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三章

 三章


 王都ワリアはドラゴンに守られているという伝説がある。

 百年か二百年か、あるいはそれよりももっと前、この地に棲んでいたドラゴンに、ここより西方の険しい山に住む人々が土地の交換を願い出たという。

 それを受け入れたドラゴンは、人々がドラゴンをその新しい住処の領主に封ずることで山に干渉してこないのと引き換えに、元の土地――後の王都ワリアを守護しようと約束したのだとも伝えられる。

 とある学者いわく、街を囲む石の壁はとぐろを巻くドラゴンの尻尾に見立てたものなのだそうだが――ともかくその荘厳な壁はどこか不思議な力があるような気がしないでもない。

(といっても、三十年前にはそのドラゴンがワリアに災害をもたらしたのよね? それを英雄エベルハルトが退治しに行ったわけで……。守ってるなんて言われたって説得力がないのよね)

 シャロンはそんなことを考えつつそびえ立つ壁を見上げた。黒っぽく古びた石積みの外壁――これを見上げるのは随分と久し振りだ。ずっとラヴィリアの領地に引き籠っていたシャロンは、王都のことはほとんど記憶にない。

「王都ワリア……」

 背後でなにやら老僕が苦虫を噛んだような声を出したのを聞き、シャロンは訝しげに振り返った。

 シャロンたちは今、馬を率いて王都へ入ろうとしているところだった。

 門の前には左右にそれぞれ守兵がついているが、いちいち人の顔を確認しているわけではないようだ――なにせ、あまりにも人が多すぎる。入る者、出て行く者、皆足早に門を通り過ぎている。どの街でもよく見られる光景だ。

 ずっと立ち止まったままでいるのはかえって目立つので、シャロンと老僕は歩きながら話した。

「ハルさんは王都はあまり好きじゃない?」

 老僕は首を振る。

「いや、私は……ここにあまり会いたくない人物がいるだけだ」

「会いたくない人物……」

 セルパンのことだろうか? 彼らは王都の動きに詳しいようだから、この辺りで活動していると見ていいだろう。

 しかし老僕は言う。

「……あの方はたちの悪い方だ。ルドと同じように……いや、正確にはルドとはまた少し違っているが……人を魅せる才がある」

「人を魅せる才?」

 魅せる才。

 たちが悪いと言いながら、老僕のこの話し方は、親しい者のことを話しているような声音だ。

 どうやらセルパンのことを言っているわけではないらしい。

「そうだ。もしあの方に会ったら……私は王都を離れられなくなるかもしれない」

 ――魅せる才。

 シャロンはふと主であるルドウィークの瞳を思い出す。

 琥珀色。あの瞳の色を昔どこかで見たことがあるような気がするのだが……どうもよく思い出せなかった。記憶の隅に引っかかるものがある。

(まあ、今はそれどころではないわよね)

 シャロンは思った。

 とにかく伯父を救うのが先だ。

 それに、屋敷ではほぼ平和だったため忘れがちだが、シャロンの命を狙っている者の動きも気になる。これまでは結界に阻まれて屋敷の様子は分からなかったはずだが、それもウォルターによって壊されてしまったため、シャロンが屋敷を出たことも気付かれている可能性がある。

 ……ふと。

 シャロンは何かの気配を感じて振り返った。

「どうかしたのか」

「あの、ちょっとなんだか誰かに見られてるような……」

 しかし、後ろには特に目立つ者はいない。ごく普通に、シャロンたちと同じように門をくぐろうとしている旅人やら商人やらの人々がいるだけだ。

(こっちじゃない。もっと上の方だと思うんだけど)

 再び顔を前に向け、城壁を下から上へとたどっていく。

 いくつかの窓。外敵を防ぐための守備用の長細い、小さな窓だ――そのひとつをシャロンが見たとき、誰かの視線とかち合った。

「あ」

 しかし、その人物はシャロンと目が合うと、……いや、合うより前に、さっと隠れてしまった。

 よく確かめることができなかったが、どうも、巡回兵の装備を身に付けているようには見えなかった。もっとほっそりとしたような影で――。

(黒い……衣装?)

 一瞬、そう思った。

 しかし。

「守兵か」

 老僕がシャロンの視線の先を見てそう言ったため、自信がなくなった。

 もしかしたらやはり、ただの兵だったのかもしれない。黒く見えたのは、建物の影にいたからなのかもしれない。

 シャロンは「うーん」と曖昧に頷いた。

 老僕は言う。

「ならばそう不思議でもない。きっとあなたが馬を連れているから珍しいと思ったのだろう。気にすることはない」

「ええ。……そうね」

 シャロンはそう返事をしてから、もう一度その「誰か」がいた窓を見上げた。もちろんもう誰もいないが……何か、心のどこかで、引っかかるものを感じる。

 違和感を感じつつもシャロンは視線を門の方へ戻し、歩みを進めた。


 街は賑やかだった。

 当面の宿を確保して馬を置いてきたシャロンと老僕は、ここに来るまでに消費した食料や薬などを補充するために市場へ行くことにしていた。

 伯父がどういう状況に置かれているのかを早く知りたかったため、本当ならばシャロンが買出しに行き、老僕には情報を集めてもらいたいと思っていたのだが……あいにくシャロンは王都に不案内だ。仕方なく老僕についてきてもらっているというわけだ。

 歩きながら老僕が話しかけてくる。

「ところで、魔法印はなんともないのか」

「え?」

「いや、公爵様があなたを王都へ行かせたがらなかったからには、何か危険なことがあるのだろうと思っていたのだが……」

「ああ、そういえばその通りね? うーん、でも」

 ――今ある痛みは、火傷のせいだ。危険の迫るようなきりきりとした痛みはない。

 シャロンは首を振って答える。

「まったく変わりはないみたい」

「そうか。それならばそれで構わない。……市は、あとはここをまっすぐ行けば分かるだろう。私はここまででいいだろうか。よければ私は情報を集めに向かう」

 頷く。

「ええ、ありがとうハルさん。あの、伯父様の情報のこと、よろしくお願いします」

 どうやら伯父の拘束自体が極秘情報らしいので、あまりたいしたことは分からないとは思うが……かといって、庶民の情報網を侮るわけにはいかない。少なくとも伯父が捕らえられた理由くらいは分かるだろう、と思う。

 なにしろ伯父は有名だ。ラヴィリア家は昔からの大貴族で、シャロンの母も王家の血筋の者だし、十年前の叛乱とラヴィリアの大断罪で、ラヴィリア家の名は広く知られるようになった。

 そして伯父の名も。

「あ」

 考え事をしながら歩いていたシャロンは、いつの間にか人の賑わう広場へ出ていた。確かに老僕の言うとおりだった。ますっすぐ進んだところにある――市場だ。

 買うものはそう多くはないので、一刻ほどで済むだろうとシャロンは見当をつけ、立ち並ぶ露店を覗いていった。

 台にはさまざまな新鮮な野菜や果実が載っているが、シャロンの探すものはこれではない。こういったものはあまり日持ちしないので、携帯するには不便だ。

 シャロンは視線をめぐらせ、適切なもの探す。

 屋台に吊るしてある干し肉を求める。

 ぶら下がっている干し肉のいくつかを取って手渡してきた店の女主人に、シャロンは礼を言って代金を払った。

 それから、最近王都で何か事件はなかったかと尋ねた。

「あんた、旅人さんかい?」

 女主人が尋ねた。

「最近、妙な噂が広まってるんだよ。知らないなんて、あんた、この街の娘じゃないだろう。それにここ一週間ほど、なんだか不穏でね」

「不穏?」

 頷く。

「ここだけの話ね」

 女主人は口元に手を立てて声を潜める。

「貴族さまがたの方で事件か何かがあったらしいのよ。最近ちょくちょく城に高名な魔法使いが出入りするようになっててね、しかも何故だか監獄を守っている兵がやけにぴりぴりしてんのさ」

 監獄という言葉にシャロンはどきりとする。

 伯父が投獄されたのも確か一週間かそれより少し前かという感じだったはずだ。今もまだ兵がぴりぴりしているような状態だというのなら、伯父はまだ生きているということになるだろうが……複雑だ。

 しかし女主人はそんなシャロンの表情には気付かないようで、続けて言う。

「……こりゃ王族さんの誰かが呪いかにかかってるんだろうってもっぱらの噂でね、牢に入ってるのは呪いをかけた奴じゃないかって、憶測が飛び交ってるのよ」

「呪い?」

「そ。しかもね、どうやらそいつは物騒な奴――暗殺者を雇っているらしくてね……街に巡回兵が増えてるみたいだよ。怖いもんだね。そんな奴があたしたちの街をうろついてるなんてさ」

「そうね……」

 シャロンは真顔で頷いた。

 どうやら随分と大きな話になっているらしい。

(でも、これって……あれよね?)

 噂されている暗殺者は、シャロンを付け回していた者と同じ人物か――あるいはその仲間に違いない。伯父が投獄されたことを好機だと感じたのだろう。逃げ回っているシャロンよりも捕まってしまった伯父の方が狙いやすい。

(牢は……そう簡単に忍び込めるわけでもないだろうからいいけど……大丈夫かしら。まあ、伯父様は魔法が使えるから、いざとなったら牢を壊して逃げるくらいのことはやってくれるだろうけど)

「あの、その噂のことを詳しく教えてくれないかしら」

「詳しくったって……あたしだってそう詳しいわけじゃないよ。こういった噂話は真剣に聞いちゃあいけないもんだろう? 興味はあるけどね」

「じゃあ知ってることは? 例えば、あなたが噂を聞いたのはいつのこと?」

 女主人は少し首を傾げて、かなり長い時間をかけて考えてから、言った。

「……一週間ほど前かね。少なくとも、一ヶ月前にはこんな噂はあたしの耳にはまったく入ってこなかったさ。それがここ最近、それはもう急に、どこへ行ってもこの噂でもちきりさ」

「……一週間」

 一週間前といえばシャロンがルドウィークの屋敷を出たあたりだ。

 右手の魔法印に異変が起こり、シャロンの伯父が投獄されたと告げられた日。

(噂を広めたのは誰?)

 伯父の投獄と関係があるのか。

 ……いや、しかしたったの一週間でそれほどまでに広まったというのなら、誰が初めにこの噂を話したのか特定することなどできないだろう。

 深く、ため息をついた。

 ――それにしてもこの噂は随分尾ひれがついているなとシャロンは思った。

 捕らえられているのはシャロンの伯父で間違いないだろうが、誰かに呪いをかけるようなことはしない。それに、伯父が暗殺者などを雇うわけがない。

(宿に戻ったらハルさんとよく相談してみないと)

 シャロンはもう一度女主人に礼を言い、踝を返した。


 ***


「……どうやら、エイリーンが聞いた話と私が聞いた話はほとんど同じようだ」

 老僕はそう言った。

 シャロンよりも一足遅く帰ってきた老僕と、昼食と行動の成果の報告を兼ねて宿の一階の食堂へ下りて話し合っていたところだった。

 少し人は多いが、ざわついているのでかえって話は聞かれにくい。

 注文した料理をつつきながら、シャロンは老僕に尋ねた。

「同じようなことって……どんなこと?」

「ああ、つまり、牢に入っているのは貴族で、その者は反逆罪で捕まっており、暗殺者とも関わりを持っている、ということだ。……なお、その貴族というのはラヴィリア公であるのはほぼ間違いないようだ」

 フォークを持っていた手が止まる。シャロンは口をへの字に曲げて言った。

「伯父様が、そんな……そんな馬鹿な真似をするわけがないじゃない」

「そんなに怒らないでほしい」老僕は言う。「この噂は私がでっち上げたわけではないのだから、どうしようもない」

「……ごめんなさい。八つ当たりだったわ」

 老僕は首を振る。

「構わない。これは、あなたにとっては難しい問題だろう」

 シャロンは小さく礼を言う。

「……それにしても、どうして伯父様が投獄されたときに、狙い澄ましたかのように、私の右手に刻んであった魔法印が異変を起こしたのかしら」

 貴族は、投獄されるといっても、石造りの部屋に鉄格子が嵌っているようなじめじめした冷たい、いわゆる一般的に想像される「牢屋」に入れられるわけではない。普通の寝起きできる場所にやや大げさに警備を固めたような部屋に軟禁されるだけだ。

 投獄されるほうがかえって安全ともいえる。

 もし陛下が伯父に害を与えるつもりで投獄したのだとしても、一週間前の魔法印の痛みは尋常ではない。捕らえられるときに抵抗して傷を負ったというのなら話は別だが、伯父は賢い人だ、むやみに自分の身を危うくするようなことはしない。

 ならばどうして魔法印にあれほどの異変が起きたのか?

(分からない)

 シャロンは首を振る。

 そんな様子を見て、老僕はシャロンがどう考えているのかを察したのだろう。少し間をおいてから切り出した。

「エイリーン」

 老僕が言う。

「ラヴィリア公が入れられているのは、地下牢だ」

「え」

 絶句。

「あの、私、そういう冗談、あんまり好きじゃないんだけど。――冗談よね?」

「私もこんなことを冗談で言うような輩は嫌いだ。……冗談ではない」

 シャロンはしばらく口をパクパクさせてから、「そう、それは良かった。ハルさんとは気が合いそうだわ」

 老僕が顔をしかめる。

「……エイリーン」

「待って――分かった、分かってる。……本当のことなのね?」

「そうだ」

 地下牢。

 それは文字通り、城の地下に存在しており、比較的誰でも簡単に出入りできるような場所にあるのだが……どうも、特殊なつくりをしているらしい。鉄格子も何もないのに、そこに入れられた囚人は部屋から出ることができなくなるという。

 それはだだっ広い石畳の部屋で、おおよそ牢屋というにはふさわしくないようなところだそうだ。

 床には魔方陣が展開されているらしい。部屋の中心から隅の方へ、円形の魔法文字が刻まれているという。

 牢というよりは、儀式場。

 まことしとやかに語られているところによれば、地下牢はもともとドラゴンを呼び出すための部屋だったのだとか。

 しかしよほどの重罪人でなければ地下牢に入れられることはまずない。

 それほど伯父が危険視されているというのか。

(これは急がないといけないかもしれないわね)

 やはり当初の予定通り、ラヴィリア家に戻るしかないのだろうか?

 しかしそれはあくまで最終手段だったはずだ。ラヴィリア家に戻れば、シャロンはユリエたちと別れなくてはならない。

 シャロンはうーんと唸って考える。

 ……思いつかない。

 ふと。

 老僕がフォークをテーブルに置き、言った。

「地下牢へ行ける可能性はある」

「え?」

 シャロンがきょとんとしていると、老僕は空になった皿をテーブルの脇へ寄せて、身に付けている小さな鞄からなにか古びた紙を出して、そこに広げた。

 どうやらそれはこの街の地図らしい。

「見ての通り、これは王都ワリアの地図だが……、これは、この街の隠し通路や抜け道が示されたものだ」

「ええっ?」

 思わず声を上げてしまってから、はっと声を小さくする。

「……どうしてそんなものがここにあるのよ」

「それはルドの父君が……趣味で作られたものだ」

 シャロンは再び絶句する。

「趣味って……、あのね、こんなものが趣味で片付けられるようじゃ月白のセルパンなんていらないでしょうが。これって機密情報に関わるんじゃないの? 運が悪ければそれこそ反逆罪で捕まっちゃうわよ」

「いや、その心配はない。あの方――いや、陛下はこの地図のことを知っておられる。これを複写したものが、王家の方にも保管されているらしい」

「何、それ。どういうこと?」

「一般には知られていないが……ルドの家系は王都との関わりが深い」

 老僕は再び鞄の中を探り、もう一枚、紙を出す。

 今度は何か地形が描かれている。シャロンは首を傾げ、少し経ってからそれがこの国を中心に描いた世界地図であることに気が付いた。

 その地図を見てみると、王都は意外と国境の近くにあった。しかし、西には巨大の山脈がある。これが自然の防壁の役割をなしているようだ。

 そしてその山脈があるところは――。

「……ここが、ルドが所有する領土だ」

 そう言って老僕が指し示したところと一致した。

 点線で囲まれたところがそうなのだろうか? そうだとしたら、王都よりもかなり広いが……しかし、そこは人が住めるようなところだとはシャロンには思えなかった。――山と森ばかりだ。

(ああ、だからこんなに早く王都に着けたのね)

 一週間。ユリエたちの屋敷がある領地から王都まで、馬に乗ってかかった日数だ。

 追っ手に追われて国境を目指して逃げていたはずなのに、どうしてこんなに早く王都に着けたのだろう……と、その早さに内心驚いていたのだが――。

 ――当然だろう、ユリエたちの領地は王都ワリアの隣にあったのだから。

 どうやら国中を逃げ回っているうちに王都へと近づいてしまっていたらしい。

(まあ、国境の近くであることには変わりないわね)

 王都の西方の山脈は国の境界線の役割を果たしているらしく、山を越えればもう、そこは別の国だ。

 ふとシャロンは疑問に思った。

「でも、そこって……この山って、陛下の直轄地なんじゃなかったの?」

 老僕は少し首を傾げてから言う。

「名義としてはそうなっているかもしれない。……私も詳しいことはよく知らないが、ルドの父君は、自分の名が公の場に出されるのを嫌っていたため、幾代か前の王に身代わりになってもらったらしい。外敵の侵入を防ぐ代わりに、公的な行事などには参加しない、と」

「……外敵の侵入を防ぐ?」

「そうだ。だからルドはこの地図を所有することを許されている。エイリーン、ルドは王都に着いたらこれをあなたに渡すようにと言っていた」

「え、あの。私がこんなもの持っていても意味がないと思うんだけど。ラヴィリア家に戻るつもりはないし……王都にはあんまり来ないと思うわ」

「いや、そのような先の話ではなく――」

 老僕は言う。

「今必要なことだ」

「今?」

 頷く。

「王都に着いたら、あなたにこの地図のすべてをきっちりと暗記させるように、とルドから言い付かっている。もし私がいないときにあなたの身に何かあったらユリエ様に申し訳が立たない」

「いや、それは分かるけど――今?」

「今だ」

 老僕は言う。

「地図には地下牢への隠し通路も描かれている。地下牢へ行ける可能性があるというのはそういう意味だ。私はあなたがラヴィリア公に会いに行くような危険は冒さないと信じているが――」

 ぴたっとシャロンが動きを止めた。

 シャロンはすくっと立ち上がる。

 両手でばん、とテーブルを叩いて言った。

「分かったわハルさん、その地図を私にちょうだい。ええ、きっちり覚えてしまおうじゃないの。……本当に地下牢への隠し通路も描かれているのよね?」

「――エイリーン」

「いいわ。何も言わないで。伯父様の無事を確かめに行くだけだもの。それと……伯父様が捕らえられた理由も聞いて、私が真実を暴くわ。月白のセルパンに、伯父様に対する不実を問いただしてやるんだから。止めるつもりじゃないわよね?」

 シャロンはぐっと拳を握って力説した。

「いや、止めるつもりはないのだが……それとは関係なく」

 老僕は言う。

「……服の袖が悲惨なことになっているようだが」

 え。

 シャロンが一瞬の間を置いてそれを見てみると、料理の皿から転がり落ちたフォークが服に触れていて、ソースがべったりと付着してしまっているのが目に入った。

「えーっと」

 シャロンはばつが悪そうに座りなおし、服の上からフォークをのけて言った。「……スプーンよりはマシよね、うん」


 ***


 夕暮れ。

 窓から差し込む光もすでに色を失うほどに日が傾いている。もう太陽は山の向こうに沈んでしまったのだろうか。澄んだ空にはちらほらと星が光り始めている。

 道を歩く人ももう少なくなり始めていて、家々の煙突から夕餉の支度をする煙が西日の残光を受けながらゆらゆらと立ち上っている。すでに食事を摂ったシャロンにとっても、なかなか心引かれる香りだった。

(でも今はお店に寄っている暇はないのよね)

 シャロンが外に出てきたのは、地図の隠し通路を確認するためだった。

 明るいうちに探し回るのははばかれるが、あまり暗くても見つかりづらい。だから早めに夕食を済ませて出てきたのだった。

 古い街並み。

 しかしどうも見覚えがある。

(ああそうか、この図柄)

 シャロンは壁や石畳に彫られている紋様を見て思いだした。――これはルドウィークの屋敷のタペストリーの図柄と同じものだ。やはりここの紋様も相当古いようで、何を彫ってあるのかは判然としないが……。それが、街のあちこちに彫られている。ルドウィークの家が王都と縁が深いというのは本当のことのようだ。

(でも、それだけじゃない)

 この街に見覚えがあるのは、何か他に理由があった気がする。

 何か――。

 ふと。

 シャロンは立ち止まった。

(私は――)

 シャロンは、以前この場所に来たことがあったことを思い出した。

 ラヴィリア家の領土に引き籠っていたシャロンでも、さすがに王都には何度か連れられて来たことがある。しかし、こんな市街にまで来たのは初めてのはずだった。馬車に乗るにしても、大通りを通り抜けるくらいのものだから。

 それなのに、ここに来たことがあると、シャロンは確信していた。

 いつ?

 ……ずっと昔。

(そうだ、この道を通って――)

 シャロンは壁を見上げたまま歩いていく。記憶の中のシャロンは、こんなふうに空を見上げて、……何者かに運ばれていた。

 ――きみの記憶を封印しておこう。

 頭の中で、彼の声がする。

 ――大丈夫。いつかきみがもう一度ここへ来て、この記憶を取り戻したいと思ったのならば、これを自然に思い出すだろう。それまで、この男に連れ去られかけたことも、ここできみが見たものも、忘れていているといい。

 シャロンは思い出した。

 そう、それはシャロンが王都で誘拐されかけたときの記憶だ。

 シャロンを誘拐した男は王都から出ようと、人気のない場所を駆けていた。馬を使えば早いには早いが……逆に目立って逃げづらい。だから、シャロンを両腕に抱えて、その足で走っていた。

 シャロンはめいいっぱい泣いてやろうと思っていたが、布切れで口をふさがれていて、叫ぶことができなかった。

 そして、街の少し外れたところの、少し開けた場所に出た。

 ここで誰かと落ち合うつもりだったらしい。

 シャロンは、そこの崩れた壁のそばに誰かが立っているのを見た。

 しかし男はぎくりとしたように足を止め、低い声で言った。

「何者だ」

 その人物が振り向く。

 少年。

 黄昏時の風に、その長い髪がはためいていた。暗くて顔はよく分からない。しかしシャロンには、彼が悪い者でないことが直感的に分かった。

 男がまた問う。

「ここにいた者はどうした」

 男がシャロンを抱えたまま身構える。

 じゃり、と金属の鈍い音がした。

 剣ではない。――靴底に、何かを仕込んでいるらしかった。

「その子はおまえが連れ出していいような娘ではないだろう?」

 彼は言った。

 男がじりじりと後ずさる。

「――知っているのか」

「いいや。でもそのくらいのことならば見ればすぐに分かる。その子がわたしの正体に感付いているのと同じように。……おまえは自分が今、何者と対峙しているのか分からないのか?」

「何を――」

 男が言いかけると彼はすっと手を伸ばした。

 風が起こる。

 不意打ちを食らった男は後ろに吹き飛ばされ、幼いシャロンを取り落とした。

 わけが分からないまま宙へ放り出されたシャロンは、ふわりと風を受け、次の瞬間には彼の腕にすっぽりと収まっていた。

 壁に頭をぶつけ、舞い襲った塵あくたで目をやられた男が、片手で頭を抑えながら叫んだ。

「その魔法、その魔力……貴様、月白のセルパンか!」

 男の顔に恐怖の表情が浮かんでいた。

 それなりに魔法を使える者は他人の魔力の質が分かるらしいが、どうやらこの男も彼の強大な力を感じ取ったらしかった。

 男の言葉に、彼はふっと笑みを浮かべた。

 ふわりと彼の周りからまた風が沸き起こり、壁をえぐって一角を切り崩した。

 轟音。

 男からは少し離れていたが、石が飛んでいって、ぴっと顔を引っかいた。男はわなわなと震えながらだらりと手を落とし、がくっと首を垂れた。

 敵わない強大な魔力を前に……恐ろしさのあまり、気絶したらしかった。

「街の中だから仕方がないとはいえ、やっぱりこの魔法はわたしには向かないな。姉上ならばどんな魔法でも使いこなせるのに」

 彼が独り言を言う。

 崩れた壁の向こうには、もう一人、何者かが倒れていた。

 おそらくシャロンをさらった男が待ち合わせていた者だろう。……これも、今シャロンを抱いている魔法使いの彼に返り討ちにされたらしかった。

 シャロンは遠くに蹄の音を聞いた。

 どうやらシャロンを助けに来た者たちが、轟音を聞いて駆けつけたらしい。

「やっと来たか」

 彼はシャロンの顔を見る。

 シャロンも初めて彼の顔をまともに見た。

 光の加減でなのか、彼の双眸が黄昏の闇に輝いて見えた。

 笑み。

「……よく堪えた」

 彼はシャロンに語った。

「この事件はきみにとってあまりいい思い出にはならないだろうから、わたしがきみの記憶を封印しておこう」

 シャロンは彼の顔を見たまま首を傾げる。

 彼は言う。

「――大丈夫。いつかきみがもう一度ここへ来て、この記憶を取り戻したいと思ったのならば、これを自然に思い出すだろう。それまで、この男に連れ去られかけたことも、ここできみが見たものも、忘れていているといい」

 彼はシャロンの額にそっと手を触れた。

 ふわり、と不思議な感覚。暖かいその気配が、身体に行き渡った。

 彼は手を離す。

 シャロンはうつらうつら首を揺らした。

 ひどく眠かった。

 しかし、眠りたくはなかった。この事件を忘れなくてもいいと思った。――忘れたくはないと思った。

 シャロンは彼の顔を見上げた。

 ――その瞳の色は琥珀色だった。

 それが、この記憶。

 この場所。

 ……邂逅の場所に再び立ったシャロンは、壁を見上げた。

 上の方に、例の彫刻。

 そこが地下牢への隠し通路の、目印だった。


「そこの女! 何をしている!」

 シャロンがほうっと立っていると、突然誰かに声をかけられた。

 振り向くと、剣を佩いた兵士がこちらを見ていた。

 どうやらシャロンは思ったよりも長いことそこに突っ立っていたらしい。街中を巡回している兵に、不信感を抱かせてしまったらしかった。

「あの、私は――」

「何故こんなところで魔法を使った? 何が目的だ」

「……魔法? いったい何のこと?」

 シャロンは本当に分からなかったためそう答えたのだが、兵士はそうはとらなかったようだ。剣を抜き、身構える。

「あ」

 しばらくしてから魔法云々というのがなんのことなのかが分かった。

 シャロンの記憶を封じていた魔法だ。――これが今、役割を終えて散ったため、この兵士にはシャロンが何かの魔法を使って魔力を放出したように見えたのだ。

 しかもまずいことに、この兵士は隠し通路のことも知っている様子だった。

 それを、こんなところでシャロンが魔法を使う素振りを――実際にはシャロンは何もしていないのだがないのだが――見せたとあっては、警戒されないわけがない。間が悪いことに、街では暗殺者の噂も流れている。

(でも、ここでおとなしく捕まったりして私の身元を取り調べられでもしたら、大変なことになるわ)

 シャロンは思った。

 ラヴィリア家のシャロンが、伯父の捕らえられている地下牢の近くをうろついていたなどと知られては、またどんな疑いをかけられるか分かったものではない。

(まさか、こんなに都合よく隠し通路にたどり着くなんて……)

 シャロンもハルの言う通り、しばらくは地下牢には近づかないようにするつもりだったのだが――。

 記憶の通りに歩いていったところ、まんまとここへ来てしまった。

 いわば不可抗力だ。

 しかしそんな話を、この兵士が信じるとは思えない。

(これは逃げるしかないわよね)

 この時間でも街の中心に逃げてしまえば人ごみに紛れて追えなくなるだろう。

 そうと決まると、シャロンの行動は早かった。

 だっと駆け出す。

「ま……待てッ!」

 兵士が追いかけてきた。

 意外と速い。

 しかし、街にはまだ人がいた。ちょうど、中央の広場に露店を出していた者たちが、店をたたんで引き上げてきているところにぶつかったらしい。人々の合間を縫ってシャロンは駆けた。

 中央の広場に出たら、フードをかぶって何食わぬ顔で歩いて帰ればいい。

 ――逃げ切れる。

 そう思った。

 シャロンは大通りを抜けて広場の前へたどり着き――。

「――フィデル!」

 横の方から鋭い声が飛んだ。

 何事かと思う間もなくぶわっと大きな風が巻き起こり、シャロンのわきを通り過ぎようとしていた商人の馬の脚がもつれる。

 ――潰されるっ!

 思わず目を瞑って衝撃を予想した……が。

 次の瞬間、シャロンはふわりと風を感じ、誰かの腕に抱きとめられた。

「ったくもー……、危なっかしい嬢ちゃんだな。あのまま馬に押し潰されて地面とこんにちは、なんてことになってたらどうするつもりだったんだ? 洒落にならないぜ? 首とかあばらとかは本当にぽきっといくんだからな」

「……え? えっ?」

 戸惑う。

 シャロンの顔を覗いているのは月白のセルパンの、ウォルターだった。しかも何故だか奇妙な格好をしている――貴族が着るような優雅な衣装に、帯刀。案外と違和感なく着こなしているのは、慣れているということか。

 人々の間にどよめきが起こる。

 口々にセルパンの名を呟いている。

(ああ、やっぱり本物なのね)

 普段の格好からすると想像つかないが、やはりウォルターとフィデルは正式な月白のセルパンらしい。

 ウォルターの服に縫い取られている紋章は、シャロンの右腕に嵌められている、フィデルから渡された腕輪と同じく白い蛇を象ったものだ。

 王家の盾。

 この国の物語には、必ずこの月白のセルパンが関わってくる。国の祖の一人が、この地を譲って山野へ籠ったドラゴンに教えを請うたからだ。彼はドラゴンの弟子となり、国に帰って王の守護者となった。

 王は、彼がドラゴンの弟子であることからその紋章に蛇を象らせた。

 月白のセルパン。

 その紋章は彼の弟子たちが引き継ぎ、代々の王を守護する。

 ゆえに。だいたいどの家の壁にもかかっている王家や建国の物語を描いたタペストリーには必ずといっていいほど一緒にこの白い蛇が登場する。

 ――もちろん、ラヴィリア家の領地の屋敷にも、飾ってあった。子供のころから屋敷を出るまで、毎日毎日それはもう見飽きるほどに見てきた。

 そのセルパンの、偶像ではなく、本物が、ここにいる。

 ……いや、特に疑っていたというわけではない。しかし、いざ、こんないかにもといった格好のセルパンを前にしてみると、そう思うのも無理はないことだった。

 目が合うと、ウォルターはにかっと笑ってシャロンをそっと地面に下ろした。

「というわけで俺は嬢ちゃんの命の恩人だから。存分に感謝するといいぞ」

「え? あ、ええ。ありがとう……?」

 シャロンは呆然としたまま答えた。

 とそこへ、声がかかる。

「……感謝する必要などありませんよエイリーン様。ウォルター、エイリーン様におかしなことを吹き込まないでください。あなたがわたしにエイリーン様を止めろ、などと言わなければこんな危険なことにはならなかったのですからね」

 フィデルだった。

 長い髪がさらりと風を受けている。

 シャロンは一瞬、フィデルの黄色がかった瞳にどきりとする。夕暮れ時の日の光に染められたその色は、よりいっそう濃く見えた。

 琥珀色に。

 一方、周囲ではまたどよめきが起こっていた。

「エ、エイリーン様……っ?」

 追いついた兵士が呆気にとられた顔で呟く。

 どうやらエイリーンという名のせいで、シャロンを王女と取り違えたらしい。……街の者たちの反応も同様だ。

 ウォルターは憮然とした表情で言う。

「そりゃそうだけど。せっかく俺が格好よく嬢ちゃんを助けるのを演じてたのに、そんなあっさりと種明かしするなよ……」

「ウォルター。あなたが出てこなくても、わたしはきちんとエイリーン様に危険がないようにしていました……むしろあなたのせいで魔法を抑えるのに苦労したのですからね」

 咎めるように、フィデル。

 ……つまり、先程の強風はフィデルが起こしたものらしい。一瞬遅れて怒りが――主にウォルターに対して――湧いたが、シャロンが文句を言う前にシャロンを追ってきた兵士が口を開いていた。

「ウォルター様に、フィデル様? なんという格好を――いえ、これはいったい……、この方は?」

 どうやらセルパンの普段の格好も知っているらしい。

 フィデルがにっこりと笑う。

「詮索は無用。この方の身元はわたしが保証します。持ち場に戻りなさい」

「しかし――」

 なお言い募る兵士に、ウォルターがぽんと肩を叩いて来た道を指した。

 無言の圧力。

 兵士はしぶしぶ二人に一礼して、道を戻っていった。 

「……さて」

 フィデルはシャロンに向き直って言う。

「一緒においでいただけますかエイリーン様」

「行かないと言った場合はどうなるの?」

「あなたの正体をこの場で明かし、わたしたちが、月白のセルパンの名において捕縛します」

 行かないわけにはいかなかった。


 ***


 とりあえず通されたのは普通の小ぢんまりとした客間のような部屋だった。城内を結構長く歩いたはずなのに、ここに来るまで誰ともすれ違わなかったことを考えると、ウォルターたちは意図的に他人との接触を避けていたようだ。

 街中を歩いているときも、あれからまったく注目されなかったことを考えると、どうやらフィデルが魔法を使っていたようだ。

 ――つまり、シャロンがここにいるのは本気でまずいらしい。シャロンの伯父が投獄されているという噂が流れている今、こんな場所で迂闊にシャロンとセルパンが一緒にいるところを見られるわけにはいかないのだろう。

 勧められた椅子に腰掛けると、ウォルターがやれやれというように首を振って言った。

「そもそもどうしてこんな時期に嬢ちゃんが帰ってくるんだよ。自分が命狙われてるってのは分かってるんだろ?」

「命が狙われてるって、街で流れている噂の、暗殺者のこと?」

「そう」

 ウォルターが頷いた。

 しかしシャロンはまだ、王都に着いてから一度も危険を感じていない。暗殺者がシャロンに気付いて狙ってきたのなら魔法印が痛むはずだが、今のところはそういったことはない。

 狙われているのが自分ではなく伯父なので、魔法印も反応しないのだろうとシャロンは思っていた。

 シャロンの存在に気付けば標的を変えてくるかもしれないが。

「でも、だって、伯父様が投獄されたって聞いたから、助けなきゃって……」

「あんな噂を信じたのか? いや、まだ噂にはラヴィリア公の名は出ていなかったずなんだが……。いや」

 ウォルターはふと気が付いたようにシャロンの顔を見た。

「そもそもどうやってラヴィリア公が投獄されたことを知ったんだ? ドラクル公の領土からここまで来るのには結構かかるだろ? 俺たちだって昨日の夜に王都に入ったばっかりなのに」

「公爵様に教えていただいたのよ。あのね、あの夜は酷かったんだから。魔法印が焼けて右手が血みどろに――」

 シャロンはそう言いかけて言葉を切った。

 思い出しただけで身震いがする。

「本気か」

 シャロンの言葉を聞いたウォルターとフィデルは真剣な表情で顔を見合わせた。ウォルターが目で何かを問うと、フィデルは少し首を振って肩をすくめる。

 何なのだろう?

 別にそれほどおかしなことを言った覚えはない。

「……どうやら逆効果になってしまったようですね」

 ――逆効果?

 何のことだか分からない。

 フィデルは言う。

「わたしたちの役目はあなたをラヴィリア公の下へ近づけないようにすることです。こっそりと投獄させて、ラヴィリア公がエイリーン様のことを探し出せないようにするつもりでした。……あなたとラヴィリア公を引き合わせるとまずいのです。まさかこんなふうにあなた自らがおいでになるとは」

「まずいって、あのね。私はちゃんとそこらへんの手続きはちゃんと踏んで伯父様を助け出すつもりよ? 今は一介の小間使いじみたことなんかをやってるけど、いざとなったらラヴィリア家に復縁して正式に伯父様の免責を訴え出るわ。別に脱獄を手伝ったりなんてしない……つもり、だし」

「……おいおい」

 ウォルターにため息をつかれた。

「とんでもないこと考え出す嬢ちゃんだな。……だいたいな、ラヴィリア公が投獄されたことは一応、極秘事項なんだからな? 正式にったって、そもそもラヴィリア公の投獄という事実が、ないんだ。訴え出たって突っぱねられるだけだぞ」

 ぐっと詰まる。

 そうだった。それが貴族のやり方だった。明らかに冤罪だと分かっていても、公然の秘密とされている限りはシャロンの訴えは聞き届けられない。

 表向きは投獄されていないというのだからシャロンの父のときのように処刑してしまうことはできないが、そんなことなどしなくとも、暗殺するなり餓死するのを待つなりどうとでもなる。

 と。

 あれ、とシャロンは首を傾げる。

「……まさか暗殺者を差し向けたのって、あなたたちじゃないでしょうね」

 シャロンの目の前に立っているのは月白のセルパンの二人組み。王家の盾と言われるだけあり、その位はラヴィリア公爵家の娘であるシャロンでも及びつかない。それを、今まで無礼にも気安い口調で話しかけていた。

 しかもずっと前のいつぞやには、あろうことかウォルターの足を踏んでしまったこともあるような気がしないでもない。

(というか、もしかして私がこんな……この人たちに失礼な態度をとったから、陛下から不興を買ったりして伯父様が反逆罪として捕まったんじゃ……)

 シャロンは青くなった。

 あり得ないことではない。貴族の一部には使用人が目の前を横切って不愉快な思いをしたなどという理由で解雇したりするとんでもない者もいるのだ。ましてや月白のセルパンは王族にかなり近い。一般的な貴族がそうであるように、腹の内では何を考えているのか分からない。

「おいおいなんでそうなる」

 ウォルターが呆れた顔をする。

 フィデルも少し首を傾げて言う。

「暗殺なら、暗殺者を雇うなどと手間のかかることをしなくともわたしたちが直接手を下せば済むのですし」

 えげつない。

 しかもフィデルならば本気で実行しそうだ。

 ……いや、そうするつもりならば伯父はとっくにこの世になかっただろうが。

「で、でもだって、私があなたたちに失礼な態度を取ったから、ちょっと暗殺者を送り込んでやろうかとか思われたのかもしれないじゃない? だって他に伯父様が捕らえられるような理由なんて思いつかないんだもの」

 シャロンがそう言うと。

「あるだろう?」

 ウォルターが言った。

「噂が。……もう一つ」

「え?」

 シャロンはウォルターに言われて、噂について考える。

 捕らえられた貴族。雇われた暗殺者。それともう一つは――。

 ……王族への呪い。

 単なる尾ひれだと思っていた。伯父がそんな魔法を使うはずがないから。

 フィデルが言う。

「残念ながら、ラヴィリア公を捕らえたのは本当に反逆罪を犯したからです。陛下の御息女を暗殺しようとしていました。……未遂ですが」

 今度は別の意味で青くなった。

 王族を暗殺しようとした。月白のセルパンの言うことだから、根拠のないものであるはずがない。

 それでもシャロンは訊かずにはいられなかった。

「あの……、それ、冤罪よね?」

 おずおずと言ってみるが……しかし、フィデルは首を振って否定した。

「いいえ。ラヴィリア公は本気のようです。おそらくまだ諦めていないでしょう」

 シャロンはフィデルの言葉を笑い飛ばそうとしたのだが、表情が思うようにならなかった。無理やり引きつった笑みを作って言う。

 乾いた声が出た。

「やだそれ冗談よね?」

「嬢ちゃん」

 ウォルターがたしなめるように言う。

「俺たちがこうやって正装をしているのは、ラヴィリア公を逃がさないようにするためなんだよ。ラヴィリア公の脱獄を手助けしようなどという考えを持つ者が現れないようにここで威嚇しているわけだ。月白のセルパン様たちがしっかり見張っちゃってるぞって感じにな。俺たちにはそれを止められるくらいの力があるからな」

 分かっている。

 しかし――。

 何故、伯父が。

(伯父様が王女を暗殺しようとした理由は何?)

 十年前の叛乱でシャロンの父が処刑されて以来、伯父が陛下に恨みを持っていることは知っている。

 弟を殺されたのだから自分も陛下の娘を殺してやろうと思ったとでも?

 いや、伯父はそんな腹いせで人を呪ったりはしない。

 では何故。

 考え込むシャロンにウォルターが話しかける。

「嬢ちゃん。ともかく王都は嬢ちゃんにとって危険だから、さっさと屋敷に帰ったほうがいいと思うぞ」

 ウォルターの言葉にシャロンは首を振る。

「私は今、一応ラヴィリア家に所属してないことになってるから、おいそれと屋敷に帰るわけにはいかないんだってば。帰ればもちろん歓迎してくれるだろうけど」

「……いや、そこはラヴィリア家の屋敷に帰れってんじゃないだろ」

「他にどこに帰るのよ」

 あいにくだがシャロンは今の主人であるルドウィークの屋敷が王都のどこにあるのか知らなかった。

 彼は、まがりなりにも貴族――しかも、王都の隠し通路やらなんやらが詳しく書き込まれた地図を陛下公認で所有できてしまうほどの大物なのだから、それ相応の屋敷が王都にないはずはないのだが、しかしその屋敷は情報収集には不向きらしい。ハルがそう言っていた。だからシャロンたちは普通の宿に泊まることになったわけで。

 ウォルターはそんなシャロンをじっと見つめる。

「意地でも王都に留まるつもりか」

 つまりウォルターは、ルドウィークの下へ帰れと言いたいらしい。まあ確かに、彼の下でなら結界が壊れていようが多少のことなら何の心配もなく過ごせるだろう。

 しかしシャロンはそ知らぬふりをして頷く。

「もちろんよ。ともかく伯父様を助けなくちゃいけないもの」

「そうか。だったら仕方がないな」

 ――ぞくり。

 シャロンは身を震わせた。ウォルターの声が一段低くなったような気がする。表情は軽い感じの笑顔のままで、殺気があるというわけでもないのだが、……巨大な威圧感がシャロンを怯ませる。

 これは、まずい。

 なかば本能的にシャロンは椅子から立ち上がっていた。頭の中の警鐘が逃げるべきだと告げる。逃げなければ厄介な事態になる、と。

 シャロンは椅子をウォルターの方に蹴り飛ばして、扉の方へ走った。

 取っ手をつかむ。

 しかし。

「フィデル!」

 ウォルターが叫び、その声に応えてフィデルが呪文を唱える。

 ジッ……と焦げるにおいがして、シャロンの手から手ごたえが消えていた。

「あっ」

 取っ手の付け根の部分が焼かれたのだ。

 しかし、そうと分かったときにはウォルターにしっかりと手首をつかまれていて逃げることができない状態になっていた。

「苦手な魔法ですが、どうやらうまくいったようですね。姉上たちにきちんと教わっておいてよかった」

 フィデルはそう言った。

 シャロンはうなだれて、用を成さなくなった扉の取っ手を床に捨てた。

 ため息。

「あんまりこういう手は使いたくなかったんだがなぁ……。嬢ちゃん、そりゃあさすがに無茶しすぎだぜ? 俺たちは今ラヴィリア公の対処に手一杯だからな、嬢ちゃんを守ってる余裕はない。だから、嬢ちゃんにはしばらくおとなしくしといてもらわなくちゃならないわけだが」

 ウォルターはそこで言葉を切って、表情を引き締めた。

「シャロン・エイリーン・ラヴィリア。月白のセルパンの名においてあなたを捕縛する」

「そんっ……」

 ばっと顔を上げた。

 それではシャロンは逃げられない。

 月白のセルパンの命令は国王の命令と同じほどの重きを持ち、……逆らえば最悪の場合は反逆罪に問われる。

 シャロンはかろうじて引きつった笑みを浮かべて言う。

「だから、こういう冗談は好きじゃあないんだってば。えっと……冗談よね?」

「いいや? 残念ながらこれも冗談なんかじゃあないんだな。なに、ちょいと一、二ヶ月ほど監視つきの客室に軟禁するだけなんだから、そんなに構える必要はないぜ?」

「二ヶ月軟禁って……! いえ、そんなの信用できるわけがないじゃない。だって、それなら伯父様もわざわざ地下牢なんかに投獄する必要ないわけだし。ラヴィリア家を断絶させるのが陛下のご意向なの?」

「いいえ」

 フィデルが言う。

「ラヴィリア公を地下牢に投獄したのはやむ終えぬ事情があってのことです。あの方は魔法を使うようですから、それを無効にする設備のある場所にいてもらうしかなかったのです」

 だから、地下牢。

 確かに地下牢には結界が張られていて、内部からも外部からも双方へ魔法で干渉することができなくなっている。

「信じてください、エイリーン様。陛下はラヴィリア公のことを好いています。危害を加えるなど……絶対にありえない。今はあの方がわたしたちを脅かそうとしているため、不本意ながら束縛しているまでです」

「信じられない」

「信じてもらわなくては困ります」

 しばらくの間、二人は睨み合っていたが――実際にはフィデルは睨むというよりはただじっと見つめていただけなのだが――、ウォルターは無言で睨み合っている二人に痺れを切らしたのか、シャロンに話しかけてきた。

「とにかく、嬢ちゃんには頭を冷やしてもらわないとな。一人にしてやるから、じっくり考えてくれよ」

「私は諦めるつもりはないわよ」

「それでもいいさ。そのときは俺たちが嬢ちゃんを止めるまでだ」

 ウォルターがフィデルを促して隠し通路を開ける。

 シャロンは部屋に取り残された。


 ――椅子を元に戻して座りなおす。

 フィデルは部屋を出る際に、逃げたら今度こそ反逆罪で捕まえると脅してきた。……とてもいい笑顔だった。

 冗談とも本気ともつかないその笑顔に、シャロンは逃げる気をなくしてしまった。

 それに、扉は壊れている。

 ウォルターとフィデルは部屋の隠し通路から出て行ったが、どうせ外側から鍵をかけているだろうと思った。

 シャロンは黙り込んで考える。

 フィデルは、この件が解決したら絶対に伯父を解放すると約束した。

 少し前から不思議に思っていたのだが、月白のセルパンはどういうわけだか伯父に甘いようだ。――いや、セルパンに命令しているのは陛下だから、陛下が伯父に甘いのだろうか? 普通ならば反逆罪は有無を言わせず死刑のはずだが……。

 もちろん、釈放されたほうがいいのだが。

(どうも腑に落ちないのよね)

 シャロンは頬杖をついて考える。

 最近、わけの分からないことが多い。

(月白のセルパン、公爵様、ハルさん、それと……伯父様)

 セルパンは元々、老僕のハルを探していたらしいからシャロンの主であるルドウィークとハル本人に関わりがあるのは良いとして。今度の王女暗殺に伯父が絡んでいて、さらにそこにシャロンが関わっているのはそれもまた良いとして。

 シャロンの主であるルドウィークに関しては、どこで誰とどのようなつながりがあるのかいまいち分からない。彼とその周囲の言動を見ていると、何故だかセルパンよりも偉い人物らしいし、陛下ともそれなりに深い関わりがあるらしい。老僕のハルが彼に仕えるようになった経緯も不明だ――ユリエはハルの正義感が強かったせいだと言っていたが。

 それから。

 彼は、今度の伯父の件に関してもなにやら解決を図るために動いているようだ。

 ――二週間。二週間でどうにかすると言っていた。少なくともシャロンが王都に来ても危険がないように、と。

 シャロンがハルとともに王都に来るまで一週間かかっていて、彼の約束までの残りはあと一週間だ。それが過ぎれば、シャロンは、伯父の投獄の件やシャロンを狙う暗殺者に関することを、すべて理解できるのだろうか?

 フィデルたちはどこまで知っているのだろうか。シャロンにはそもそもどうして伯父が王女暗殺などとおかしな企てを考えているのか分からなかった。

 月白のセルパン――王家の盾は、王を外部から守るだけではなく、王の人格が堕落しないように諌める役目も負う。諫言で済ませることもあれば、武力行使――つまり暗殺――することもある。もっとも、それほどまで困った愚王は滅多に現れないのだが、それでも歴代で二、三人はセルパンによって葬られたとされている者がいる。

 王女は何をしたのだろう?

 伯父は王女を呪おうとしても月白のセルパンは王女に対してなんの行動も取らないという、そんな事情。

 シャロンには分かるはずもなかった。

 しばしの沈黙の後、シャロンの近くにある棚ががたっと音を立てた。

 棚から小物が落ちる。

「あら、本当に開きましたわ」

 女の声だった。棚の後ろの方の板を外して、そこから覗いているらしい。

(そうだ、この隠し穴は地図に載っていた穴だわ)

 地図によるとこの覗き穴がある通路は街に通じているもので、入り口は――。

 シャロンは記憶にある方へ目をやった。何もないように見えた壁が、少し後ろへずれてから横に動いた。パラパラと石壁のかけらやほこりが落ちてかすかな音を立てる。

「ふうっ」

 通路から現れたその人物は苦い顔をした。

「口の中がじゃりじゃするし……、目にほこりが入ってしまいましたわ」

 塵はまだ舞っている。

 この隠し通路は地下牢と街とにつながっているのみでほとんど使い道がないため、あま

り使われていないようだ。街へと通じている隠し通路は他にもたくさんあるし、地下牢に放り込まれるような極悪人は滅多にいないのだし。

 伯父の場合はその魔力を封じるために入れられているだけで、例外中の例外だ。

 なんだろう。

 シャロンは思う。

(……この女の人、どこかで会ったことでもあるかしら?)

 何故か見覚えがあるような気がするのだが、しかしやはりこの顔はシャロンの記憶にはない。

「シャロン様でいらっしゃいますね?」

 名前。

 シャロンは貴族だが――ただし今のところ「元」貴族であるのだが――、ラヴィリア家の領地のごく一部の民以外の者に顔を知られているほどに有名なわけではない。

 ラヴィリア家は有名な貴族だが、知られているのはラヴィリア家という名だけだ。シャロン個人の名ではない。

 貴族の娘などその程度のものだ。

 一般の市民は貴族というものは顔かたちが美しく自分の屋敷から出たらすぐに死んでしまうと思っているようで、極端なものになると、貴族とは妖精か何かか、自分たちとは違う生き物なのだと勘違いしている者まである。

 そんなわけあって、シャロンの顔を知る者といえば――。

 城にいる者のうち、伯父にかかわっている者たち。

 伯父が地下牢に捕らえられている以上、その姪であるシャロンの特徴もだいたい知られているだろう。しかし、今シャロンの目の前にいる人物がそのような者ではないことは確かだ。

 美人。

 髪は肩より上と、一般的な女性の髪に比べれば少し短めだが、それも彼女の雰囲気にはよく似合っている。

 ただ――。

 着ている服がやたらと露出が高いのが気になる。

 黒いその装いとは対照的に肌がすらっと白いので、なおのこと。どこかの地方の衣装なのだろうか?

「ええ、そう。あなたは?」

「あら申し遅れましたわ。わたくしはカーラと申します。初めまして、シャロン様。お会いできて嬉しいですわ」

 その人物――カーラはそう言った。

 やはり初対面らしい。

 しかし、よく見ればあまり良い感じのしない雰囲気だ。

 口元は笑っているのだが目はじぃっとシャロンを見つめたままだ。どこか、覚えのあるような視線。

「あなた本当に私に会ったことない?」

「いいえ。顔を合わせるのは初めてですわ」

 カーラがすうっと目を細める。

「シャロン様がなかなかわたくしに会ってくださろうとしないものですから。……随分と逃げ足が速いのですね?」

 シャロンが後ずさる。

「あ、あなた……やっぱり、私のことをずっと追ってきた――」

 追っ手。

 そういえば王都に入ったときにも黒い影がこちらを見ていた。

 あのとき見た影も、カーラの黒い服だったのか。

「ええその通り。シャロン様が王家の山へ逃げ込む少し前から後を追っていました。その様子ですとわたくしの生業をご存知のようですわね? 今までよく逃げおおせたものですが……あまりわたくしの手を煩わせないでいただけません?」

「そっ……、そんなこと言われても、おいそれと殺されるわけにはいかないでしょうっ」

 と、ここでカーラは人差し指を頬に当てて首を傾げた。

「んー、一度死んでおいたらあとは楽になると思うのですが」

 極めて物騒な発想だ。

 シャロンは逃げようとするが、壊れた扉をなんとかして開けなくては、これ以上後退することはできない。

 それでもシャロンは後ろに下がろうとして、そして案の定というか――扉にぶつかって追い詰められた。

 手を伸ばせば届くような位置まで歩み寄ってきた。

 あくまでも優雅。武器をちらつかせているわけでもないのに、威圧感がある。

 カーラはしかしシャロンに手は出さずにそこで立ち止まり、にっこりと笑った。

「――まあ誤解させておくと厄介なので言っておきますが、残念ながらに今回はシャロン様を殺しに来たわけではないのです」

「ざ、残念ながら?」

 といことは機会があれば殺しに来るのだろうかとシャロンは突っ込みたいところだったが、いや、しかし聞けば本気で肯定されそうなのでそのまま言葉を飲み込んで口を閉ざした。

 カーラは言う。

「知っています? 十年前のラヴィリアの大断罪以来、ラヴィリア家の方々の暗殺を実行に移せた者は誰もおりませんの。何故ならば、その暗殺を請け負うと必ずわたくしどもが仕事を完遂する前に依頼人が暗殺されてしまうからですわ」

「あ、暗殺……?」

「もちろん普通ならば報酬は前払い式ですから、最初は依頼人が死んだあとも任務を完遂しようとしていたのですけど……あろうことか五人もの仲間が返り討ちに遭ってしまいましたの。ですから、今はラヴィリア家の暗殺だけは後払いになっていますわ。いつでも任務を中断できるように」

「……それで? それとあなたが私に会いに来たのには何の関係があるの? 言っておくけど私はそんなことは今初めて知ったところだから、その依頼人を誰が暗殺したかなんて分からないわ」

 カーラはシャロンを殺しにきたのではないと言っているが、本当なのだろうか。

(ここまで私のことを執念深く追ってきたくらいだもの)

 そうでなければ、シャロンに何を期待しているというのか。

 ――シャロンはそう思ったが、しかし何故だか、いつも反応するはずの魔法印がちくりともしない。

「ええ、それは期待していませんわ。どちらにせよだいたいの目星はついていますもの、ご心配には及びませんわ。わたくしはシャロン様をラヴィリア公の下へお連れするよう承りましたの」

「伯父様の下へ?」

「そうですわ。わたくしは今までもそのためにシャロン様を追っていましたのに、なかなかお会いになれなかったので、苦労しましたわ」

 シャロンは首を傾げる。

(私に好感を持たせるための嘘なのかしら)

 これまでは魔法印が反応していたのだから、カーラがシャロンをただ伯父のところに連れて行こうとしていたわけがない。少なくとも今日、まさに今こうしてシャロンと顔を合わせているこのこの状態と同じはずがない。

「あの、それっていったいどういう趣旨なの? 伯父様のところへ連れて行けって……しかもあなたのような暗殺者を使って?」

「あら人聞きが悪いですわ。あなたのような、ですか? わたくしほど仕事を確実にこなすものはおりませんもの、そのあたりのことはきちんと心得ておいてほしいですわ。わたくしは優秀な暗殺者なのですよ?」

 シャロンがまた後ずさろうとしてまた頭をぶつける。

 その様子を見てカーラがくすりと笑う。

「依頼は、ラヴィリア公ご本人から承りましたわ」

「え」

 伯父から。

「ご安心くださいませ。ただ連れてくるように、とのご依頼ですから。シャロン様を害するようなことは致しませんわ」

 カーラは言う。

「シャロン様はラヴィリア公にお会いするつもりでここ――王都まで来たのではなかったのですか? 今さら何を迷うことがおありですの?」

「だって……」

 困惑して、シャロンは言葉を詰まらせた。

 屋敷からシャロンを追ってきた暗殺者のカーラを、そうやすやすと信じるわけにはいかないが……しかしカーラはシャロンを伯父のところへ連れて行くと言う。もし伯父に会えるというのなら、直接会って、真実を確かめたい。

 戸惑うシャロンをよそに、カーラは壁を指でなぞり、いじっている。部屋に入ってきたためにできた隠し穴を元に戻し、さらにその近くを丹念に調べている。

 がこん、と音がして、壁の一部がずれる。

 ここにも隠し通路。

 確か城内の別の部屋へ出る道だ。

「行かないのですか?」

 カーラが黙りこんで通路を見つめているシャロンの顔を覗き込んで言った。

 シャロンは考えて――。

「――分かったわ。行くわ」

 通路に足を踏み出した。

 思ったほどにじめじめとしているわけではなく、ひんやりとした空気が肌に心地よかった。カーラがシャロンの後から入って扉を閉めると一瞬あたりが真っ暗になり、それからほのかな明かりが灯った。

 見ればカーラの手のひらに小さな光がふよふよと浮いている。

「あなた……魔法が使えたの?」

 この薄暗がりでこれだけの光を集めることができるとはたいした技術だ。大抵の者はろうそくなどの明かりを種にしなければ明かりを作ることができない。

「このくらいは力押しでなんとかなるものですわ。わたくしは優秀な暗殺者ですもの。このくらいの魔法も使えないのではどうにもならないでしょう? まあ、さすがに詠唱なしで、とはいきませんが」

 確かフィデルは詠唱なしに風を起こしていたはずだ。

 幼いシャロンを助けた、記憶の中の彼も。

 ……あれらは例外だったらしい。

「だったらもっと使いやすい道を使えばいいのに」

 シャロンは呟いた。

 確か地下牢へ続く道はあと二つだけあったはずだ。そのうちの一つは城の中にある、正式な道だが、もう一つは街に隠されている。シャロンが兵士に見咎められた場所だ。城の中を通って兵士に見つかるような危険を冒すよりは街から一本道のあの通路を使ったほうがいいのではないか、とシャロンは思った。

「使いやすい道ですか?」

 カーラが少し首を傾げて言う。

「わたくしは御尋ね者ですしシャロン様もここでは有名人ですから、普通の道を使うのは無謀だと思いますけど?」

 そうだった。

 カーラがもう一つ隠し通路があることなど知るはずがない。

「え? ああ。そうだったわね」

 シャロンは適当に相槌を打って押し黙った。

 ――いくつかの部屋と通路を抜けて、地下牢へと続く道に出た。

 地下牢というくらいだから何か特別な仕掛けでもあるのかと思っていたが、この隠し通路も、意外なほどあっけなく開いた。

 シャロンは立ち止まって通路を見つめた。

 ……奥から底知れぬ力を感じる。地下牢は結界で守られているため、そこから魔力が流

れ出ているのだろう。

(でもこの感じ、どこか少し覚えがあるような)

 そうだ。この力は以前にシャロンの主であるルドウィークがシャロンの頭に手を置いた

ときの感覚に似ている。フィデルにも同じような力を感じたのだが――、ルドウィークの

力の方が近い気がする。

 かすかに感じられる、身体を包み込むような熱――炎の霊気。

 あのときはほんの一瞬だったためよく分からなかったが、今は途絶えることのない魔力

が感じられるため、その性質がなんとなく分かる。

 この力は守りの力だ。

 神聖で強大な結界。セルパンがその身を保証しているのだから、ここにいる限りは伯父

は安全だろう。

「――分かります?」

 立ち止まったシャロンの顔をカーラが覗き込む。

「分かるって、何が?」

「この先が地下牢であるということが、ですわ。わたくしは魔法を使いますから、この隠し通路が他のものとは違うと、すぐに分かりましたわ。――シャロン様は魔法を使えましたかしら?」

 カーラがにっこりと笑ってシャロンを見つめていた。

 鋭い視線。

 ひやり、と冷や汗をかいた。

 魔力を感じられないのならば、ここで立ち止まることはない――あらかじめ道を知っているようなことがなければ。つまり、この先に地下牢があることを知っていなければ。

 そんなふうに疑っているのだと、カーラの目は言っていた。

 ……ハルからもらった地図のことがばれたのかと思った。

「し……」

 シャロンは慌てて口を開いた。

「失礼ね! 私だって伯父様から魔法の手ほどきくらい受けたわよっ。……まったく使えないけど。ここが神聖な場所だってことぐらい分かるわよ!」

 嘘ではない。……あらかじめ地図を見ていなければ、そんな魔力は見過ごしていたかもしれないが。

 ふふ、とカーラが笑みを変えた。

「そうですわよね。失礼なことを申しましたわ」

 シャロンは心の中でほっと息をついた。

 進む。

 しばらく行くと扉が見えてきた。

 鉄の扉。

 刻まれた紋様は抽象化されているため何が彫られていているのかよく分からない。細長

い線に、翼のようなものが付いているところを見ると、どうやらドラゴンを彫ってあるら

しい。

 伝説に出てくるドラゴンだろう。

 この地下に張られている結界の力の源は王都を守護すると約束したドラゴンの魔力の残

滓だというわけだ。

 長い間放置されていたはずなのに、どこも錆ついていない。

「随分と重そうだけど」

 彫られた紋様には琥珀色の石が嵌め込まれているが、そこからいっそう強い魔力を感じ

る。この紋様が封印の役割を果たしているらしい。力ずくでは開かないはずだ。ここは正

規の道ではないから厳重に閉じられているのだ。

 深い琥珀色。

 内部に秘められている魔力によってかすかな揺らめきを持つその色は、シャロンの主で

あるルドウィークの瞳と同じ色だ。

(いえ、公爵様はもうちょっと薄いかしら)

 どちらかというとユリエのそれに近い気がする。

 ――扉が開きそうにないことには変わりないのだが。

「んー」

 カーラが首を傾げる。

「弱りましたわね。この封印は王族やセルパンしか通さないようになっているらしいですわ。このドラゴンをなんとかしなければ地下牢に入れないようです」

 そう言ってカーラは扉に手を当てて、待った。

 びゅう、と足元から風が起こり、カーラの黒い外套がはためいた。

 付け加えるならば、シャロンのドレスも。

 もちろん気にしている余裕はない。扉以外には形を保つ魔法がかけられていないため、

湧き起こった猛烈な風に煽られたせいで通路の隅に溜まっていた塵が砂嵐のようにシャロ

ンたちを襲ったのだ。

 思わず顔の前で腕を構えて目を閉じたシャロンは、唸り声のような音を聞いた。

(こんな派手な訪問、上の階にばれるんじゃないかしら)

 そこは一応隠し通路なのだからきっちり防音してあるだろうが。

 びんっ、と何かが弾かれる音がした。

 カーラが扉から離れ、片手を押さえる。

「……無理でしたわ。さすがにわたくしでもドラゴンの魔法には太刀打ちできなかったようです。それに、我々の行動も、かなりまずい方々にばれてしまったようです」

 カーラは振り返り、通路の――シャロンのそのまた先を見つめる。

 ――足音。

「えっと、もしかしてもしかしなくても、……セルパン?」

「はい。残念なことに」

 まさかこれほど早くばれるとは。

 冷静に考えろと言われたものだから、あのまま一日や二日くらい放っておかれて待ちぼうけを食らうものだと思っていた。

 シャロンも振り返ってそこを見た。

 ウォルターが腕を組んで立っていた。

「残念で悪かったな」

 勝ち誇ったようにそう言うウォルターはまったく悪びれてないようだった。

 そしてその後ろに、フィデル。

 シャロンたちに気付かれたので、魔法の明かりをぽっと灯した。

 詠唱なし。

 しかもそれはカーラの出した光よりもずっと大きく、通路全体が照らされて見渡せるほど明るくなった。

「ええっと……」

 シャロンはおずおずと尋ねる。

「これってやっぱり、私、反逆罪で捕まっちゃうのかしら?」

「反逆罪……?」

 フィデルが首を傾げる。

 それから、先ほどの自分の言葉を思い出したのか「ああ」と頷いて言った。

「あれは冗談です」

 ほっと息をついた。

 しかしウォルターは言う。

「――でもそこの暗殺者からは離れてもらわないとな?」

 すらりと剣を抜いて、構える。

 鋭い眼差しでカーラのことを見つめている。

「ああ、やはり見逃してはもらえないようですね」

「当たり前だ」

「んー。ではわたくしも借りを返さなければなりませんね。あなた方がラヴィリア家をやたらと贔屓にしているせいで、わたくしの仲間が五人も死んでいるのですから」

「……自業自得だろう?」

 一瞬、何の話をしているのかと思ったが、シャロンは、五人という言葉から、カーラの言っていたことを思い出した。

 ラヴィリア家の者の暗殺を試みて、返り討ちにされた暗殺者の数だ。カーラはだいたい目星はついていると言っていたが……まさかそれが月白のセルパンだとは。

「まあしかし、あなた方を出し抜いてやれるような機会は滅多にありませんもの。ここで一泡吹かせて差し上げますわ」

 カーラの言葉にウォルターとフィデルが眉をひそめ、身構えた。

 くるり、とカーラはシャロンの方に向き直った。

「……というわけでシャロン様。わたくしはセルパンから逃げることにしますので、申し訳ありませんが少し囮になってくださいませ」

「え……?」

 にっこりと笑ってそう言うカーラにシャロンは戸惑う。

 カーラはシャロンに近づき、右手をとった。

 はっと気付き、フィデルが叫ぶ。

「エイリーン様! それを取られては――」

 しかしすでに遅かった。

 からんからんと腕輪が石畳の床を転がる。

 月白のセルパンの、白銀の腕輪。カーラがシャロンの腕から無造作に抜き取り、床に捨てたのだ。

 耳鳴り。

 頭が割れるほど痛かった。

 シャロンの右手の魔法印が反応しているのだ。巨大な危険がそこにあることを示していた。――一瞬のうちに、その反応の原因がどこにあるのかが分かった。

 カーラ。

 顔を上げると、目が合った。

 笑みを浮かべたままカーラはくるりと向きを変え――逃げ出した。

 フィデルが駆け寄ってきて腕輪を拾い、またシャロンの腕に嵌めた。フィデルが守護の魔法をかけているようだったが、痛みは治まらなかった。

 逃げるカーラにウォルターが呪文を唱えつつ迫った。渦巻く炎がカーラに向かっていったが、ひらりとかわされた。ウォルター自身も剣を振るったが、切っ先はわずかに髪をかすめただけで、むなしく空を切った。

 あっという間にウォルターの横を抜けて通路の向こうの闇へ消え、見失った。

 ため息。

 ウォルターは剣を鞘に収めてからフィデルに声をかけた。

「フィデル、嬢ちゃんは?」

「大丈夫です。……無事ではありませんが。エイリーン様、立てますか」

「ええ」

 それにしても痛い。

 シャロンは両手をついて立ち上がろうとしたが、右手が滑って少し焦った。液体のよう

なもの。何だろうと思ってみてみれば、足元に血溜まりができていた。しかもまだ血が垂

れてきている。

 どこか切ったような痛みではなかったのだが……。

「って、これ」

 シャロンは右手を見てぎょっとする。

(これ本当に痛くないの、私?)

 魔法印の周りが焼けて皮膚が剥げ落ちている。魔法印がある側の包帯は燃え尽きている

ので、その残骸は焼き切れて床に落ちてしまっているようだ。血で染まっていて分かりづ

らいが、床に落ちている布切れは確かに包帯のはずだ。

 それに、右腕全体が痙攣してかたかたと小刻みに震えているのだが、腕が動いていると

いう感覚はまったくなかった。あまりの痛みに神経が麻痺しているらしい。

 フィデルはシャロンの腕を持ち上げて、人差し指で傷口をなぞる。

 治癒の魔法をかけているらしい。軌跡が淡い光として見える。出血はまだ続いているは

ずなのだが、触れられてもフィデルの指には血がつかない。痙攣も収まり、触れられたと

ころにはやや感覚が戻ってくる。

「しかしこれは随分と……痛そうですね。この印のせいで上手く魔法が効かないので、わたしだけでは対処しきれません。すぐに上に行って手当てをしなくては」

 シャロンが困惑したように呟く。

「でもどうして魔法印が……?」

 フィデルが言う。

「それはおそらく、わたしが渡した腕輪が魔法印の効果を妨げていたからですよ。言ったではないですか。この腕輪を外すと命がない、と」

「ええっ。あれってそういう意味だったの?」

 驚いた顔シャロンが言う。

 てっきり、腕輪に呪いがかかっているのだとばかり思っていた。

 フィデルが首を傾げる。

「他にどういう意味だと?」

 シャロンは笑って誤魔化した。

 しかしシャロンは思う。

(――でも、そうだとしても疑問が残るのよね)

 伯父に頼まれてシャロンに会いにきたというカーラに魔法印が反応した理由が分からない。魔法印はシャロンの危険に反応するのであって、伯父のところへ連れて行こうとしているカーラがその対象になるとは思えない。

 カーラが嘘をついているという可能性もあるが、この先に地下牢があることは確かなのだ。それにカーラが本当にシャロンの命を狙っているのならば、こんな回りくどい真似をする必要はない。

(あ、そういえば)

 シャロンはふと気が付いた。

 この先に伯父がいるのだ。

 暗くてどのくらい歩いたのか分からないから、あとどれほど隠し通路が続くのかは分からないが、目の前の鉄の扉を見る限り、シャロンが目指していた場所はそう遠くないはずだ。

 鉄の扉。

(それにしてもこの気配)

 流れてくる魔力の残滓は、フィデルが使う魔法と同じ質のものだ。それから――伯父の魔法とも。

 シャロンはまがりなりにも貴族なので、魔法使いは幾人か見ていて、その力の性質も多少は知っている。しかし、その誰もが、伯父の使う魔法とは違ったものを使っているらしかった。

(何故?)

 月白のセルパンが特別なのは分かるが、伯父は?

 伯父に魔法を教えたのは一人の少女だったというから、その少女もそういう質の魔法を使っていたということになる。師事したのが三十年前だというから、シャロンやフィデルよりも一回り年上だ。

 ――いや、もう一人。

 幼いころにシャロンを助けた少年も。

 長い髪。琥珀色の瞳。

 シャロンはフィデルの顔を見る。

 フィデルは首を傾げつつにっこりと笑みを返してきた。

「――とにかく、手当てが先だぜ嬢ちゃん」

 ふらふらと身体が傾ぐシャロンの様子を見たウォルターがそう言った。

 納得いかないが、ここは引き下がるしかなかった。すでにウォルターが身体を支えていて、シャロンを引き返させる気であるのはよく分かっていた。シャロン自身もこの怪我ではまともに頭が働かないので逆らう気はなかった。

 シャロンは頷いて、踵を返した。


 ***


 地下牢の隠し通路から出て部屋に戻るとウォルターはシャロンを椅子に座らせた。

 どうやらここも客間であるらしく、フィデルは通路を閉めてから、シャロンに待つように言った。

「治療ができる者を呼んできます。それから、その服をどうにかできる者も。よろしければエイリーン様が今召していらっしる服と同じようなものをこちらで用意させますが……よろしいですか?」

 シャロンは服を見てみた。

 血みどろ。

 袖から裾の部分まで、右側は真っ赤だ。それにシャロンは床に血を落として汚すのはためらわれたので、胸のところで切れた包帯に手をくるんで歩いてきた。――そのため焦げて炭になった包帯の切れ端やにじんだ血がついてしまっていてこちらもなかなか汚れが酷い。

 しかしシャロンが着ているような服がこの城にあるのだろうか? 追っ手から逃げ回っているシャロンは丈夫で多少汚れても気にならないように旅人が身に付ける服を着て行動していた。貴族が持つような服ではない。

「でもそれ、返すあてがないんだけど……」

 おずおずとそう言ったシャロンに、ウォルターが少し首を傾げる。

「どうしてだ? 減るもんじゃあないんだし、もらっておけばいいだろう」

「いやそれ減ると思うけど」

 しかしともかく今来ている服で外に出るわけにはいかないので取り替えなくてはならない。

 それなりに使い勝手が良かったのだが。

 ため息。

「お願いするわ」

 フィデルが頷いてそっと部屋の扉を開けた。

 と。

「……なんだか、騒がしいわね」

 シャロンは首を傾げた。

 廊下の方から大勢の者が駆ける音や怒鳴って何かを言っている声が聞こえる。少し気になったので聞き取ってみると「早く陛下とセルパン様に知らせろ!」だ。

 それと。

「お、お待ちください、困りますっ!」

 侍女らしき声。誰かを引き留めているらしい。

 というか、声がかなり近い。

「これは……いけない。ウォルター、エイリーン様を隠し通路へ通してもう一度地下牢へ連れて行ってください」

 フィデルが扉を閉めつつ言う。

 つまり、問題の人物はこちらへ向かって来ているということだろうか。しかしこの先は客間がずらりと並ぶばかりでほとんど何もないに等しい。ここの客に用があるならば、なにもわざわざ城に乗り込んで騒ぎを起こす必要もないだろうし、そんなことができるような猛者はシャロンの知る貴族の中にはいない。

 いったいどんな人物が――。

「エベルハルト様! お止まりくださいっ!」

 バンッと扉が開かれた。

 この部屋の。

「――やはりここにいたか」

 その人物はシャロンを見てそう言った。

 隠し通路の入り口に手をかけていたウォルターはその場で固まり、フィデルはため息をつき、シャロンは――唖然とした。

 老僕のハルが、そこに立っていた。

 ハルはシャロンの怪我を見て眉をひそめる。

「これはどういうことだセルパン殿。あなた方はエイリーンを危険な目に遭わせるためにここに連れてきたというのか。陛下が信頼している者たちなのだから大事はないと思っていたのだが、とんだ思い違いだったか」

 エベルハルト。三十年前に狂って王都を襲撃したドラゴンを討伐するために旅に出たきり行方不明になった、英雄。その後ドラゴンは王都に姿を現さなかったため相討ちになったのだろうと言われていたが。

 ――まさか王都のすぐ近くの領主に仕えていたとは。

 ウォルターが言う。

「……申し訳ない。嬢ちゃんにこんな怪我を負わせてしまったのは完全にこちらの不手際だ。手当てくらいさせてほしい」

「よかろう」

 フィデルがハルにシャロンの隣の椅子を勧めて、ハルを引き留めようとして取り縋っていた侍女に言付けをして薬師を呼ぶように頼む。それから、シャロンに新しい服を持ってくるようにも。

 薬師の方は比較的すぐに来た。

 傷口を洗い、止血と消毒をして包帯を巻き直されたシャロンは、ハルの方をちらりと盗み見る。

 ハルは一点を見つめたまま黙り込んでいた。

 隠し通路がある場所だ。

 元々シャロンが持っている地図はハルから手渡されたものなのだから、シャロンの行動を見越してあらかじめ地下牢へ続く隠し通路がある場所を調べておいたのだろう。この客間へも迷わずに来たところを見ると、そう考えて間違いはないだろう。

(本当の本当に、成り行きなんだけど……)

 自分の意思でここに来たのではない。街の中を歩いていたらたまたま地下牢への隠し通路を発見し、それを兵士に見咎められて追い回され、セルパンに城へ連れて来られたのだから。

 ……そのあとはカーラの言葉に惑わされてうっかり隠し通路に入ってしまったが、それもこれも、こうやって城へ来てしまったせいだ。伯父の近くへ来ることがなければこんな軽率な行動は取らなかったはずだ。

 シャロンは心の中でそう言い訳をした。

 フィデルがもう一度治癒の魔法をかけて、にっこりと笑った。

「これで感覚が戻ってもそれほど痛みを感じないでしょう。効果が切れるころには傷が塞がっているように治癒力も高めておきましたから、多少疲れを感じたりするかもしれませんが、一週間ほど休めば元に戻るでしょう」

 右腕の負荷を身体全体に分散させるということだろう。これだけの火傷なのだから、その程度で済めば良い方だ。

「ありがとう」

 シャロンが頷いた。

 というか、よくよく考えてみれば、いや考えるまでもないが、シャロンの隣にいるのは月白のセルパンと英雄エベルハルトで……本来ならばシャロンが会ってこんなふうに話せるような人物ではない。

「改めて挨拶申し上げます。初めまして、エベルハルト様。わたしたちは長い間あなたを探していましたが、こんな形でお会いすることになるとは思いませんでした」

 そうだ。月白のセルパンはハルを探していたのだ。

 探して、ルドウィークの屋敷にまで忍び込み、しかし結局ユリエに見つかったため探し出せないまま引き返すことになった。

 二度目に来たときにもハルとは入れ違いで。

 これが、初対面。

「でもそういえばハルさん、だったらここにはどうやって入ってきたの? 王都を出てから三十年も経ってるんだったら、ほとんどの人は顔なんて見分けられなかったと思うんだけど……」

 肖像画と言われるものはあるにはあるが、大抵そういうものは本物とは似ても似つかない人物が描かれるものだ。

 どちらにせよ三十年も前の顔を描いている絵ではどんなに本人に似ている絵でも意味がないだろう。三十年経っても肖像画の方は若いまま。それと総白髪の老人が同一人物だなどと言われても実感が湧かない。

 シャロンも、ハルが英雄エベルハルトだと知ってもやはりどこか信じられない。

 まあそれはシャロンがルドウィークの従者としてのハルしか見ていないせいでもあるのだろうが。

「それならば、あの方……陛下から賜った剣をかざして名乗り上げて、強引に入らせてもらっただけだ」

 そう言ってハルは腰に下げていた剣を外し、シャロンに見せる。

 確かに、王家の印。

 全体的に簡素な造りになっているので分かりにくいが鞘にはドラゴンが彫り込まれている。刀身にも炎を模した意匠が施されていて、美しい。

「そんな手段を使うのならどうして今まで戻ってこなかったんだ。陛下はずっと悩んでおられたんだ。エベルハルト殿、あなたが何故戻らないのか、と」

「それは……、あの方らしい悩みだな」

「エベルハルト殿」

 ウォルターが咎めるような口調で言う。

「そちらの事情はよく分からないが、ともかく一度でも戻ろうという気にはならなかったのか? ドラクル公の領地は王都からあんなに近いのに、何故、一度たりとも戻らなかった?」

「あの方に会うわけにはいかなかったからだ」

「……会うわけにはいかなかった?」

 シャロンは王都に着いたときにハルが言った言葉を思い出した。

 すなわち、ここには会いたくない人物がいるのだと。――会ってしまえば王都を離れられなくなるから、と。

 そうまでしてでもルドウィークの下に留まる理由があるというのか。

 ――嫌いなわけではない。

 王都の門の下で見せたハルの表情は、そういった感情ではなかったはずだ。

 あれは、そう。

(ハルさんは陛下のことを大切に思っているようだった)

 だとすれば考えられるのは、ルドウィークの方に重要な理由があるのだろう。

 ウォルターがため息をつく。

「エベルハルト殿、しかしここに来たからには陛下に会っていただくぞ。陛下にはこちらから伝えておくから、王都にいるうちに会いに来てくれ」

「……分かった、いずれは会いに行く。必ずだ」

 ハルがウォルターを見つめてそう言うと、ウォルターは頷いて部屋を出て行った。

 フィデルの方はというと、ウォルターが出て行ってしばらくしてから部屋を出て、それからまたすぐに戻ってきた。

「エイリーン様、服の用意ができたらしいです」

 手に衣服を持ってフィデルは言った。

「どうぞ」

「ありがとう」

 間。

 フィデルは出て行かない。

 ……これでは着替えられない。

「あの……?」

 シャロンが困惑していると、ハルが顔をしかめてフィデルの肩を叩いた。

 それでもフィデルにはハルが何を言いたいのかが分からないらしい。ハルに耳打ちされて、ようやく理解したような顔をした。

「……ああ、そうでした」

 フィデルは頷いた。

(今の間はなんなのよ)

 シャロンはそう思ったが口には出さなかった。

「わたしたちは外へ出ているので着替え終わったら声をかけてください。宿に戻るのでしたら、くれぐれも一人で動かないでください。わたしの魔法は効き目が速いので、今すぐ気を失うなどということもありますから。必ず、エベルハルト様とご一緒に」

「ええ。分かったわ、ありがとう」

 シャロンが服を受け取ると、フィデルは一礼して部屋を出た。ハルもシャロンの顔と、シャロンに渡された服を少し見比べてからフィデルの後に続いて出て行った。

 渡された服は、確かにシャロンの希望に適うものだった。

 てっきりとんでもない品を渡されるのではないかと思っていたが、それなりに良いもののようだ。

 これから、何をすればいいのだろうか。

 伯父には会ったが聞きたいことは聞き出せなかった。

 今から会いに行こうにも扉は王家の者か月白のセルパンしか開けられないのだし、より先程から眠くて仕方がない。

 ため息。

 シャロンは手早く着替えると、フィデルとハルを呼ぶために扉を開けようとした。

 ――が。

 視界の中で、扉がぐにゃりと歪んだ。

 足がもつれてつんのめったシャロンはとっさに手を前へ出したが、それが着くのか着かないのか分からないうちに感覚を失い、気が付けばすぐ目の前に床があった。

 シャロンは誰かが――おそらくハルかフィデルだろう――扉を慌しく開く音を聞いたような気がしたが、それさえはっきりしないまま、意識を手放した。

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