2.ちゃんと説明をプリーズ!
二人の数歩前を、黙って歩いていたゆずるの足が止まったのは、昇降口を出てすぐだった。
同じクラスのくせに、どうしてゆずるより遅いのだと、数久に問い詰めていた直久は、危うくその背中にぶつかりそうになる。
「なんだよっ。急に立ち止まるなよ」
ギロリと睨んでやるが、当のゆずるは直久の方をちっとも見てくれない。
――に、に、睨み損?
嫌味も相手に通じなければ意味がないように、睨んでも相手が見てくれなければ、なんの効果もない。
諦めて、ゆずるが見つめている先に目を向ける。すると、校門の所に、ちんまりと座り込む女の子の姿が見て取れた。ふわふわっとした感じの可愛い子で、どこぞの危ないオヤジに見つかったら、そのまま横抱きにされて、かっ攫われそうなカンジである。
どこかで見た覚えがあるぞ、と小首を傾げた時、隣から小さい声が聞こえてきた。
「優香ちゃんだ」
「ゆうかちゃん?」
顔を横に向けると、数久が頷いた。
「ほら、ゆずるの妹だよ。会ったことあるでしょ?」
「あったっけ?」
めったに本家に行かない直久は親戚関係に疎い。おじおばレベルでさえ、あやふやなのである。
そんな直久を情けないと思うだろうか?
だが、それも本家九堂家と、その分家である大伴家の家系図を見れば仕方がないことだと分かってくれると思う。ハッキリ言って、網目なのである。
いとこ同士の結婚が非常に多い為、あらゆるところで横に二重線が走り、縦線を見難くしているのである。
誰が誰の親だって? 誰と誰が兄姉弟妹で、誰と誰が夫婦なんだ? あぁ? ……と、まあ、ややこしいこと、この上ないのだ。
おそらく、例の妙な力をより強く保とうとしているせいなのだろう。特に本家は、いとこ同士でしか結婚しないことになっているらしい。
実際、ゆずるの祖父母も両親もいとこ同士だし、過去にいとこを妻にしていない当主は存在しない。
ゆずる自身もそのうち、いとこの中から妻を選ぶことになるんだろうな。
直久は、ぼんやりとそんなことを考えた。
ゆずるにとって、いとこと言えば、父親の妹の娘である鈴加と、母親の妹の娘が2人と、同じく母親の弟の娘が1人いる。その4人の中から選ぶのだろう。
直久の脳裏に一人の少女の顔が浮かぶ。
愛羅というその少女は、直久たちより一学年下だが、同じ学校に通うゆずるの従妹だ。確か、ゆずるの母親の弟の娘だ。年も一番近いし、何より愛羅自身が乗り気なのである。
会う度にゆずるに対してラブ光線を放出している様子は、端から見て痛いほどであった。
ちなみに、愛羅の母親は、俺たちの父親の妹でもあるから、俺にとっても従妹だったりする。
――ほらほら、ややこしくなってきただろ?
さてさて、話は戻って……。
直久は優香のことを思いだそうと、ゆずるの後に付いてゆっくりと優香に歩み寄った。
優香の名前をゆずるが呼ぶと、俯いていた顔が跳ねるように前を見た。そして、ゆずるの姿を認め、ぱぁっ、とその顔を輝かせた。
「ゆずる兄さま!」
ゆずるの腰までもない背丈の幼い少女が、両手を広げて駆け寄ってきた。
その身体を受け止めると、しばらく、ぎゅうっと抱き締めてから引き離し、片膝を付いて、ゆずるは妹と目線の高さを同じにする。
「いったい、どうして、こんな所に?」
「どうしても、ゆずる兄さまにご相談したいことがあったの」
そう言った優香のうるうるした瞳が、ゆずるの背後にいる双子たちをようやく映した。
あっ、と小さく声を漏らすと、深々とお辞儀をする。
「こんにちは、直兄さま、数兄さま」
この、やたら礼儀正しい挨拶に、直久は額を抑えた。
思い出した!思い出したぁ!
6歳のガキとは思えない礼儀作法。丁寧な口調。いかにもお嬢様っぽい雰囲気。
正月、本家でよく目にする子どもだと、直久は認識した。
これで優香もめでたく、直久の、顔と名前一致する親類リストに仲間入りしたわけだ。
「こんにちは、優香ちゃん。ゆずるへの相談は、僕たちがいたら邪魔になる?」
「うんん。直兄さまも数兄さまも、ぜひ聞いてほしいの」
優香の必死の様子に、ゆずるは首を傾げる。
「大切なことなら、ここじゃなくて本家に来てくれれば良かったのに。その方がゆっくり聞けるよ」
「急ぐ話なの。だから、少しでも早くゆずる兄さまに会いたくて。――ごめんなさい、学校まで押し掛けちゃって」
自分が学校まで来てしまったことが、ゆずるにとって迷惑だったのだと思ったらしく、優香はしょんぼりとする。だが、すぐに、そうじゃないと首を振られて、笑顔を取り戻した。
優香は自分の兄のことを両親よりも、誰よりも慕っていた。
きれいな容姿も自慢のタネだったが、九堂家の次期当主として九堂家が所有する神社の祭儀を取り仕切る姿は、『かっこいい』以外の言葉では言い表せなかった。
それは普通の兄妹ではないからこそ、よりいっそう強まる想いだった。
ゆずると優香は兄妹と言うが、異父兄妹だ。
ゆずるの父親は九堂家の長男で、ゆずるの以前に次代様と呼ばれていた人物だ。
だが、彼は、ゆずるの母親との婚約が決められていた時からすでに、別に想う女性がいて、妻が子を身籠もったと知るや否や、その女と家を出て行ってしまったのだ。
身重の妻に離婚届だけを残して、九堂家を出て行ってしまった彼は、当然、次代としての資格を失い、二度と九堂家並びにその分家の敷居を跨ぐことを禁じられた。
直久はこの話をつい最近、数久の口から聞いた。
「浩一伯父さんにとって、自分に代わる跡取りがいれば、自分が家を出ていっても文句ないだろ……みたいな感じだったんだと思うよ」
数久は淡々と語ってみせたが、その中に隠しきれない怒りの感情が直久にまで届いてきたのを覚えている。
ゆずるの父親――浩一伯父さんは、結婚後、わずか4ヶ月で離婚届を妻に突き付けた。これほどまでの仕打ちを受けても、ゆずるの母親は何も言わない人だった。
彼女は、言われるままに結婚し、ゆずるを身籠もり、離婚に応じたのである。
離婚後、それでも彼女は、ゆずるの母親であり続けようとしていた。そのため、離婚当時20歳だった彼女は、両親や、ゆずるの祖父母が勧める再婚の話に頑として首を縦に振ろうとしなかったのである。
この先の生涯を一人で生きていくと固く決めていた彼女を説得し、再婚させたのは、8歳のゆずるだった。
相手は、九堂家当主が選んだ人で、直久たちの父親の弟にあたる人物だった。またもや言いなりの結婚だったが、今度のものは彼女を幸せにしてくれたらしく、まもなく両親共に望まれた子どもが生まれた。
それが優香だ。
ゆずるの妹と言え、優香は本家の子どもではないので、本家で暮らすゆずるとは別の家で暮らしている。
二人が会うのは、どちらかがどちらかに会いに行った時か、もしくは祭儀の時など特別な時のみだ。
わざわざ会いに行った時はともかく、祭儀の時の二人の距離は家と家の距離よりも遠く感じ、優香はゆずるのしゃんと伸びた背中しか見ることが叶わなかった。
兄は次代様、自分は単なる分家の子ども。
家と家の距離よりも、年の差よりも、その違いは果てしなく大きいのだ。そんな遠い兄を優香がどんなに憧れに想っているか、その瞳を見れば瞬時に分かることだろう。
対して、ゆずるは、自分の動作一つで一喜一憂してしまう妹を可愛がってはいるが、どこか苦手に思っているようだった。
彼女が無邪気に笑えば、つられて笑顔を見せるが、それも次第に引き攣ったものになってしまうのだ。
優香が無条件で慕ってくれればくれるだけ、ゆずるは苦しそうな顔をする。
それが何故なのか、この時の直久には分からなかった。 ただ、この時も、ゆずるが苦笑を漏らしながら優香の頭をゆっくりと撫でているのを、じっと黙って見つめていた。
「それで、急ぐ話って?」
優香の気持ちが落ち着くまでの時間を十分にとってから、ゆずるは訊いた。
「実は、ゆうかのお友達がずっと眠ったままなの」
「眠ったまま?」
「うん。りえちゃんっていうんだけど、ゆうかの幼稚園からのお友達なの」
「ああ、莉恵ちゃんね。俺も何度か会ったことある子だよね?」
「うん、そう。それでね。明日、ゆうか、小学校に入学するでしょ? りえちゃんも一緒に入学するの。でも、りえちゃん、眠ったままで起きてくれないの」
「起きてくれない?」
ゆずるは話が見えないと、眉を寄せた。
優香は明日、小学校に入学することになっている。直久やゆずるたちも6年間通った小学校だ。
大好きな兄が通っていた学校に通うのは、優香にとって、とても楽しみなことで、2ヶ月も前から、入学式の日時を何度も聞かされていたゆずるは、そのことをよく知っている。
一緒に入学するのだという友達のことも数人聞かされていて、莉恵という子もそのうちの一人だ。
だが、その子が眠ったまま目覚めないとは、いったいどういうことなのだろう?
「優香、もう少し詳しく話してくれ」
真剣な顔を見せた兄に、優香はコクンと頷いた。
「あのね、ゆうかも今日知ったことなの。明日、一緒に小学校に行こうって、お電話したの。そしたら、りえちゃんのママが、りえちゃんは病気だから行けないって言ったの。風邪?って聞いたら、違うって……。どうしたの?って聞いたら、分からないって。おっきい病院に行っても、お医者さんはどこも悪くないって言って、帰されちゃったんだって。――けどね、りえちゃん、一週間も眠ったままなの」
「一週間も?」
驚いた顔で、ゆずるは数久を振り返った。その目を受け止めて数久は頷く。
数久も優香の前で膝を折ると、彼女の肩に手をそっと置いた。
「りえちゃんは一週間も眠ったままなの?」
数久の優しい問いに、優香は首を縦に振る。
「優香ちゃんは、りえちゃんに会った?」
「うんん。お見舞いに行ったんだけど、どうしても、りえちゃんの家に入れなかったの」
「どうして?」
「なんだか、とっても怖くて……」
うるうるした瞳から、今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうになる。数久は優香の肩を2度ほど優しく叩くと、大丈夫だよと繰り返した。
「ゆずる」
「ああ」
ゆずると数久は頷き合う。その、二人だけが通じ合っちゃってます……という雰囲気に直久は憤慨する。
「ど〜ういうことだよっ!ちゃんと説明を、プリーズ!」
ぎゃあ、ぎゃあ、と騒ぎまくる直久に、ゆずるは眉をひそめた。
「うるさいな、お前は!」
「だってさ、俺だけ蚊帳の外でさー、二人だけで分かっちゃってますってぇーの、なんか、すっごい悔しいじゃんか。俺だって、仲間に入れて欲しいじゃんか。そりゃあ、俺は0能力者だけどさー。一応、俺も優香ちゃんにとって従兄なわけだし……」
そうなのだ。
都市の一つや二つぶっ壊せるほどの力を持っているゆずるの従弟である俺は、なぜか、全くそういう力を持たずに生まれてきてしまったらしい。
ゆずるの父親である浩一さんにとって、直久たちの母親である彰子が唯一の妹であり、その息子たちは、分家の中でも本家筋により近い者ということになる。
例の妙な力は本家が一番で、そこに近い血筋ほど強いとされているから、当然、直久は強い力を持って生まれてくるはずだったのだ。
ところが、全くの0! 霊一つ見えない眼を持って生まれてきてしまった。
これが、直久が本家に近寄らない理由の一つでもあった。
親類の者たちは、きっと双子の弟に全ての力を取られて生まれてきてしまったのね、と哀れみの目を向けてくるだろうし。その、まるで欠陥品を見るような目が、嫌で、嫌で、堪らなかった。
今だから認めることだが、自分が今まで九堂家の力や歴史について興味ないように振る舞っていたのは、そんな目から逃れるためだった。
どんなに哀れみの目を向けられようと、自分はそんなこと、ちっとも気にしていないんだという態度を取りたかったのだ。
だけど、その力の為にゆずるが悪霊たちに狙われたり、苦しんでいる姿を見てしまったあの時から、九堂家のこと、ゆずるのことをもっと知りたいと思うようになっていた。
今まで、興味ない、そんなこと知りたくもないと思っていたことだが、今はすごく知りたい。
少しでも多くを知りたいから、自分だけがのけ者にされるのは、絶対に嫌だ。
そんな直久の気持ちが通じたのか、ゆずるは少し微笑んで、
「魔物が取り憑いた可能性があるんだ」
と、答えてくれた。
「魔物?」
「さっきも言っただろ? 春にはそういうのが多いんだって。その子に会って、実際目にしてみないと分からないけれど、夢魔かもしれないな」
「むま?」
適切な漢字さえも思いつかない直久が首を傾げると、数久が空に指を滑らせて『夢魔』と描いてくれた。
「文字通り、夢に関わる悪魔のことだよ。夢魔はおおざっぱに2種類に分けられる。夢魔自身と、その夢魔が見せる夢のことを『ナイトメア』と言って、この悪魔が見せる夢は悪夢なんだ。つまり、恐怖を与える悪魔」
「ナイトメアか。それなら知ってるぜ。ゲームとかによく出てくるからさ。馬面な奴だろ?」
「そう。けどね、分かると思うけど、ナイトは夜。メアは古い英語で霊を意味していたから、ナイトメアは元々『夜の霊』という意味だったんだ。それが、後世ではメアが牝馬を指す言葉とされるようになって、絵画とかで、炎に包まれた馬で表現されることが多くなったんだ。だから、ゲームとかで出てくるナイトメアは馬の姿をしているんだよ。――だけど、実際のナイトメアが馬の姿をしているかどうかっていうのは……ちょっとね。僕もまだ会ったことがないから、分からないや。……そして、もう一方はインキュバスまたは、サッキュバスと言って、この悪魔は淫魔なんだ」
「いんま?」
再び直久が首を傾げたので、数久は空に漢字を書かなければならなかった。
「淫乱の『淫』で、悪魔の『魔』。分かる?」
「オーケー」
「インキュバスは男性の夢魔で人間の女性を襲い、子どもを生ませる。サッキュバスは女性の夢魔で人間の男性と交わって精子を集めると言われている」
うわっ。なんか、数の口から、襲うとか、交わるとか、精子とか言われると、聞いているこっちが照れてしまうじゃんか。
ぎゃぁ〜、いやぁ〜ん。数ぅったら!
「サッキュバスが集めた精子をインキュバスが人間の女性の腹に受精させるらしいんだけど、インキュバスとサッキュバスは同じもので、時として変身して使い分けているのだとも言われているんだ。ともかく、この二つの悪魔はナイトメアと異なって快楽を与える夢魔なんだ」
きゃあ〜、快楽だってぇ〜っ。恥ずかしぃ〜。
「……って、ちゃんと聞いてるの!直ちゃん!」
「も、もちろんだよ、数」
「だったら、そこで、どもるのやめてくれる?」
数久の怒気溢れる声に、直久はピシッと顔を引き締めて答えた。
だが、なんと言っても、わずかなエロっちい単語にも反応してしまうお年頃。次第に口元が緩んできてしまう。
数久は大きく首を横に振ると、ゆずるに向き返った。
「6歳の子どもをインキュバスが狙うとは思えないから、たぶんナイトメアだと思うけど。ちゃんとこの目で見てみないとね」
「そうだな。急いだ方がいいのも確かだ」
悪夢から一刻も早く救ってやりたいと言って、二人は立ち上がった。だが、そんな二人の顔を交互に見つめながら直久は、はて、と思う。
「なあ、聞いていい?」
「何?」
答えたのは数久で、ゆずるは無言で振り返った。
「さっきからカタガナを連発しているけどさ。カタガナ名の相手に、お前らの御経もどきって通用するの?」
「……」
「……」
狩衣姿で印を結んだり、お札を貼ったりしていた数久の姿を思い出して言い放った素朴な疑問だったが、思いがけず、直久は二人に大打撃を与えてしまったようだった。