終章
終章
王都で伯父とのやりとりがあってからすでに一週間。
もちろんまだ傷は治っていないが、熱が出たり腕を切り落としたりしなければならないようなことはなさそうで、まあそれなりに順調に回復してきている気がする。
とはいえユリエもルドウィークも過度にシャロンの具合を心配してくるので、うかうか軽率には動き回れない。今もおとなしく自分の部屋で寝ているところだった。……ユリエが話し相手になってくれるので、そう我慢のならないことでもないのだが。
「そういえば公爵様って、ユリエ以外にも兄弟がいるの?」
シャロンが隣に座っているユリエに話しかける。
以前、フィデルから預かった腕輪の効果を調べようというシャロンと共に魔法書を読み漁って以来、ユリエは魔法を学ぶことに目覚めたようだ。ルドウィークいわくユリエは歴代の月白のセルパンやルドウィーク自身よりも強い魔法使いなのだそうだが――今もシャロンの隣で小難しい本を読んでいる。
ユリエは首を傾げて少し考えてから言った。
「いいえ、わたしの他に兄弟はいませんが……どうしてですか?」
地下牢にルドウィークが現れたとき、シャロンの伯父に魔法を教えたのがルドウィークの姉だということを聞いた。
そのことをユリエに話すと、ユリエは納得したように頷いて言った。
「あの、……それはわたしのことです、シャロンさん。わたしがルドの姉ですもの。もちろんラヴィリア公に魔法を教えたのもわたしです。言われてみれば、シャロンさんには話していなかったのでしたね」
「へ?」
シャロンは聞き返してユリエの顔をまじまじと見る。
普通は背が低いと幼く見られがちだが、ユリエの場合は背の低さ云々ではなく、そもそも顔立ちが幼い。ルドウィークはシャロンよりも年上だろうが、ユリエはそのシャロンよりも幼く見える。
「わたしとルドは異母姉弟なんです。わたしの名はユリエ・ドラクル。純血のドラゴンなんですよ。ドラゴンは人より歳をとるのが遅いのですが、ルドのお母上は人でしたから、ドラゴンの血は半分しか流れていません。ですからわたしの方が若く見えるというわけです。もちろんハルさんの若いころのことも知っていますよ」
「ハルさんの若いころ……」
三十年前、英雄エベルハルトはドラゴンに戦いを挑んで姿を消した。――この話がちまたで流れている一般的な説だ。
ドラゴンなどおとぎばなしの中にしか出てこないような存在だと思っていたが、シャロンの目の前には実際にその存在が、いる。
しかし。
ともかくドラゴンが希少な存在であることに違いはない。
ちまたで流れているエベルハルトの英雄譚が真実だとすれば、そのドラゴンとはユリエのことを指しているのだろうか?
ユリエは言う。
「ハルさんはわたしたちの父を討伐しに来たんです」
「ユリエと公爵様の父上って、この屋敷では見かけたことないけど……、まさかハルさんが……?」
「いいえ、ハルさんといえど父を倒すのは無理だったと思います。三十年前に父が王都を襲ったのは、ルドのお母様が野盗に襲われて怒り狂っていたせいなんです。まがりなりにも貴族なのだからと、ルドの二つ目の名を陛下に賜りに行って――。でも、あの父に敵う人はいないと思いますよ。ハルさんもこてんぱにやられていましたもの」
ハルが討伐してしまったわけではないらしいので、ひとまずシャロンは安心した。
それにしてもルドウィークの父がハルに倒されたのでないのならばこの屋敷で見かけないのはやはりおかしいと思うのだが――。
「でも、ルドのお母様は野盗に襲われたときの怪我が原因で一年ほどして亡くなられてしまって……悲しみにくれた父はこの領地のどこかに籠って深い眠りについてしまったんです。あ、別に死んでしまったわけではないですよ」
「……それでハルさんが代わりに公爵様の面倒を見ているわけね?」
ユリエは頷く。
「ハルさんは父に打ち負かされたときに忠誠を誓ったんです。……わたしとしては、父は眠ってしまっているのですから、本当はもう自由にしていいと思うのですが、ずっとこの屋敷で仕えてくれているんです」
英雄エベルハルトに爵位が与えられたという話は聞いたことがないが、陛下とかなり親しかったらしいことはハルの言葉の端からうかがい知れる。
そのハルを留まらせたというユリエたちの父とは、いったいどういう人物なのだろうとシャロンは思った。
「そういえば」
ふとユリエは思い出したように言う。
「わたしが前ラヴィリア公に出会ったのも、元はといえば父が眠ってしまったせいなんですよ。普段わたしはこの領地を離れることはないのですが、ルドに領主の引継ぎをさせるために王都へ行き、そこで偶然、前ラヴィリア公と知り合いになったんです。本当は純粋なドラゴンであるわたしが領主にならなければいけないのですが……誰も年上に見てくれないんですもの」
ユリエの言葉にシャロンは少し笑ってしまった。
こうやってユリエがずっと年上なのだと言われてもどうも信じられないし、シャロンの伯父もユリエのことを「あの子」と呼んでいた。
「ごめんね」
とりあえず謝っておいた。
ユリエはなんのことだか分からなかったらしく、首を傾げてシャロンを見つめていた。
ふと。
誰かがシャロンの部屋の扉を叩いた。
……誰か、とはいっても今はハルがまだ王都にいるため、他にはルドウィークしかいないのだが、しかしシャロンは寝間着のままなので、少し待ってもらわなければ――。
「シャロン、わたしだ」
――ならなかったのだが。
ルドウィークはシャロンの返事を聞く前に扉を開けて入ってきてしまっていて、しかもそのあとにハル、そしてフィデルとウォルターが続いたものだから、シャロンは驚いて何も言えなかった。
――いや、ハルとウォルターは部屋に入ってこようとはしたものの、シャロンの寝間着姿を見てはっと我に返り、部屋の外に留まったのだが。
「来客だ。きみに用があるらしいのでしばし時間を割いてもらう」
「あの、公爵様。今はちょっと――」
「大丈夫だ、手短に済ませる。……具合でも悪いのか?」
「いえ、そういうわけではなくて」
ルドウィークとフィデルは本気でシャロンを心配しているようだった。
完璧に誤解だ。
寝間着姿のままだというのにそんなに真剣に見られてはどうすればいいのかと思ってしまう。心配してくれている二人を追い返すわけにもいかないが……。
と、そこへ。
「おまえら」
部屋に入らずにいたウォルターが低い声でそう言って言葉を切り、すうっと大きく息を吸った。
そして。
「おまえら少しは遠慮しろーっ!」
そう、叫んだ。
二人がウォルターに襟首をつかまれて引きずられていき、ユリエだけが部屋に残った。シャロンは苦笑しつつそれを見送り、部屋着に着替える。そして着替えたのち、ユリエに一同を呼んできてもらった。
「すまなかったエイリーン、ルドには妙なところで我々の常識というものが通用しないことがあるのだ。……そこのセルパン殿もご同類のようだが」
ハルはそう言って二人の代わりに謝ってきたが、当の二人は憮然とした表情をしてハルを睨んでいた。
(服なんて何を着ていても同じだと思ったのかしら)
そんな突飛な考えが浮かぶ。
ウォルターがため息をついて言う。
「おまえらな、いきなり……女性の寝室に飛び込むなんて、紳士のやることではないぞ」
「ふん」
ルドウィークは呟く。
「服なんぞ何を着ていても同じだろうに」
「同感です」
フィデルも力強く頷いた。
シャロンにとってはウォルターがハルと並ぶくらいに常識的でフィデルがその逆だということが驚きなのだが、そういえばフィデルにはユリエのドレスをめくったという前科があったなと思い出し、それも妙に納得がいった。
「それで、二人ともいったいなんの用なの?」
シャロンは尋ねた。
王を守っているはずの月白のセルパンが二人も揃ってこんなところへ来るなんて、何事なのかと思ってしまう。
それにこの屋敷の周りには結界が張ってあり、ウォルターとフィデルはそれを通り抜けられなかったはずなのだが、ここにいる二人を屋敷の主であるルドウィークが気にしている様子はない。
「今日は色々と、報告に来ました。あの事件の直後、ドラクル公とエイリーン様だけ魔方陣を使って先に帰ってしまったでしょう? わたしたちはエベルハルト様と一緒にここへ入らせていただいたのですよ」
「ああ、そうか。ハルさんは王都に置き去りに……」
シャロンはそう言ってから、カーラに眠らされていたハルを王都の宿屋に残したままにしていたのを思い出した。
王都からこの領地までは馬で一週間。ハルがここに帰ってくるまでの間、シャロンは何も考えずに屋敷で休養をとっていたわけだ。
「すっ……すいませんっ! 私、ああえっと」
「いや、あなたが気にすることはない、エイリーン。あそこで眠らされてしまったのは私が相手を侮っていたせいだ。それに、事情はすべてセルパン殿から聞いている」
ハルがウォルターとフィデルに目配せをする。
フィデルが報告に来たと言っていたが、伯父のことだろうか? ハルと一緒に王都を出てきたということは事件の処理もかなり急いだはずだが……陛下はいったいどういう決断を下したのだろう?
「まず、カーラのことですが」
フィデルは言う。
「残念ながら、あの暗殺者には逃げられてしまいました。わたし一人では手に負えませんし、何よりエイリーン様の身を最優先に考えなくてはいけない場面でしたから、逃げるに任せたほうが良いと判断しました」
まあ、カーラはかなり危険な暗殺者のようだから、皆が無事で本当に良かった。
カーラは伯父とシャロンを引き合わせる手伝いをしていただけのようだから、もう会うことはないだろう。
フィデルは話を続ける。
「――それからラヴィリア公のことですが、もう王女暗殺は考えていないと言っていました。城を出てからはラヴィリア家の領地へ戻ったようです」
シャロンは頷く。
ウォルターが次の言葉を言う。
「つまり、今回の一連の事件はそもそもなかったものとして扱われ、ラヴィリア公は実質
的に無罪放免となるわけだ。ラヴィリア公の投獄も王女暗殺未遂も極秘事項だからな。そ
れらは単なる噂ってことになってるぜ。こっちの被害は嬢ちゃんが火傷を負ったことくら
いだが――嬢ちゃんはラヴィリア公を裁いてほしいとは思ってないだろう?」
その言葉にシャロンはほっとした。
「もちろんよ」
伯父はシャロンを利用して王女を暗殺しようとしていたわけだが、結果的にはシャロン
の命を救ったことになる。伯父はシャロンの命を奪うつもりはなかったわけだから、屋敷
にいたときにシャロンの命を狙ってきたのは伯父の雇った者とは別の暗殺者だ。右手に刻
まれた魔法印がなければシャロンは危険を察知できなかったはずで、とっくの昔に命を落
としていたかもしれない。
「まあそういうことだからラヴィリア公のことはそれ終わりだ。それよりも問題になったのが、嬢ちゃんの扱いについてだからな」
「……私?」
ウォルターはそう言ってフィデルに目配せした。
フィデルはウォルターに促されて話の続きをする。
「ええ。エベルハルト様とエイリーン様の扱いに関してですが――結果的に、引き続きこのドラクル家の屋敷で預かっていただくことになりました」
「え?」
何を当然のことを言っているのかと疑問に思ってシャロンは首を傾げる。
結局シャロンは今回の事件でもラヴィリア家に戻らなかったのだから、今さら戻ろうと
は思っていない。それに、王都でルドウィークがシャロンの右手の魔法印についていた精
霊たちを追い払ってしまったから、危険を探知する能力も一緒に消えてしまったかもしれ
ない。そんな危険な状態でラヴィリア家に戻るなど、考えられない。
首を傾げるシャロンにウォルターがため息をついて言う。
「嬢ちゃんおまえ、自分が王女だってこと忘れてないか? 俺たちはこの前から分かってたけどな。あの前ラヴィリア公に育てられたんじゃどうせ城に来る気なんて起きないだろうと思ったから、嬢ちゃんにも秘密にしてたわけだが、……ラヴィリア公やエベルハルト殿にまで知られてしまったんじゃ放っておくわけにはいかないだろう?」
ウォルターの言う通り、確かにシャロンには陛下の実の子だという実感がなかった。ラ
ヴィリア家を出奔して貴族の身分を棄てたシャロンだが、前ラヴィリア公こそが自分の父
だという気持ちに変わりはない。
「でも、そんなこと言ったら王女が今のまま王女としてお城にいるのっだって問題じゃない。地下牢で言ってたでしょう、陛下は王女を次期国王にするって――」
フィデルはシャロンの言葉に首を傾げる。
「そんなこと、王女の子とエイリーン様の子を結婚させてしまえば問題ないでしょう?」
「こどっ……結婚っ?」
「はい。陛下に育てられた王女の子と、前ラヴィリア公に育てられたエイリーン様の子が仲良くならないはずはないじゃないですか」
呆気にとられるシャロン。
ふと。
ぼそりと。
「わたしがシャロンをそばに置くと言っているのだから放っておけばよかろうに」
彼が呟いた。
「あら、まあ」
ユリエが目を見開いて頬を染める。
「……ドラクル公」
「ルド」
フィデルもハルも驚いた表情で言い、ウォルターに至っては言葉が出ないらしく、ルドウィークを指差して口をぱくぱくさせていた。
シャロンにはどうして皆が色めき立っているのか分からなかったが、どうやらそれは発
言をしたルドウィーク自身も同じらしく、二人して皆の反応に首を傾げていた。
「えっと、陛下はあなたのところに預けるのが一番安全だと……そう信用してエイリーン様をここに残すことに決めたのですが……、あの、くれぐれもエイリーン様の意思は尊重して差し上げてください」
「もちろんだ」
フィデルの言葉にルドウィークは胸を張って答えた。……シャロンにはその会話を聞いてもやはりなんのことだか分からなかった。
(結婚云々という言葉の方がよっぽど衝撃的だと思うんだけど)
そもそもシャロンには結婚を考えるような相手がいない。
十年前の反乱以来、伯父が貴族嫌いになってしまったため、シャロンも他所の貴族と関わる機会がなくなってしまっていた。結婚などと言われても実感が湧かない。……ましてや子供など。
そう思ってシャロンが首を傾げていると、ルドウィークがふと思い立ったように話しかけてきた。
「シャロン」
「はい」
なんの用かと思えば、ルドウィークは胸のポケットから何かを取り出してシャロンの右
手をとり、そっと、手のひらに指輪を置いた。
「あの……これは?」
「わたしが魔力を籠めた指輪だ。この前はセルパンに先越されたが、わたしの指輪はその腕輪よりもずっと効果があるだろう。シャロン・エイリーン・ラヴィリア。わたしはきみのことを好いているからこれを渡すことにした」
その言葉に――。
シャロンは先ほどの彼の呟きと皆の反応の意味をようやく理解した。
つまりルドウィークはシャロンのことを気に入っていて、そのうち妻にする気もあるというようなことを言っているのだと。
一瞬ののち、ぼっと顔が赤くなった。
黙っていてはいらぬ誤解をされそうな気がしたので何か言い返そうと、シャロンは口を開く。
「あの、公爵様――」
しかしルドウィークはその言葉をさえぎった。
「……ああ、それから」
彼は言う。
「わたしのことを公爵様と呼ぶな。敬語も不要だ。わたしがきみをそばに置きたいと思っているのだから、きみはもっと堂々としていればいい」
一方的なその物言いにシャロンは呆れてしまい、言い返そうとしていた言葉をきれいに忘れてしまった。
琥珀色の瞳がシャロンを見つめてくる。
ルドウィーク・シャルル・ドラクラ。王都を守護する父を持ち、シャロンの伯父に魔法を教えた姉や英雄エベルハルトとともに暮らしている彼。――シャロンの命を助けたドラゴンの息子。
そんなふうにこちらを見つめるその琥珀色の瞳に、シャロンはなんとなく、まあそれならそれでいいかと思った。
結婚などまだまだ先の話だし、ルドウィークもシャロンの意思を尊重すると言っているのだから、深く考えなくともいずれ落ち着くところに落ち着くだろうと。
だからシャロンはしばし考えてから言った。
「分かったわ。受け取ります、ルド」
彼はシャロンの言葉を聞き――。
……ふっと、やわらかに微笑んだ。
皆が信じられないものを見たような表情をする。
しかしシャロンの方はといえば、地下牢で一度彼のこの顔を見ていたのでそれほど驚きはしなかった。
シャロンは彼の瞳をまっすぐに見つめる。
琥珀色の瞳はシャロンに微笑みかけている。
――ドラゴンの息子ルドウィーク。彼に好かれているのもまあいいかもしれないとシャ
ロンは思えてきた。
シャロンは彼の瞳に、笑みを返した。
(完)