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二章

 二章


 十年前の叛乱、そしてラヴィリア家の大断罪が起こるよりもずっと前、シャロンは一度だけ命を狙われたことがあったらしい。

 生まれて間もないころ、王都の騎士団の長を務めていた伯父に、母がシャロンを引き合わせに――もとい、我が子を見せびらかしに行ったときに、シャロンは何者かにさらわれたそうだ。

 なんとか大事になる前に不逞の輩からシャロンを奪い返して事なきを得たそうだが、その事件のあと、幼いシャロンはひどく怯えてしまったらしい。乳母などは、しばらくシャロンの夜泣きに悩まされ、別人とすり替えられたのではとすら思ったとか。

 しかしラヴィリア家はこの事件を表沙汰にしなかったので、詳細を知る者はもうこの世にはない。

 運悪く王都に居合わせた母を含め、事件を知る者はほとんどが叛乱に巻き込まれて死んでしまったし、シャロンと一緒にラヴィリア家の領土に戻った乳母も老齢のため亡くなった。

 まあ、たいした事件ではない。

 シャロンもそのことをわざわざ誰かに言うようなことはしない。当のシャロンは今はもうそんな昔のことは忘れてしまっているし、母似に育ったこの顔のおかげで別人疑惑もとうに晴れているのだし。

(それにしても、陛下や王女はそんなふうに誰かにさらわれそうになったりすることはないのかしら?)

 確か王女はシャロンと同い年だったはずだ。

 王族ともなればさぞかし大変なのだろうとシャロンは思う。

(きっといつも護衛がついて、部屋の隅とかで兵士が控えたりするに違いないわ)

 さながら今のシャロンに――。

「ええっと……、ハルさん、そんなところでじっと立っていて疲れない?」

 ……老僕のハルが付き従っているように。

 というのも、数週間前に月白のセルパンが不法侵入してきたとき以来、ハルがシャロンのことをずっと見張るようになったからだ。

 見張られるのはともかくとして、ハルは時折シャロンを厳しい顔つきで見つめることがあった。

 この屋敷に来て、初めてハルと会ったときの顔と同じ表情だ。

 普段ハルと接していてもそれほど嫌われているような感じはないので理由を聞いてみると、ハルは少し困ったような顔をしてから、昔のことを思い出すからだ、と言った。

昔の親友に会いたくなるのだと。

 ハルはシャロンの気遣いに礼を言ってから答えた。

「……私のことは気にしないでいただきたい。ルドの力がセルパン殿に劣るはずはないから、安心して過ごしていなさい。私はただ自己満足で見張っているだけだ」

 ハルの言葉にシャロンは何も言い返せなくなる。

 以前は毎日この時間には、庭の方に剣を振りに行っていたようだが……それはまた別の時間にずらして、シャロンの護衛を優先させているらしい。

 シャロンは守られている身なので、好きでやっているというのならそれを止める理由は見当たらない。

(そんなに心配するほどでもないと思うけど……)

 シャロンは思った。

 なにしろ今、シャロンの横にはユリエもいるのだから。

 シャロンはユリエと一緒に魔法書を読み漁っているところだった。シャロンの右腕にはまっている白銀の腕輪を、どうにか外そうと試みているところだ。迂闊に外せばどんな魔法が襲ってくるか分からないので、まずは魔法の中身を知ろうというわけだ。

 ……というかこの腕輪、腕から外れなくなるとかぎゅうぎゅう締め付けてくるとか、そういったたぐいの呪いはかかっていないようなので、しょっちゅう外れそうになり油断できない。そのくせ外せば死ぬと言われているので外すわけにもいかず――迷惑なこと極まりない。

 ふふっとユリエが笑みを漏らす。

「でも、ハルさんの気持ちは分かります。わたしもシャロンさんを見ていると昔のことを思い出しますから。昔、シャロンさんのような方とこんなふうに魔法を勉強したことがあるんです。でもそのお客様はわたしよりも年下の男の子二人だったものだから、ルドがいじけて屋敷の奥に籠ってしまったり、勝手に遠くへ出かけていってしまったりして困りました」

「……あの公爵様が?」

 想像がつかなかった。

 ユリエはシャロンよりも幼いだろうから、年齢から考えればそう昔のことではないはずなのだが……。

「昔のことですもの」

 ユリエはにっこりと微笑む。

「それで、あの兄弟の兄は文句の付け所がなかったのですが、弟の方は魔法が苦手だったらしくて、よくこの屋敷の一部を壊されました」

 シャロンはふと思い出す。

 何か、伯父もユリエと同じようなことを言っていた気がする。

 伯父は三十年ほど前から叛乱が起こるまでの間、シャロンの父に紹介されて魔法を使う少女に師事したという。

 琥珀色の瞳を持つ少女。

 シャロンは伯父から話を聞いただけだが、もし彼女に会ったとすれば、それはちょうどユリエのような少女なのだろうと思った。

 それに。

 ……シャロンの父も、伯父と一緒にその少女から魔法を教わったそうだが、からきし才能がなかったという。一度その少女の住んでいる屋敷の屋根を魔法でふっ飛ばして以来、おとなしく見学に徹したとか。

(まあ、三十年も前の話じゃユリエは生まれてもいないだろうけど)

 三十年前。

 思えばその年も、色々あったようだ。

 王都をドラゴンが襲ってきたのが三十年前。

 それを英雄エベルハルトが退治しに行き、消息を絶ったのも三十年前。――そののちドラゴンが姿を現すこともなかったため、死闘の末に相討ちになったのではないかともっぱらの噂だが、真偽は分からない。

 そしてハルがこの屋敷に来たのも同じ年。

 シャロンは訊く。

「ねえユリエ」

「はい」

「ハルさんってどういう人なの?」

「どういう人……ですか」

 うーん、とユリエは考え込む。

 部屋の隅でハルが咳払いをした。……どうやら聞こえていたらしい。

 シャロンとユリエは二人して顔を見合わせて笑った。

 ユリエはハルに笑いかけて言う。

「……ハルさん、お茶を淹れてきてくれませんか?」

「しかし――」

「シャロンさんの分もお願いしますね」

「――――」

 つまりはどこかで時間を潰して来いという意味だ。

 ハルは言外の意味を察してか、渋々ながら二人に一礼して、顔をしかめたまま部屋から出て行った。

「それで、ええと、ハルさんのことでしたか?」

「うん。ハルさんはどんな人なのかなって」

 シャロンは老僕の先ほどの厳つい顔を思い出して苦笑する。

(無愛想な人、とかいう答えが返ってきてもおかしくないわね)

 しかしユリエの言葉は予想とは違った。

「ハルさんは……、偉い人、だと思います」

「偉い人?」

 ――偉い人?

 シャロンは耳を疑う。

「はい。ハルさんは昔から正義感の強い人なんですよ。……この屋敷に来たのもそういう性格のせいだったんだと思います」

「人手が足りないから?」

 呆気にとられつつそんな間抜けなことを言ってしまった。

 ユリエがふっと吹き出す。

「違います、そういう意味ではなくて……。シャロンさん、ハルさんは本当に偉い人なんですよ」

 偉い人、有名な人、月白のセルパンが探している人。

(……つまり、結局どういう人?)

 シャロンは首を傾げる。

「ところでシャロンさん」

「ん?」

「腕輪のことは何か分かりましたか?」

「……まったく分からないわ」

 月白のセルパンといえば昔話か噂話でしか聞かないような遠い存在なのだ。どういう活動をしていてどんな魔法を使うのかなど、文字として残っているものは少ない。

 ユリエが首を傾げて言う。

「わたしが見た限りではその腕輪から何かシャロンさんに害を及ぼすような魔法は感じられませんし、そもそも彼らがそう悪い魔法を使うことはないと思うのですが……」

「でも、この腕輪を外すと命がないって言ってたけど」

「シャロンさん。それはおそらく腕輪のせいではなくて――」

 と、ユリエはそう続けて、言葉を切った。シャロンの顔をうかがって、何か言いたそうに口を開きかけるが、言葉せずに言いよどむ。

 シャロンが不思議に思い、どうしたのか尋ねようと口を開くと、ふと、ユリエは何か感じたようにはっと顔を上げた。

「あ……」

 琥珀色の瞳が揺れる。

 ユリエは何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回している――そして、ぴたっと一点を見つめて動きを止めた。

「……どうしたの?」

「いえ、あの……わたし、ちょっと外の様子を見てきますね」

 シャロンが止める間もなくユリエは駆け出していた。

 取り残されたシャロンの後ろで誰かの声がする。

「やれやれ、勘の鋭い方ですね」

 苦笑するように言うその声は聞き覚えのある声だった。

 シャロンは振り返り――。

 つん、と額を人差し指でつつかれ、一瞬身体を風が抜けて行ったような感覚がした。

(魔法?)

 驚いて後ずさると、シャロンの目に穏やかな青年の顔が映った。

「こんにちはエイリーン様」

 月白のセルパン――フィデル。

「……こんにちは」

 不審に思いながらもシャロンは挨拶を返す。

 彼らの探し人である老僕のハルは今ここにはいない。ユリエにこの部屋を追い出されたため、しばらくは戻ってこないはずだ。

「今日はひとりみたいだけど」

 ウォルターという青年がいない。二人で手分けして探しているのだろうか。

 あるいは――。

 フィデルは微笑んで言った。

「ええ、ウォルターには少し囮になってもらっているのですよ。前回はここに入ってからすぐに気が付かれてしまいましたからね。上手くいったようで安心しました」

「上手くいったと言われても……ハルさんはちょうど今この部屋を出て行ったところよ」

 するとフィデルは笑みを浮かべたまま首を振る。

「いいえ、今日はあなたに会いに来たのですよ」

 ――やはり、とシャロンは思った。

 ハルを探しに来たにしてはどうも機が良すぎる――いや、悪すぎるのだ。ユリエをウォルターの方に引き付けておいたのはいいとしても、わざわざシャロンのところに顔を出す必要はない。

 シャロンは手近にあった分厚い本を片手に構えて、訊いた。

「つまり私を殺しに来たってこと?」

 しかし。

「違います。わたしたちはあなたの味方ですから」

「……は?」

 思いがけない言葉にシャロンは耳を疑い、聞き返した。

 フィデルは言う。

「その腕輪を渡したのだってエイリーン様の身を守るためで……今日ここに来たのもエイリーン様の守護を強化する魔法を施すためですから」

 シャロンは思わず先ほどフィデルにつつかれた額を両手で押さえた。

「……守護するための魔法ですよ?」

「信用できないわよ。だってあなた、この前会ったときにはこの腕輪を外せば命はないって言ってたじゃない!」

「それもその通りです」

 わけが分からない。

「エイリーン様」

 フィデルがシャロンのことを見つめて言う。

「どうか信じてくださいませんか?」

 シャロンは初めてフィデルの顔をまともに見た。

 整った顔立ち。わずかに黄色がかった瞳は、どこかユリエやルドウィークに似ているような気がする。

(そういえばこのひとも私のことをエイリーンと呼ぶのね)

 ふとそう思った。

 月白のセルパンは当然王女と面識があるだろうが、混乱しないのだろうか。

(というか陛下もよく私にエイリーンなんて名前を付けたわよね)

 なにしろシャロンがエイリーンという名を賜ったのは十年前の叛乱よりもあとのことなのだ。もし陛下が叛乱の首謀者をシャロンの父だと思い込んでいるのだとしたら、普通ならばその娘であるシャロンに王女と同じ名を付けるようなことはしないだろう。

 フィデルは言う。

「王都で動きがあったのです。エイリーン様――あなたと深く関わりのあることで。あなたはすでに、否応なく、これに巻き込まれています。ですからわたしたちはあなたを守りに来たのです」

 真剣なその顔に、シャロンはたじろいだ。

「……あなたたちの考えてることは分からないわ」

 警戒しつつそう言うと、フィデルは口元に人差し指を当てて言う。

 今度はにっこりと。

「誰にでも秘密はあるものです」

 どうやら素直に話してくれる気はないようだった。シャロンはフィデルのいたずらっぽい笑みに肩透かしを食らったような気分になった。

「あのね、人をおちょくるのもいい加減に……」

 シャロンが言いかけたとき。

 どたばたと騒がしい音が響いた。

「――フィデル! 助けろっ」

 ばんっと厨房の扉を開けて入ってきたのはウォルターという青年だ。そのあとをすぐにユリエが続く。

 シャロンは呆気にとられたままその様子を見ていた。ユリエはシャロンとフィデルの姿を認めて困惑したように足を止め、ウォルターがユリエから隠れるようにフィデルの背後に回り込む。

 シャロンは言う。

「これはいったいどういう騒ぎなの?」

「追われてるんだよ」とウォルター。「少し結界を壊してやっただけなんだが」

「……本気ですか。わたしはドラクル公を引き付けろと言いはしましたが……まさか結界を壊してしまうとは。エイリーン様のことは考えなかったのですか?」

 フィデルが呆れたように言う。

 ウォルターは肩をすくめた。

「だって、おまえがいるんだから危険はないだろうと思って」

「……あなたには常識がないことを忘れていました」

「おまえさりげなく酷いこと言ってるぞ!」

「本当のことなのですが……」

 このまま放っておくといつまでもこんな会話が続きそうだ。

 ユリエはそれを止めて言った。

「あの、それはどういうことなのですか。……結界を壊されたものだから、てっきりシャロンさんの言う通り、あなた方がシャロンさんに危害を加えに来たのだと思っていましたのに」

「違う。嬢ちゃんに怪我なんかさせたら俺たちが陛下にどやされるだろうが」

 ウォルターが胸を張って言った。

 フィデルがため息をつく。

「申し訳ありません、ユリエ・ドラクル。結界を壊してしまったことはいずれお詫びします。あなた方の領域を荒らすつもりはなかったのですが……ウォルターは無謀なので」

「あのな、いくら本当のことだからって、言っていいことと悪いことがあるとは思わないか?」

「おや、自覚があるのですか?」

「このっ……」

 ウォルターは拳を上げかけたが、シャロンとユリエが見ているのにはっと気が付いて腕を下ろした。

「……まあいいや。用はもう済んだんだろう?」

「はい。……あっ」

 フィデルは笑みを消して真剣な表情になった。

「もうひとつ確かめたいことが」

 言いながらユリエに近づき――。

 がばっ。

 ドレスとペチコートを数枚一緒にめくった。

「ちょ……っ、おおおまえーっ! 何やってんだこらぁああッ!」

 ウォルターが顔を真っ赤にさせつつフィデルをユリエから引き離す。ユリエも顔を赤くしながらも冷静にドレスをおろしている。

 突然の出来事に驚いているシャロンはフィデルのことを指差して口をぱくぱくさせるしかなかった。

 まともに見えるフィデルなのだが。

(尻尾が生えているとでも思ったのかしら)

 ふとそんな突飛な考えが浮かぶ。

 ウォルターがフィデルの肩を揺さぶって言った。

「おまえな、いきなり……じょ、女性のドレスをめくるとは何事だっ」

「いえ」

 フィデルは弁解する。

「尻尾でも生えているのではないかと思ったものですから」


 ***

 ――夜。

 月白のセルパンが去ったあと、いつも通りの仕事をして、何事もなく一日が終わるだろうと、シャロンは思っていた。

 しかし。

 寝床に就いてからしばらく経ってからだ。

 シャロンは激しい痛みに目を覚ました。

「ぐっ……うう」

 右手の甲。

 皮膚を剥がれるような感覚に、シャロンは呻き声を上げる。

 危険が迫っているのか。……しかし、いつもと様子がかなり違っている。痛み方がおかしいし、追っ手の位置もつかめない。

 右手を押さえ、うずくまる。

 シャロンはともすれば吹き飛びそうになる意識の隅で必死に考えた。

 追っ手がここにいないならば、この痛みはなんなのだろう?

 魔法だろうか。しかし、魔法で離れたところにいる人物を殺すには時間も手間もかかるし、術者本人の命をも失うかもしれないという危険も付きまとう。

 あるいは、月白のセルパンがついにシャロンの命を奪いに来たのだろうか。彼らならばシャロンに居場所を特定されずにこの屋敷に入れるかもしれない。

 ――しかし。

「……ふ、ふふ」

 こんな状況でも笑みが出た。

 シャロンには、この痛みが月白のセルパンのせいではないということを知っていた。

 何故ならばシャロンは今、他の、何かの魔法を感じ取っていて、それがシャロンを魔法印の魔力の業火から護っているものだと分かっていたからだ。

 風が身体を通り抜けていくような感覚――おそらく、というかほぼ確実に、フィデルが朝方シャロンに施していった魔法だ。

 シャロンの命を奪おうというのに守護の魔法をかけるのはおかしい。

 だからこの危険は、セルパンではない。

(だとすれば?)

 シャロンは考える。

 だとすれば、あとは――。

(あとは)

 ――シャロンの伯父に、何かがあった場合。

 すっと血の気が引いた。

 嫌な予感。

 フィデルは王都で何か動きがあったと言っていた。そしてシャロンがそれに巻き込まれていると。

 伯父の身に何かあったのではないかと考えるのはこれで二度だ。

 しかし、前回は杞憂だったが、今回は違うとシャロンは確信していた。

(確かめなくちゃ。確かめて……)

 シャロンは考える。

(……助ける)

 身を起こし、這うようにして床に下りる。

 しかし。

「……あ」

 思っていた以上に力が入らず、シャロンはそのまま床に崩れ落ち、気を失った。


「――シャロン」

 誰かの声がする。

「シャロン」

 うっすらとまぶたを開いたシャロンは、目の前に琥珀色の瞳を持つ顔があるのを認識した。

(ユリエ?)

 何か物音を聞きつけて駆けつけてくれたのだろうか。

 心配そうにシャロンを見守っている。

(でも、それにしてはどこか雰囲気が違うような……)

 暗くてよく分からないが、背もかなり高いようだし、顔つきもユリエよりも鋭い感じがするし、なにより、声が低い。

 これは――。

「こ、公爵様っ?」

 ずざっとシャロンは後ずさった。

「……そんなに驚かなくともよかろう」

 やや憮然とした声だ。

 シャロンは言う。

「だって……でも、どうしてここに?」

 ユリエの部屋はここに近いのだが、彼の部屋は……どこにあるのかすら分からない。少なくとも同じ階にはないとシャロンは断言できる。

 シャロンが物音を立てたにしても、どうやって聞きつけることができるのだろう。

 ――今朝のユリエのように何らかの攻撃を感知したのか? いや、あれはウォルターが屋敷に張ってある結界を壊したせいだ。この魔法印は屋敷に被害を出すわけはないし、直接にシャロンを攻撃しているわけでもないのだ。そういった魔法を感知する者はかなりの資質がある者だと伯父から聞いたことがある。

 彼がそうなのだろうか。

「ここはわたしの領地なのでな。別にどこにいても不思議はないだろう?」

「はあ」

 こんなやり取りをこの前もしたような気がしないでもない。

「……シャロン、灯りをつけるぞ」

 彼はそう言うとシャロンの返事を聞かずに立ち上がって部屋の隅へ行き、ろうそくに火を灯した。

 部屋が、彼の顔を見分けられる程度に明るくなった。

 彼はまたシャロンのそばに戻ってきて膝をつく。

「大丈夫か?」

「あの……」

「右手が……魔法印に何か異変があったのだろう?」

「え」

 何故分かったのだろうとシャロンは訝しく思った。そもそもシャロンはこれが魔法印だと言った覚えはないのだが、どうして分かったのだろう?

 伯父に刻んでもらったものだと言った記憶はあるのだが……しかし、伯父が魔法を使えるというのは世間には知られていない。魔力がなくともこういった模様をまじないとして刻むのはよくあることだから、普通ならば異変の原因が魔法印だと分かるはずはない。

 しかし彼はそのことには触れず、シャロンの右手をそっと持ち上げた。

「げっ」

 その惨状を見て、シャロンの口から思わずそんな声が漏れた。

「何これ?」

 右手の甲は紋様の部分が黒く焼け焦げていて、周りはただれて赤くなっていた。左手はそれを押さえていたためにべっとりと血がついている。

(どうりで……。そりゃ、こんなふうになれば痛いわけよね)

 皮膚を剥がれるような感覚はこうなったときに生じたものだろうか。

(でも……そうだ、伯父様の身に何かあったことは間違いないんだわ。そうでなくちゃ魔法印がこんなふうになるわけないもの)

 シャロンは顔を上げた。

「……あの」

「待て」

 彼が、言いかけたシャロンを手で制す。

「シャロン」

「はい」

「実は、今朝から言うべきか言わぬべきか迷っていたことがあるのだが……」

 そう言ってから、彼は少しためらうように口を噤んだ。

 シャロンは首を傾げる。

(愛の告白、ってわけではないだろうけど)

 彼がこういうふうに迷うのは珍しい。

 どういうことあったのだろうとシャロンは想像してみて――さっぱり見当もつかなかった。

「シャロン」

 彼はシャロンを見つめた。

「――ラヴィリア公が王都ワリアで、投獄された」

「え?」

 シャロンは耳を疑う。

「残念ながら」彼は首を振って言う。「本当のことだ」

「嘘、でも、そんな。だって……」

 シャロンは立ち上がる。

「――私、助けに行きます」

 しかしその腕を彼がつかむ。

「駄目だ」

「どうして」

「今は、危険だからだ」

「でも」

 なおもシャロンがねばると、彼は真剣な表情をして言った。

「待て、シャロン。一ヶ月……いや、二週間だ。二週間あれば――わたしがどうにかできる」

 二週間。

 考える。

(……二週間)

 シャロンは首を振る。

 それほど長い間待つことはシャロンにはできそうにもなかった。

 ため息。

「分かった」

 彼はシャロンの腕を放した。

「そこまで決意が固いのなら王都に行ってみるといい。ただし、ハルを連れて行くことを承諾してくれるか」

「ハルさんを?」

 頷く。

「……そうだ。わたしもユリエも今は手が離せない。ついて行きたいところだが……結界を修復しなくては動くに動けない状態なのでな」

 今朝、ウォルターが壊してしまった結界のことらしい。

 シャロンは承諾した。

「分かりました。ハルさんと一緒に王都に行きます」

 すると、彼はふっと微笑んでシャロンの頭に手を置いた。

(あっ、また)

 シャロンは何か不思議な気配が降りてくるのを感じた。フィデルがシャロンの額を指で突いたときと同じような感覚だ。それよりはなにか暖かい火が身体を巡るような感覚にも思えるが……どこか、安心させられるような雰囲気だ。

 しばらくしてその気配は消えた。

 彼は手を離した。

「では――おやすみ、シャロン」

「はあ」

 ろうそくの火が消されて、部屋が真っ暗になる。

 戸を開ける音。

「あ」

 シャロンはまた思い出して彼を呼び止めた。

「公爵様」

「……なんだ?」

「いえ、あの……結局公爵様はどうしてここに来たのですか?」

「…………」

 沈黙。

(あら、間違っちゃったわ)

 どうやって異変を察知できたのか、ということを聞こうと思ったのだが。

 彼はシャロンの言葉を違ったふうに解釈したらしい。

「いや、それは……少しきみに用事があったからだ」

「用事?」

 また口ごもる。

「……少なくとも」

 彼は言う。

「夜這いに来たわけではない」

 もちろんだ。


 ***

 ――清々しい朝とはこういう朝を指すのだろうか。

 窓から入ってくる優しい風、小鳥のさえずり、ハーブのにおい、馬のいななき。

(これでこの怪我がなければいいんだけど)

 シャロンは自分の手の甲に目を落とす。

 今、ユリエに包帯を巻いてもらっているところだ。包帯を巻く前に塗ってもらったハーブの薬が効いているのか、痛みはほとんどない。

「はい、終わりましたよ。……痛くありませんでしたか?」

「大丈夫。ありがとうユリエ。休憩中なのにこんなことさせてごめんね」

 結界を張り直す作業は先程までユリエが行っていた。

 聞いたところによると、昨晩から今までかかってようやく前準備が終わったところらしい。今は作業を中断して一休みしているところだったのだ。

「いいえ、シャロンさんの怪我の方が放っておけませんから。シャロンさんが王都に行ったら……しばらくは会えない可能性がありますから」

 そうなのだ。

 シャロンは王都に行って伯父が投獄された理由を調べ、減刑を請うつもりだ。

 しかし、今のシャロンはこの屋敷の一介の使用人でしかない。何をどうすればいいのかさっぱり分からない状態だった。

 最終手段としてはラヴィリア家に強引に復縁して国王に直訴することも考えている。

(まあ、それは本当に奥の手だわ……)

 ともかくしばらくは王都でねばってみるつもりだ。

「エイリーン」

 ノック音とともに、老僕の声がした。

 扉を開けて入ってくる。

「こちらの用意はできた。そちらは」

「ええ、大丈夫。すぐ行けるわ」

 老僕が頷く。

「分かった。少し経ったら下りてくるといい。私は下で待っている」

「ええ」

 シャロンも頷いた。

 老僕はユリエに一礼して出ていった。

 それを見送ったシャロンは立ち上がって言った。

「さて、じゃあ私はそろそろ部屋に戻るわ。荷物を取りに行かなくちゃいけないもの。ユリエはもう少し休んでる?」

「あ、シャロンさん。わたしもついていきます」

 ユリエは余った包帯や薬草を棚に戻して、扉の取っ手に手をかけているシャロンのそばに来て言う。「玄関まで見送ります」

「ありがとう」

 にっこりと笑って、シャロンは扉を開けた。

 廊下。

(やっぱり誰もいないのよね)

 がらんとした長い廊下を見回してシャロンは思う。

(しばらく帰ってこられないんだから、少しくらい姿を見せてくれてもいいものだと思うけど)

 いつもどこにいても、どことなく誰かがいるような気配は感じられるのだが、シャロンは結局一度もその姿を見ることはできていない。

 今回は少し期待していたのだが。

「……どうかしましたか?」

 立ち止まったままのシャロンにユリエが少し首を傾げる。

「うん、ちょっとね」

 曖昧に微笑みながらシャロンは言った。

(まあ、帰ってきたら絶対に見つけ出してやるわ)

 シャロンは心に誓ってから部屋へと向かう。

 後ろには小走りにユリエがついてくる。

 大理石の床に彩度の低い絨毯が敷いてあり、足音は響かない。布を踏む音が小さく耳に入るだけだ。

 壁には紋章の刺繍が入ったタペストリーが掛けられている。古ぼけていて詳しくは分からないが、どうやら何か空想の生き物のようだ。

 翼の生えた四つ足の動物。

 このタペストリーの少し先にある部屋が、シャロンの部屋だ。

「じゃあ私、荷物を取ってくるから。少し待っててね」

「はい」

 ユリエの返事を聞いたシャロンは部屋に入って、まとめておいた荷物を肩に掛ける。必要最低限のものを入れたその鞄は、軽くはないが、それほど重いというわけではない。

 他に何か忘れたものがないかを確認してから部屋を出る。

「もう大丈夫ですか?」

 シャロンは頷いてユリエに笑いかける。

「ええ、大丈夫。下に行きましょう。ハルさんが待ってるわ」

 しばらくの間使っていた部屋の扉を閉めて、シャロンはユリエとともに外へ出た。

 いななき。二頭の馬が、玄関から出てきたシャロンたちに気が付いて地面を掻いた。濃い焦げ茶の毛並みの馬の方が、シャロンが連れてきた馬なのだが、その隣でじいっとこちらを見つめている見事な青毛色の馬には見覚えがない。

(と言っても、この屋敷で他の馬なんて見たのはこれが初めてだけど。……どこから連れてきたのかしら?)

 シャロンは内心首を傾げつつも馬に向かって笑みを返す。

 馬を率いていたハルも振り返ってシャロンを見た。

 ハルはいつもと違って動きやすい服を着ているようだった。旅人が身につけるような簡素だが丈夫な衣服を、不思議なほど違和感なく着こなしている。

「随分と早かったようだが……もう準備は済んだのか」

「大丈夫」

 ハルがユリエの方に目を向ける。

「ユリエ様、よろしいですか?」

「はい。あの、シャロンさんのことを頼みます」

「承知いたしました」

 一礼して、馬に跨る。シャロンも荷をくくりつけてから馬に乗った。

 久々の騎馬だ。

 シャロンは少しユリエのそばへ移動して声をかけた。

「じゃあ、またね。ユリエ」

「はい……無理はしないでくださいね」

「――努力するわ」

 苦笑い。

 シャロンとハルは目を見合わせて、手綱を操った。

 二頭の馬が駆け出す。

 やがて屋敷は木々に隠れて、見えなくなった。


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