4.出会う
唐突に意識が戻る。
寝台の上でもぞもぞしながら起き上がると、見慣れない部屋にいた。
しばらく状況がつかめず、膝を抱えてぎゅっと目を瞑る。
「…あっ」
声に驚いて顔を上げると、女性が立っている。
天宇が振り返ったことで、我に返った女性が慌ててたらいを置いて優雅に礼をする。
「お目覚めと気付かず、ご無礼をいたしました。お加減はいかがですか?天宇さま」
「…あの、あなたは?」
「私は岳家に仕える者にございます」
そこでようやく記憶がよみがえってくる。再び抱えた膝に頭を乗せる。
「おいでになってから、三日ほど寝ておられました。お熱も出されて、一時はどうなるかと」
そっとためらいがちに背を優しくさすってくれる。
「ありがとう」
優しい気持ちに唇がほころぶ。天宇の表情に、女性の顔にも笑顔が浮かぶ。
「お水をお持ちしますね」
女性は水の入った椀を天宇に渡すと、食事の用意をしてくる・・・と部屋を下がった。
彼女は部屋を出て厨房に指示を出すと、そのまま岳恭の私室へ向かう。
「失礼いたします、夏蘭にございます」
中に一言かけると、中へ入る。
「天宇殿に何か?」
岳恭と共に部屋に居た岳恭の妻、楊夫人朱蘭が心配そうな表情で尋ねる。
従姉を安心させるよう微笑むと、楊夏蘭は主人の岳恭に向かって一礼し、
「お目覚めになりました。今、食事の用意をさせております。食事を召し上がられたらお会いいただけるかと」
「そうか。様子は?」
「長らくお休みになっておられたので、状況が分からなかったようでございます。
私が岳家の者だと申し上げたら、思い出されたご様子でした」
岳恭はひとつうなずくと、夏蘭に天宇の食事が終ったら呼びに来るよういった。
主人の元を辞し再び厨房に立ち寄ると、用意された食事の膳を下女に持たせ再び天宇の部屋を訪れる。
「失礼いたします」
部屋に居るはずの少年が姿を探す。
窓辺に立つ華奢な姿を認めると、下女にもたせた膳を受け取り下がらせる。
「天宇さま。食事のご用意が」
声をかけるが、少年に返事はない。膳を卓に置くと、夏蘭は一枚衣を手にとり天宇の肩にかける。
「天宇さま?」
出来るだけ驚かさないよう、優しくその顔を覗き込む。
「あ、ごめんなさい」
ようやく声をかけられたことに気付いた天宇は慌てて向き直る。その瞳はやや赤く、涙が浮かんでいた。
あまりに悲痛な色を浮かべた瞳に、胸が締め付けられた。
「さ、食事が冷めてしまいます。しっかり食べて、まずはお身体をよくしてくださいませ」
夏蘭は努めて明るい表情で天宇の涙を袖でぬぐってやる。
少し驚いた表情を浮かべた天宇だったが、先ほどよりはっきりと笑みを浮かべ少し恥ずかしそうに俯いた。
食事を終え、入れてもらった茶の椀を両手で包むようにもって暖をとっていると、
「お寒いですか?」
と、食事中も何くれとなく世話をしてくれた女性に尋ねられた。
「少し。柳はこんなに寒くなかったんです。あなたは平気なんですか?」
彼女はにっこり微笑むと、慣れておりますからと答える。
「あの…」
起きてからずっと世話をしてもらっているのにも関わらず、名前も聞いていないことに気付く。
「あなたのことを、何と呼べばいいですか?」
「この屋敷では小楊氏と呼ばれております」
「小楊氏ですか?大楊氏もいるのですか?」
「大楊氏とは呼ばれてはいませんけど、楊夫人が大楊氏ですよ」
複姓が珍しく思ったらしい天宇ににっこり笑うと、小楊氏は主を呼んでくると部屋から下がる。
しばらく、楊夫人と小楊氏の関連がよくわからずじーっとしているとふと思い当たる。
大きい家同士の婚姻だと、新婦に不備があった場合にそれを補うために親族の娘を新婦の侍女として婚家に入れる。
どうやら、小楊氏は楊夫人の妹か何かなのだろう。
一人で納得していると、小楊氏が戻ってきた。
「天宇さま、これを」
小楊氏は布に包んだものをくれる。触れると暖かい。
「温石です。懐に入れておくと暖かいですよ」
「ありがとう」
いわれたとおりに懐に入れると、身体が温まってきた。
「随分顔色もよくなりましたね、天宇殿」
岳恭が姿を見せる。慌てて立ち上がろうとする天宇を手で制して、その向かいに座る。
「ご迷惑をおかけしました」
ぺこりと頭を下げる。
「いや、私の妹にとってあなたは弟。妹の弟は私にとっても弟。気にせず、我が家と思っていいんですよ」
じっと岳恭を見上げた天宇は、軽く眉間に力を込める。
「岳恭殿。教えてください、何故兄達が処刑されたのか」
ご存知なのでしょう?とその大きな瞳が問うている。
いずれは知らせることとはいえ、今はまだ時宜ではない。
「竜夭たちが処刑される様、みてきたのですね」
すっと岳恭の目が細められる。天宇が初めてみる怜悧な表情。
「はい。兄達が帝都へ召喚された直後に、帝の使者が屋敷にきました。兄達が不在なのを知っているはずなのに。
義姉上達に兄上達は帝のご不興を買ったから所領を召し上げると。おかしいと思って、その場に行こうとしたら止められて。
兄達は既にこうなることを知っていたように思います。私付きの従者に私を歴へ逃がすよういいつけていました」
岳恭がうなずいて先を促す。
「兄達が罪を犯しているなどとは考えられません。ですから、歴へまっすぐゆかずに帝都へ。
そこで兄達が民の前で処刑を…」
雪が舞う中散った鮮血の様を思い出してぐっと言葉に詰まる。様子を見かねた小楊氏が天宇の背をさする。
「これくらいに」
「大丈夫…です」
天宇は再び姿勢を正す。
「それから岳恭殿の元に参りました。帝によって死んだ兄上達が、何故帝の従弟に当たる公孫の国へ私を行かせたのか…分からぬことが多いのです」
さらに天宇の表情が厳しくなる。
「趙で一体何があったというのですか。兄達が一体何をしたと」
岳恭は少し姿勢を崩して足を組む。
「天宇殿。体調が回復したら、近々王城へお連れする」
「帝へ差し出すのですか?」
静かに首を振って否定を示すと、天宇は目を伏せる。
「貴方の伯母上がおられるのです。あなたが生まれてすぐに死に別れた母上の姉に当たるお方が」
天宇の顔に困惑が浮かぶ。母が死んだのは二年前であって、生まれてすぐではない。
「母が他界したのは二年前ですが?」
「それは鳳灼と獅蓁殿の母上でしょう」
確かに、長兄竜夭は母が違うと訊いていた。なのに自分も母が違うのを何故か知らなかったのだろう。
「寂しい思いをせぬよう大人になるまで伏せておくつもりだったのかもしれません。悪意があったわけではないでしょう」
柔らかな表情を浮かべた岳恭に、天宇も小さくうなずく。
「あなたの母上は希という家の出です。希家は東方の邑を治めています。
ただ、あなたの母上や父上が亡くなり、あなたが幼く希家との表立っての繋がりが切れてしまっていたのです。
竜夭は繋がりの切れてしまった希家で、あなたの母上に一番血の近い方が居られる歴へあなたを託したいといっていたのです」
「その方はどういった方なのですか?」
「先の歴王妃です。今の歴王にとっては母君にあたります」
天宇は呆気に取られた表情をしている。
「私は歴王と血縁になるんですか…」
「ええ、ですから王や太夫人がいらっしゃるときに詳しい話はさせてもらいます。
王も太夫人もあなたに悪いようにはなさらないはずです」
では今日はここまでに・・・というと、岳恭は部屋をでていった。
岳恭の大きな背が戸の外に消えると、天宇は崩れるように膝に肘を突いて顔を覆う。
疑問が解けるどころか、さらにわけが分からなくなってきた。
兄が自分だけでも生かしたい…という気持ちはありがたかったが、
幼いという理由で伏せられてきたことが多い。
早く兄達の役に立ちたい…と思いながら、結局何もせず守られていただけ。
今さえ、己一人で生きていくこともできないのだ。
情けなさで顔を上げることも出来ない。再び涙があふれてくる。
段々、どうして泣いているかも分からなくなってきた。
「恭さま。あのようなお話、まだするには早かったのでは…」
夏蘭の責めるような口調に苦笑を浮かべると、岳恭は立ち止まる。
ここ数日、天宇の世話を夏蘭に任せてきた。情も移って当然か…と思いつつ、
「陛下に拝謁する前に、少しだけ事情を聞いておかねばならぬと思ってね。
あれが何を見、何を感じたか…を。知らないなりにも感ずるところがあったのだろう。
母君の事を知らなかったのは私も驚いたが」
少し遠くを見る表情をした岳恭は、低く呟く。
「さようでしたか」
夏蘭が俯いて、結って後ろに流している髪がその顔へかかる。
顔にかかった髪をすっとかきあげてやって、軽く夏蘭の頬を撫でると
「もう少し、天宇殿についていてやってくれ」
「はい」
一礼すると、天宇の部屋へ戻っていく。それを見送って岳恭も私室へ向かう。
夏蘭が部屋に入ると、天宇が椅子で頭を抱え込んでいる。
「天宇さま。少し横になられたら…。陛下に拝謁されれば、解ける謎もございましょう。
今はあまり考えすぎない方がよろしいかと」
少し顔を上げると、小楊氏が膝を折って天宇の視線の先にいた。
「心配ばかりかけて…ごめんなさい」
小楊氏が小さく首を振った。
ゆっくりとした仕草で立ち上がって天宇が寝台に入ると、そっと布団を掛けてやる。
気疲れからか、すぐにうとうとしだす。
寝顔はやはりやや顔色が悪い。頬に掛かった髪をそっとかきあげてやると、
その手に寄り添うように天宇が寝返りをうった。
その姿に実家を継いでいる弟を思い出した。彼が幼い頃もこんな仕草をした。
しばらく天宇の寝顔を眺めていると、すっと視界に人の姿が入って顔を上げる。
「朱蘭姉さま」
「やはりまだ顔色が悪いわね」
「ええ。主は明日にでも王城へお連れするおつもりなのでしょうか」
再び天宇の顔に視線を戻す。
楊夫人・朱蘭が布団からでた天宇の肩に布団を掛けなおしてやる。
「王がいまだお戻りではないようだけど…。天宇殿も早く話を訊きたいでしょうから、
無理をしてでもいくでしょうね」
楊夫人の表情もいたわりに満ちている。その視線の先に、無心に眠る天宇の姿がある。
数日後…王城へ出仕する岳恭は楊夫人に着替えを手伝わせながら、
「今日あたりに陛下がお戻りになるだろう。明日か明後日には天宇殿を王城にお連れする」
一瞬手を止めた楊夫人は、小さく吐息をこぼした。
「何か?」
「いえ、天宇殿はそのまま王城に残られるのでしょう?夏蘭も張り合いがなくなって寂しがりましょう」
そういう楊夫人も少し複雑な表情をしている。
天宇の体調も無事回復し、楊夫人とも言葉を交わすようになっていた。
彼の態度を見ていると、今は亡き彼の兄達の姿がありありと思い出された。
その死によって、天宇は今後の人生を怨みに染めていくのかと思うと心が痛む。
「例え彼の行く道が茨の道となろうとも、国のためにその存在が必要になる」
夫の呟きに、朱蘭の顔があがる。
「え…?」
無意識に呟いた言葉を妻に聞きとめられて、はっとして口を閉ざす。
何か話そうとする朱蘭を手で制して、出仕する。
(…董氏が滅ぼされ、柳氏もまた滅んだ。次は…希氏だろうか…)
宮城へ向かう馬車の中で、これまでに帝に滅ぼされた一族を思い返している。
(希氏には太夫人を通して、今後の戦において華々しい戦果をあげぬよう控えられることを知らせておくべきだろう)
董・柳・希は大夫であるが、かつて大臣…卿を出した名族なのである。
色々と考えつつ、朝堂といわれる政務が行われる堂へあがる。
位ごとに並び、王が現れるのを待つ。
岳恭は宰相にあたるので、王座の側に座がある。
王が現れない場合、この座に来るまでに王の侍臣か太夫人の侍女が彼に耳打ちにくるが、今日はそれがない。
ようやく、帰ってきたらしい。しばらくまっていると、先触れが現れ王の姿が現れる。
一斉に王へ礼をする。
儀礼通りに朝会をすすめ、各自の職務をするために去っていく。
しばらくその場に残っていると、案の定王の侍臣がやってくる。
その侍臣に先導され、王の執務室へ通される。
「恭。悪かったな、長らく空けて」
ぞんざいな言葉が岳恭を迎える。
椅子にくつろいだ様子で座る主に、小さくため息をつく。
「おかえりなさいませ、陛下」
呆れたといわんばかりの表情の岳恭に、歴王の顔にもやや苦笑が浮かぶ。
そのまま彼は少し視線を岳恭からはずすと、控えていた侍臣を下がらせる。
「まあ、今回もどうにか無事で帰ったんだ。大目に見てくれ」
「そうはまいりませんよ、飛君」
唐突に柔らかな声が割って入る。
「母上」
歴王は慌てて立ち上がると、手ずから母を椅子へ導く。
「貴方という人は…ようやく帰ってきたというのに、母へは挨拶もないのですね」
そのように育てた覚えはないのですが…と、太夫人希氏が呟く。
会話が途切れたところで、岳恭が口を開く。
「陛下。太夫人には既に申し上げておりますが、柳天宇を保護しております」
飛君が軽く眉を顰める。
「生きていたか。あの様子じゃ、どっかで野垂れ死んだかと思ったんだが」
今度は希夫人と岳恭が怪訝な表情をする。
「王都で会った」
さらりといった言葉に、岳恭の眦がつりあがった。