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四章

 四章


 昔から、似ていないと言われていた。

 ラヴィリア家の領主を務めているシャロンの父は、細身で背が高く、真っ直ぐで特徴のある灰色の髪を持つ、――綺麗な人だった。

 シャロンはそこそこ細身ではあるがそれ以外には父とは似ておらず、美しいというよりも可愛らしいというほうが似合っている容姿で、それは王家の流れを汲む家系の母に似ていたのだが、周りの者はシャロンが珍しい父の髪の色を受け継がなかったことを特に残念がった。

 そんなシャロンに声をかけたその人は、父とそっくりの顔立ちで、シャロンよりもずっと父に近い髪を持っていた。

 ――よく似ている、とその人は言った。

 シャロンの父に似ていると。

 その人は容姿が似ていることはあまり重要ではないのだとシャロンに教えてくれた。容姿などはいくらでも変わるし、いくらでも偽れる。そういったものはよく似ていても少し接すれば「まったく違うものだ」と分かってしまうから。

 では自分は何が似ているのかとシャロンが尋ねると、その人は少し困った顔をしてしばらく考え、一般的な答えですまないが、と付け加えてから、――心が、と答えた。シャロンの行動の仕方が、細かな仕草が、考え方が……すべての雰囲気が。確かにシャロンの父の子であることを伝えているのだと。

 そう言われてみればシャロンは確かに自分は父にそっくりだと思ったし、やはりその人も父にそっくりなのだと感じた。

 それが伯父だった。

 シャロンはまだそのときは伯父というのがどういうものなのかを知らなかったので、結局どういうものなのかと聞いてみると、伯父は自分が父の兄であることをシャロンに丁寧に教えた。

 伯父は父の兄なのにラヴィリア家の領主ではなかった。

 シャロンがそのことについて尋ねてみると、――不器用だから、と伯父は苦笑しつつ答えた。

 妥協することができない性格だったから。

 伯父は王都の騎士団の長を務めていた。シャロンは王都の貴族が苦手であまりラヴィリア家の領地から出たことがなかったため詳しくは知らなかったが、王都では伯父は英雄エベルハルトの再来かとまで言われているらしかった。

 本来ならば領主と騎士団長を兼任してもなんら問題ないのだが。

 二つのことをいっぺんにできないのだと伯父は笑って言った。

 ――そんな伯父は、魔法に関しては例外だったらしい。

 シャロンの父の知り合いの魔法使いから教えてもらったのだと伯父は言った。その魔法使いは強力な魔法を使いこなしているが、琥珀色の瞳を持つ優しい娘なのだそうだ。

 だから、あの叛乱のあとは伯父はその琥珀色の瞳の魔法使いを頼らず、独学で魔法を学んだ。

 伯父がその後に行おうとしていた断罪のための魔法は、その優しい少女に学ぶにはあまりにも熾烈なものだったから。

 そもそもその叛乱はおかしなものだった。

 王の娘にまつわる大反逆。その叛乱の後に起こったラヴィリアの大断罪のせいで影が薄くなっているが、一般的にはそう呼ばれていた。

 すなわち、王女は陛下の本当の娘ではないのだと。

 不当な血筋が王家を乗っ取って繁栄するのを阻止するのだと。

 それが大義名分だった。

 その叛乱は結局伯父の率いる王家直属の騎士団に制圧されて失敗に終わったのだが、その叛乱を起こしていた側の指導者が死ぬ間際にぽろりとシャロン父の名を出した。

 ほとんどうわ言のようなものだったから、意味があるのかさえ怪しかったが、ともかく父は捕らえらた。

 これを好機と見たのだろう。

 本当の首謀者の貴族たちはそれを利用して、シャロンの父を叛乱の首謀者に仕立て上げた。

 シャロンの母は王家の血筋の者だったから、父は王女が陛下の本当の娘ではないなどというたわ言を市民に吹き込んで叛乱を起こさせ、いずれシャロンを王位に就けさせるつもりだったのだと。

 ありえなかった。

 王都にはそのときシャロンの母が滞在していた。

 その滞在は前々から決めていたことで、そんな時期に叛乱を起こせば母が巻き込まれることは容易に予想できたはずだった。

 そしてそもそも。

 陛下は良き君主で、民にも貴族にも――馬鹿げた野心を持つ一部の貴族は除くが――とても慕われていて、父も陛下を好ましく思っていた。

 ……父が叛乱を起こす理由など微塵もなかった。

 だから伯父は当然冤罪を主張し、詳しく調べるよう陛下に直訴しに行ったのだが、陛下は喪に服すと称して籠っていたため門前払いを食らって叶えられず、シャロンの父は一ヵ月後に牢獄の中で秘密裏に処刑された。

 伯父は陛下を見限って騎士団の長を辞した。

 ラヴィリア家の領主として公爵の位に就いた伯父は、ひそかに各地から魔術書をかき集めて精霊を使役する魔法を身に付けて叛乱の首謀者を割り出し、ある者には終わりのない悪夢の中に精神を閉じ込めて廃人に追い込み、ある者にはその叛乱を思い起こさせるような業火で焼き焦がした。

 魔法を使えることは周りには秘密にしていたのでその魔法は伯父が魔法使いを雇ってやらせたことになっているが、それでも貴族の数十名を戮したその事件はラヴィリアの大断罪として広く知られた。

 伯父は独断でその断罪を行ったので当然捕らえれた。

 覚悟はしていたらしい。

 処刑か恩赦か。

 意見は真っ二つに割れたという。

 しかし陛下は、伯父のその行為を月白のセルパンの「代行」という形にして無理やり臣下を納得させ、解放した。

 事実上の無罪放免ということだが、それに対してはむしろ伯父の方が納得できなかったという。伯父は爵位を返して出奔するつもりだったらしいが、根気よく陛下に説得されて思い留まったのだそうだ。

 どういうやり取りがあったのかは分からない。しかしともかく伯父はラヴィリア公に留まり、そして――。

 ――シャロンの右の手の甲に、魔法印を刻んだ。

 これはシャロンを守るものだと。

 そして、真実を明かすためのものでもあると。

 真実。

 伯父の言う真実とやらがどういったものなのかシャロンにはそのときはまったく分からなかったのでそれを尋ねてみると、伯父は苦しげに顔を歪めて、すまない、と呟き、シャロンを固く抱き締めた。

 シャロンはどうして伯父がそんな顔をするのか分からなかったが、のちにシャロンは何度もえげつないやり方で命を狙われたりしたので、そういった現実をまだ幼かったシャロンに知らしめるのは酷だと思ったのだろうと解釈した。

 それから伯父は、父の代わりにシャロンに愛情を注いでくれたが、時折悲しそうな顔でシャロンを見つめることがあった。

 そんなとき、シャロンは父に似ていない自分の顔を感謝するのだった。

 ――伯父がシャロンの顔を見ても、父の顔を思い出したりしてつらい思いをしなくて済むだろうから。


 ***

 

 宿屋。

 地下牢の隠し通路に行ってからすでに二日が経っている。

 たいしたことのない疲労で部屋に閉じ込められているのは相当退屈なことだっだ。

 フィデルにかけられた治癒の魔法の副作用で崩れていた体調も元に戻ってきていることだし、いい加減外に出たい。

 しかし昨晩はそっと部屋を抜け出そうとしてみたら、ハルが壁に背をもたれかけさせてシャロンの部屋の前に立っていて宿の外へ出て行かないように見張っていたので出ようにも出られなかった。

 今朝も朝食の前にはハルが呼びに来たほどなのだし。

 さすがに今は何やら街の方へ用を済ませに行っているようだが、シャロンが街へ行けばハルと鉢合わせる可能性があるし、城へ行って伯父に会おうとすればハルが帰ってくる前に帰れるかどうか分からない。

 というか、伯父に会おうにも月白のセルパンに止められる可能性が高いが。

(とりあえず、下に行って外の空気でも吸ってこよう)

 シャロンは寝間着から普段着に着替えて部屋を出て、馬屋の方に向かった。

 聞いたところによると昨日はハルが世話をしてくれていたらしい。特に変わった様子はないようなので、シャロンは安心する。

「二日ぶり。元気にしてた?」

 いななき。

 柵から顔を突き出して鼻面をシャロンの頬に摺り寄せてくる。

 王都に来てもう四日目だ。一週間と約半分が過ぎていて、ルドウィークが言っていた二週間まで、あと三日。……まあ、きっかり二週間ということはないだろうが、あの領主は言った通りにどうにかしてくれそうな気がしないでもない。

 伯父に会えば今の状況をどうにかできると思っていたのに、シャロン一人の力ではどうにもできない。会うことすらかなわない。

 シャロンは治りかけてきた右手に目を落とす。

 魔法印。

 まだ血がにじむので、取り替えた包帯の上からでもその紋様がはっきりと分かる。

 伯父に施してもらってから今までシャロンのことをずっと守ってきたこの魔法印が、最近どうもおかしい。

 伯父はああして追っ手の入り込めないところに保護されているのに、魔法印は変異してとんでもない火傷ができてしまったし、伯父に雇われたというカーラからはすさまじい危険を感じたし。

 というか、どうして伯父がそこまでシャロンに会いたがっているのかも分からない。

 ――シャロンが伯父に会いに行こうとしたらルドウィークやハル、月白のセルパンに止められたように、伯父もシャロンに会うことは禁じられているはずだ。地下牢に捕らえられている伯父が、外部の者と接触を図ろうとするような軽率な行動を取るとは、いったいどういうことか。

 伯父ほどの人ならば自分の立場くらいわきまえているはずなのに。

 何か理由があるのだろうか。

 どうしてもシャロンに会わなくてはいけないような理由が。

「伯父様に会って聞いてみなくちゃ。ね、そうよね?」

 シャロンはそう馬に話しかける。

 しかしシャロンの馬は返事をせず、何かを嫌がるように顔を背ける。

「え? 何?」

 馬は頭で入り口の方を指し示してきた。

 見てみれば、誰かがシャロンたちの様子をうかがっていたようだったが――シャロンに気付かれたことで、にっこりと微笑みながらこちらに近づいてきた。

 ――カーラ。

「こんにちはシャロン様。お加減はいかがですか? 先日はシャロン様に失礼を働いてしまい、大変恐縮しておりますわ。本当に、危害を加えるつもりはなかったのですが」

 にっこりと笑ってそう言うカーラに、シャロンは警戒した。

 ちらりと横目に逃げ道を探ってみたが、ここは宿の馬屋で、かなり狭いのだ。出入り口はカーラの後ろにしかなかった。

 シャロンは身構えて言う。

「あなた、また性懲りもなく来たの?」

「はい。わたくしは任務に忠実ですので」

「任務って私を伯父様のところへ連れて行くっていう?」

「その通りですわ」

疑わしい目つきでシャロンがじっと見つめていると、カーラはふふっと笑って付け足した。

「一応言っておきますが、わたくしはすぐにばれるような嘘はつきませんわ。無駄骨を折るのは趣味ではありませんもの」

 カーラがおどけた様子で両手を上げてみせる。

「説得力がないわよ……」

 なにしろ先日、味方だと思って警戒を怠ったばっかりに酷い目にあったところなのだから。

「ならば信じていただけなくても結構ですわ。わたくしはシャロン様をラヴィリア公の下へ連れて行くだけですから、いざとなれば薬でも盛って力ずくで連れて行くまでです。もちろん、素直について来てくださるのならば楽なのですけど」

「そ、そんなことして伯父様のところへ行けると思ってるの? あなた一人ならまた兵士をたぶらかしたりして忍び込めるかもしれないけど、私はできないわよ」

「また?」

 シャロンは王都に着いたときの、城壁からこちらを見下ろしているカーラを見た、という意味で言ったのだが――。

 カーラは勘違いしたらしい。

「もしかして昨日わたくしが城へ忍び込むのを見ていたのですか?」

「き、昨日っ?」

 見ていない。

 シャロンがそう口を開きかけたそのとき。

 カーラの後ろから声がした。

「それは、随分と好き勝手なことをしでかしてくれているようだな」

 戸口に老僕のハルが立っていた。

 カーラが振り向きつつそっと腰元に手をもっていき、何かをまさぐる。金属を擦るような音。――短剣。一瞬のうちに胸の前に構え、ハルに向かって駆ける。

「ハルさん、この人――」

 シャロンはハルに警告しようとしたが、ハルの方はシャロンに言われるまでもなく剣を構えていた。

 ぎぃんっ。

 ハルがカーラの短剣を跳ね返し、脇腹に叩きつけるように剣を薙ぐ。しかしカーラはそれを避けて、もう片方の手でハルの剣を、――つかんだ。

 ばしっ、と耳に痛い音がしてシャロンは思わず目を瞑った。

 剣をつかんだ手が手がざっくりと切れているかと思ってシャロンが恐る恐る目を開けてみると、カーラはそんな様子もなく剣をつかんだままそれとは反対の手で短剣を振り下ろしている。

 ハルの方はといえば、剣がつかまれているので篭手で短剣を受け止めていた。

 ぎちぎちと軽い金属音が絶え間なく鳴っている。

 拮抗状態。

 カーラがにっこりとハルに笑いかける。

「お目にかかれて光栄ですわエベルハルト様。あなた様の御武勇は聞いておりましたが、わたくしのようなしがない暗殺者にまで慈悲をかけてくださるとは……随分と手ぬるいものですね?」

「そなたの方こそ酔狂だろう。私がこうやって邪魔をしているにもかかわらず殺す気などさらさらないのだろう」

「あら、気付いておりましたの?」

 ぎぃぃん、とハルが腕でカーラの短剣を払いのけて距離をとり、また構えた。

(あれ?)

 シャロンはハルの剣の不自然さに気が付いた。

「……あくまでも剣をお抜きにならないおつもりですか」

 カーラが言った。

 鞘。

 ハルが持っている剣は抜き身ではなく、金属製の鞘がしてあった。

 王家の印――ドラゴンが彫り込まれたもの。城でハルがシャロンに見せたものだ。あのときはよく分からなかったが、剣をしまっていても細身に見えるような造りになっているらしかった。

「困りますわ。わたくしは強いてあなたを殺すつもりはありませんが、うっかりと死んでしまっても責任は取れませんわ」

「心配には及ばない。剣を抜かずとも私は本気でかかる」

 ふうっ、とカーラが深々とため息をついた。

 短剣を手の中でくるっと逆手に持ち替えて腰元の鞘に収め、シャロンの方に向き直って言う。

「シャロン様、先に行っていただけます?」

「え、あの、先に……先にって?」

「ラヴィリア公の下へですわ。この地図の通りに行けば城へ入ることができますから、地下牢の入り口で待っていてくださいまし。わたくしもエベルハルト様と話をつけたらすぐに参りますから」

 そう言われて投げて寄越されたのはこの街の地図と、魔力の籠った石だった。

「こ、この地図……っ、これ、地図?」

 読みづらい。シャロンはルドウィークから預かった街の地図をすぐに頭に思い浮かべられるほどよく覚えたのでかろうじて判別できたが、普通ならばこの街を描いたものだと言われなければ気付かないだろう。

 ところどころ茶色っぽいしみがある。ろうそくの蝋か何かとだ思って指でなぞってみたが、それらしき感触ではない。墨にしては赤すぎるのだが……。

「それは同僚が城の内部に詳しい学者を拷問して描かせたものですの。少し痛めつけすぎたので線が震えていますが、どうにか分かるでしょう?」

「拷問って……っ!」

「ええ。昨日城に忍び込んだのはこの地図を得るためでしたの。シャロン様のおかげで地下牢の隠し通路がもう一つあることに気付いたので」

 城の隠し通路で、シャロンはうっかりカーラに他の隠し通路のことを悟られるような発言をしてしまった。

 地下牢の隠し通路に入ってからカーラに疑いの目で見られたが、シャロンがしらばっくれるとそれ以上追求してこなかった。

 あのときはうまく避わせたと思っていたのだが……。

 まさかそのとばっちりを食らった者がいたとは。

「……私のせい?」

「いえいえ。シャロン様のおかげ、ですわ」

 冷たい笑み。

 思わず地図をカーラの方へ投げ捨てた。

 紙にしてはずっしりとした重量があり、思いのほか遠くへ落ちた。

 そう、紙なのに、重い。

(ということは、この地図についている茶色っぽいしみは――)

 血。

「あまり心を痛めることはありませんわ、あの学者は元々、我々が間者として送り込んだ者でしたから。ただ、待遇を良くしすぎてつけ上がり始めたようで、情報を出すのを渋りだしましたので……ついでに処分しておきましたけど」

「なんということを……」

 ハルが眉をひそめて言う。

 カーラが笑みを浮かべたままちらりとハルを見て、しかしそちらは相手にせずにシャロンの方へ歩み寄ってきた。柵があることは何度も身――特に後頭部――をもって知っているというのに、シャロンは後ずさってまた頭をぶつけた。

 しかしカーラはシャロンをどうこうするというわけではなく、ただ地図を拾い上げてひらひらと振って見せただけだった。

「駄目ではないですかシャロン様」

「……頭をぶつけてまた一歩馬鹿に近づいてしまったらしきことが?」

「あらあら違いますわ。地図をお忘れになることを、です。道が分からなくてはラヴィリア公の下へたどり着けないでしょう?」

 とぼけてみたつもりだったのだが、あまり意味はなかったようだ。

(血まみれの地図なんて持ち歩きたくはないのだけれど……)

 シャロンならばもうすでにハルから持たされた地図で道は覚えてしまったし、どちらにせよこの血まみれの地図が陛下公認の――らしい――地図に敵うような記述がされているとは思えない。

 しかし、持たずに行ったのなら行ったでまた色々と勘繰られそうだ。

 間者を放ってまで調べ上げた地図とはまた別の、しかもそれよりも正確で詳しいものを持っているなどと――言えるわけがない。

 ため息。

「……分かってる。持っていくわ」

 シャロンがそう言うと、カーラがまたシャロンの方へ足を踏み出した。

 と、その瞬間。

 ひゅん、と風を切るような音がして、カーラの手の中の地図が、指でつまんでいた端の方を残して消え去った。

 視界の端に白いものが飛び込んできてシャロンは反射的に身を縮こまらせた。

 ガッとシャロンの耳元の柱が削られて、木屑が散る。

「エイリーンに近づくな。酔狂者」

 通り過ぎたその白いものを横目にちらりと見てみれば、それは剣だった。

 剣が柱に刺さっている。

 ――地図は剣の横をひらひらと舞い落ちているところだった。

「それを」

 ハルが言う。

 取れということだろう、シャロンはその通りにして地図を手にとって広げてみると、端の方は切れているものの肝心な部分はきちんと残っていたので安心した。

「エイリーン、引き止めても無駄だと思うから先に言っておくが、ラヴィリア公の下へ行くつもりならば私はもうあなたを止める気はない。ただ、充分に用心して行きなさい。ラヴィリア公にも。それと――」

 チャキっ、とハルが剣を抜いた。

「その物騒な暗殺者はここに置いていけ。私が相手をする」

 炎の紋。

 あれっとシャロンが思って柱に刺さった剣を見てみると、ハルが構えているものと同じ紋が刻んであるが、そちらよりも幾分小さい造りになっているようだった。

 対の短剣か。

「あら、やっと本気になったんですの?」

「もとより私は本気だったのだが――」

 ハルが言う。

「私もそなたがどうしてもエイリーンを追い回すのをやめる気がないのだと遅ればせながら気付いたため、剣を抜かねばならないと判断したまでだ。――そなた、エイリーンをラヴィリア公に会わせるのが真の目的ではないな?」

 え、とシャロンはカーラを見つめた。

 カーラは――。

 後姿で表情は見えなかったが、身構えている様子はなかった。

「シャロン様」

 カーラが振り向き、少し横に動いた。

 行け、と。

(私は)

 ――行こう。

 シャロンは覚悟を決めた。

 壁際に寄ってゆっくりとカーラの横を通り過ぎ、入り口の方へ――ハルの方へ駆けていく。カーラは動かなかった。

 ハルがシャロンを気遣うように言う。

「気をつけて行きなさい」

「ええ、大丈夫、ありがとう。ハルさんも気をつけて」

 ハルがかすかに微笑んだ。

 それはほんの一瞬のことで、すぐにいつものしかめっ面に戻ってしまったが、しかし確かにシャロンはその顔を見た。

 その表情はどこかシャロンの父を思い出させるような――見守るような、表情で。

 ああ、きっと大丈夫だ。

 シャロンは思った。

 そして、シャロンは向かった。――城へ。伯父の下へ。


 ***


(……暗い)

 通路に足を踏み入れたときからすでにシャロンは、灯りを持ってくるべきだったと後悔していた。

 ――急くのではなかった。

 壁伝いに移動すれば何とかなるだろうかと思ったのが間違いだったのだろう。暗くてなにも見えないうえに、これはなかなか……怖いものだ。

 何故ならば。

「いたっ」

 何度もつまずく羽目になっているから。

 しかもこの隠し通路は中身が複雑な迷路になっているらしく、シャロンにはこの道を正しく歩いてきたのか自信がなくなってきている。

 ――暗闇。なかなか次の分岐点にたどりつかない。

 石畳の通路を踏む靴の音が壁に反響してこだまする。いくつもの足音がシャロンのことを追いかけているように錯覚させられる。この通路にも城の隠し通路と同じく魔力が満ちているから、なおさらだ。

 悪い気配ではないのだが。

(いえ、でも)

 錯覚ではなく、やはり誰かいる。

「いてっ」

 男の声。――それと。

「いてっ、て、とっ、がっ、どわっはぁッ」

 ズゥウンッ……!

 盛大にこける音。背後の方からだ。こんなふうに隠し通路を使ってシャロンのあとをつけてくるのは、カーラか……いや、この声はカーラではない。となると――。

 ため息。

「ウォルター、格好悪いですよ」

 これは前の方から。

 ぼんやりと見える影が、壁から出てくる。

 ――いや、正しくは壁の途切れ目の、曲がり角からだ。シャロンの探していた分岐点で待ち伏せしていたらしい。

 もちろんフィデルだ。

 灯りをつけていないのだが、見えているのだろうか。

「おぉー痛ーァ……」

 ふっと辺りが明るくなる。

 ウォルターが魔法の光を手の上にかざして立ち上がるところだった。

「おまえなぁ、そんなに近くにいるなら灯りをつけてくれてもいいじゃないか。嬢ちゃんが用意もせずに来ちまったもんだから、俺も灯りをつけるわけにはいかなかったんだ」

「ああ、そういえばあなたは見えないのでしたね」

 フィデルが言う。

「……あなたは、って」

 シャロンがぽつりと呟くと、フィデルはにっこりと笑って自分の顔の、目の辺りを指差した。

「わたしの目は精霊の加護を受けているのですよ。父はドラゴンの血を引いていたので、そのよしみです。それに、魔力の質を見分けるのが得意なのも。――エイリーン様、泥棒からの預かり物を返していただけますか?」

「ど、どらっ、どろっ……て、泥棒?」

 突込みどころが多すぎてうまく言葉にならなかった。

「はい。どうやら城に好ましからぬ者を忍び込ませてしまっていたようです。宝物庫からとある石が盗まれていましたので、エイリーン様の手に渡っているはずだと」

「私に? どうして」

 城に入り込んだといえばシャロンを追っていたカーラくらいなものだが――。

(……あ)

 シャロンは思い至った。

 宝物庫から盗まれた石などというくらいだから高価な宝石か何かだと勘違いしてしまったが、確かについ先程カーラから魔力の籠った石を渡されていて、それは今もシャロンのドレスのポケットの中に入れられている。

 盗まれたものだとは知らなかったが、いったい何のために渡してきたのか。城に入るために必要なものだとばかり思っていたのだが、そうではなさそうだ。

 シャロンが首を傾げていると、ウォルターが言ってきた。

「その盗まれた石っていうのはある種の魔法を弱める働きをするんだ。ラヴィリア公に近づこうとすれば嬢ちゃんの魔法印が反応するから、そのために渡しているだろうと」

 シャロンは首を傾げる。

(伯父様に近づいたら魔法印が反応する……?)

 幼いころから親しんできた伯父に魔法印が反応するというのはどういうことかとシャロンは思った。

 だいたい伯父が狙っているのは王女の命であって、シャロンの命ではないはずだ。

 しかし。

 シャロンには彼らが嘘をついているようには見えなかった。

 魔法印はカーラにも反応している。――もし反応の原因がカーラ自身にではなく伯父にあるとしたら、それも納得いく。

「嬢ちゃん?」

 黙りこんだシャロンにウォルターとフィデルが怪訝な顔をする。

「エイリーン様、その石の魔力は地下牢の魔方陣と同じく王都を守護するドラゴンが籠めたものです。ですから、わたしの血筋のドラゴンとは種族が違いますが見分けることはたやすい。隠していても分かりますよ」

 シャロンはぐっと言葉に詰まる。

「か、隠しているつもりはないけど……」

 どうするべきか。

 フィデルに気付かれないようにちらりとシャロンは通路の方に目を向けた。

 こんなところで魔法を使えば通路が崩れてしまうかもしれないから、フィデルは魔法は使ってこないだろうと思う。

 曲がり角。ここを過ぎて少し行けば内側からかんぬきをかけられる扉がある。

 しかしフィデルを押しのけて通路を進んだとしても、シャロンの足の速さではセルパンには敵わない。扉のところにたどり着く前に捕まえられてしまえばかなりまずいことになりそうだ。

 しかもシャロンには灯りもない状態だ。

 灯りなしで暗闇を平気で歩けるような者でもなければ地下牢に着く前に別の道から先回りされてしまう。

 シャロンは諦めて服のポケットに入っている石を取り出した。

 フィデルに石を渡そうと手を伸ばすと――。

 はっと、ウォルターが顔を強張らせてフィデルに向かって鋭い声を上げた。

「待て! 受け取るなッ」

 え、と思ったときにはもう遅い。すでにフィデルの手の上に、その石を置いてしまっていた。

 ひゅん、と風を切る音がして、何かが飛んできた。

 フィデルは風を起こしてそれを落とそうと試みて手を振った。

 しかし。

 何も起こらなかった。

「……あ」

 何かぼんやりと光るものが横切り、気が付いたときにはざっくりとフィデルの腕に切り傷ができていた。

 刃物で切ったような傷。

 大丈夫なのかと思っていると、フィデルに石を差し出された。

「エイリーン様、これを」

「え、あの……、え?」

 カーラに奪われたその石を、せっかく取り返したというのにまたシャロンに渡すとはどういうつもりなのだろうか。

 フィデルが言う。

「わたしがこれを持っていると魔法が使えません」

 そういうことか。

 ならばシャロンには遠慮する理由がない。シャロンがそれを受け取ると――、また何かが飛んできた。

 きぃんっと、甲高い金属音が通路に響く。

 ウォルターが剣を構えていた。

 その足元には短剣。剣で払い落としたらしい。

 こつこつと靴の音がして、ウォルターが作り出した光の届く範囲にその人物はためらいもなく足を踏み入れた。

 黒い衣装。

 シャロンは顔を見なくてもそれが誰なのか推測できた。

 カーラ。

「追いつきましたわシャロン様。意外と進んでいないと思いましたら……シャロン様は暗闇に慣れていないのですものね? うっかりしていました。灯りを持っていくように言っておくべきでしたわ」

 カーラも暗がりは平気らしい。

 しかし、見た感じでは無傷で息すら切れていないようだが、カーラの相手をしていたはずのハルはいったいどうなったのだろう。――シャロンがそう不安に思って見ていると、カーラはそれを察して言った。

「エベルハルト様のことでしたらご心配なく。眠らせて部屋に運んでおきましたわ。あの方は英雄ですから、できれば怪我をさせずに退かせたかったのですが、……さすがにわたくしの力では無理でしたので、傷口に眠りの魔法を叩き込んでおきました」

 確かに、シャロンは伯父から聞いたことがあった。魔法というのはある程度熟練した者が使えば人の身体を介することで威力を増大させることが可能なのだと。

 誰かを触媒にしてまた別の者に魔法をかけるのはかなり高度な技だが、触媒にする者と魔法をかけられる者が一致するならば比較的簡単に行える。その方法は血の流れを利用することで魔法の効率を上げるというものであり、もっとも初歩的なのはカーラが行ったように相手を傷つけてからそこへ魔法を放つことだ。

「なるほど、随分と物騒な泥棒だな? しっかりとこんな小細工まで用意してくるとは」

 ウォルターがそう言いながら足元に落ちていた短剣を拾い上げた。

 刀身がかすかに光っている。最初はウォルターが魔法で出した光を反射しているのかと思ったが、影になっているはずの部分も不自然に光を放っている。

 文字。どうやら魔法印の一種が書かれているらしい。

 ウォルターが口の中でぶつぶつと呪文を唱えると、手に持っている短剣が一瞬だけ炎に包まれて、次にはもう魔法印は消えていた。

 口元に笑みを浮かべたままカーラが他の短剣を数本取り出して軽く手のひらでさっと刀身を拭うようにはらうと、ぼんやりと文字が浮かび上がっていた。どうやらこれが眠りの魔法らしい。短剣で切り裂かれれば魔法を食らってしまう。

 カーラが構えた。

「フィデル!」

 ウォルターが叫ぶとカーラは持っていた短剣を投げた。フィデルはすでに呪文を唱えていたらしく、それとほぼ同時にシャロンの横から風が吹きぬけた。

 短剣はウォルターを切り裂く前に通路に落ちた。

「二対一ですか……まあそれもいいでしょう。そのほうが好都合ですもの。お相手いたしますわ」

「……好都合?」

 こっそりとカーラがシャロンに目配せをしてきた。また、カーラがセルパンたちを引き留めると言うことだろう。

 それに気が付いたフィデルがはっとしてシャロン腕をつかんだ。

「あら、そんな隙を作ってよろしいのですの?」

 くすりとカーラが笑った。

 短剣。

 フィデルがまた呪文を唱えたが、小さく空気がそよいだだけだった。

 石の力がシャロンに触れているフィデルにも働いているらしい。一瞬、迷ってからシャロンを放して呪文を唱えなおすも、そのときにはカーラはすでに短剣をフィデルに向けて投げていた。

 ウォルターが剣で振り払おうと飛び出していたが間に合わず、数本落としそびれたうえに自分も足に傷を負った。

「ぐっ……」

 からん、とウォルターが剣を取り落として膝をついた。

 光も弱まる。

 フィデルの方は今度は傷を負わずに済んだようだったが、先ほど負った傷から血が流れている。こちらも状況が悪いようだった。

「あの……、大丈夫?」

 唯一無傷であったシャロンが――無論、カーラがシャロンには短剣が当たらないように意図的に投げたからだが――おずおずとフィデルに尋ねた。

「大丈夫です。大丈夫ですが……少々厄介なことになりましたね。どうやらあまり強い魔法ではないようですが、効果を打ち消さなければそのうち動けなくなるでしょう。そうなるとどうなるか――」

「あら、心配なさらなくてもよろしいですわ。わたくしの仕事はシャロン様をラヴィリア公の下へ連れて行くことですもの。あなた方がおとなしくしてくだされば、これ以上手出しはいたしません」

 心外だ、というような表情でカーラはそう言った。

 ウォルターが足に刺さったままの短剣を一気に引き抜き、自分の剣を拾ってなんとか立ち上がった。

「だから、それが一番心配だと言うんだ、暗殺者。嬢ちゃんをラヴィリア公に会わせるわけにはいかない。特にあんたのような胡散臭くて何を考えているのか分からないような奴と一緒には行かせられないだろう?」

「とは言えあなた方にシャロン様を引き留めるすべはないようですが?」

 そう言いながらカーラはシャロンを見つめてきた。それにつられてウォルターとフィデルもシャロンの方を見る。

「私は……」

 引き留めようとしている二人を置いて行くのは気が引けるが、伯父のところへ行って今度こそことの真相を聞かなければ、機会を失う。

 十年前の叛乱のせいで父が処刑された経験を持つシャロンは、今こうして捕えられている伯父も秘密裏に処刑されるのではないかと不安で、不安で、――ただ待っていることなどできなかった。

(――私は)

 答えは一番初めから決まっていた。

「伯父様に会いに行くわ」

 こんな状況にもかかわらずウォルターはシャロンの言葉を聞いてやれやれと言うように肩をすくめてため息をついた。

「分かった。嬢ちゃんがそのつもりなら、行ってくるといい。……この暗殺者とやり合うには嬢ちゃんがいないほうがよさそうだからな。俺たちもさっさとけりをつけて嬢ちゃんを止めに行く。そのときはきっぱりと諦めておとなしく捕まってもらうからな」

 シャロンは頷いた。

「ええ、そうさせてもらうわ」

 攻撃を受けて弱まったとはいえ、ウォルターの出している光のおかげで少しは歩きやすくなっているようだ。

 それに、ここを曲がれば、あとは一本道。

 シャロンは足を踏み出し、地下牢の部屋へと続く角を曲がった。


 ***


 扉。

「……これはどうしろというのかしら」

 シャロンは深々とため息をついた。

 地下牢へ入るためにはこの扉をどうにかしなければならないことをすっかりと忘れていた。

 王族の者と月白のセルパンしか通さないというドラゴンの扉。

 魔力で動くもののようだから、力押しで動かそうとしても無駄だろうし、そもそもシャロンにはこの鉄の扉を動かすだけの力はない。

 ここで足止めを食らうとは。

 困ったなと思い、シャロンは試しに軽く扉を叩いてみる。

 ぼっ、と扉から魔力が炎のように飛び出てきて揺らめいた。思わずシャロンは身を引いた。

 炎が尾を引いて何か形をとる。

(ドラゴン?)

 細長い身体に翼が生えているような――扉に彫られているドラゴンと同じだ。

 もちろん、ドラゴンといっても魔力の残滓でできた光の塊に過ぎないのだが……どうやら意思を持っているらしい。

 そのドラゴンは頭を動かしてシャロンの右腕に嵌められている腕輪に目をやった。フィデルから渡された白銀の蛇の腕輪、月白のセルパンの腕輪だ。ちらりと二匹の蛇の目がドラゴンの方を見た気がした。

 しばらくドラゴンは腕輪を見ていたが、やがてシャロンの右手の魔法印に目を移し、それから、シャロンの顔を見上げてきた。

 目が合った。

 シャロンには、こちらを見つめていたドラゴンが目を細めて、一瞬、笑みを浮かべたように見えた。シャロンよりもずっと強大な存在。琥珀色の瞳で口元にはちょっと人を小馬鹿にしたような不敵な笑み。

 ゴォオオオオっ……とそのドラゴンが吼えた。

 風が起こり、ドラゴンの魔力を巻いて通路を駆け抜ける。

 城の隠し通路と同じように、この通路でも長年の間に積もり積もった塵も一緒に舞い上がったが、シャロンはドラゴンから目が離せなかった。

 ――通れ。

 シャロンの頭の中で声が聞こえた。

 え、と思ってシャロンがドラゴンに顔を近づけると、収まりかけていた風とともにふっ

と掻き消えた。

 そして。

(扉が……)

 開いていた。

 月白のセルパンの腕輪のおかげだろうか?

 いくら腕輪を嵌めてるとはいえドラゴンがセルパンとそうでないものを見分けられない

はずがないと思うのだが。

 あるいは単なる気まぐれか。

 しかしともかく扉は開いたわけだ。

 どういうわけだか辺りが明るい。シャロンが陰から中を覗いてみると、地下牢の魔方陣が輝いているのが見えた。伯父は魔方陣の中央に置かれていた椅子から立ち上がってこちらの方を見ていた。

「陛下?」

 伯父が言う。

「そこにいらっしゃるのですか」

 シャロンは隠れたまま首を傾げる。月白のセルパンではなく、真っ先に陛下のことを思

い浮かべるとは、いったいどういうわけなのだろう。陛下もしばしばここへ来ているのだ

ろうか。

「陛下」

 呼ばれて、シャロンは物陰から出て行った。

「あの、えっと……違います。私です」

「シャロン? 陛下はいらっしゃらないのか。セルパン殿も。しかしこれはいったいどう

したことか……」

 伯父は驚いたようにシャロンを見つめ、それから光る魔方陣を見つめ、またシャロンを

見つめた。

 それから、シャロンの腕に嵌められている腕輪を見て納得したように言った。

「そうか、それで」

「伯父様?」

「この魔方陣は王族の者が近づくと効果が増すようになっている。噂では、ドラゴンを呼び出すことができるというが……。傍系とはいえ、シャロンは王家の血を引く。その腕輪を身に付けていたせいで、王家の者と間違えられたのだろう」

 王家の流れを汲む家系の母、その娘のシャロン。

 シャロンは恐る恐る魔方陣に近づいて、端の方を少し踏んでみた。

 踏んだところがぼうっと明るく光ったが、それ以上の変化は起こらなかった。

 ほっと息をついて伯父の方へ近づいた。

 ちりり、と腕が痛む。

 セルパンの言ったことは本当のようだ。――伯父に魔法印が反応しているのをシャロンは感じた。

 伯父は言う。

「それで、何を聞きたい」

「えっと」

 何を、と改めて聞かれてみるとなかなか答えづらいものだとシャロンは思った。

 聞きたいことはこの事件のことのみ。しかし頭の中で言葉を選んでみたが、とてもシャ

ロンの口から言えるような内容にはまとまらなかった。

(どうして王女の暗殺を企てたのですか? なんて、いきなり聞けるわけないもの)

 急がないといずれ月白のセルパンかカーラか――決着をつけたほうがここへ来てしまう

から、無駄なことを聞いている暇はない。

 シャロンが黙っていると。

「どうして王女の暗殺を企てたのか? とは訊きづらいか」

 伯父が聞いてきた。

「あの、それは……だって」

「いや、言わなくていい。私が王女の暗殺を企てたのは――復讐のためだ」

「復讐のため……?」

 一番可能性がないと思っていたその事実を突きつけられて、シャロンは耳を疑った。

 シャロンは驚いた表情で伯父を見つめた。

 その表情は、あくまでも穏やかだった。

「王の娘にまつわる叛乱、あれが――お前の父が叛乱の首謀者として捕まった直後、私は陛下に真相を解明するよう求めたが陛下は耳を傾けてくださらなかった。部屋にお通ししてくれなかったのだ。兵に拒まれてな。陛下が籠っておられるうちに処刑は実行され、事件はうやむやにされた」

 そのことはシャロンも知っていた。シャロンの父に仕えていた従士たちから何度も聞か

されたし、伯父自身からも一度だけ、聞いたことがあった。

 従士たちは、貴族たちが騒ぎ立てて陛下にシャロンの父が首謀者だと信じ込ませたのだ

と憎々しげに語っていた。

 また、陛下に対しても苦くも思っていたらしい。処刑は王の命令でしか実行されないこ

とになっているから、シャロンの父の処刑を止めなかったということは、貴族たちの言葉を信じたということだ。

「私は納得がいかず、真実を知るために魔法を駆使して首謀者を調べ上げていった。しか

しそのうちに、私はとんでもない事実を知ってしまった。すなわち、王女は噂通り、陛下

の御息女ではないという事実だ」

「えっ……?」

「事実だ。これはのちに陛下に直接問い詰めてみた。私が聞いたときにはそのことは月白

のセルパン――先代のセルパンだが――にも知らせていなかったらしい。しかも陛下は、

そのことをあの叛乱以前に知っていた、と」

「……それでは、つまり、陛下は黙認していたと?」

 伯父は頷いた。

 王の娘にまつわる大反逆。それが起こる前に本物の王女を見つけて問題が解決されていれば、そもそもそんな叛乱など起こらなかったのかもしれないのに。

 王家の娘が実はまったくの別人だったなどということがおおやけに晒されれば混乱が起

きたかもしれないが、実際に起こった叛乱とその後に伯父が起こしたラヴィリアの大断罪に比べればもっと穏便に事が収まっただろう。

「そうだ。本物の王女の行方は分からない……今の王女が自ら意図して成り代わって演技

をしているわけではないようだから、何者かにより物心もつかぬ幼いころに入れ替えられ

たのだろう。しかしこれならば、叛乱が成功していたほうがまだましだというものだ。どこの者とも知れぬ者がこの国を動かすことになるよりは……」

「でも伯父様、そのために陛下の御息女を暗殺するというのですか?」

「あれは陛下の娘ではない」

 伯父が鋭い声で言い放った。

 びくっとシャロンが身を縮こませる。

「シャロン、赤の他人のためにお前の父は殺されたというのだぞ。陛下もセルパン殿も見

て見ぬふり……この国をどうなさるおつもりなのか、それが私には解せない」

「陛下は思慮深い方です。伯父様のことも、――危害を加えるつもりはないと、陛下は伯

父様のことを好いているとセルパンが言っていました」

 ふっと、笑み。

 シャロンは何度もその笑みを見ていた。寂しそうな、苦しそうな微笑み。

 伯父は言う。

「それはよく知っている。私がひどく残酷な方法で復讐を遂げようとしていることも。王

女を暗殺したのち、私はおおやけに王女が偽者であることを伝えるつもりだ。……偽者であるとはいえ王女は王女、私は罪に問われ、処刑されるだろう。陛下は優しいお方だから私以外のラヴィリア家の者を処罰なさることはないだろう」

「しょっ……」

 処刑。

 王女とシャロンの伯父を同時に失うことは陛下にとっては酷なことだろう。陛下は王女のことも伯父のことも大切に思っているらしいから。伯父もそれを見越して暗殺などという企てをしたのだろう。

 シャロンの父の命が奪われたのと同じように、伯父は王女と伯父自身の命を奪うことで

陛下に復讐するつもりなのだと、シャロンは気付いた。

「伯父様、いったいどういうつもりですか! 伯父様といえど、そんな企みは私が許しま

せんっ」

 また、笑み。

 しかし今度は――、なにか諦めたような、さっぱりとした笑みだった。

「お前の了承を得られないのは非常に残念だ、シャロン。あまり手荒な真似をしたくはな

かったのだが……」

 一歩、伯父がシャロンに歩み寄った。魔方陣から出ることはできないことを、地下牢に関する噂話で知っているのに、シャロンは思わず一歩下がった。

 伯父は魔方陣の中央でしゃがんで片手をあて、何かの呪文を唱えた。ぼうっと魔方陣の光が増して風が巻き起こり、次の瞬間――魔方陣の模様が変わった。魔力が中心に向かって流れていく。

「すまないな、シャロン。この魔法はここに描かれた魔方陣の効果を、魔方陣の中にいる者の魔力を高めるようにする図形に書き換えるものだ。どうしてこんな、王家でもごく一部の者にしか伝わっていないような魔法をあの子が知っていたのかは分からないが……」

 あの子、と伯父が言うときそれはいつも、伯父に魔法を教えた少女を指しているということをシャロンは知っている。

 伯父がその少女から教わった魔法を生半可な気持ちで用いることはないことも。

 しかし魔方陣の効果が変わったということは、伯父を閉じ込めているものがなくなったということで。

「シャロン」

 伯父は言った。

「お前の協力が必要だ」

 近づいてくる伯父に好ましくない雰囲気を察し、シャロンは入ってきた隠し扉の方へと走った。

 背後で伯父が呪文を唱えるのが聞こえ、ゴォッと空気が揺れた。

 壁が、崩れた。

 そして別の通路も次々と。

 通路を塞がれれば当然逃げ場がなくなるわけで。

「協力って、どういうことですか伯父様」

「シャロンは気付いていないだろうが、この魔方陣以外にも私を閉じ込める結界が部屋に張り巡らされているのだ。魔方陣とは違って魔法を阻害する効果はないが、私がこの部屋から出ることはできない――これは私がこの計画を立てていたときからおおよそ分かっていたことであり、そのためにお前のその右手に魔法印を刻んだ」

「でも伯父様、この魔法印は……」

 シャロンは自分の右手に刻まれた魔法印に目を落とす。

 この魔法印は、シャロンを守るものだと、そう伯父は言っていたはずで、間違っても王女暗殺に使われるようなものではない。――はず。

「そうだな、最初は……本当に最初の、その印を刻んだ当時は純粋にお前を守るためのも

のだったのだが、しばらくしてから私は気付いてしまったのだ。これは使える、と。絶対

的な守りを誇る月白のセルパンをはじめとする王家の壁をすり抜けることができると」

 シャロンは思い出す。

 この魔法印は伯父の手によって幾度となく書き加えられ、その度にシャロンは危険に対

する信号を鋭く感じられるようになっていったことを。

「その印には炎の魔法が籠めてあり、発動すれば王女は死ぬ。印を書き加えて魔法を強化

したまでは良かったが、どうやら少し魔力が漏れていたらしいな。お前が探知していた危

険は、本当は無視していても構わなかったのだ、シャロン。あれはおそらく王女の命に関

わる危険を探知していただけだからな」

「王女に……対する?」

「そうだ。その石を受け取ったのならば分かるだろう。あの者はお前の見張りにつかせて

いただけで、お前に危害を加えさせるつもりなど初めからなかった。魔法印が反応するの

はあの者が私の命令に従っているからだ。その魔法印が私に反応するのと同じように。私

は王女にとって危険な者だから」

 シャロンには伯父が本気なのだと分かった。本気で、王女を殺す気だと。

 逃げ場は、ない。

(でも逃げなくちゃ)

 シャロンは崩れた壁で塞がれた入り口に向かい、石を除け始めた。

「やめなさいシャロン! そこは崩れる――」

 伯父が言って、駆け寄ってくる。

 え、と振り向いたときには上の方からカラカラと小石の転がるような不穏な音がしていて、シャロンは本気で、危ない、と思った。

「シャロン!」

 この距離ではとても届くはずもないのに、伯父が手を伸ばしてくる。

(……ああ)

 シャロンは思う。

(伯父様は、本当に)

 本当に、優しい人なのに。

「――シャロン!」

 伯父が叫ぶと同時に、我に返った。

 時間がゆっくりと過ぎるように思えた。

 いや。

「あれ?」

 シャロンは首を傾げた。

 実際に、ゆっくりなのだ。重力に逆らうかのようなとても鈍い落下。シャロンのそばの

崩れた石だけが、そう。

 シャロンにはこれが魔法なのだと分かった。

 壁の向こうで呪文を唱える声が聞こえる。そして、ぼうっと石が光を発し――ふわりと

浮かび上がった。崩れた壁の残骸の山も元の場所に戻っていく。

 そこに立っていたのはフィデルだった。

 無事であったのかとシャロンはほっとする。

 カーラの短剣を受けたハルはまんまと眠らされてしまったが、フィデルはドラゴンの血を引いているので魔法が効きにくいのかもしれない。

「セルパン殿」

「動かないでくださいラヴィリア公」

 一瞬立ち止まっていた伯父がまた動きかけ、それをフィデルが静止した。

 睨み合い。緊迫した空気がその場に流れ、二人に挟まれる形で立ち尽くしていたシャロ

ンは戸惑いつつ双方を見比べた。

「あの……、フィデル、あなた伯父様に危害を加えたりしないわよね?」

「努力はします」

 不穏な言葉だ。

 緊迫。

 そして次の瞬間には、シャロンをはさんだまま魔法戦が始まっていた。

 二人はシャロンには当たらないように魔法を放っているようだが、それでもこう間近で魔法を繰り出されてはひやひやする。それに、下手をすれば壁が崩れて三人とも生き埋めだ。……伯父やフィデルがそんな無茶な戦いをするとは思えないが。

 しかしとりあえずシャロンは隅の方に避難しておくことにする。

 シャロンも伯父を止めたほうがいいとは思っているのでフィデルを応援したほうがいい

のだろうが、しかし……複雑な気分だ。

(私は……)

 キイィインッと甲高い音がした。何かが砕けて飛び散り、シャロンの頬に当たった。氷

だ。どうやら伯父の放った魔法をフィデルが弾いたらしい。さらにフィデルが風の魔法で

あたりを巻き上げ、伯父が体勢を崩したところへ、なにかシャロンの知らない魔法を放っ

た。

 伯父が呻いて地面に膝をつく。

「お……伯父様! フィデル、手加減してってば!」

 思わず駆け寄ろうしたシャロンと伯父の間にフィデルが割り込んで止める。

「申し訳ありませんエイリーン様、残念ながらそんな余裕はないようです。殺しはしません、必ず助けますからどうか下がってください。彼に触れればどうなるかは分かっているはずでしょう? あの暗殺者に腕輪を取られるよりも酷いことになりますよ」

 シャロンはカーラに腕輪を取られたときのことを思い出してぞっと身を震わせる。魔石とセルパンの腕輪を持っている今でも危険を感じているというのに、もし伯父に直接触れでもしたらいったいどうなることか。

 それに伯父がそんな機会をみすみす見逃すとも思えない。すぐさま魔法印を発動させて

王女を暗殺し、それでおしまいだ。それでは結局伯父を救うことができない。

 ……しかし、伯父は降参する気はないようだ。

 きん、とまた魔法が放たれ、それをフィデルが押し返す。

 いくら魔法が得意な伯父でも月白のセルパンのフィデルとでは力の差がありすぎる。押し返された魔法でまた傷を負った。

「伯父様!」

 シャロンが叫んだ。

 また魔法。しかしやはりたやすく受け止められる。いくら撃っても。

「ラヴィリア公、諦めていただけませんか!」

「くどい!」

 炎が吹いた。

 フィデルが風で炎をかき消す。大量の火の粉が伯父に襲い掛かり、辺りを焦がす。

 このまま放っておいたら伯父がフィデルにやられてしまう。

(私は……)

 シャロンは。

 カーラからもらった石を床に棄て、月白のセルパンの腕輪も――手放した。

「いけない、エイリーン様!」

 淡い琥珀色の瞳と目が合った。

 からんからんと腕輪の転っていく音が細長く響く。

 一瞬ののちに、シャロンは全身を炎の魔力が駆け巡っていくのを感じた。焼けるような

痛みが走る。どさっと床に崩れ落ち……それきり、立ち上がれない。

 ごおっと耳元で音がする。

 シャロンの周りを炎が取り巻いていた。

 フィデルも伯父も、その魔力の余波で弾き飛ばされ、床に倒れていた。怪我はないようだが、魔力をまともに食らったため意識が飛んだらしい。

 片手で頭を押さえながら伯父が立ち上がる。

「なんだ……これは、様子がおかしい」

 戸惑ったようにそう言って、また呪文を唱える。そして、目を見開き、口を半開きにしたままよろよろと後ずさった。

「何故だ? どういうことだ」

 伯父がぶつぶつと呟く。

「馬鹿な、どうして対象がシャロンに変わって、……魔法が勝手に発動している? それに、どうして魔法が解けない?」

 フィデルも立ち上がって言った。

「ラヴィリア公。もとからこの魔法はこうなるように設定されていたのです。あなたがそのようにしていたのではないですか。炎の精霊を使役しているのでしょう? いったいどんな命令をしたのです」

 伯父は戸惑いつつフィデルとシャロンを見比べた。

 そして、言った。

「……王族にあらざる王の娘を殺せ、と」

 その言葉を聞くと、フィデルは力なく首を振った。

「なんてことを……それはまさしくエイリーン様のことではないですか。こうなってはこの魔法はわたしには止められません」

「何故だ、いったいどういうことなのだ」

 フィデルは言った。

「シャロン・エイリーン・ラヴィリア。この方こそ陛下の本当の子です。そして、あなたの知っている通り今は王族ではなく、ラヴィリア家の娘としてここにいる。――精霊たちはわたしたちよりも博識ですから、慎重に命令しなければならないことぐらいあなたも承知していたでしょう?」

 伯父は絶句した。そして、倒れているシャロンを見て驚いたような表情をする。

 シャロンもフィデルの言葉に驚いてはいたが、痛みに耐えるのに精一杯で、喋るどころ

ではない。

 フィデルはシャロンに癒しの魔法をかけながら言う。

「王の娘にまつわる叛乱。あの時点で陛下は王女が実の娘ではないことは知っていましたが、本物の王女がどこにいるのかまでは知りませんでした。ですから、前ラヴィリア公を疑ったことも事実です。そのため陛下はその真偽を確かめるために喪に服すると称して部屋に籠られ、処刑を先延ばししようと試みられたのです」

「馬鹿な、実際私の弟は処刑されてしまったではないか! 王命がなければ処刑は実行さ

れないはず。ならば陛下が処刑の許可を出したとしか……」

「いいえ、陛下は前ラヴィリア公の処刑を許可した覚えはないと言っていました。あれは

叛乱の首謀者の貴族たちが陛下の合意を得たと偽って処刑人を言いくるめてしまったために実行されてしまったのです。陛下は部屋に籠られていましたし、わたしたちの師である前セルパンは陛下の命令で叛乱の首謀者を探していましたから、気が付いたときには前ラヴィリア公はすでに……」

「そんな……、では陛下は……私は……」

 伯父は膝から崩れ落ち、床に両手をついて首を垂れた。

「陛下はラヴィリアの大断罪のあと、あなたに捕まることなく生き残った首謀者の一人か

ら、陛下の本当の子の行方を聞き出しました。それによると陛下の子は生まれてすぐに、

ちょうど同じころに生まれていた前ラヴィリア公の娘と入れ替えていたというのです。陛

下にも前ラヴィリア公にも気付かれないうちに。……あなたが裁いた首謀者の一人に王家の血を引いている者がいたでしょう? 叛乱ののち、王女が噂通り、陛下の本当の子ではないと周りを言いくるめて陛下を退位させ、自分が王座に就くことを計画していたようです」

 フィデルは言う。

「事実を知った後も陛下が本当の王女を取り戻さなかったのは、ラヴィリア家に対する負

い目を感じていたからです。陛下の意思ではなかったとはいえ叛乱で前ラヴィリア公の奥方を死なせてしまい、前ラヴィリア公も殺させてしまった。だからせめて、次期国王は前ラヴィリア公の本当の子が就けるようにと、真実は陛下の胸の奥深くにしまっておこくことにしたそうです。……それでもまだ、王女の命を狙いますか? 王女があなたの弟の実の子でも? それともここに倒れている本物の王女でも狙いますか?」

 伯父が顔を上げる。

「そんなことは……! ありえない。シャロンも……王女も、あれの大切な忘れ形見だ、

絶対に失うわけには……」

「では手伝ってください。精霊を散らしてあなたがかけた魔法を解きます。うまくいけば

助かります」

「分かった」

 シャロンは伯父とフィデルのやり取りをぼんやりとした意識の中で聞いていた。

 しかし、魔法を解くことは無理だろうとシャロンは思っていた。先程からフィデルが癒

しの魔法をかけているが、ほとんど効いていないのだ。精霊の力はかなり、強い。

 フィデルが呪文を唱える。

 魔力が風のように吹き荒れ、舞い上がる。

 精霊たちが抵抗し、四方八方に魔力の炎を散らす。

 火の海。

 ……どうも相性が悪いようだ。

 視界が、もやがかかったかのように白くかすんでぼやけている。……あまりいい状況と

は言えない。

 シャロンは意識を保つために通路の入り口の方に目をやってみた。

 開いた隠し扉が地下牢の壁に張り付いている。

 逆さまになった隠し扉のドラゴンが、横たわっているシャロンには天に昇っているように見えた。

 琥珀色の瞳。

 シャロンはこれによく似た瞳を知っている。

 ――あたりに魔力の炎が舞ってちかちかしている。それに、地下牢の魔方陣が炎の精霊に反応してなのか、また何かの魔法を発動しているらしい。

 そのとき誰かが魔方陣の中央からゆっくりと歩いてきて、そっとシャロンの頭に手を乗

せた。

 顔をその人物に向けて見れば、琥珀色の瞳と目が合う。

 笑み。

「……よく耐えた」

 記憶の彼。シャロンには分かった。このひとのことをずっと昔から知っていたのだと。

 あれほど抵抗していた精霊たちがあっけないほどすんなりと離れていって、身体がすっと軽くなる。

「……誰だ?」

 伯父が言う。

 ふっと、その人物は笑った。

 その人物は言う。

「わたしは」

 彼は――。

「――ドラゴンの息子ルドウィーク」

 ルドウィーク・シャルル・ドラクラ。

「よく呼んでくれたシャロン、わが父の故郷へ。おまえにかけられていた死の魔法は消し

た。安心するがいい」

 精霊たちが彼を囲んで舞っている。威嚇ではなく、歓喜にわいた様子だ。

 シャロンはふいに、屋敷でいつも感じていた何者かの気配の正体はこの精霊たちだったのだと気が付いた。

「ドラクラ、それにその瞳……」

 伯父が気が付いたように言う。

「あの子がよく話してくれていた弟というのは貴殿のことなのか? 昔、私に魔法を教え

た――」

 彼は伯父を見て首を傾げ、そして、「ああ」と呟いてから頷いた。

「そうだ。わたしも、あなたのことは姉上から聞いていた。……まさか姉上から教わった魔法でわたしの屋敷の者に呪いをかけるとは思ってもいなかったが」

 伯父が苦しげな表情で、すまない、とかすれた声で呟いた。

 本当は魔法をそんなふうに使いたくはなかったはずだ。

 彼はその表情からそれを察したようで、それ以上問い詰めることはせずに、フィデルの方を向いて言った。

「月白のセルパン、わたしはシャロンを連れて帰るが、よろしいか」

 フィデルは言う。

「どうぞ。陛下もそれを望んでおられます」

 彼は頷いた。

 そして、そっとシャロンの手をとる。

 魔法印の作用で焼けただれ、血みどろになったその右手。痛みすら感じないほど感覚が

鈍っているというところがまた危ない。

 血はまだ止まっていない。……床についている彼の膝にぼたぼたとその血が落ちる。

 しかし彼はそれに頓着する様子はなく、ポケットからハンカチを取り出し、首もとの絹布を解いてシャロンの右手にハンカチと一緒に巻いた。

 血を流しすぎたため、頭がくらくらしていた。

 この傷が治るのだろうかとシャロンは疑問に思い、彼を見上げた。

 彼は言う。

「傷一つ残らぬよう癒させよう。今は眠れ」

 確信に満ちた態度。尊大な言い方だが、彼の言うことなら信用できる気がした。

 シャロンは頷いた。

 そして、穏やかに笑いかけてくるその琥珀色の瞳に見守られながら、ゆっくりと目を閉じた。

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