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一章

 一章


 上品な趣味の調具の揃う部屋に、朝の光が射し込んでいた。落ち着いた雰囲気の中に、圧迫するような空気はない。柔らかで快い感じ。

 シャロンは頬が弛むのを感じながら、少女の髪を結い上げていた。さらさらとした金茶の髪の触感が心地よい。

 少女を向き直らせてその仕上がりを見て、笑み。

「うーん、参っちゃうな。ユリエはどんな髪型でも可愛い」

「あの、そんなことないです。シャロンさんが結い上げるのが上手いんです」

 頬を赤く染めながら、少女――ユリエはそう答えた。

 またシャロンの頬が弛む。

 そのとき、誰かが扉を叩いた。誰かはもう分かっている。シャロンは小走りに扉を開けた。

 白髪交じりの老人が入ってくる。――ハル。最初に会ったときに、そう名乗った。あまり私事を話してくれないので、それ以外のことはよく知らない。たぶんここの主の、従者だということぐらいが分かるのみだ。

「ユリエ様、朝食の用意が出来ました」

 ぴしりと伸ばされた背。老いを感じさせないが、少々顔が厳しすぎるように見えるなとシャロンは思っていた。

 その老僕が顔をこちらに向けた。シャロンは思わず姿勢を正す。

「エイリーン、今日はあなたも同席しなさい。食事が済んだらルドのところへ案内する」

「ルド……。ええっと、公爵様に?」

 シャロンは怖じ気づいた。

 この屋敷の主に会ったのは馬に揺られてきた夜の一度だけだ。

 透明感のある黄土色――琥珀色の瞳はユリエと同じ色なのだが……あまり近づきたくはない人物だと感じられた。

 こう、近くにいると食べられてしまうような気分になってくるのだ。

 老僕が大きくため息をつく。

「エイリーン。ルドはあなたのような娘を闇雲に襲ったりはしない」

「も、もちろん存じています」

 ユリエがシャロンの様子にくすくすと笑い声を漏らした。

(笑い事じゃないんだけど)

 まあ、危険が迫れば手の甲が痛むはずだから、老僕の言うようにこの屋敷の主はそう悪い人物ではないのだろう。なにより、シャロンをかくまってくれると言うのだから。

 あの日のシャロンといったらひどいものだった。

 木の小枝でできたかき傷がいっぱいの顔で、風に煽られた髪の毛もくしゃくしゃ。おまけに服は所々裂けていて。

 扉を叩いたシャロンにまず初めに対応したのは、このハルという老僕だった。

(本当、嫌そうな顔してたものね)

 少しの間泊めてほしいのだと言うシャロンにしかめっ面で応じていた老僕は、それでも一応シャロンを客間に通して主人を呼びに行った。

 そして呼ばれてやってきた彼は、シャロンを一目見るなりにっこりとして言ったのだ。

 ――この屋敷で働く気はあるか? と。

 不思議な瞳。

 彼の琥珀色の瞳は、すべて見抜いているのではないかと思った。シャロンがラヴィリアの一族の娘だということも、何者かに命を狙われて逃げてきたのだということも。

 すべて知っているぞ、と。

 惹かれる。あの瞳は……普通の、人のものではなかった。

 この屋敷に留まるべきか、それとも今までのように放浪の生活を送るべきか。

 しかしシャロンはそれほど迷わなかった。

(行く当てなんて、……ないもの)

 追っ手がラヴィリアの姓を捨てたシャロンをも狙うのであれば、どこへ行っても危険はつきまとう。

 ――ならばせめて、また逃げなくてはいけなくなるときまで。

 受け入れてくれるならば、しばらくここに留まろう。

 そうしてシャロンは承諾して、今はユリエに仕えている。

「シャロンさん?」

 押し黙ってしまったシャロンを心配してか、ユリエが不安な顔をしてこちらを覗き込んでくる。

「あの、ルドは少し変わっていますけど、そんなに悪い子ではないですから……もしシャロンさんが嫌だと言うならば無理に会ってほしいとは言わないと思うんです。ルドはシャロンさんのことを気に入っているようなので……」

「え?」

「だ、だってそうでなければシャロンさんを屋敷に入れたりするはずがありませんから」

「……気に入ってる? 私のことを?」

「はい」

 絶句。

 口を半開きにしたまま下を向いてしまったシャロンを、ユリエがおろおろと見守る。

 ややあって顔を上げたシャロンは、すうっと息を吸ってから言った。

「ユリエ」

「……はい?」

 シャロンはにっこりと笑った。

「私、公爵様に会うわ」

 老僕はまたため息をついた。ほっとしたような表情で、しかし信じられないものを見るような……どことなく奇異な目でシャロンを見ているように感じられるのは気のせいだろうか?

 しかしシャロンが不平を言おうと口を開く前に、老僕は一人頷いて言った。

「ではそのようにお伝えする」

 そして、ユリエの方に一礼してさっさと行ってしまった。

 ユリエがシャロン服の袖を引いて微笑みかけてくる。

「……行きましょう? シャロンさん」

「うん」

 シャロンはこれから会うであろう主に思いを馳せる。

(ともかく、変わった人だわ)

 すらりとした長身で、束ねた長い髪に琥珀色の瞳。それから口元には、ちょっと人を小馬鹿にしたような不敵な笑み。

 しかしその自信は、根拠のないものではないように感じられる。

 シャロンが彼の名前を聞いたのはあの夜の一度きりだが、それもよく覚えていた。

 問うたときの彼の声がシャロンの耳によみがえる。

 ふっと笑ってから答えた名。

 ――ルドウィーク・シャルル・ドラクラ。


 屋敷に入ってからというもの右手が痛むことはなくなっていた。

 約三日。

 ハルという老僕に部屋を与えられて、朝起きたときにはもうすでに追っ手の気配は消えていた。

(ここまで静かだと逆に恐いような気もするけど……)

 今のシャロンの生活は至って平和だ。

 ユリエの後ろを歩きながら、シャロンは考える。

(もしかして、もしかしたら……これってやっと諦めてくれた、ということなのかしら。うん、やっぱり私の命なんか狙っても、何の得もしないもの)

 ――しかし。

(私怨……、てこともあるのよね)

 ラヴィリアの大断罪。

 多くの貴族にとって、その十年前の事件は忌まわしいものだろう。

 十年前、王都ワリアで叛乱が起きた。

 そのときワリアに滞在していたシャロンの母は運悪く叛乱に巻き込まれて命を落とし、父は……それから一ヶ月後に叛乱の首謀者として処刑された。

 冤罪だ。それは分かり切ったことだった。

 シャロンの伯父は真相を解明するよう王に求めたが、叶えられなかったそうだ。

 だから伯父は自ら動いたのだ。

 叛乱の真の首謀者たちを徹底的に摘発したという、ラヴィリアの大断罪。のちに調べたところによると、伯父が摘発することができなかった首謀者はたったの二、三人だったという。

(伯父様……大丈夫なのかな)

 シャロンは右の手の甲に目を落とす。――魔法印。十年前の叛乱でシャロンが父と母を亡くした後に、伯父によって刻まれたもの。

 これはシャロンを守るものだと、伯父が言っていた。

(そう、私はしっかり守られてる)

 数々の追っ手から逃げてこられたのもこの印のおかげだ。

 ふうっとため息が出た。

「……どうかしましたか?」

 ユリエが話しかけてくる。

「ううん。……なんだか平和だなーと思って」

 なかば困ったような笑みを浮かべながらシャロンは答えた。ユリエも首を傾げつつにっこりと笑い、食堂の扉を開けた。

 ほんわりと良いにおいが漂ってくる。

 テーブルにはそのにおいと等しく美味しそうな食べ物。

 それから、部屋の隅の方には老僕が直立不動で控えている――これは、いつも通りだ。シャロンとしては一緒に食事をとればいいのに、と思わないでもないが。

(……そう言えばこれって誰が作ってるのかしら?)

 屋敷ではユリエと老僕のハルとこの屋敷の主であるルドウィークしか見たことがない。

 ひょっとすると、まだシャロンの知らない者がいるのかもしれない。なにしろこの屋敷はどこか不思議な雰囲気があるから。人ひとりが隠れることなど容易く出来そうだ。

(まあどうでもいいか。この屋敷が怪しいのとお料理がおいしいはあんまり関係ないものね)

 シャロンはそう納得して用意された席に着いた。

「いただきます」

「……いただきます」

 いつもとは違いユリエが一緒なのでやや緊張しながら、シャロンはナイフとフォークを手にとった。

 幸いテーブルマナーには慣れている。

(だてに十八年間貴族やってたわけじゃないものね)

 その貴族の生活を捨てて約一ヶ月。

 ……またため息が出そうになり、シャロンは首を振ってスープの皿を手に取る。

「あ、おいしい」

 ふと何かが動いたような気がしてそちらに顔を向けると、老僕がやや顔をしかめてそっぽを向いているのが見えた。

 シャロンはスープと老僕を見比べる。

 スープは素朴な味だった。どことなく荒っぽいような、簡易な作り方の……旅人向けのような。

「……もしかして?」

 改めて見てみれば、料理全体が、そう。やはり同じような作り方。

 なんとなくこの料理を作ったのが誰なのか分かったような気がして、しかし笑うわけにはいかないので堪えようとして、シャロンは少し顔を引きつらせた。

 ――似合わない。

 いや、意外と似合うだろうか? 想像は出来ないが。

「シャロンさん? あの、どうかしましたか」

「なんでもない」

 やはり頬を引きつらせたままシャロンは答えた。

 ふと、足音。

「……ルド?」

 ユリエが呟く。

(ルドって……公爵様? 足音だけで分かるようなものなのかしら。……ああそうか、この屋敷には他に人がいないんだっけ)

 扉が開かれる。

 現れたのは、やはりユリエが言った通り、この屋敷の主人だった。

(……朝食の後に会うって聞いたけど)

 戸惑いつつ見ていると、彼は部屋に入ってきて微笑んだ。

「おはようユリエ」

 ユリエが頷く。

 彼も頷いて老僕の方を向く。

「おはよう、ハル」

「おはようございます」

 老僕が一礼。

 そして最後に……。

「――シャロン」

 シャロンが思わず立ち上がりかける。と、それを彼は手で制して言う。

「いや、そのまま座っていていい。……おはよう、シャロン」

「……おはようございます」

 座りながらシャロンは答える。

 その向かいに、彼が椅子を引いて腰掛ける。

(気まずい……)

 どうやら食事を摂ろうという気はないらしい。シャロンの顔をじっと見つめている。琥珀色の瞳の視線をひしひしと感じる。

 おずおずとシャロンは尋ねた。

「あの……お話が?」

「いや、きみの食事が終わってからだ」

 にっこりと答えられ、仕方なく皿に目を戻すが――集中できない。

 沈黙。食器とフォークの触れる音だけがやたらと耳につく。

 冷や汗をかきつつ食事を終え、フォークを置いてからシャロンはほっと息をついた。ユリエもほとんど同時に終えたようで、老僕に皿を下げてもらっているところだった。

「……ごちそうさまでした」

 シャロンがそう言うと、彼は頷いて、待った。

 ――何を?

「ハル、それは置いておけ。あとでいい」

 ぴたりとシャロンの目の前の皿を片付けようとしていた老僕の手が止まる。一瞬迷ったようだが、とりあえずそのまま放さず、テーブルの隅の方へ持って行って片した。それから先程と同じように部屋の隅に立つ。

 ユリエもやはりテーブルに着いたままだ。心配そうにシャロンのことを見守っているのが分かる。

「さて」

 彼はシャロンの方に向き直って言った。

「少しきみのことを聞かせてほしい。……名は?」

「シャロン・エイリーン・ラヴィリア」

 迷わずにそう答える。

 身じろぎ。後ろで誰か――老僕以外にはいない――が動いた気配。

 しかし、なんだろうと思ってその様子を確かめる間もなく、シャロンの言葉を聞いた彼は「ほう」と眉を上げて言った。

「なるほど。次に聞こうと思っていたのだが……そうか、それで作法は身に付いているというわけか」

 頷く。

「しかしラヴィリアというと……公爵だな。きみがその娘だというのなら、何故こんなところにいる?」

「えっと……」

 シャロンはちょっと困った。

 言うべきか。

 ……言うべきだ。

 ふうっ、とため息。

「ラヴィリアの姓は捨てました」

「捨てた?」

「捨てました。あの、実は私……逃げてきたんです。昔からラヴィリア家に敵が多いのはご存知でしょう? 私もしょっちゅう命を狙われて、それで、いい加減うんざりして、ラヴィリアの名を捨てて逃げたわけで。ここに来たのも……その……」

 シャロンは追っ手が来ていて、命が狙われているのだということを伝えようとした。

 限界だろうと思った。

 言っておかなくては彼らにも危険が及ぶだろうと。

 しかし彼がまた手で制す。

「知っている。シャロン・エイリーン・ラヴィリア、……きみの熱心な信奉者がここ数日この屋敷の周りをうろついているようだ」

「え?」

 きょとんとシャロンは問い返す。彼は顔をちょっと前に出して囁いた。

「きみの命を狙っている者が、わが領土の庭に入ろうとしている」

「え」

 絶句。

(でも、危険なんて感じなかったのに)

 シャロンは右の手の甲に目を落とす。

 痛みはない。――ということは、危険はないということではなかったのか? 追っ手がそれほど近くに来ているとは、考えてもみなかった。

 ふと嫌な想像をしてシャロンは顔を青くした。

(伯父様の身に何かあったんじゃ……)

 もし伯父に異変があるならば、魔法印が効果を現さなかったのも頷ける。なにしろシャロンの手に印を刻んだのは他ならぬ伯父なのだから。

 しかし、ユリエがその心配を解いてくれた。

「シャロンさん、あの……でも、たぶん大丈夫です。この屋敷には定められた者しか入れないようになっていますから……。なかなか入れないと思います。わたしたちは魔力が他の人よりも強いので、そういった複雑な結界を張るのも簡単なんですよ」

「そう……なの?」

「……はい。ですから、シャロンさんは特別です」

 シャロンはユリエと同じ色の瞳の主人を見つめる。

「だったら……、この屋敷の中に、危険はない?」

 気が付かないうちに言葉遣いが地に戻ってしまっていたが、彼はそのことには触れず、にやりと口元をあげた。

「ない。この屋敷にいる限り、そんな奴に好き勝手させたりはせん」

 自信に満ちた笑み。

 ――しかしそれはたぶん、信じられるもの……信じていいものだと、シャロンの直感が告げていた。

(じゃあ、伯父様も無事なんだ)

 ほっと肩の力が抜けた。

「シャロン」

 彼がまた話しかけてくる。シャロンは少し慌てて姿勢を正した。

「改めて聞くが……ここで働いていく気が、あるのだな?」

「え? ああ、はい」

 すると彼はふっと笑った。

 あの時と同じ笑み。彼がシャロンに名を告げたときと。

「分かった。……話はそれだけだ」

 彼が立ち上がった。

 ユリエもそれに倣い、老僕はまた皿を片付け始めた。シャロンも慌てて立ち上がる。

「シャロン」

 彼が、ふと振り返って言う。

 またシャロンがぴしっと動きを止める。

「は……、はい」

「きみの手の甲に刻まれているものは、どういうものだ?」

「お守りです。伯父様が刻んでくれました」

 ぴくりと彼の眉が上がる。

「……何か?」

 気に触ったことでもあるのだろうかとシャロンが恐る恐る尋ねると、彼は首を振って奇妙な笑みを浮かべた。

「いや、何でもない」

 そう言って今度こそ足早に立ち去ってしまった。

 わけが分からずシャロンはユリエと老僕に助けを求めたが、老僕は自分の仕事を済ませて部屋を出るところで、ユリエも何故か困ったような表情をしてシャロンを見つめているだけだった。

「な、何?」

 ユリエは口を開きかけたが、やはり何も言わずにまた閉じて首を振った。

「いえ……あの、知らないほうがいいかも……」

「え? この魔法印が?」

「……ええ。でも大丈夫です。ここは守られていますから」

 きっぱりとそう言われてしまったので、シャロンは少し納得できないままおとなしく引き下がるしかなかった。

(もうっ、何なのよーっ!)

 シャロンは心の中で力一杯叫んだ。


 ***


「はーるさん」

 シャロンは厨房の扉からひょっこりと顔を出して老僕の名を呼んだ。

 老僕が振り向く。

「何か?」

「いえ、ちょっと聞きたいことがあって……」

 言いながらシャロンは微笑む。

 シャロンがこの屋敷の主人に正式に――たぶん、そうだろう――認められてから二週間ほどが経ち、屋敷の様子にやっと慣れてきたというところだ。

 二週間。この間もやはり手の甲が痛んだことはない。まったくの平和な状態だ。

 ……だが二週間も屋敷に閉じ籠っていればさすがのシャロンも根を上げる。

 だから、どうにかならないものかと考えていたのだ。

「聞きたいこと……とは?」

「ええ。今、庭の方に行っても安全なのかなー……って」

「庭?」

「公爵様がおっしゃっていたでしょう? この領土の庭に私を追ってきた何者かが侵入しようとしているって」

 老僕がちょっと首を傾げて考え込み、それから納得したように顔を上げた。

「……ああ、そういえば言い忘れていたが……ルドの言う庭というのは少々、あなたの常識とは違うかも知れない」

「つまり?」

「あなたが考えている庭に出る分には安全だと考えていいだろう。ルドの庭はこの屋敷を取り囲む森の端から端までだ。それでもここの領土のほんの一部に過ぎないが」

 広い。

(なんか……大雑把な方なのかしら?)

 ともかく、どうやら少し庭に出るだけなら危険はないようだ。

 シャロンはぱっと顔を輝かせた。

「そうなんだ。ハルさんありがとう!」

「……ああ」

 にっこりと笑って言ったシャロンの言葉に、普段から厳つい表情をしている老僕の顔がますますしかめっ面になってしまった。

 ここしばらく見てきたシャロンはそれが照れ隠しなのだと知っている。

 思えばハルは不思議な人物だ。この領土の主であるルドウィークに仕えている彼は、言葉遣いこそ丁寧だが、ルドウィークのことをルドと呼び捨てたり、作る料理が粗野な感じがしたり、……どうも単なる使用人ではないような雰囲気がある。

(そういえば私のこともエイリーンって呼ぶのよね)

 シャロン・エイリーン・ラヴィリア。エイリーンという名は陛下から賜った名だ。貴族は皆十五歳になるとそうやって王から二つ目の名をもらう。大抵は歴代の王族の誰かの名であり、シャロンの場合は現在の王女と同じ名を授かった。

 王族と同じ名をつけられるのだから、恐れ多くて、その名が使われることはない。シャロンもこれまで、エイリーンと呼ばれる機会は滅多になかった。

 この老僕は何か王女に強い思い入れでもあるのだろうか。ルドウィークは公爵の身分だが、一介の使用人に過ぎないハルが王女と面識があるとは思えなかった。だとすれば、王女の方ではなく、陛下となんらかの縁があるのか。――シャロンは考えたが、ハルの表情からはうかがい知れなかった。

(まあ、そう深く考える必要はないわよね)

 ハルは良い人物だ。名前の呼ばれ方など、気にするほどでもない。

 シャロンはちょっと苦笑して外に出た。

「んー、久しぶりの外だ」

 ぐっと背伸びをして外気を胸に吸い込むと、やや慣れないけれど清々しい感じ――森のにおいがする。

 きょろきょろと辺りを見回して馬屋を探す。

 あった。

 シャロンはそちらの方へ駆けていき、扉を開けた。屋敷から連れてきた馬が、何事かというふうに振り向いていななき声を上げる。

「おはよう。私がいない間寂しかった?」

 屋敷から出なかった二週間と三日、この馬とは顔を合わせていなかった。前に会ったのが随分と前のような気がする。

「……それにしても、殺風景だと思わない?」

 きちんと手入れの行き届いたつややかなたてがみを撫でながらシャロンは馬に話しかける。

 シャロンがそう言うのももっともなことだった。

 なにしろ他に馬がいないのだ。かと言って牛や羊がいるわけでもなく……空っぽだ。がらんとした馬屋をシャロンの馬が独り占めしているという格好になっている。屋根や壁は傷んでいるわけでもないし、まぐさなどはきちんと揃っているから、なかなか快適そうではあるのだが。

(こんな森の奥からどうやって王都まで行くのかしら)

 いくらずっと領地に籠っているといっても、年に一度くらいは出かけることもあるだろう。しかし、移動手段が見当たらない。

 徒歩、ということはあるまい。

「もしかしたらこっちはお客様用ってものなのかしら」

 首を傾げつつシャロンは呟く。

 と、そのとき馬屋の奥の方で何かが動いたような気がした。

「ん……? 誰かいるの?」

 奥の方にはまぐさが堆く積まれていて人が隠れるにはちょうどいいようになっている。

(使用人かしら)

 シャロンはこの屋敷で働いている者を、老僕のハル以外には見たことがない。誰かがいるような気配は感じるので、無人ということはないだろう。他に誰かいるのなら顔を見てみたい、と思っていた。

 だからシャロンは声をかけてみることにした。

 そっと忍び寄り、ぱっと顔を出す。

「こんにちは」

「うおっ」

 ずざっと驚いたように後ずさったのはどこかで覚えのあるような声だった。

 長身の青年。

「おや、この前の」

 にこにことそう言ったのは長身の青年の横に座っている青年だった。髪が長く、整った顔立ち。やはりこの声にも覚えがあった。

「あなたたち……もしかして、宿でじゃがいもを剥いていた二人?」

「じゃがいも? ああ、そんなこともありましたね」

 苦笑しつつ温厚そうな青年が答える。

 シャロンは記憶を探り、二人の名を思い出す。

 長身の方がウォルターで、髪の長い方がフィデルだ。

「それにしても、どうしてこそこそと隠れたりしてるの? あなたたちもこの屋敷で働いてるんでしょう? 私は三週間くらい前からだけど、ハルさん以外の使用人とはずっと顔を合わせてなかったのよ」

「なんだって?」

 シャロンの言葉に、二人の青年は顔を見合わせた。

 それからウォルターと言う青年が呟く。

「なるほど。やっぱりここで正解だったんだな。しかし……そりゃどういうことだ。あの人をこき使ってるなんて、ドラクル公はいったいどんな神経してるんだ?」

 えっ、とシャロンは後ずさった。

 どうも領主に会ったことのないような口振りが気になる。だとすれば部外者なのだろうか? しかし、この屋敷は守られているとユリエも言っていた。

 この二人は何者なのか。

 シャロンはおずおずと尋ねる。

「どんな神経してるって……。あなたたち、ここの使用人じゃないの?」

「残念ながら、違いますね」

 フィデルという青年があごに手を当ててすまなそうに答える。

 手首に、青みを帯びた白銀の腕輪が嵌められている。

「じゃあ、何をしに来たの?」

 これにはウォルターという青年が一拍おいてから答えてきた。

「人を探しに」

「なっ……」

 シャロンはさらに後ずさる。

(この人たち、私のことを殺しにきたの?)

 しかし、手の甲は痛まない。危険が迫っているときにはいつもちりちりと痛むのに、今は痛みがない。

 それに話を聞いた感じだと、この二人が探しているのはシャロンではなく老僕のハルのように思える。

 どういうことか。

(油断させて不意を突くつもり、とか?)

 シャロンは停止しかけた頭の中でそんなことを考える。

 ウォルターという青年が怪訝そうな顔をする。

「……何をそんなに驚いているんだ?」

「ウォルター、彼女はどうやら何か勘違いしているようです」

「勘違い?」

 フィデルという青年は頷いて、シャロンに話しかける。

「お嬢さん、わたしたちが探しに来たのはあなたではないのですよ」

「え?」

「え」

 シャロンと、ウォルターという青年が驚いたような顔になる。

「おいおい、なんでそういうことになるんだ? 嬢ちゃん、あんたいったいどういう素性の者なんだ?」

「私は……。シャロン・エイリーン・ラヴィリア。元貴族よ」

「……ラヴィリア?」

 今度はフィデルという青年が驚いたような顔をした。

(あれ、このひと、私が誰だか分かってたんじゃなかったの?)

 しかしそれをシャロンが訊こうと口を開く前に、ウォルターという青年は困ったように頭をかいて言っていた。

「なるほどな。王都でラヴィリア公爵の姪っ子が家を出たという話を聞いていたが……嬢ちゃんのことだったのか」

 この青年の腕にも、白銀の環。模様が見える。精巧に彫り込まれた一対の蛇だ。

 あれ、とシャロンは首を傾げた。

 こんな紋様をどこかで見たことがあるような気がしたのだ。それもあまりいい思い出ではなく、シャロンの父が絡んだあの事件で知った、ラヴィリア家など及びつかないようなとてつもない強大な貴族の――。

「あなたたち、何者なの? 誰を探しに来たの?」

 シャロンは警戒しつつ尋ねた。

「わたしたちは……月白のセルパン」

 フィデルは言った。

「セルパン……?」

 その名を聞いた瞬間、シャロンは身を強張らせた。

 月白のセルパン。別の名を、王家の盾。王家を守護する魔術師で、爵位は公爵。そしてその爵位の引継ぎは世襲によらず、優れた弟子に為される。

 王家を害する事件はセルパンが調査し、判断を下す。

 十年前の叛乱の後処理をしたセルパンはおそらくこの二人の前任者だろうが、セルパンとしての役目を果たせなかったことには変わりない。処刑は王の許可がなければ執行されないが、セルパンが王に言えば、王は処刑を許可しなかっただろう。

 しかしセルパンは処刑を止めなかった。

 あの忌まわしい叛乱が起こって以来、王家とラヴィリア家、セルパンとラヴィリア家の関係は悪い。

 その月白のセルパンが、目の前にいる。

 偽者であるということはなかった。何故ならば彼らの名を騙ったりできる者などいるわけがないからだ。そういう愚かしい真似をした者は過去に幾人かいたようだが、いずれもろくな結果にはなっていない。

「エイリーン様、……その腕の紋様はなんです?」

 フィデルがシャロンに言った。

「え?」

 指し示されたのはシャロンの右の手の甲に刻まれた魔法印だ。

「これは、お守りみたいなものよ。伯父が刻んでくれたものだけど……」

 シャロンがそう言うとフィデルは考え込むように沈黙する。

 それから、少し表情を険しくして呟いた。

「……なるほど。そういうことなのですか」

「そういうことって……どういうこと?」

 ユリエも、この屋敷の主であるルドウィークもこんなふうにこの印のことを気にしていたが、一人で納得されてしまってもシャロンにはわけが分からない。

 ウォルターも同じようで、少し怪訝な表情をしている。

「どうかしたのか?」

「いえ、少々厄介な事態になりましてね」

 フィデルはそう言いながら腕に嵌めていた白銀の環を取り外す。

「こらっ、おいおまえな、何やってるんだよ」

 ウォルターが少し驚いたような、どこか慌てたような声を出すが、フィデルはそれを無視してシャロンの右の手首に腕輪を嵌める。

 一瞬のことに、シャロンの反応は遅れてしまった。

 シャロンが腕輪に目を落とすと、彫り込まれた二匹の蛇の目がちらりとこちらを向いて視線がかち合ったような気がした――もちろん気のせいなのだろうが。

 一対の白銀の蛇。

「えっ、あの、これは何?」

 シャロンが困惑気味に尋ねると、フィデルは答えた。

「この腕輪はその魔法印の効果を防ぐ役割をします。外さないようにしてください」

 にこにことフィデル。「もしも外したら……、エイリーン様、あなたの命はないと思ってください」

 素で恐ろしいことを言う。

「ちょっと……! 何勝手なことをしてるのよ! この魔法印は伯父様が私を守るために刻んだもので、それをどうして、……あなたそれでも王家の盾なの?」

 シャロンは鋭い声で非難したが、フィデルはシャロンの言葉に首を傾げた。

「おっしゃる意味が分かりません。その腕輪は王家に仇をなす者に力を及ぼします。エイリーン様、心当たりはないのですか?」

 困惑。

 心当たりはない。ラヴィリア家が十年前の叛乱で王家を恨めしく思っているのは事実だが、表立って対立したことは一度もない。

 ……いや。

 シャロンは思う。

 そう、叛乱だ。もし陛下や月白セルパンが十年前の叛乱の首謀者が、実は本当にシャロンの父だったのだと思い込んでいるとすれば――。

(間違いないわ。今回の追っ手も、今までの暗殺者も、陛下の命令で出されたんだ)

 シャロンは思った。

 魔法印に反応がないのは、伯父よりも彼らの力が勝っているからだろう。シャロンが結界の張ってあるこの屋敷に逃げ込んだため、自ら乗り出してきたのだろう、と。

 この二人をどうしてくれようとシャロンは考える。今まで数多の暗殺者のおかげで非常に不愉快な思いをしてきたのだ。父の叛乱の件は冤罪だというのに、何故シャロンが命を狙われなければならないのか。

 考えるだけでふつふつと怒りが湧き上がってくる。

 シャロンが拳を宙に上げかけると、フィデルはそれを制した。

「エイリーン様」

 にっこりと笑って言う。

「わたしはエイリーン様のこと好きですよ?」

「なっ……」

 シャロンと、横でシャロンとフィデルのやり取りを見ていたウォルターが、同時に声を上げてから絶句した。

「あ、それから陛下ももちろん、あなたのことを好いていらっしゃいます」

 ……どうやら、シャロンのことを好意的に思っている、という意味だったらしい。好意を持たれているというのもにわかに信じがたいが、とにかく愛の告白とかそういったものではないことはなかったわけだ。

 そうと分かっても、シャロンはしばらく反応できなかった。

 ふと、フィデルは顔を上げた。

 何かを見るようにすっと目を細めて馬屋の戸口の方をじっと見つめた。

「ウォルター。誰かこちらへ来るようです。……どうやらわたしたちの探し人ではないようですね」

「本気か」

 ウォルターは少し渋い顔をする。

 忍び込んでいるのがばれたようだ。月白のセルパンには敵わないにしても、この屋敷で不審な輩に好き勝手などさせないというのを、自信を持って言うだけのことはある。

「……仕方がないな。今日のところは出直すっきゃないか。フィデル、行くぞ」

「はい」

 フィデルはウォルターの言葉に頷いてから、シャロンに笑いかけて言った。

「ではエイリーン様、またの機会に会いましょう」

「えっ。ちょっと」

 二人の不審者は窓から飛び出て去ってしまった。


 シャロンは二人を呆然と見送っていたが、馬屋の戸が開く音ではっと我に返った。誰なのだろうと振り返り、また固まる。

「……公爵様?」

 そこに立っていたのはこの屋敷の主だった。

(どうしてこんなところに?)

 てっきりユリエかハルが来るものだとばかり思っていたのに、まさか彼自らここへ来るとは。……いや、月白のセルパンはハルを探しに来たらしいから、今ここにいるのがルドウィークではなくハルならば、彼らは逃げていかなかったはずで。

 しかしともかく、彼が来るとは思わなかった。

 彼はシャロンの考えを読み取ったかのようにふっと笑って言う。

「ここはわたしの領地なのでな。別にどこにいても不思議はないだろう?」

「はあ」

 気の抜けた返事。

「シャロン」

「はい」

「誰がいた?」

「え?」

 彼の琥珀色の瞳がじっとシャロンを見つめている。鋭い瞳。その気迫に押されてシャロンは一歩後ずさった。

「ええっと、あの、月白のセルパンを名乗りました。一人は背が高くてウォルターという名前で、もう一人はフィデルといって、髪が長くて優しそうな……いえ、優しそうな顔でとんだ暴言を吐く人です」

「……暴言?」

 彼は不思議そうな表情をする。

「あ、いえ、こっちの話です」

 シャロンは曖昧に微笑んで適当に誤魔化した。

 彼はシャロンの言葉に首を傾げていたが、深くは追求してこなかった。

「……公爵様は彼らが何をしに来たのか知っているのですか?」

「ああ。ハルを探しに来たと言っていたのではないか?」

「その通りですが……どうしてハルさんだと?」

 シャロンがそう尋ねると、彼は口元に笑みを作った。

「きみは知らないだろうが、あいつも昔は有名だったのだよ」

「そうなんですか?」

 想像がつかない。

「そうだ。それこそわたしの父上と同じくらいに有名な男だった。……しかしまあ、本当に昔の話なのだがな。何しろかれこれ三十年も前になるのだから」

 三十年前ではシャロンも生まれていない。

(どういう人だったんだろう)

 腕を組んで考えていると、彼はシャロンの腕に目を留めた。

「……その腕輪はなんだ?」

「え、これですか?」

 シャロンは右腕を上げる。

 白銀の蛇の腕輪。

「えっと、これは……フィデルという方が、伯父様に施してもらった魔法印を封じるものだと言って……外したら死ぬ、と」

「ほう」

 彼は少し眉をひそめて呟いた。

「そういうことか。余計なことを……」

「え?」

「いや、なんでもない」

「?」

 彼は不機嫌そうに顔をしかめただけで答えてくれなかった。

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