ちゅっちゅしよ!
由々しき事態だ。これは絶体絶命の危機だ。
動揺を隠そうと必死に平静を繕った俺の横顔を、一筋の汗が伝う。真冬の公園のベンチはこんなにも冷たいのに。
息を呑んだ俺の眼前に佇む“危険”は、不意に勢いを増した北風に、おさげの黒髪を揺らしている。
愛らしい顔立ちの童女が、無邪気な笑顔で俺と視線を交錯させていた。
彼女の真っ直ぐな眼差しを全身に受けて、俺は意図せず瞳を逸らした。まるで、理不尽な現実から逃避するように。
そして、自問自答。
――なぜだ?
――なぜこんなことになった?
〈ちゅっちゅしよ!〉
時間を遡り……といっても、せいぜい十数分程度前のこと。
地獄だった六連勤明けの日曜、俺は正午過ぎに目を覚ました。せっかくの休日をもう半分も消化している。
一日中家でゴロゴロするのも悪くない――非常に魅力的だ――が、自堕落な男はモテないと聞く。それは問題だ。
特に予定もないが、とりあえず散歩にでもいこう、そう思い至った俺は適当にコートを羽織って、近所の公園に足を運んだ。
冷たく鋭い突風に肩を震わすが、幸い天気は晴れ模様。仕事詰めで疲れた身体を癒すのには日光浴が丁度いいと、古びた木製のベンチに腰掛ける。……自宅で布団に潜っていても大差なかった気もするが。
しかし、相変わらず殺風景なところだ。
数年前に事故があったらしくブランコは撤去され、遊具といえば俺の背丈ほどの滑り台だけ。あとは梅の枯れ木が一本と砂場があるくらいで、狭苦しい敷地なのにやたらと広く感じる。砂場では幼い女の子がひとりで不格好なお城を築いていた。季節感も相まって、少しもの悲しい光景だ。
それにしても日曜だというのに、やけに人気がない。まあ、この寒い中わざわざ公園に来る酔狂な輩なんてそういないか。
自分がその『酔狂な輩』だとは一切考えず、ぼんやりと景色を――砂と戯れている女の子を眺める。
あの子は、なんでひとりぼっちで遊んでいるのだろうか。余計なお世話だと知りつつ、つい胸中で勘繰ってしまう。なにか深い事情があるのかな、などと。
「お?」
不躾な俺の視線に気づいたのか、不意に振り向いた彼女と、ばっちり目が合った。内心で少し焦る俺とは対照に、立ち上がった女の子はどうしてか心底嬉しそうに駆け寄ってきた。
そして、手を伸ばせば触れられる距離。座る俺と、対面して佇む幼女の顔の高さは同じ位置だ。
――なんだ、いきなり?
頭上に疑問符を幾つも浮かべる俺をよそに、彼女は満面の笑みで、
「おじちゃん、ちゅっちゅしよ!」
そう言った。
――なぜこんなことになった?
初対面の……しかも小学生に上がる手前くらいの女児から「ちゅっちゅしよ!」なんて。犯罪の臭いがする。
しかし思い返すと、本当に意味のわからん話だ。
この幼女がいきなり奇天烈な発言をしたこと。そもそも真冬の公園で女児がひとりで遊んでいるのも珍しい。
疑問は尽きないが……そんなことを考えている余裕はないのだ!
昨今では見知らぬ児童と挨拶を交わしただけで通報された事例もあるらしい。聞いた当時は阿呆らしいと感じたものだが、まさか自分が当事者になろうとは。それもさらに重罪っぽい感じ。
とにかく最悪の事態(ドキドキ口腔粘膜接触)だけは避けなくては。新聞の片隅に名前を刻むのはご免なのだ。
意を決した俺は、唾を嚥下して幼女に言葉を返した。
「ねえ。『ちゅっちゅ』ってまさか……キスのことじゃないよね?」
そう、これが基本的かつ最重要事項である。
相手はまだ子ども、言葉の意味を正しく認識していなくても不思議ではない。ましてや接吻……『ちゅっちゅ』という表現はともかく……まだ早い! それは大人の世界のお話だ。
俺の問いかけに、幼女はきょとんと首を傾げた。
「きす? きすってなに?」
俺は胸中で自らを喝采した。やはり推測は正解だった。彼女はキスを知らないのだ。
安堵した反面、先刻までの苦悩が徒労だとわかって拍子抜けした気分になる。意図せず顔が緩んだ俺に、彼女は台詞を続ける。
「ちゅっちゅは、ちゅっちゅだよ。お口とお口をくっつけるの」
ジーザス! 罠だったか!
舌足らずな口調で拙い説明をする幼女の背中に、女豹の影が見えた。年端もいかない子供にあっさり騙されるなんて……
「こうするんだよ。んむー」
いろんな意味で絶望して頭を抱える俺に構わず、幼女は思い切り唇を突き出している。表裏のない純真な子供の行動が、まさかかんなにも背徳的とは。
ちくしょう、まさか本当に見ず知らずの男性に口づけを要求していたとは。
きっと日頃から両親の過剰な愛情と唇の洗礼を受けてきたに違いない。そのせいで、彼女の中ではキスが軽いスキンシップの一環となっているのだろう。いきすぎた子煩悩も考えものだ。
ときに愛情は人を狂わせ、壊す。
それでも世界は愛に餓え、永遠に求め続ける。戦争も平和も、すべて愛の産物なのだ。地球は愛の力で自転を繰り返し、幾十億年もこの大宇宙に浮かんでいるのだ。俺は世界の真理に辿り着いてしまったのかもしれない。そんな場合じゃないのに。
「ほらおじちゃん! ちゅっちゅ!」
彼女の笑顔が眩しい。その輝きは、俗世に毒されて彼女を性的な対象で見てしまう穢れ切った両眼に染みた。
――キスしちまえよ。
耳元で悪魔が囁きかける。
本気じゃない、お遊びのキスなのだ。それに、どうせ同意の上だろう? 調子に乗って彼女の唇を隅々まで舐め回したって、俺を非難する奴なんていないさ。
一瞬、心が揺らぎかける――が、すぐに正気を取り戻し、耳朶に潜む悪魔を追い払った。
そうだ、俺は知っている。
もしも本能の赴くままキスなんてしたら、絶好のタイミングで幼女を迎えに来た母親がその状況を目撃するのだ。
俺は知っている。
発狂を始めた母親に通報されたが最後、幼女の方からちゅっちゅをせがんだという事実は揉み消され、必死の弁明虚しく俺は無知な幼女に口づけを強要した最低のロリコン野郎という烙印を押されてしまうのだ。当然、これまで懸命に続けてきた仕事はクビ。その上ご近所の方からは後ろ指を差され、ちょっとした外出すら許されないどん底生活に叩き落とされてしまう。現代社会はおっさんに厳しい。
幼女の健全な成長と俺の世間体のためになんとか回避したいところだが……それも容易ではない。断り方を一歩間違えば、彼女の心を傷つけてしまう。俺はロリコンではないが、フェミニストなのだ。
「おじちゃん?」
先刻から反応のない俺を奇妙に感じたのか、幼女は心配そうに上目遣いで俺の容貌を覗き込んだ。
この場を去って互いの心に遺恨を残すか、キスをして余生をドブに捨てるか……苦渋の選択の末、天秤はようやく傾いた。
「悪いけど、俺もういかなくちゃ……」
まっすぐに幼女を見つめ、全力で微笑みかける。
やはり、彼女のお願いは聞けない。散々御託を並べたが、ここでキスしたら、もう後戻りできない気がする。ロリコンになっちゃう気がする。
最後に一度だけ、彼女の頭を優しく撫でた。発展途上の、柔らかい黒髪の感触。
不覚にも名残惜しく感じる気持ちを抑えつけ、両足を鼓舞して立ち上がり――
ほんのり甘い味と、肩に軽い衝撃。
驚愕に目を剥いた俺の視界に飛び込んできたのは、形のいい幼女の眉毛と、短い睫毛。
そこには、俺に抱きつき、唇同士を重ねる幼女の姿があった。
刹那、思考が停止する。温かい唇に全神経が集中して、なにか考える余裕なんてない。冬の乾燥した空気の中で、彼女の唇だけは、どこまでも瑞々しい。
絶頂的な心地よさは、しかし存外あっさりと終わった。
彼女が俺の背中に回した腕を解いたのだ。
俺の足下に着地する幼女。困惑して見下ろす俺に、彼女は白い歯をこぼして、
「ばいばい、おじちゃん! また遊ぼうね!」
思い切り手を振って、公園の入口を駆け抜けていった。
それを、ただ呆然と立ち竦んで見送る。
――夢幻のような時間だった。
彼女との出会いは――交わした言葉は――そしてキスは、果たして本当に現実だったのか。まだ俺は仕事明けの布団の中で、微睡みの中にいるのではないか。
しかし、目を向けた砂場には彼女の遊んだ跡が残っているし、俺の唇は仄かに湿っている。たぶんコートの背中には、彼女が抱きついた拍子に砂が付着しているだろう。
あれは夢ではなかった。俺と接吻をした幼女は実在したのだ。
ひとり遥かな青空を仰いだ俺は、しばしその場に静止して――
「あ」
不意に膝から崩れ落ち、両手を地面に着いた。
そして、口の端を引き攣らせ、震える声で呟く。
「俺の初めて、奪われちゃった……」
年端もいかない子供とファーストキスを交わした、二十五歳の冬であった。
読んでいただきありがとうございます!
「俺のファーストキスを奪った責任は取ってもらうぜグヘヘ」的な展開を誰か代わりに書いてください。グヘヘ。




