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ドラゴンの約束

作者: 雑木

 最も古い記憶は、ただの約束だった。

 ただ、思いつきで言われた言葉を、考えなしに受け入れた。

 それを忘れなかった。

 誰が知らずとも、たとえ彼が忘れてしまっても、心の奥底にずっと秘め続けていた。

 幼く、なんの強制もない、けれど大切なひととの約束を――


      ◇


 重い手応え。

 命を奪うに足る――そう確信できるほどの。

 逆手で握り、敵の首に抱きつくような態勢で喉を突いた剣を、噴き出す血が赤く濡らしていく。

 つい数秒前まで空恐ろしいまでの生命力を感じさせた身体から、徐々に精気が失われていくのがふれた肌を通じて伝わってくる。

「…………終わった……の……?」

 彼女はぽつんと呟く。ここ数年使ったことのない、まだ幼かった頃のような口調だった。

 声が出たことで自分も気が抜けたのか、手袋の上からでも痕が残るだろうほどに強く柄を握りしめていた手が離れる。

 すると、ぐら、と敵の身体が傾いだ。

「あ……」

 遅れて、彼女の身体も揺れ――力を失った身体は、下へ下へと血に濡れた鱗を滑り落ちていく。

 それは彼女の血なのか、それとも敵のものなのか、それすらも定かではない。

 ただ必死に、無我夢中で、がむしゃらに戦いぬけた結果、こうなった――そんな当たり前のことしか今の彼女には思い浮かべることができない。

「あイタっ……」

 地面に落ちた。

 ほとんど敵の背を滑ったために、そう高いところから落ちたわけではなかったが、満身創痍で受け身も取れず、彼女はうめいた。

 立ち上がる力も湧かない。なんとか半端な態勢を直そうと身体を動かして、結果ごろんと手足を投げ出し、あお向けで見上げることになった。

 満天の星空と――敵を。

 それは黒き鋼の鱗を持ち、

 城壁を砕く爪牙を振るい、

 巨大な翼は風を裂き、

 突き出た角は槍のよう。

 一度火を噴いたなら、燃やせぬもの熔かせぬものこの世に無しと称せられる、


 ドラゴン――


 魔物の頂点に君臨する、破壊の暴君。

 それは、全身にまじないを浴び、喉を竜殺しの刃で突かれ、最早己の意思では尾を一振りすることすらままならない身でありながらなお、眼光から意志の光は失せていない。

 ひたすらに巨大な、強烈な、魔物の姿。

「……本当に、やれた……」

 目にし、呟いても信憑性がない。

 ある荒野の丘にドラゴンの巣があると聞いた。様々な情報を照合した結果、それはどうやら彼女の目当てである可能性が高い。ありったけの準備をして赴いた。ドラゴンと遭遇した。まさに追い求めたそれだった。戦った。何度か死を覚悟しながらも、ドラゴンの喉に剣を刺した。

 全て自らが為したことだという自覚はあっても、それと目の前の光景が結びつかない。

 おかしなこと、と失笑が漏れる。準備していた頃はあれほどまでに憎らしく、ただ一念を持ってこの結果を導き出すことに執心していたというのに。

 終わってみれば――湧き上がってくるものなど何も無く。

 ちょうど、敵の――ドラゴンの喉に突き刺さった剣を手離してしまったときに、想いもすべて置いていってしまったよう。

「……終わっ、た……」

 そう、これで終わり。

 壊す一歩手前まで自身を鍛えることも、眠れぬ夜を黒い想いで身を焦がしながら明かすことも、足の感覚が無くなるまでドラゴンの情報を求めて彷徨うことも。

 すべて、すべてお終い。

 ――復讐は、成った。

 仇にはこの手で致死の刃を潜り込ませた。

 もう――たった一つを思い定めて生きることもない。

 だから、

「……終わっちゃったんだぁ……終わったんだよ…………お兄ちゃん……」

 彼女は泣くように顔を歪めて言葉を吐き出した。

 ドラゴンの瞳から徐々に光が失せていくのがわかる。

 この期に及んでも倒れず、ただ喉から血が噴き出ていくばかりのその姿が、果たして相応しいものであるかどうかは彼女にはわからない。

 一つだけわかるとすれば、あれほど望み、求め、焦がれたその姿を見ても、彼女はまったく心揺さぶられないということだった。

 揺さぶられるだけの心が、もう無いのかもしれなかった。

 そう思い至ると、少しだけ自分を哀れに思えた。

 そのときだ。

 ごとり、とドラゴンの背後で何かが落ちる音がした。

 彼女はゆっくりと音のした方へ顔を傾ける。それすらもどこか億劫になっていた。

 そこに、真白な体表の、幼いドラゴンがいた。

 彼女ほどの大きさもなく、牙や角も発達していない幼竜は、甘えるようなもの悲しげな鳴き声を上げてドラゴンの足元にすがりついている。

(あれは――)

 考えるまでもない。ドラゴンの子だろう。

 幼竜は親の状態がわかっていないのか、地面にこぼれ、飛び散る血を見て、未知のものを見たような、そんな好奇の視線を送っている。

(――なに、これ)

 彼女は急に吐き気を覚えた。

 地面が揺れる。視界の端があやふやに歪む。

 倒れているのに、奈落の底に落ちていきそうな感覚が彼女をさいなむ。

(――まるで――まるで――これじゃ――)

 あのときのよう――と、彼女は視線をそらすこともできず、ただ親に身体をこすりつける幼竜を見ながら、思う。――十年前を、思い出す。


 見上げれば彼はいつも笑顔を見せてくれた。

 彼女はそれがうれしくて、何度も何度も彼の顔を見ていた。彼の方と言えば、そんな彼女に困ったような表情をしながら、けれどやっぱり笑顔を見せてくれた。

 彼女の兄は、そんな人だった。

 人一人を語るには物足りないかもしれない。

 けれど、彼女が覚えている数少ない兄の顔と言えばやはり笑顔で、そして、笑顔しか覚えていないほどに彼女が兄とともにいられた機会は少なく、時間は短かった。

 昔、病弱で、身体を壊しがちだった彼女のために兄はとてもよく働いていた。

 兄の方こそ身体を壊すのではないか――そんなことを彼女は思いもしたのだが、彼は笑いながら「大丈夫大丈夫」と言うばかりだった。

 実際、兄に問題などなかった。

 その頃の兄は現在の彼女よりもいくらか年上で、二十半ばあたりだった。これと言った疾患もなく、また線の細い見かけに反して身体は頑丈で、朝から晩まで働いても、夜彼女と語りあうほどの余裕があった。

 良い兄だったように思う。

 当時の彼女は自分が兄の足手まといになっているのではないかと、どこか不安げだったけれど、兄はそれさえ笑い飛ばしてくれた。

 笑って、お前がいなかったら、俺はこんなに頑張れないよと彼女のほほを撫でてくれた。

 そんな、お人好しな人だった。

 だから――

 あの日のことを、彼女は忘れない。

 彼女の兄を見舞った災厄を、彼女は忘れようにも忘れえない。


 ―――ドラゴンの出現を。


 本来なら街中に出るはずもない。

 ドラゴンとは、魔物の頂点であり、だからこそ希少種だ。

 山奥、谷底、樹海、火口――人が容易に踏み込めない地にこそ、ドラゴンは棲息する。

 ゆえに、街中に出現するなど笑い話以外の何物でもなく――結果として、まったく笑えない事態となったのだ。

 突然現れ、見境もなくドラゴンは暴れた。

 人々は逃げ惑い、建物はただの瓦礫と化していった。

 それに――彼女と兄も遭遇した。

 彼女が瓦礫に挟まり、抜けだせなくなったという最悪の展開で。

(今でも――)

 彼女はたまに、夢を見ることがある。

 あの、何か悟ったような、軽く困ったような、それでいて覚悟を決めたような――兄の苦笑い。

 それを、何度も何度も思い返しては意識の中枢に刻み込んでいく。

 兄は飛び出していった。ドラゴンの前へと。

 そして、そのまま彼女がいる方向から逆へと駆けて行って――遠く、彼女は兄がドラゴンに呑みこまれるのを見た。

 それは本当に一呑みで。咀嚼も何も無く、ただ兄はドラゴンの巨大な口と腹に消えていった。

 それから、満足したのか飽きたのか――理由は定かではないがドラゴンは翼を広げ、飛び去っていった。

 彼女は涙さえ枯れ果てた目で、ただ、その小さくなっていく影を、空の向こうへ消えていく姿を見続けた。


 それが彼女の原風景だ。

 心の奥底に焼きつき、二度とは消せないだろうと自分でも思った光景、その記憶。

 復讐を果たした今となっても、思い返せばまだ、怒りは胸に湧いてくる。

 その怒りと憎悪のみを糧として、彼女はドラゴンを追ったのだ。

 ドラゴンが最後に暴れた場所に残った一枚の鱗をあてとして、探り、探り、追い求めたのだ。

 すべては復讐のために。兄の仇を討つために。

 そうして、今、彼女はここにいる。

 幾度もの苦難と危機を乗り越え、十年前の少女と彼女とを見比べて、同じ人物だとは最早誰も思わないだろうほどに変わり果てながらなお、彼女は見事ドラゴンに一太刀報いたのだ。それも、致死の一太刀を。

 喜びはない。

 解放感も未だ感じられず。

 それでも、彼女はきっと、同じ目に在ったなら何度だって同じことをしただろうと確信を持って言える。

 それほどまでの怒りであり、憎悪であった。

 ――なのに。

 だというのに、何故か、妙に、

(……かぶる)

 目前の光景が、十年前の情景と重なって見える。

 ただただ親に添う幼竜の姿も、血を流しながらなお不動のドラゴンにも。

 十年前、最後に見た兄の笑顔が脳裏によみがえる。

「……っ」

 ぎり、と彼女は弱々しい力で歯を軋ませる。

 自らの心の動きであろうと、いやだからこそ、ドラゴンと兄がかぶるなどあってはならないことだと自らを責める。

 そこで、彼女ははたと気づいた。

 幼竜の処遇についてだ。

 見てしまった以上、無視はできない。放置していくわけにもいくまい。

 かと言って、親と同じように殺すかと自問するも明確な答えは得られなかった。

 彼女の怒りはすべてただ一体のドラゴンへ向けられたものだ。それだけのための刃だ。

 子であるから殺す――他を巻き込むような復讐心は、彼女のそれではなかった。

(……そもそも、もう、そんな力は残っていない)

 字義どおり、死力を尽くしたのだ。

 とびっきりをと求め、ここ最近になってようやく入手した竜殺しの剣も、彼女の精神力と生命力、両方を後払いによって差し出して使用した竜封じのまじないも、用意してきたもの、持てるものはすべて注ぎ込んだ。

 彼女には、もう、立ち上がるほどの力も残っていない。

 後一日の間は動けないかもしれない。それだけの代償を払うことでようやく竜殺しは叶った。

 ゆえに、今の彼女に幼竜は殺せない。

 現実的に、不可能なのだ。

 となると、その間に――

(……ああ、そっか)

 今さらのように彼女は理解した。

 何故現在と十年前、二つの光景が重なって見えたのか。気づいてみれば馬鹿らしいほどに簡単なことだった。

 兄をドラゴンに殺された彼女。

 親を彼女に殺された幼竜。

 同じことだ。結局は。

(……私は、このドラゴンの子に殺されるかもしれないのか……)

 今は彼女の存在にすら気づいていないように見える。どころか、親が生死の境にあるということすら認識しているかどうかあやしい。

 だが、いずれは気づく。

 どうしたところで、ドラゴンは今日の間に確実に死に至る。それは竜殺しの剣を用い、そして今もそれが刺さり続けている以上、覆せない事実だ。

 そうすれば、幼竜は嘆くだろう。悲しむだろう。そして、幼いながらに死の原因に思い至るかもしれない。

 だとすれば、幼竜は選ぶかもしれない。彼女と同じ道を。同じ感情を。

 選ぶ選ばないというよりも、それは心にずっと居座り続ける衝動によって、それのみしか選択できないということになるだけなのだが。

(どうだろう……)

 彼女は、充分にあると思う。経験者として、その感情にこそ理解を示す。納得する。

 そして、

(……それでも、いいか)

 彼女は、そうなったらなったでかまわないとすら思った。思ってしまった。

 本来なら人は若くして死に瀕すれば往々にして未練を抱くものだ。死にたくない、まだ生きていたいと心の底から思うはずだ。

 だが、彼女は未練を覚えなかった。

 未練を得られるほどのものが、彼女にはもう、なかった。

 それまではあった。復讐だ。復讐を果たす前に死ぬようなことがあれば、死んでも死にきれぬとばかりに彼女は幾多の修羅場を乗り越えてきた。

 だが、ここに復讐は成った。

 もう彼女を縛るものはない。彼女は自由だ。剣を持つこともなく、まじないに失敗して気が狂いそうになることもなく、ただただやりたいことをやればよい。楽しい日々を送ればいい。

 ――それが、彼女にはわからない。

 彼女には復讐があった。復讐だけがあった。

 それが叶ってしまった今、彼女には何もなかった。

 あるのは広大な虚無のみ。復讐のために詰め込んできたすべてが、一時に一斉に失せてしまったためにできた空っぽの心のみ。

 縛るものがないということは自らを固定するものがないということだ。

 自らを規定するものが無くなった今、彼女は自分の生き死ににさえ無関心となりつつあった。


(殺されるなら、せめて痛くないといいな……)

 ぼんやりと、彼女がそんなことを思ったときだ。

 ず、と大気が動いだ。

 荒野の乾いた風が、ほんの少しだけ震えるような感触を彼女は得た。

「……え?」

 ドラゴンだ。

 未だ地を喉から血を流しながらも、ドラゴンはわずかとはいえその身体を動かしたのだ。

 ――彼女の竜封じを破って。

「な……っ」

 ありえない、と彼女は思う。

 できる限りその全てを込めた、ドラゴンのみを対象とするからこそドラゴンだけには絶対に近い絶大な強制力を発揮するまじないなのだ。

 いかにドラゴンとはいえ、ドラゴンだからこそ破ることは不可能――そういう技だ。

 だがその不可能は覆された。

 満身創痍の、今にも息絶えそうなドラゴンによって。

「……ニ……ニンゲ……ン……ヨ……」

 ドラゴンが声を発した。人語だ。先程まで彼女が聞いてきた咆哮とはまた違った、どこかかすれたような声音だった。

 長く年経た魔物は人語を解し、操ることがある。驚くべきではなかった。

 むしろ、竜殺しの剣に貫かれた喉を動かしたことがさらなる驚愕を引き起こさせるものであった。

「……なにかしら」

 彼女は努めて平静に応えた。

 驚きはあっても、このドラゴン相手にそれを認めるのも難く、また動けたとはいえどほんのわずかであり、致命傷であることには変わりなかった。つまるところ、彼女はドラゴンが結果的に死ねば、それでよかった。

「……マズ……ミゴト……ヨクゾワレヲ……」

「当たり前。あんたを殺すためだけにこちとら十年生きてきたんだから、あんたを殺せないなんて言うことが、そもそも私には無い」

 ドラゴンの言葉を遮るようにして彼女は言った。

 ドラゴンの足元に倒れ込み、ほんの少しだけでもドラゴンが足を動かせたなら死ぬであろう位置にいながら、彼女はけして退かなかった。

 このときまで彼女はこのドラゴンと言葉を交わしたことが無く、これが初めてである。

 予想したことがないわけではなかったが、それは当たっていたのか外れていたのか、ともあれ、彼女はドラゴンとの会話を歓迎しているわけではなかった。

 心情的には当然ながら逆だ。

 今も、彼女は心の中で「早く死なないかな」と思っている。

 だが、ドラゴンが何を言おうとしているのか――それへの興味と、そして彼女自身、一つ、聞きたいことがあった。

「で、何よ。能書きはどうでもいい。あんたは、そんな無理までして何を私に言いたいの」

 ごろごろごろ、と遠雷のようなうなりがドラゴンの口からもれた。どうやら笑ったらしい。

 彼女は渋面を作りながらも、ドラゴンの言葉を待った。

「……デハ……ニンゲンヨ……コノコヲ……」

 と、ドラゴンは目をもう片側の足元にいる幼竜に向けた。

 幼竜は、親がとにもかくにも動きだしたことでひどく嬉しそうにしている。

 ドラゴンは何か、人には判別できない表情を作って、すぐに消し、彼女に向き直ると、いった。

「……コノコヲ……オマエノ……ツカイマニ……」

「はぁ!?」

 彼女は今出せる最大の声音で問い返した。それだけ信じがたい内容だった。

 使い魔。

 読んで字のごとく、使われる魔物だ。一般に、人に使役される魔物に関して言う。

 まさにそれ以外の情報があるわけではないのだが、基本人間と魔物は契約を交わし、その契約には前提として主人である人間に危害を加えるような行動はとれない。

 ひたすらに主に忠節を奉じ、その敵とあらば撃滅する手助けをする。それが使い魔だ。

 本来、肉体的には弱いまじない師などが、自身を守護させるために契約するようなものだ。それも、魔物側に良い点などはほとんどないため、人の側から無理やりに結ばせることが多い。

 それが使い魔だ。

 魔物としては、それ以上の屈辱もあるまい。

 それをしろとドラゴンは言う。自らの子を。自らを殺した相手に。

「あんた……気でも狂っているの」

 思わず彼女が言った。

 狂気をも孕みつつあった復讐者であった彼女であるが、その彼女をして意味がわからないどころかどこか不気味なものを覚える言葉だった。

 ドラゴンは気を害したそぶりも見せず、切れ切れに言葉をつなぐ。

「……コノコハ……ヒトリニナル……」

「……」

「……ユエ……オマエニ……タクス……」

「なんでそうなる。そこが意味分からない。……いや、いい。説明しようとしないで言い。なんとなくわかった。わかる自分も嫌だけど、わかった。つまり、こどもが一人になってさびしくないよう、私にそこのこどもを引き取れと。あんたそう言いたいのね?」

 ドラゴンは軽く頭部を上下に揺らした。肯定らしい。

「はっ」

 彼女は笑った。笑う他なかった。

「馬鹿じゃない。何考えてる。そもそも私にそんな義理があるわけないでしょう。お前のこども? 知らないに決まっている。殺す価値もなければ生かす意味もない。その上育てるだなんて」

 ありえない、と彼女は言下に否定しようとした。

 すると、

「……ワルイガ……カッテニ……スル……」

 ドラゴンが言って、

「え?」

 今の今まで、まったく力がわかないと思った身体が突如として立ち上がり、動き始める。

 足の向かう先は当然のように反対側の足元、幼竜のいる場所であった。

「あんた……っ。何をした!」

 彼女は叫ぶが、ドラゴンは取り合わない。

 すぐにも彼女は幼竜のもとへ辿りつき、右手を差し出し。かざす。

 その手から、光があふれ出す。

「……くっ……身体が、動かな……っ」

 彼女は必死に抵抗しようとするが、どうにか自分の意思どおりにいく部位はせいぜいが口だけ。右手はそのまま動かず、そこから放たれる光は幼竜を照射する。

 そして、やがて彼女もあきらめ始めた頃に光は治まって――その結果、彼女はまるで自分がもう一人いるかのような錯覚を抱いた。

 視点が増えたのだ。こちらを見ている自分の姿が幼竜を見る視界と重なって映し出される。

 くらりと頭が揺れる。思うがままにならない身体であったが、それを皮切りとしたように、急に様々な感覚も元に戻った。

「……っはぁっ」

 彼女はドラゴンを睨む。

 仇は、変わらず泰然とした様子だ。

「……コレデ……イイ……」

 満足げにつぶやく、その姿に、彼女は無性に苛立った。

「あんた……」

 声を出してしまえば、もう止まることはできない。

「それで満足!? ええ、あんたはそれで満足してしまえるんでしょうね。あんたは私と違ってドラゴンだし、もうこれから今すぐにでも死ぬもの! でもね、私とこの子は違う。死んだりしない。これからも生き続けるし、そうである以上いらない苦労を負うことが確実にある。あんたは、自分の子どもを一人じゃないようできてご満悦かもしれないけれどね、相手はあんたを――親を殺した相手よ。わかってるの!? それとも、ドラゴンはそんなことも気にしないほどバカげた種族っていうこと。そう、そうなんでしょう。――もう、さっさと死んでしまえばいいのに!」

 と、一気に言い放ち、興奮した面持ちで彼女はドラゴンを見据える。

 ドラゴンはまっすぐ彼女と目線を合わせたまま、何も言わない。

「……っ」

 限界だ、と彼女は思った。

 もう私は限界なのだ。

 本来、復讐を果たした後の今は、余分すぎるほどに余分なものだ。

 なのになんでまだ動いていて、なんでよりにもよって仇の子が、今や自分の一部のような状態になっていると言うのか。

 わけがわからない。納得なんてあるはずもない。因果のつながりがめちゃくちゃだとしか思えない。

 いっそこのまま、ここでまた倒れて、何もしないで、ひっそりと死んでしまおうか――などと思うが、自分の中の冷静な部分がそれに異を唱える。

 幼竜――使い魔の存在だ。

 使い魔は徹頭徹尾、人にとって都合がよいものであり、その大前提のもう一つとして、主である人が死んだときは、使い間も共に死ぬというものがある。

 つまり、彼女が死ねば幼竜もまた死ぬのだ。

 それはいけない、と彼女は思う。自分の勝手で自分が死ぬのはいい。けれど、それに他を巻き込むことだけはすべきではない。

 また、彼女はやはり幼竜に対してまで怒りや憎悪を抱くことはできなかった。幼竜に覚えたのは、ただの憐憫と、どこか複雑ではあったが同情。それだけだ。

 それだけであるがために、どこまでも彼女にとって幼竜は邪魔だった。

 意図も何もわからない、双方が望まなかった使い魔契約。

 だからこそ不快で不可解なのだった。しかし、ドラゴンがすべての意図を話すとも思えない。時間をかけて聞き出そうにも、その時間をドラゴンから奪ったのは彼女だ。

(……ああ、もう)

 思考がどこか堂々巡りだ。意味のないことばかりを考えている気がする。

 本来、意味あることなど一つだけだ。――彼女の旅は終わった。終わったのだ。それだけが意味あることだ。

 だとすれば――

「……まだ、聞いていなかった」

 ぽつりと、彼女がつぶやく。

「本来なら、最初に問答をすべきだったかもしれないけれど。ずっとあんたを殺すことだけ考えていて、言えなかった」

 空虚な表情で、色の無い顔で問う。

「だから、今聞く。―――なんで、十年前、あんたは私の街で暴れた?」

 彼女の始まりを。

 この復讐劇の始まりを。

 その理由を問いかける。

「……」

 ドラゴンは、しばらく黙っていた。

 彼女はじっと待つ。答えないことであるとか、または忘れているかもしれないという考えは彼女にはなかった。

 ただ、待つ。

 やがて、ドラゴンが口を開いた。まるでからくり仕掛けの人形のように、その動きはぎこちなかった。

「……ワタシ……ワタシハ………」

 それは先程までと違って、どこか躊躇いを含んだ声音だった。

 そして、続く言葉を口にする。

「……ワタシハ……ジュウネンマエマデ……ヒトニカワレテイタ……」


 ドラゴンは語る。

 彼はかつてとある人間の使い魔であったと。

 人には彼の力が必要で、彼はそれに否応もなく応えていた。

 制限の多い日々であったが、しかし彼はそれほど嫌ではなかったと語る。

 それは、確かに人の下につくという、本来魔物の王たる身で許容できることではなかったが、それ以上にその日々には「意味があった」と言う。

 山野にありて飢えれば獣を借り、戯れに空を駆け、時折襲い来る人間を相手をする――そんんな勝手気ままな、しかし退屈に満ちた日々とは段違いなほどにその日々には刺激があったと。

 彼は仕えた。

 望まれれば力を振るい、望まれずとも人の意を酌み、笑いながら益体もない話をする。

 今思えば、それは彼にとって至極幸せな日々であった。

 だが、やがて日々は終わりを告げる。

 人と彼がどれだけ長い年月を共にしても――やはり人と魔物は相容れぬものだった。

 決定的な出来事は、十年前の、まさにその日にあった。


「何が、起きたの」

「……ウラギリダ……」


 人はいつからか、ドラゴンの強靭な肉体に憧れを抱いていたのだと言う。

 元来人は丈夫な性質ではなく、それゆえにまじないを初めとする学問に打ち込んできた。

 だからこそ、まじないによって彼を使い魔とすることができた。

 しかしやはり、人は強い身体を羨んでいた。焦がれていた。

 憧れのままであったなら、それは問題が無かったかもしれない。人が前に進むための原動力たり得たかもしれない。

 しかし人には力があった。不可能を可能と返ることができるかもしれない力――まじないが。

 次第に人は余人にまったく理解できないまじないの研究へのめり込んでいく。

 自分自身の生活すらまるで無視し、最低限の肉体的な保障を果たして後は、すべてそのまじないに捧げたと言う。

 その、ドラゴンの肉体を得るという、禁忌のまじないに。

 結論から言うと、そのまじないは完成した。

 人はドラゴンの力を得る術を手にしたのだ。

 ただし――

 代償は同種。つまり、ドラゴンを必要とした。

 人は苦悩した。

 三日三晩をかけて悩みに悩んで悩み抜いた。

 そして、一睡もしないまま三日間が終わろうとしたその日、人は吐血した。

 いつからか人の肉体には病魔が巣食っていたのだ。

 人は決意し、そして実行に移した。

 心配する彼を言葉巧みに誘い、眠らせ、そしてその精神を殺し、肉体を掌握するまじないをかけた。

 だが、直前で気づいた彼も必死で抵抗した。

 直観で自分の意思を殺すまじないであることを理解した彼は、そのまじないを返すことで、逆に人を殺そうとしたのだ。

 咄嗟のことだったとはいえ、数年来の友情は、あえなくも破壊されたのだ。

 結果、彼――ドラゴンが勝利した。

 だが、人の意思も微妙に残り、混濁した意識は身体を暴走させた。

 それが――


「あの日の真相だと……あんたは言うわけね」

「……ソウダ……」

 彼女はひどく苦々しげに言った。

 馬鹿なことを聞いたと思った。

 今の話が真相だとしたら、一体悪とは何か、彼女の兄が死んだ本当のところの原因とは一体何だったのか、まるでわからなくなる。――いいや。それこそ愚かだ。彼女の兄を殺したものは目前にいるドラゴン。それだけはどうあっても変わらない事実だった。

 彼女は一度頭を振って、また問うた。

「なら……なんであんたは、自分の子を私の使い魔にしたの。今の話を聞く限りでは、あんたは人に恨みがある。使い魔という立場を前までは親しんでいたけれど、その経験をした後じゃ、どう考えても、もういい感情は抱いていないでしょう。どうして」

「……ナゼ……」

 ドラゴンは軽く顎を上げ、虚空を仰ぎ見た。

 ここではないどこかを――今ではないいつかを眺めているような目であった。

「……ナゼダロウナ……」

 結局、ドラゴンの口から出たものは、答えにすらなっていなかった。

 ただ、彼女は変わらず苦々しげな顔のまま、それ以上の追及はしなかった。それでこの話は終わりだった。

 彼女は「わかった」と言って、手足をぷらぷらさせた。

「ねえ。そう言えば、なんで私いま動けているの。さっき勝手に動かされたことと言い、あんた私に何かした」

「……ソレハ……」

 と、ドラゴンは一拍置いた後、彼女がドラゴンの血を浴びたことを話した。ドラゴンの血には強い生命力が込められており、またまじないの触媒としても貴重なものである。彼はただ、その生命力を彼女に譲渡し、また操るまじないをかけただけだと言う。

(……あらためて)

 よく殺せたものだ、と彼女は思う。

 殺さないという選択肢はなかったが、殺せないという結果に終わることは表面上どうあれ、彼女も予期していた。

 今の彼女でできる万全で挑んだとはいえ、よくぞ、と。

 彼女は自嘲気味に笑った。

 そして、彼女は言った。

「なら、私はもう行く」

 まるで散歩から家に帰ろうとでも言うかのように気楽な口調で、彼女はあっさりと去ることに決めた。

 ドラゴンも肯いた。

「……ソノコヲ……タノム……」

 こちらも必要最低限のことのみを告げ、あとは口を開かなかった。

 そして――彼女は歩き出し、その後を白い幼竜が何度も何度も後ろを振り返りながら付いていく。

 長い彼女の復讐劇は、そうして、最後は呆気なくも、幕を下ろした。



 ……………………

 ………………

 …………

 ……



 一人と一匹が去り、他の誰も存在しなくなり、彼は思った。

(ようやく、終わった)

 と。

 長い長い彼の物語も、これでようやく終えることができる、と。

 心中で長嘆し、彼は喉の痛みと、その痛みすら徐々に薄れていく身体の感覚を思いながら、はじまりの日を思い出す。

 十年前――ではない。もっと前だ。

 それは十五年前。

 彼がまだ彼ではなかったとき。

 まだ何物でもなく、ただの魔物として生きていたとき。

 ――その頃の彼はドラゴンではなく。

 名をシェイプシフター。化けることのみが能である、下級の魔物であった。


 ある日のことだ。

 その日も彼は街道を通る人や獣を驚かそうと、道沿いの茂みに身を隠していた。茂みは小さかったが、液体に近い彼の本性であれば、造作もなく隠れることができた。

 ともあれ、彼は獲物を待っていた。

 人や獣が自らの化けたものに驚くところを見るのが彼は大好きであり、また、むしろ彼にはそれだけしか無いとも言えた。

 生まれながらに種族として備わった能力には、それだけしか使いどころなど無いと思い、だから彼はそれだけをやっていたのだ。やり続けていたのだ。

 そしてその日も、人が一人、街道を歩いていた。

 旅人にしてみれば軽装であったが、彼はそれを疑うような知恵も知識も有してはいなかった。

 ただいつもどおりに、その日も、道の真ん中に飛びだし、かつて遠目で見たことのある巨大な恐ろしいものに変身して――咆哮した。

 すると、人でも獣でも、皆一目散に逃げ出していく――それまではそうだった。

 だが、その日ばかりは、その人だけは違った。

「見事だ! 素晴らしい!」

 あろうことか、旅人――近くで見ればまだ少年の様子――は喜色を顔面いっぱいに浮かべて拍手をしたのだ。

 内心で驚き慌てる彼を少年は熱っぽい目で見、そして、

「だけど僕は本当の君と会いたいんだ。ちょっと戻ってくれるかな」

 右手を前にかざし、まばゆい光が照射されるや、彼は元の、液体に限りなく近い、泥のような、本来の姿へと戻っていた。

 そのときにはまったく理解が現実に追いついていない彼に、少年はなおも満面の笑みでこう言った。

「実は僕の研究に君の力が必要になってね。うん。お願いがあるんだけど、君、僕の使い魔になってくれないかな」

 そのとき、彼は事態をほとんど理解してはいなかったけれど、二つ、わかることがあった。どうやら少年は彼を求めているらしいこと、そして、どうやら求められているのは彼の変身能力であるらしいことだった。

 彼は――彼は知識も知恵もない。少年が熱っぽく語ることなどまったくわからない。

 けれど、必要とされること、それは初めての経験だった。

 だから――彼はそっと少年の右手を包むように表面をざわめかせたのだった。

 少年の狂喜する様は、そのときの彼ですら呆れるほどだった。

 やがて落ち着いた少年はあらためて手をかざして光を照射しつつ、付け加えるように言った。

「――うん。頼むよ。僕の妹を、救ってやってくれ」

 彼は、やはり理解できなかったが、それはなんだか大事なことのような気がしたので、また、肯定の合図として身を震わせた。

 こうして、契約は成った。


 ――それがはじまりの記憶。


 少年との日々は楽しいこともつらいこともあった。

 意味もわからず何度も変身を強要されたり、自分の身体を少しだけ持ってかれたり、効果のしれないまじないを何度もかけられたり――思い出してみれば、ずいぶんと魔物使いのあらい主人であった。

 けれど彼にとってみればそれはそれまでの日々と比べるべくもないほど刺激に満ち溢れた生活であり、少年との契約を後悔したことなど一度もなかった。

 少年と出会って三年も経つ頃には、彼も大分知恵をつけており、少年の見よう見まねで初歩的なまじないを使うこともできるようになっていた。

 そして、少年――もう青年と呼ばれるような見た目になっていた――の目的は、それなりに早い内からわかっていた。

 どうやら青年の妹が生まれながらに重病を患っており、現存する治療法では延命することはできても根本的な治療にはなっていないようだった。

 青年自身も医者の資格を有しており、どうやらそれは妹のためであったようではあったが、まじないと組み合わせた青年独自の医療でも、充分な成果を上げることはできなかった。

 だが、青年はあきらめず日々、少しずつ病が進行していく妹の様子に心痛めながら、新たな治療法を探し続けた。

 そして、ついに糸口を見つけたのだ。

 それは彼――シェイプシフターと呼ばれる魔物だった。

 なんにでも擬態することができる、泥状の魔物は、しかし外見こそ変われど能力は変わらず、そして強くもないため、冒険者などの多くは無視するか戯れに狩るか――それだけの相手だった。

 しかし青年が目をつけたのは、まさにその擬態能力だった。

 あまり知られていない、そして、価値のある情報とも思われていなかったことではあったが、とあるシェイプシフターが擬態した中で、彼よりもさらに下位の魔物に変身した例があり、そのときシェイプシフターはその魔物固有の能力を使って見せたことがあるという。

 他の誰も話半分に聞き、だからなんだと笑い飛ばしたその話に、青年だけは食いついた。

 そしてシェイプシフターを探し求め――彼を見つけ使い魔とし、研究した結果、予想通り、期待通りの答えを得たのだ。

 シェイプシフターは外見だけ姿形を変えることができる――それは正しい。だが、それはすべてではなかった。

 もう一つ、加えて、シェイプシフターは一度取り込んだ――食したことのある対象の形質を、力の続く限り正確に模倣することができる。

 それに辿りついたとき、青年は狂喜乱舞した。

 後は妹の髪でも爪でも彼に取り込ませればよい。

 そうすれば、彼が妹の新たな内臓など、とにかく病に冒された部分を作ってくれる――と。

 ことはそう簡単に終わりはしなかったが(とにかく彼の力量不足が原因。生物としての格では人よりもシェイプシフターの方がよほど低かった)、それでも、およそ一年をかけて、ついに青年の妹の治療は成功した。

 青年の執念が実った瞬間であった。


 ――おそらくは、一番輝かしかった頃の思い出。


 青年はいくら治療法を探すためだったとはいえ、長い間一人にしていた妹との、その空白の時間を埋めようと、しばらくは仕事も控え、兄妹二人で暮らし始めた。

 それが、青年にとってどのような時間だったのか、日々だったのか、彼には知る由もない。その頃の彼は基本的に青年の影に擬態して、静かに穏やかに摩耗した身体を癒していた。

 ただ時折、青年が妙に思いつめた表情をすることもあった。

 それは決まって妹がそばにいない時であり、静かな場所に一人で佇んでいるときのことであった。

 彼は今でも、その頃の青年と話をしておかなかったのを後悔している。そうすれば、もしかしたら何かは変わっていたかもしれない。大筋は変わらなくても、何かは、と。

 ある日のことだ。

 青年は一人、家にいた。妹は運動能力を取り戻しはじめた身体を思う存分動かすため、外に遊びに行っていた。

 青年は、ぽつりと独り言のように言った。

「しばらく、僕の代わりとなって妹と暮らしてくれないか」

 彼は驚いて青年の影から飛びだした。

 何事かと問う彼に、青年は困ったように笑った。

「いや、ちょっとおもしろいことを思いついてね。ここ最近は研究もしていなかったし、妹ももう大丈夫なようだ。勘を取り戻したい」

 彼は難色を示したが、青年の意思はその表情に反して固かった。

 彼はやむを得ず、月に一回は必ず戻れと言い、その命を受けた。

 そうして、青年は自身の研究のために家を離れ、彼は、青年の身代わりとして青年の妹と暮らすことになったのであった。


 ――それが、終わりの始まりとなった。


 彼と青年の妹との日々は、当初の彼の不安とは裏腹に、思いの外上手くいっていた。

 彼は青年とすでに五年に近い付き合いがあり、四六時中そばにいた。ましてや彼は模倣する魔物、シェイプシフターだ。青年の癖や仕種など知り尽くしていた。

 反し、青年の妹はいくら血縁とはいえ、生活をあまりともにしなかった間柄だ。初めの内こそ、妙に余所余所しい兄を怪訝に思っていたようだが、子どもならではの興味の移り変わりの早さと、彼の慣れもあり、それもすぐに忘れていった。

 それからの日々を、どういったものとすればよいのか、彼にはいまだ判断がつかない。

 まるで夢のようなものだったと思う。

 あの日まで、街道で道行く人々を驚かすだけの魔物が、よもや人に交じって人の家族として暮らすことになろうとは、まさに夢にも思わなかった。

 悪い気分ではなかった。

 むしろ良すぎて、彼は不安さえ覚えるほどだった。

 そしてもう一つ。

 青年は、彼との約束を違えて、一向に戻ってくる気配はなかった。

 一月を過ぎ、二月、三月と彼は心中で怒りをため、半年を超える頃にはついに心配になって青年の元へ自ら向かった。妹には、ほんの少しだけ出張すると言い近所の知人に留守を任せて。妹は健気な笑みを見せ、お土産よろしくね、と明るい声で送り出してくれた。それを見、彼はますます青年を連れて帰らねばという思いを深めたのだった。

 遠く離れた荒野に建てられた一軒の家。そここそが青年の隠れ家であり、研究所だ。

 やはり少々不安に思いながらも彼がそこを訪れると、拍子抜けするほど呆気なく、以前と変わらない様子で、「よく来てくれた」と明るく青年は彼を迎え入れた。

 気勢を削がれた格好となった彼だったが、気を取り直して青年を怒鳴りつけようとして、

「前々から考えていた研究がようやく軌道に乗ったんだ。君に是非見ていってほしい」

 と、身を乗り出すようにして言う興奮気味の彼に押されて、不承不承うなずいた。

 青年は地下へ彼を案内した。彼も昔はよくそこにいたものだが――そのとき、一瞬で背筋が凍るほどの危機感を覚えた。しかもそれは地下への階段を降りるごとに強まるのだ。

 青年に問うと、ニヤニヤ笑うばかりで答えない。驚かせたいらしい。

 彼は内心の不安を押し隠して青年の後へ着いていった。

 そこで、彼が見たものは。


 それは黒き鋼の鱗を持ち、

 城壁を砕く爪牙を振るい、

 巨大な翼は風を裂き、

 突き出た角は槍のよう。

 一度火を噴いたなら、燃やせぬもの熔かせぬものこの世に無しと称せられる、


 ドラゴン――


 魔物の頂点に君臨する、破壊の暴君――それが、地下室を占領する水槽の中へ、奇妙な液体の中眠るようにしてあった。

「どうだい。驚いたろう?」

 青年はこの期に及んでなお、ニヤつく態度を崩さない。

 震える声で「どうやって捕まえた」と問う彼に、青年は「捕まえてなんかいないよ。最初から造ってもらったのさ。君にね」と笑って答えた。

 今度こそ絶句する彼に、青年は浮かれた態度で聞いてもいない説明を続ける。

 ――曰く、ドラゴンの生命力を僕は手に入れたかった。ずっと。君と会う前から。理由はない。強いて言えば強い肉体に憧れを抱いていた。そのためにどうすればよいかずっと研究していた。ドラゴンだけじゃなく、魔物全般も調べた。その折に、君の――シェイプシフターのことも知った。もしかして、と僕は一縷の望みを込めて君に会いに行った。それからしばらくは君も知る通り、妹で君の能力の有用性を確認した後、しばらくは妹と暮らしつつ予備にとっておいた君の身体の一部を増殖させていった。そして、わりとたまったから本格的な研究に移るために僕は君に妹を託し、こうやって手に入れたドラゴンの鱗から、ついにはドラゴン本体までを造れるまでになったんだ。

「どう。すごいだろ?」

 と、褒めてくれと言わんばかりの青年の様子に、彼は、足元が崩れおちていくような感覚を味わっていた。

 彼はずっと青年のことをわかっていると思っていた。

 けれど、本当のところはその実、何一つとして理解できていなかったのだ。

 失意のままに彼はその後も説明を続ける青年に無意識で応対し、逃げるようにして研究所を後にした。

 どうすればいいのかなど、何一つとしてわかってはいなかった。


 ――そして、その日がやって来た。


 その日は妹が一緒に遊びに行きたいと言うので、彼は事前に仕事を休めるよう手配した。

 青年の研究所を去ってから早半年が経とうとしていた。その間に彼は仕事を得、妹との交流も以前より増やし、何かを忘れようとするかのように日々に没頭していた。妹は、そんな彼の様子に気づくこともなく、ましてや兄の偽物だと知ることもなく、ただ兄がそばにいることに喜んでいた。

 街の中央で、彼は妹と、どこかずっと夢を見ているような心持で、けれど表面上だけはずっと変わらずに遊び歩いた。

 そんな中、妹は言った。

「本当は、一緒に暮らし始めた頃、お兄ちゃんのことがすこし怖かった」

 と。

「でも、今は本当にうれしい。お兄ちゃん、これからもずっと一緒にいてね」

 妹が笑った。彼も笑った。

 けれど、心の中で、彼だけは青年のことを思い、傷ついていた。

 彼は手洗いに、と言って気持ちを落ち着けるために、少しだけ妹のそばを離れた。

 青年のことを忘れたことなど一時としてなかった。けれど、努めて考えないようにしていたことも本当だった。今の妹の言葉に、青年への不安が、強くまた再燃した。青年からの連絡は、半年前と変わらず、無かった。

 すぐにでも青年に会いに行こう。彼はそう決意し、妹のもとへ戻った。

 すると、妹のそばに、もう一つ人影があった。彼は訝って足早に妹の前へ立とうとし――固まった。

 彼にはわかった。他の誰がわからずとも、彼にはわかった。

 青年だった。一体どのような体験をしたのか、奇妙なほどの凄味を漂わせながら、頬骨がくっきりとわかるほどに痩せこけ、面貌、形相が空恐ろしいまでに変わり果てていたが、それでも彼にはわかった。

 青年は、少しだけ調子の良い、どこか抑えが外れているような口調で、

「ああ、久しぶり! 久しぶりだ! 元気に、元気にしていたか!」

 と、妹に笑いかけた。

 彼は――手遅れとなったことを悔み、そして、すぐにでも妹を連れて離れなかったことを、その後、ずっと悔み続けることとなる。

「……ぇ、だ、誰ですか……知りません、わたし……」

 妹にはわからなかったのだ。

 わかれと言う方が無茶なことではあったが、それが、結果的に引き鉄となった。

 妹は小走りに逃げだし、後ろにいた彼の手をとって「変な人! 行こう!」と青年から少しでも離れようとした。

 けれど、彼は見ていた。ずっと、青年のことを見ていた。

 妹に言われてからその瞬間までの青年の表情の変化を、彼だけは目に焼き付けた。

 そして――変化は一瞬のことで、それから後の破壊も、また一瞬のことだった。

 彼はかろうじて妹を抱きかかえ、衝撃から守るのが精いっぱいだった。

 数秒の後、彼が再び青年のいた方を見ると、そこに、ドラゴンがいた。

 一瞬で周囲の建造物が破壊され吹き飛ばされたために、いやにすっきりして見える中心で、ドラゴンは天に向けて悲痛な咆哮を上げた。

 すぐに、妹も気がついた。直前のことなど最早意識の端にもないだろう。恐怖の表情でドラゴンを見ている。

 彼もまた、妹の下半身が瓦礫に挟まっていることに気づいた。幸いにして潰しているようなことはなかったが、彼の力をもってしても撤去には時間がいりそうだった。

 そして、青年――ドラゴンが彼らを見逃すとは思えなかった。それが、どういう結果を垂らすことになるかわからなかったが。

 彼は決意して、妹に微笑んだ。

「さようなら。君との日々も、楽しかった」

 妹の返事を待たず、彼はドラゴンに向けて駆けだした。

 青年の名前を呼んで、少しでも妹から引き離そうと気を引こうとした。

 それが功を奏したのか、それとも動いているものが目に付いたのか、果たしてドラゴンは彼を追った。

 だが、追いかけっこはすぐに終わった。

 最強の魔物と、鍛えられたとは言え下位の魔物。勝敗は目に見えていた。

 彼は捕らえられ、真っ赤な口腔を見た。

 そして――暗転。

 だが、すぐに訪れたすべてを溶かされるような激痛に、彼は悶えた。

 激痛の最中、馴染みのない映像が脳裏をよぎる。

 それは青年の記憶だった。彼の意識の欠片と言っても良かったかもしれない。彼の、彼であるゆえんが、強く記憶に残った過去の出来事に象徴されて在るらしかった。

 彼は、自分が青年に食されているのだという事実に気付いた。

 それもいいか――と彼は一瞬そんなことを思った。

 青年のためになるのだったら、別にいいかと。

 だが、すぐにその意識は凍りついた。

 彼がふれた青年の意識は、妹にもまた食欲を覚えていたのだ。

 同時に、妹への想いを示すような、先程の映像とそれに伴った強烈な絶望も追体験した。

(いや、さすがに)

 ―――ゆるせない、と彼は思った。

 それだけは、どんなことがあっても、ゆるすことができなかった。

 彼は意志を固めた。意識を鋭く、強固にした。

 反撃した。

 強烈な思いをもって青年が彼をとりこもうとするならば、彼はそれ以上の想いをもって青年の意識を内へと入れていった。

 最初は引き分けに近かったその構図も、やがて彼が優勢に、青年が劣勢へとなっていった。

 なぜ、なぜ、なぜだ――と青年の意識が叫んだ。

 僕は強くなったのに、僕はこの世の誰よりも偉大になったというのに――青年の、訴えるような叫びが、彼の心を打った。

 彼は、静かに答えた。

 この身体の元になっているのは、結局のところシェイプシフターのものなのだろう。ならば、殴り合いならともかく、単純な肉体の主導権争いで、こちらが負けるはず無い――と。

 やがて肉体のほとんどは彼のものとなった。

 最早、青年の意識はそのほとんどが彼の中だ。青年に残っているものは、青年が青年たるゆえん――その本質的な、魂と呼ぶべきものしかない。生まれてからこれまでの、記憶や、知識など、そういったものはすべて彼が奪ってしまった。

 その最後の、もはや青年とすら呼べないようなものを――彼は、取り込まなかった。

 手に入れたドラゴンの肉体で、ぐるりと周囲を見渡す。遠巻きにして彼を恐怖の視線で見やる人々の姿――そして、とある少女の、憎悪のこもった視線。

 彼は、それから逃げるようにして空へと飛び去っていった。


 ――以上が、彼の回想だ。

 死への秒読みが始まっている中、彼は彼の生で最も強い記憶の群れを振り返っていた。

 青年の記憶はいまだ彼の中にある。

 それによると、青年は幼い頃から力への渇望が人一倍強かったのだという。どれだけ頭が回っても、どれだけ上手く立ち回っても、暴力一つ砕かれることへの反発と、しかしそれを受け入れなければ生きていけないという思いが、青年の行動の起源だった。

 同時に、妹を何よりも大事に思ってはいたけれど、自分が強くなればそばにいる資格がないと思っていたことも。

 彼はもはや呆れることもしない。

 ただ、そんな青年を止めてやれたかもしれない、そんな立場に彼のみがいたことを悔むだけだった……

(――ああ、そろそろ)

 意識が薄れてきた。

 竜殺しの剣が、その役目を果たそうとしているのだろう。いくら彼がシェイプシフターから成った偽物とはいえ、相当な精度でドラゴンを模倣しているため、それはひどく痛かった。

(だが、それももうお終い)

 彼は彼にできることをすべてやった。

 彼は瞼を落とす。

 もう、思うことなど何もない。

 思い残す、ことなど――


「……ねえ」


 そのとき聞こえたそれを、彼は空耳だと思った。

 だが、もう一度「ねえってば」と聞こえてきたそれに、彼は再び目を開けた。

 そこに、『彼女』と、『彼』がいた。

 死の間際に見る幻影だとしたなら、これほど都合のいいものはないと思いながら、彼は何故戻って来たと問い返した。

「いや、あのさ……」

 と、少女は妙に歯切れ悪くしながら、しかし思いきったように言った。

「この子……やたらと私に懐いてくるんだけど――名前、なんて言うの?」

 まるで、聞き忘れたことを恥ずかしく思っているような口調。

 ――彼は。

 彼は微笑んで、言った。

「――」

 彼女は顔をしかめた。

「……何それ。何なの。どんな冗談なのよ」

 彼女が悪態をつくが、彼にはもはやそれに言葉を返す余裕もない。

 ただ、微笑みを顔に張り付けたまま、生命の残り香を吐いていく。

 それを見て、彼女が焦ったように声を上げた。

「ねえ……っ!」

 必死な、悲痛なまでに必死な声音だった。

「やっぱり、聞きたいんだけど――」

 しかし、彼の聴覚はもう、それを聞きとってもくれない。

 彼は、霞み消えていく視界の中、彼女の唇の動きだけを注視する。


 ――― ど う し て ―――


 それは何に対してなのか――

 けれど、彼は奮い立ち。

 彼は、最後の力で人間の声帯を模倣する。彼が最もよく知るものの声帯を。

 そして、言った。


「あいつと、やくそくしたんだ……きみを」


 言い切る前に、彼は力尽きた。

 倒れていく。倒れていく。地面に着く前に、彼の意識は消え去るだろう。

 だから。その前に。

 彼女たちがいた方へ彼は目を向ける。

 そこに、見えたのは――彼が大好きだった、ある兄妹が手をつないでいる姿。

 それだけを胸に、彼は、すべてを手離した。


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