3.夢の中に入る?
結論。『まあ、なんとかなるだろう』 ……というわけで、優香の友達の家に向かうことになったのだが、その玄関まで来て、ゆずるも数久も優香も、そろってその歩みを止めてしまった。
一人平然とした顔でインターフォンを押した直久は、不思議に思って振り返る。すると、真っ青な3つの顔がそこにあった。
優香は地べたにしゃがみ込み、俯いて胸を押さえている。その横を見ると、数久も膝を着き、苦しそう息を荒くしているし、かろうじて膝を折っていないゆずるも気分が悪そうに、壁に背中を預けている。
「何なんだ? お前ら、どうかした?」
「お前こそ。何なんだよ?」
驚いて尋ねると、逆に驚かれ、聞き返されてしまった。
「直ちゃん、あのね」
側に来るようにと手招きされ、直久は数久の脇に跪いた。
「今、この家を中心に、ものすごい妖気が漂っている…んだけど……?」
切れ切れに言われた言葉に、直久は首を傾げる。
「へー」
「何も感じない?」
「全然」
さすが直ちゃんだ、と言って、数久はバッタリと直久の腕の中に倒れた。
本気で気絶したわけではない。双子の兄が、あんまり鈍感なので気が抜けてしまったらしい。
「数ぅ、おーい、しっかり!」
ペシペシと軽く数久の頬を打つと、直久はゆずるの方に目を向けた。 ゆずるの額にじっとりと汗が噴き出ている。
「おそらく、一つの場所に魔物が長く居続けていた為に、この場所の気が汚れ、他の魔物まで集まってきてしまったんだろう。俺たちにとって、この場所は危険だ。家の中は、もっと魔物で溢れているだろうし」
「じゃあ、どうすんだよ!」
家の中に入ることができないと言われて、直久は狼狽える。
そんなに強い妖気がここに漂っているのだろうか。自分には全く感じられないだけに、ぞっとする。
だが、家に入らねば、莉恵に会うことができないし、夢魔を祓うこともできない。
どうするんだ?と、今度は答えを求めるように訊くと、ゆずるはゆっくりと口を開いた。
「夢魔が取り憑いていると思われる優香の友達を、本家に移動させて、そこで夢魔を退治する」
「本家に?」
「あの家の周辺には魔を近寄らせない結界が張り巡らされている。その昔、小夜が張った結界だと言われているものだ。それが確かかどうかなんて俺は知らないが、他の場所よりも俺たちにとって有利な場所だってことは間違いない」
ゆずるは空に目を泳がせた。何かを見ているようだったが、それが何であるかは、何も見えていない直久には分からない。
「ここに集まってきている魔物は、一匹一匹が浮遊霊なんかとは比べものにならないほど扱いづらいヤツらだ。それをこんな数だけ集められる悪魔なら、相当の力を持ったヤツなんだろう」
ゆずるに不安の色が浮かぶ。
普段あんだけ勝ち気で、傲慢な奴にそんな顔されると、そこから目を逸らしたくなる。
直久は、分かったと短く答えると、玄関の向こう側から近寄ってくる人の気配に応える心の準備をした。
▲▽
大伴泰成が妖狼に生ませたという娘――小夜は、九匹の妖狼を式神として従えていた。そのため、九狼の巫女と呼ばれていたらしい。 その『くろう』という音が『くどう』と変わり、『九堂』となり、それが小夜の直系の子孫の名字となったと言われている。
また、代々の九堂家の当主は九狼様と呼ばれ、小夜が使役していた妖狼を式神に持つ。
九匹の妖狼たちは、それぞれに一つずつ社を持ち、その内の一つを本家が、他の八つを九堂家の分家である大伴家が所有していた。
直久の家も妖狼の社を敷地内に持っていて、先見神社と呼ばれている。父親は一応、神主みたいなことをやっていて、直久自身は近所のおばさんたちに『先見神社の子』などと呼ばれていた。
石階段を上がると、やはり石で造られた鳥居が見えてくる。
登ってくる者をさらに高い位置から見下ろすそれの足下には、『朝霧神社』と彫られていた。その下をくぐると、やたら立派な社が姿を現してくる。
この神社は、一見、ごく普通の神社のように見えた。だが、社を守る狛犬の姿はなく、賽銭箱のような物も置いていない。社の中にも鏡などの祭具はいっさい無く、畳を敷かれた八畳ほどの部屋と、その両脇に板張りのだだ広い部屋があるのみだ。
神社の後ろに古い造りの家があって、社の両脇の部屋とは長い廊下で繋がっている。
この古い日本邸こそがゆずるの暮らす家で、歴代の九堂家当主が生まれ育ち、受け継いできた家なのだ。
一足先に本家に行ったゆずるたちを追って、直久は莉恵とその両親を連れて本家に向かった。
本家に近付けば、近付くほど、直久の気が滅入り、頭が痛くなっていった。
たぶん、精神的なものなのだろうと思う。
親族たちの嫌な目つき。自分だけが力を持たずに生まれてしまったことへの劣等感。
それらが、直久の知らないところで苦しみとなっているのだろう。
頭を抱えながら、門をくぐり、玄関に手を伸ばした。その時。
「痛っ」
伸ばした指先に、針を突き付けられたような痛みを感じて、思わずその手を引っ込めた。
どうしたのだろう、という不思議そうな眼差しを背中に感じながら、直久はもう一度、手を伸ばした。
バチンッ。
今度は小さな爆発音が直久を拒んだ。
「あのう」
申し訳なさそうな声をかけられて振りかえると、莉恵の母親と目があった。その後ろには莉恵を抱く父親の姿がある。
「どうかなさいました?」
なかなかドアを開けようとしない直久を不審がって、そう尋ねてきた彼女に直久は苦笑した。
「いえ」
次こそはどんなに拒まれようと構わない気持ちで、ドアノブに手を伸ばした。だが、直久の手が届く前に、それは自らガチャリと音を立てて回った。
「何してんだよ?」
玄関の内側から顔を見せたのは狩衣姿のゆずるだった。直久に冷ややかな瞳を向けると、その後ろの親子には軽く微笑んで、
「どうぞ上がってください」
と、玄関を広く開いた。
ゆずるが案内した部屋は、畳64枚分の広さを持つ和室で、狩衣姿の数久と優香が着々と準備を整えていた。部屋の中心には布団が敷いてあり、その枕元にはコップ一杯の水がある。
布団を囲むようにビー玉より少し小さい半透明の玉がいくつも並べられてあり、部屋の四方の壁にはお札が貼ってあった。
布団に莉恵を寝かせるように指示を出すと、両親には別室で待つように言う。
優香さえ部屋から追い出してしまうと、ゆずると数久は静に眠っている少女の顔をじっと覗き込んだ。
黙って見つめること数分。 ようやく口を開いたのは数久の方だった。
「思った通りだったね」
「ああ」
「思った通りって?」
二人だけで納得して終わりにされて堪るかと、つかさず直久は聞き返した。
「霊が取り憑いて昏睡状態になる場合もあるけれど、この子の場合は霊じゃない。本当に眠っている、ぐっすりと。夢魔に憑かれているんだ」
「ああ、夢魔ね」
先程聞かされた話を思い出して直久は頷いた。
霊に取り憑かれた場合のパターンは数多くあるらしいけど、大抵は身体を乗っ取られて、本人の意思に反して行動してしまったり、言葉を話してしまったりするらしい。
直久が出会った霊に憑かれた人と言えば、つい数ヶ月前に会った少女、紫緒さんがいるけれど、彼女の場合もボーっとしてはいたが、目を開けて動いていた。
要するに、霊に憑かれた場合、ずっとじっとしていられないで、フラフラ動くというわけだ。
「夢魔っていうのは、思った通りだったけど、その力の強さについては予想外だったね」
「そんなにヤバイ相手なのか?」
「ん〜〜〜」
眉をひそめて低く唸る数久に、直久の咽がゴクリと鳴った。
「ねえ、ゆずるは夢魔を退治したことある? 僕は初めてなんだけど」
「俺も初めてだ」
「げっ。マジでぇ?」
「すごく弱い悪魔なら退治したことがある。そん時は聖水ぶっかけたら、あっさり消えてくれたけど、今回のは、そうもうまくはいかないだろうな」
「そうだよね……」
――うわっ。なんか、めっちゃ不安なんですけどっ。
直久はゆずると数久の顔を交互に見つめると、そう言えばと手を叩いた。
「じじいは? じじいに手伝って貰えばいいじゃんか」
「お祖父様に?」
お祖父様と偉そうに言われる人物は、ゆずると双子たちの共通の祖父である九堂家の当主だ。彼以上の強い力を持った者は、おそらく存在しないだろう。
名案だと思ったそれに首を振ったのは、ゆずるだった。
「お祖父様はいない。今は京都の方へお出かけになられている」
「京都? なんでまた?」
「毎年この時期になるとお出かけになるんだよ。ほら、春だから」
「春だから?」
「魔物がうじゃうじゃ出てくるから、仕事時なんだよ」
「なんだよ、そりゃー。魔物っていうのは、蛇か蛙の一種か何かなのかよ?」
「別に魔物は冬眠しないよ。単に、春は人間の方が浮かれているから、付け込みやすいんだよ」
「そういうわけで、お祖父様はいらっしゃらない。お祖母様もお前が来ると言ったら自室に籠もってしまわれた」
「ばばあは、初めから当てにしてねぇよ」
嘘か本当か、イタチの妖怪を父親に持つと言われる祖母は、直久のことをひどく嫌っていた。
それは、単純に相性が合わないからという理由ではないようだが、その本当の理由を直久が知るわけがなかった。
嫌っていると言うよりも、脅えているような目を会う度に向けられては、直久もいい気はしない。
いつからか、直久も祖母を嫌うようになり、お互いになるべく避けるようにしていた。が、直久よりも祖母の避け様の方が極端で、誰の目から見ても明らかだ。 これも直久を本家から遠ざけた理由の一つだった。
兄の祖父母に対する口の悪さに苦笑しながら、数久は言い放った。
「じゃあ、僕たちでやるしかないね」
二人が頷くのを確認して話を進める。
「夢魔は、憑かれている人から引き離し、退治するのがベストなんだけど。今回の場合、夢魔の力が僕たちの手に負えないくらい強すぎるから、追い払うのがせいぜいだと思う。――追い払う、つまり、この子から引き離す方法は読経っていうのもあるけど、たぶんそれは効果がないと思うんだ」
「やっぱり、カタガナ名だからか?」
「そうじゃなくって。基本的に東洋の妖怪も、西洋の悪魔も、人間が作り出した負の感情だという点で同じものなんだよ。だから、御経でも、聖書の言葉でもどちらでも効果があるんだ」
「でも、言葉が通じないだろ? 日本人の幽霊には日本語で、アメリカ人の幽霊には英語で説得しないと成仏してくれないって聞いたぜ」
「どこで?」
「テレビで」
「……」
「……」
「ねえ、ちょっと疑問。アメリカ人の幽霊は成仏するものなの?」
「成仏っていうのは、死んで仏になることだぞ」
「……」
「……」
「……」
しばらくの沈黙後、直久のマヌケな声が、
「あー、じゃあ、アメリカ人は死んだら何になるんだ?」
と響いたが、誰一人としてそれに答える者はなかった。
「――で、話を戻すけど。今回の夢魔に御経の効果が望めないと言ったのは、そのくらいで追い払えるような弱い相手じゃないからだよ。だから、今回、僕たちが取る方法は莉恵ちゃんの夢の中に入って、莉恵ちゃんを叩き起こすっていう方法がいいと思う」
「夢の中に入る?」
「外からどんなにやってもダメなら、内からやらなきゃってこと。夢の中にいる莉恵ちゃんに会って、夢から叩き出すんだよ。夢から覚めちゃえば、夢魔は莉恵ちゃんから出て行くしかないもんね」
これで万事解決、と言い切った数久に対して、ゆずるは形の良い眉を歪ませた。
「夢の中で夢魔と鉢合わせしたら、簡単にやられてしまうな。夢はヤツらのテリトリーだから。危険極まりない方法だが、それしかないと言うのなら仕方がない」
「それで、どっちが夢の中に入る? それとも二人で?」
ゆずるは、上目遣いで見てくる数久にゆっくりと首を横に振った。
「夢の中に他人が入ることで、この子に影響を及ぼすかも知れない。その対処にどちらかがここに残る必要がある。それに、万が一、夢の中で夢魔と遭遇してやられそうになった時、残った方が起こしてくれれば逃れることができるかもしれない」
「それじゃあ、僕が夢の中に入るから――」
「駄目だ」
ゆずるは数久の言葉を途中で遮った。
「俺が入る」
「えっ、ダメだよ。危険だよ。そんな危ないこと、ゆずるにはさせられないよ」
そこまで言って、数久は、しまった、という顔になって慌てて口を閉ざした。
「どういう意味だ? それは」
「どういうって?」
「俺が……だからか?」
「違うよ、ゆずるが次代だからじゃないか。次代に何か遭ったら、大変だからだよ」
怒鳴るゆずるを宥める数久。直久はその二人の間に口を挟めずに黙って様子を見守っていた。
「お前が夢の中で夢魔と遭遇するより、俺が遭遇した方が助かる確率が高い!お前なんか、一瞬で殺されるぞ。逃げる暇なんかない!」
「そうかもしれないけど、でも、だけど、ゆずるにそんな危険なことをさせたなんて知れたら、僕、お父さんやお母さん、親戚中に怒られちゃうよ。だからさ、今回は大人しく――」
「じっと数の帰りを待っていろってか? ふざけんな!安全なところで、のらりくらりとしていて、九堂家の当主になれるかぁっ!九堂家の当主ってもんは、血族の中でもっとも強くて、頼られるもんだろ? 俺はもっと強くなりたいんだ。当主に相応しくなりたいんだ。それなのに、安全な場所で腐ってられるか!」
ついに数久が折れたのか、長いため息を一つ付くと、両手を顔の前に広げた。降参のポーズだ。
「でも、一人では行かないで」
「あ?」
まだ苛ついているのか、低い声で聞き返したゆずるに、もう一つため息を付いた。
「直ちゃんを連れて行ってね」
「へ? 俺?」
「いらない」
唐突に話を振られて慌てる直久だったが、気が付いた時にはすでに、ゆずるに拒絶された後だった。
話の流れの速さに付いていけない直久は、数久に救いを求める目を向けたが、説明の言葉を得ることはできなかった。 数久はただニッコリとして、
「だーめ。直ちゃんを連れて行ってくれなきゃ行かせない」
と、ゆずるに言い放った。
「直が、何の役に立つんだよ」
「いざって時に、盾になると思う」
「盾にぃ?」
疑わしそうなゆずるの目を受けて直久は大声を上げる。
「俺は、人間盾にさえならないんかい!つーか、っんなもんになりたくないし」
しかし、そんな直久の叫びをちゃんと聞いてくれる者は、一人としていなかった。
「ああ、あと、盾だけじゃなくて、他にも利用価値があると思うよ。例えば、直ちゃんがケガをすれば僕も同じとこに傷を負うみたいになれば、どんな危険な目にあっているのか、すぐに分かるし。万が一の時の目を覚まして欲しいって合図に、直ちゃんを殴ってくれればいいわけだから」
「なんじゃそりゃぁ〜っ」
「なるほど……」
ポンっと手を打つゆずるの脇で、直久は畳の上にぶっ倒れた。その隙に、数久は直久の額に何やら文字を描いてしまう。
「はい、できた」
まるで頭に花一輪咲いているような笑顔で言ってくれる。
「直ちゃん、気を付けてね。直ちゃんがケガすると、僕も痛いんだからね」
どうやら、何か術をかけられてしまったらしい。
――もういいや、好きにしてくれ。
そんな気分でのっそりと顔を上げると、目の前に手の平を突き出される。
「ん?」
見上げると、ゆずるの手だと分かった。おずおずと手を差し出すと、ゆずるの方から手を握ってきた。
「行くぞ」
短くそう言うと、ゆずるは莉恵の額にもう一方の手を置き、ゆっくりと瞼を閉じた。
ゆずるの澄んだ声が流れるように聞こえてきて、徐々にそれは小さく、小さくなって、やがて溶けるように聞こえなくなっていった。