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序章

彼の息子らは森に住む


 序章


(またか……)

 ちりちりと痛む手の甲を揉みほぐしながら、シャロンは窓の方をきっと睨んだ。

 宿の外に、追っ手の気配。

(……今回は一人なのね)

 右手に刻まれた魔法の印によって感じられる気配は一つだけ。ただし、痛みはいつもよりも激しい。

 痛みの度合いは危険度を示す。つまり、痛みが酷いほどシャロンにとっては厄介な相手だと言うことだ――どうやら今回の追っ手は優秀らしい。

 シャロンはため息をつき、さっと立ち上がった。

 荷物はまとめてある。

(そりゃそうよね。こう何度も襲撃に来られたら、頭の悪い私でもちょっとくらい学ぶわよ)

 憎々しげに心の中で呟きながら、鞄を肩にかけて階段を下りる。

 食堂になっている一階では女主人が酔っぱらった客たちを相手していた。シャロンが顔を出すと、女主人はちょっと怪訝な顔をしてこちらを見てきた。

「おや、どうしたんだい。こんな夜更けに? 今はあんたみたいな女の子が起きてていい時間じゃあないよ。誰かに食われたって知らないからね」

 ちらりと横の無骨そうな男をあごで示して言う。男はにやにやと笑みを浮かべつつシャロンを見ている。

 こういう好奇に満ちた目で見られることはこれまでにも何度もあった。

 シャロンはそちらににっこりと微笑んでおきながら、女主人に囁きかけた。

「おかみさん、私もう出るわ。裏口を使わせてもらえないかしら?」

「訳ありかい?」

「そう」

 女主人は見定めるようにシャロンを見つめたが、深くは聞いてこなかった。

「あっちだよ。厨房を真っ直ぐ行ったところ。ああそうだ、そこにじゃがいもを剥いている男がいるだろうけど、寝てたら叩き起こしといてくれるかい」

 頷く。

「ええ、ありがとう。……今度の人は有能そうだから、たぶん迷惑はかけないわ」

「そりゃよかった」

 シャロンは女主人の横をすり抜け、厨房へ向かう。

「食われないように気を付けな」

 女主人が言う。シャロンは振り向いてにこやかに笑った。


 厨房まで男たちのおおらかな笑い声は聞こえてきていた。

 追っ手の足音を聞こうとぴんと耳を澄ましていたシャロンは、無意識のうちにところどころその内容を拾い取っていた。

「……馬鹿言え。お前があの英雄エベルハルトの息子だって? 知らないのか、エベルハルトは三十年も前にドラゴンに戦いを挑んでから消息を絶ってるんだぞ」

「なんだって? 聞いてねえよそんな話!」

 どっと笑い声が湧く。野次が飛んだりガシャンと何かが落ちる音がして、女主人の怒声が飛ぶ。

「こら、あたしの料理を投げるんじゃないよ! ああもうっ、あんたたち! 喧嘩するなら遠慮なく外に放り出すからね……」

 威勢のいい女主人の声に「おう!」とか「分かってるよ」とかと返事をするのが聞こえる。どうやら女主人も本気で怒っているわけではないらしい。その場が想像できるような気がして、シャロンは笑みを浮かべる。

(……ここで殺されるわけにはいかないわね)

 この宿に迷惑はかけたくない。宿で死人が出たとなれば、寄りつく客が減ってしまうだろう。

 もちろん、黙って殺される気などさらさらないのだが。

(本当、迷惑よね。私の命を狙ってくるなんて)

 命を狙われるような理由など、シャロン自身には覚えがない。あるとすれば、両親や親族の誰かだ。

 こうして旅人に身をやつしているとはいえ、シャロンは貴族の娘。理由などそれこそ山のように――あってほしくはないのだが――あるだろう。

(貴族って面倒だわ)

 ――なりたくてなったわけではないのに。

 しかしこうして生まれてきたからには仕方がない。親が選べないのは誰も同じだ。

 ふうっと大きく息を吐いてから、シャロンは拳を突き上げた。

「よーし! 追っ手だかなんだか知らないけど、逃げてやろうじゃないの!」

 意気込み、早足で暗い厨房を歩く。

「きゃっ」

 ……とたんに何かにつまずき、つんのめった。何か棒状の柔らかいもの。

 シャロンは顔をしかめて壁に文句を言った。

「誰? こんな所に変なものを置いてるのは……」

「すみません。人が来るとは思わなかったものですから」

 温厚そうな声。

 思わぬ返事にひやりとする。

(この人がおかみさんの言っていた男の人なのかしら)

 顔は見えないが、なんとなく想像が付く。

 ――じゃがいもを剥く温厚そうな青年。

(……似合わないわ)

 吹き出しそうになるのを堪えながら、暗くてはっきりとは分からない人影にシャロンは語りかける。

「ごめんなさい、あなたのものだったんですか?」

 人影は首を振ったようだ。さらさらと髪の揺れる音。

「いいえ、これはわたしのものではありませんよ。……ウォルター、ほら、あなたがちゃんと仕事をしないからこうなるのですよ」

(人っ?)

 また、ひやり。

 何かが動く気配。床の上にあったそれが、青年とは反対側に引っ込む。

「痛てて……なんだ? 足が痛むな……」

(足!)

 シャロンがつまずいたのはウォルターという青年の足だったらしい。

「あの……」

 ごめんなさい、と謝ろうと口を開いたとき、シャロンは背筋にぞくりと不快な感覚を覚えた。右の手の甲が痛む。

 追っ手が宿に入ってきたのだ。

 唇を噛みしめて痛みに耐えながら、ウォルターという青年を睨む。

「私、厨房にいる奴を叩き起こせっておかみさんに言われたんだけど。あなたのことかしら?」

「それはそうだが……フィデル、この嬢ちゃんは何者なんだ?」

 これに温厚な声が答える。

「さあ、暗くてよく見えませんからね」

「見えないって、おまえ、その目なら……」

 困惑したような声は最後まで言い切ることなくごにょごにょと消えてしまった。何か、聞かれたくないことでもあったのだろうか? 分からない。

 シャロンは手を腰に当てて言った。

「とにかくちゃんと仕事してね」

「はい」

「分かってるよ」

 しっかりとした返事と、面倒くさそうな返事。

 シャロンはため息をついて、今度こそ戸口の方へ向かった。

 古びた木の扉に手をかけながら追っ手の気配を探る。――どうやら女主人が引き留めてくれているらしい。一階に留まっている。

 そっと扉を閉めて馬屋に足を運んだ。

 馬が一頭。

(これのせいで追っ手に見つかりやすくなってるのよね……)

 比較的大きな商隊ならともかく、一介の旅人が馬を連れていることは少ない。馬は一般人には高価なものだ。ましてやシャロンは女の身。

「でも、あなたがいなくちゃ逃げられないものね」

 馬の首を叩きながらシャロンが言う。

 女の足ではいざというとき追っ手から逃げ切るのは難しい。

「ごめん。今日も頼むわね」

 いななき。たぶん承諾の意味だろうと捉え、シャロンは手綱を引いて外に連れ出した。

 追っ手はやっと二階へ上がったらしい。廊下を移動する気配。

 ぴたり。

 また気配が立ち止まる。つい先程までシャロンがいた部屋の前だ。様子をうかがっているのだろう……シャロンが寝ているかどうか。

(残念。私はもう外にいるのよ)

 さん、にい、いち……。

(行け!)

 シャロンが馬を駆るのと追っ手が部屋に飛び込むのが、同時だった。

 少ししてから、ばんっと窓が開く音がした。

 出し抜いてやった、と軽く笑みを浮かべながら、振り返ることなく馬を進める。おそらく諦めてくれるだろう――。

 ――と、思ったが。

(え……何?)

 シャロンは眉をひそめた。

 追っ手が、なんの前触れもなく下へと降りた気配が伝わってきた。……飛び降りたらしい。それから宿の裏へ回って、――もの凄い勢いで近づいてくる。

 蹄の音。シャロンの馬の他に、だ。

「そんなの卑怯よ!」

 思わず叫んで舌を噛みそうになり、口を閉じる。

(そこまでして殺しに来る?)

 屋敷にいたときには確かに、毒を盛られそうになったり、枕の下にさそりを入れられたり、狩りでやたらと流れ矢がシャロンの脇をかすったりもしたが。

(もう私はラヴィリアの一員じゃないのに)

 シャロン・エイリーン・ラヴィリア。

 一ヶ月前に貴族の生活と縁を切り、捨ててきた名だ。

 こうして屋敷を出てからも追っ手はあったが、国外へ出るという意志を示せば、そのうち命を狙われることもなくなるだろうと思っていた。

 ――それなのに。

「しつこい……しつこすぎるっ」

 街道を走りながら、シャロンは焦りの声を上げた。

 逃がそうという気はないらしい。手の甲に強烈な痛み。追いつかれそうだ。

(このままじゃ駄目だわ)

 シャロンは手綱を繰り、森の中へ突っ込んだ。

 歯を食いしばり、ぎゅっと目を閉じた。飛び出した木の枝が容赦なく身体をかすめていく。ぴっと頬をかかれ、血が玉になって浮かんでくる。

 激しい揺れ。木々の間を縫って駆け抜けるのはそう楽ではない。

(酔いそうだわ)

 いささか場違いなことを考える。

 しかし、この走り方が功を奏したらしい。後ろの方で、いななき。木にぶつかったのだろうか、蹄の音がしなくなった。

「よし、お手柄よっ」

 にっこりと馬に語りかける。

 シャロンの様子を感じ取ったのか、馬も少々速度を落とす。

(あとは……どこかの屋敷にかくまってもらえれば文句なしだけど)

 一度捨てておいてラヴィリアの姓を用いるのは少々厚かましい気もするが、その名を持ち出せば嫌とは言えないはずだ。

「まあ、そう都合よく事を運べるはずないわよね……」

 そう呟き、顔を上げたとき。

 森の奥の方に灯りが揺らめくのが見えた。

(あ……っ、怪しいっ)

 行くべきか、避けるべきか。

 シャロンの迷いは、しかし一瞬のことだった。

「まったくもう……しぶといんだから」

 追っ手が性懲りもなくついてきているのを感じたからだ。さすがのシャロンもこれにはうんざりした。

「行って。あの灯りの方に」

 いななき。ちゃんと理解してくれたようだ。

 シャロンはまた顔を上げて、その灯りの方を見据えた。


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