目の前に広がった外の景色に唖然とする。
「なんで?」
そこは幼稚園の運動所などではなかった。もっと記憶に新しい、小学校の校庭だったのだ。
「なんで……」
「言っただろ? 夢なんだから、こういうこともあるんだって」
気にする様子もなく、ゆずるは校庭に降り立った。数百メートル先に校舎が見えた。
二人が6年間通った懐かしさ溢れる小学校の校舎だ。
「一日の大半を過ごす幼稚園と、入学するのを心待ちにしていた小学校。どちらも莉恵ちゃんの夢の舞台になってもおかしくない場所だと思う」
「確かにな」
迷っている暇はなかった。後ろには夢魔がいる。他に道がないのだから、突き進むしかない。
ゆずると直久は小学校の校舎に向かって駆け出した。
▲▽
後ろから何かが追ってくる気配を感じながら、昇降口をくぐる。
幸い鍵が掛かっていず、もしも扉が開かなければ窓ガラスを蹴破る覚悟をしていた直久は、少し拍子抜けして校舎の中に駆け込んだ。
二人は急いで昇降口の扉を閉める。
そこで初めて追いかけてくるモノを振り返った。すると、先程の子どもの人形たちが、ぶっとい釘を持って、のろのろと追いかけてきていた。
直久が蹴り飛ばしたせいなのだろうか。腕のないもの。足が無く、這いずってくるもの。
頭が割れ、目玉が飛び出し、どす黒い液を垂れ流しながらやってくるものもいた。
壊れているからなのか、子どもの足だからなのか、『のろのろ』というのに相応しいほど、動きが鈍い。
あれなら、追いつかれる心配はないだろう。――けど、すっげぇー、ぶ・き・み。
「五寸釘だよな、あれって。丑の刻参りでもする気か?」
「せいぜい髪を取られないようにしろよ」
昇降口の鍵は螺子を回して開け閉めするタイプの鍵だ。ゆずるは人形たちの様子をチラリチラリと見ながら、螺子を回している。
直久も手伝って別の扉の鍵を閉めにかかった。繋いでいた手を離すと、じっとりと汗が噴き出ていた。
「確か、この小学校には昇降口が3つあったよな」
「職員用のやつを含めたら4つだ。南校舎と北校舎に2つずつ」
この小学校は南校舎と北校舎がある。渡り廊下が4カ所にあって、『目』の字を横にした形をしている。
「ここを閉めても他の所から入ってくるだろうな。けど、十分に時間は稼げる」
「んじゃあ、さっさと逃げるか。……って、お前さー」
「あ?」
「その格好、動き辛くねぇ?」
近すぎて見えなかったのか、あまりにもゆずるが自然に振る舞っていたからなのか、今の今まで気が付かなかったが、ゆずるは狩衣姿だった。
「よくそれで走ったな」
運動部の自分と同じスピードで駆けたのだ。毎日バスケ部で鍛えている自分と! 駆ける、跳ぶ、泳ぐとは縁が遠そうなゆずるが!
感心していると、ゆずるは肩をすくめてフッと笑った。
「俺は走っていない。体重を軽くして浮いていた」
「浮いていたぁ?」
「お前は風船を持って走ったみたいな感じがしたはずだ」
「したはずだって……えぇ?」
――に、に、人間じゃねぇ〜。
ゆずる風船がフワフワ浮いている図を想像して直久は一歩後退る。ゆずるは笑った。
「確かに動き辛いかもな。着替えるか」
そう言うと、くるりとその場で回る。
え? 信じられんと直久は目を見張った。一瞬でゆずるの着替えが完了してしまったのだ。
狩衣から自分と同じ制服姿になったゆずるにもう一歩、直久は後退った。
――マジでぇ?
自分たちの中学校は、女子はセーラー服で、男子は学ランと決まっている。
学ランは真っ黒な上着に、金色のボタンが6つ付いているやつだ。ズボンも黒い生地で、靴も黒いローハーを指定される。入学式や卒業式など行事の時にしか用のない帽子もあるが、これもやはり黒い。
「お前、それ、楽でいいよな……」
毎朝の支度が早そうだ。ゆずるは軽く笑うと、直久に手を差し出した。
「行くぞ」
「あ、ああ」
直久はその手を取って、握り締めた。
▲▽
南校舎の昇降口から入って廊下を右に行くと、2年生の教室が3つある。左に行くと階段があり、更に行くと職員室があり、校長室、事務室と続き、職員玄関がある。
二人は階段を駆け上がった。
2階は1年生の教室と図書室、図工室などがあって、その前を通り過ぎ、渡り廊下を走った。
北校舎の2階には、3年生の教室と4年生の教室がある。
ちなみに北校舎の1階は、今は使われていない教室が並んでいる。生徒が多かった時期にはフル活用していただろうそこは、少子化が進んでいる現在では物置と化しているのだ。
「1年の教室に居なかったということは、いったいどこにいると思う?」
「莉恵ちゃん?」
他に誰を捜すんだ?という顔をされたので、直久は、そうだなぁ、と天井を見上げた。
「屋上とか?」
「屋上?」
「ほら、小さい子って高いとこ好きじゃん。高い高いすると喜ぶみたいなカンジでさー」
「莉恵ちゃんをいくつの子どもだと思っているんだ? 優香と同じ年だぞ」
そう言って呆れた顔をしたその顔が、直久の太股を見て眉をひそめた。
「お前、それ」
見ると、右足の太股のところがじっとりと湿っている。黒い制服のため目立たないが、よく見ると、その部分だけより一層濃い黒となっていた。
拭うようにそこに触れ、目の高さまで持ち上げて手の平を開くと、べっとりと赤く血が付いてきた。
「げ」
さっき自分そっくりの人形に鉛筆を突き立てられたところだ。
ケガをしていると気付いたとたん、痛くなるのは何故だろう?
直久は低く唸って、ゆずるの手を離すと、その場に足を投げ出してしゃがみ込んだ。
「いってぇー」
「気を付けろよ。お前がケガをすると、数も同じところにケガを負うんだからな」
ゆずるもしゃがみ込んで、そっと直久の太股に手を乗せた。ゆずるの手が熱い。
少し目を伏せ、じっと自分の太股の傷を見つめてくる。視線が熱い。ゆずるが触れている傷口から熱が広がって、体中が熱くなった。沸騰しそうだ。
息が苦しい。くらくらする。胸が激しく鳴る。痛い。胸が痛い。足の傷よりよほど痛い。
ゆずるの手に上に自分の手を重ねてみたくなって、直久は手を伸ばす。
どこでも良かった。手でなくとも。どこでもいいから、ゆずるに触れてみたくなったのだ。
だが、直久の手が届く前に、ゆずるは手を離した。気が付くと、傷の痛みがひいていた。
「お? 治った?」
「完全には治っていない。痛みは和らいだと思うが」
「おう、ぜーんぜん痛くねぇよ。サンキュー」
感謝を込めて笑顔を送ると、ゆずるは顔を赤らめた。
うわっ。ゆずるが照れてるぅ。な、な、なんか、可愛いかも。もしかして、数並みの可愛さ?
そりゃあ、いとこだし、顔の造りは似ているんだけど、今までゆずるを可愛いだなんて思ったことない。
つーか、ゆずるってば、可愛くないし。
自分勝手で、オレ様な奴で、ひたすらムカツク奴なんだけど、なんか、礼を言っただけで照れちゃってるこいつは、なんか可愛いかも。
再び心臓がドキドキ鳴りだして、直久は胸をきつく押さえた。
やっばぁー、ゆずるなんぞにときめいてしまった。俺には数というダーリンがいるのに……。
数が聞いていたら、
「何バカなこと言ってるの? 直ちゃん、あったま、おかしいんじゃない?」
と、言われただろうことを心の中で喚いて、直久は頭を抑えた。
明らかに様子のおかしい直久に、ゆずるは眉を寄せる。
「どうかしたか?」
覗き込んでくるゆずるの顔が直視できない。
――俺はこいつが嫌いだったはず……。だった、って、なんでもう過去形になっているんだ?
ち・が・う・んだって、嫌いなんだって! 『嫌い』進行形なんだって!
そりゃあ、見直したところとか、こいつもいろいろ大変なんだなぁ〜って発見したところとかあってさ、前ほど嫌いってわけじゃないけど。
でも、やっぱり、傲慢で、我が儘で、人を見下した態度が嫌いだ。そうだ、嫌いなんだ。
はぁ〜い、問題解決! 俺はこいつが嫌い。大好きなのは数オンリー!
よしっと気合を入れてゆずるの顔を見上げた。
「何だよ?」
急に顔を上げた直久に、ゆずるは少し怒ったような顔を返した。そして、手を差し出す。
「ゆっくり寛いでいる暇はない。行くぞ」
「そうだな。早く莉恵ちゃんを見つけてあげないとな」
そう言いながら立ち上がった直久だったが、ゆずるの手を取ろうとしない。
怪訝な顔をしたゆずるに直久は唇を歪ませた。
「動きづらいじゃん。繋いでっとさー」
「……そうだな。」
低く答えたゆずるの声を聞いて、どうしたのだろうか、胸が痛い。
その痛みの原因をゆっくり考えている時間は、この時の直久には無かった。言いようのない不安と視線を感じて振りかえる。
すると、薄暗い廊下の先にピエロの姿が見えたような気がした。
ような……とか、気がした……とか、曖昧に言ったわけは、一瞬見えたピエロの姿は、見定めようと焦点を合わせたとたん消えてしまったからだ。
嫌な予感がして、反対側の廊下に振りかえる。ぼおっと見えたピエロの姿は先程と同じように一瞬見えて、すうっと消えた。
再び気配を感じて、最初に振り向いた廊下の先に目をやると、やはりピエロが一瞬姿を見せて、消えた。
気のせいか、先程より距離が縮まったようだ。
左右交互に振り向くたびにピエロが姿を現し、しだいに二人に近付いてくる。一瞬見えたピエロは両手に斧を持って笑っていた。
「直久」
「ああ?」
「さっき屋上とか言っていたよな?」
「ああ」
「行くぞ」
「へ?」
直久の答えを待たずに、ゆずるは駆け出した。ピエロから逃げるように階段を駆け上る。
直久は慌てて後を追った。
この小学校は3階建てだ。すぐに階段が終わり、屋上に出る扉が二人の前に立ち塞がった。
重たく、大きな扉だ。普段は鍵がかかっていて、生徒が無断に使用できないようになっている。
だが、ここは夢の中だ。きっと開くはず。
開け!と強く思いながら、ゆずるが扉を開けるのを見守った。背後から何か得体の知れない気配が迫っていた。
「ゆずる!」
ピエロが来る。ピエロが!
笑い声が聞こえる気がした。斧を振り回す音が聞こえた気がした。
ゆずるがノブを回す。ガチャリ。鍵はかかっていなかった。ゆっくりと重たく扉が開く。
「なっ」
「どうした?」
扉の外を見て唖然としているゆずるの肩を押しやって、直久も外を見た。すると、そこは屋上などではなかった。何もない空間が広がっていた。
いや、何もないわけではない。星をちらばめた夜空と、数メートル下に待ち構えるプールがあった。
「なんで、この下がプールになっているんだよっ」
「俺が知るかっ」
迷っている暇はなかった。ピエロの気配が近付いてくる。笑い声が大きくなってくる。
「行こう」
「無理だ。こんな高いところから……」
「下はプールだから、へーきだろ?」
「20メートルの高さから落ちた場合、水はコンクリートと同じ硬さになるんだ」
「20メートルもねぇよ。4階くらいの高さだから、10メートルくらいじゃん?」
嫌がるゆずるに直久は、はてと思う。
「もしかして、お前、高所恐怖症?」
「違う!」
「じゃあ、問題ないじゃん。行こうぜ」
ニヤニヤ笑う直久を殴ってやりたいと思うゆずるだったが、迫ってくるピエロのことを思うと、そんなことに時間を使っている余裕はなかった。
ゆずるは意を決して床を蹴った。身体が空に放り投げられる。それを確認して、直久も急いで後を追った。