空を数える者
王都の北塔には、夜になると一人の男が上る。
男の仕事は、星を数えることだった。
日が沈む前に塔へ入り、東の空から順に星の数を記録する。雲が出れば晴れるまで待ち、夜明けまでにすべての方角を数え終える。
数え間違いは許されない。
星読みたちが千年以上守り続けてきた、王国で最も古い仕事だった。
何のために数えるのか。
それを知る者はいない。
ただ、初代国王が遺した勅命に、こう記されている。
«星を数えよ。
一つでも違えば、王へ知らせよ。»
星読みは毎夜、同じ空を見上げる。
星の数は変わらない。
今夜も。
明日の夜も。
百年後も。
変わってはならない。
◆
エリオは十六歳で星読みとなった。
幼い頃から空が好きだった。
故郷の村では、羊飼いの父と並んで草原に寝転び、星座の物語を聞いた。
勇者に討たれた銀角竜。
月の女神に恋をした狩人。
死者の魂を運ぶ白い舟。
星々は遠い神話の欠片であり、夜空は神々が残した巨大な絵巻なのだと、父は言った。
だから、王立天文院から迎えが来た時、エリオは心から喜んだ。
一生、星を眺めて暮らせる。
それ以上の幸福などないと思った。
だが、星読みには一つだけ奇妙な決まりがあった。
三十歳を迎える前に、必ず職を辞さなければならない。
例外はない。
理由を尋ねても、師匠のオルゼンは答えなかった。
「長く空を見すぎると、地上へ戻れなくなる」
冗談めかしてそう言うだけだった。
実際、二十九歳になった星読みは、皆どこか怯えていた。
夜空を見上げる時間が減り、引退の日が近づくほど、塔の窓へ厚い布を掛けるようになる。
中には、二度と夜の外を歩けなくなる者もいた。
エリオには理解できなかった。
星ほど美しいものが、他にあるだろうか。
少なくとも、二十九歳の冬を迎えるまでは。
◆
異変に気づいたのは、雪の降らない静かな夜だった。
空気は澄み、北の空には細かな星までよく見えた。
エリオはいつも通り、銀製の計数盤に珠を移しながら数えていた。
北東第四区画。
七百二十一。
七百二十二。
七百二十三。
そこで手が止まった。
星が一つ、多い。
エリオは目を擦った。
もう一度、最初から数え直す。
七百二十三。
記録帳を開く。
前夜は七百二十二。
その前も。
十年前も。
百年前も。
北東第四区画の星は、七百二十二個。
数え間違いだ。
そう思い、夜明けまでに十一回数え直した。
だが、結果は変わらなかった。
七百二十三。
新しい星は、他の星より暗かった。
注意して見なければ気づかないほど小さく、黒い夜に針で開けた穴のように瞬いていた。
初代国王の勅命が脳裏をよぎる。
«一つでも違えば、王へ知らせよ。»
夜が明けると、エリオは王宮へ向かった。
◆
報告を聞いた国王は、何も言わなかった。
玉座に座ったまま、長い間エリオを見つめていた。
驚いたのではない。
怯えているのでもない。
待ち続けていた知らせを、ついに受け取った者の顔だった。
「見間違いではないのだな」
「十一度確認しました」
「色は」
「色?」
「その星は、何色に見えた」
エリオは少し考えた。
「色はありません。暗い星でした」
国王の隣に立つ老宰相が、目を閉じた。
王は玉座の肘掛けを強く握った。
「今夜から北塔を閉鎖する」
「ですが、観測を続けなければ」
「星を数える必要はなくなった」
国王の声は低かった。
「二度と空を見るな」
その日のうちに、エリオは星読みの職を解かれた。
引退まで、まだ半年あった。
理由は教えられなかった。
王宮を出る際、老宰相が追ってきた。
「妻子はいるか」
「いません」
「故郷に家族は」
「父が」
「ならば帰れ」
老宰相はエリオの肩に手を置いた。
「日が暮れる前に村へ着け。夜は窓を閉めろ。星明かりが入らぬよう、厚い布を掛けろ」
「新しい星は、何なのですか」
老宰相は答えなかった。
ただ、エリオの目を見て言った。
「お前はまだ、あれを星だと思っている」
◆
エリオは故郷へ帰らなかった。
その夜、王立天文院へ忍び込んだ。
星読みとして十三年を過ごした建物だ。裏口の鍵も、見回りの時間も知っている。
目的は地下書庫だった。
天文院には、王国が建国される以前の観測記録が眠っている。
星の数が増えた例が、過去にもあるかもしれない。
地下へ下り、封印棚を探した。
星読みであっても閲覧を許されない、最古の記録。
錠前を壊し、黴臭い羊皮紙の束を取り出す。
最初の記録は、千四百年前。
建国から三年前の日付だった。
文字は古かったが、星の数だけは読み取れた。
北東第四区画。
七百三十一。
エリオは息を止めた。
現在より多い。
次の年は、七百三十。
さらに翌年。
七百二十九。
記録をめくるたび、星は一つずつ減っていた。
やがて七百二十二となり、そこで数は止まっている。
減少が終わった年。
王国が建国されていた。
星が減り、国が生まれた。
エリオはさらに古い記録を探した。
棚の奥から、革ではなく薄い銀板を束ねた古文書が見つかった。
表紙には、初代国王の紋章。
中には、国王自身の筆跡で記録が残されていた。
«第一夜。北天より七つ消失。
第二夜。西天より十三消失。
第三夜。空全体が暗くなる。
星が消えているのではない。
我らが、離れている。»
エリオは何度も最後の一文を読んだ。
我らが、離れている。
星々が遠ざかったのではない。
この世界そのものが、星から遠ざかっていた。
次の銀板には、地図が描かれていた。
王国ではない。
大陸でもない。
巨大な球体。
その周囲を、七つの輪が包んでいる。
輪の外側には、無数の点。
星だ。
球体の下には、古代語で名前が刻まれていた。
《避難殻》
世界の名ではない。
何かを守る容器の名だった。
最後の銀板に、初代国王の手記が残されていた。
«神々は空を造っていない。
七重の天蓋を閉じ、世界を外から切り離した。
星が見えなくなるまで、我らは沈み続ける。
すべての星が消えた時、我らは救われる。»
エリオは顔を上げた。
すべての星が消えた時。
だが、星は消えなかった。
七百二十二個で止まった。
そして昨夜。
一つ増えた。
震える手で銀板をめくる。
裏面に、後世の誰かが一文を刻み足していた。
«星が再び増え始めた時、天蓋は引き上げられている。»
◆
背後で物音がした。
振り返ると、老宰相が立っていた。
兵士は連れていない。
老人は悲しそうに、エリオが手にしている銀板を見た。
「見つけてしまったか」
「何が起きているのです」
「記されている通りだ」
「誰が世界を引き上げている」
老宰相は答えなかった。
エリオは声を荒らげた。
「星の向こうに何がいる!」
「向こうではない」
老人の声は、ひどく疲れていた。
「星の方が、外だ」
意味が分からなかった。
老宰相は銀板の球体を指でなぞった。
「我々は、宇宙に浮かぶ世界ではない。七重の天蓋に包まれ、外から隠された小さな殻だ」
「何から隠れた」
「神々が名を残すことを禁じたものから」
「神々はそいつらと戦ったのですか」
「戦う?」
老人は乾いた笑いを漏らした。
「神々は、あれらの眠りの中で偶然生まれただけだ」
エリオは何も言えなかった。
「人間が夢の中に現れた人物と戦うか?」
老宰相は続ける。
「目覚めれば、夢は消える。それだけだ」
地下書庫の天井から、かすかな砂埃が落ちた。
地震ではない。
もっと遠く、世界そのものが軋んでいるような音だった。
「新しい星は、何です」
「外が見え始めた穴だ」
「では、あの暗い星は――」
「星ではない」
老宰相は言った。
「天蓋の裂け目だ」
◆
王都の鐘が鳴った。
深夜を告げる鐘ではなかった。
戦争。
火災。
災厄。
王国全土へ危機を知らせる、百年鳴らされていない大鐘。
一度。
二度。
三度。
地上から悲鳴が聞こえ始めた。
エリオと老宰相は地下書庫を飛び出した。
天文院の玄関を開けると、王都の人々が道に立ち尽くしていた。
皆、空を見上げている。
夜空には、星が増えていた。
一つではない。
何百。
何千。
黒い裂け目が天蓋に開き、その向こうの光が覗いている。
美しかった。
これまで見たどんな夜よりも。
星々は白く、青く、赤く輝き、天の川のような光が空を覆っている。
人々の中には、涙を流す者もいた。
神々の奇跡だと祈る者もいた。
エリオだけが知っていた。
空が美しくなったのではない。
世界を隠していた覆いが、剥がされている。
北東の空で、ひときわ大きな光が瞬いた。
新しく現れた星々が、次々にその周りへ並んでいく。
偶然ではない。
巨大な円を描いている。
円の中心だけが、黒い。
あまりにも大きく、最初は形だと気づかなかった。
光る星々は、それを縁取っているだけだった。
エリオは十三年間、毎晩空を見てきた。
星々を結び、神話の獣や英雄を見つけることに慣れていた。
だから、他の誰より早く理解してしまった。
あれは星座ではない。
輪郭だった。
黒い円の内側で、何かが動いた。
星々が一斉に揺れる。
その瞬間、王都中の人々が同じ声を漏らした。
驚きでも悲鳴でもない。
幼い子どもが母親を見つけた時のような、安堵の声だった。
老宰相が両耳を塞ぎ、膝をついた。
「見るな!」
エリオには、その声が遠く聞こえた。
空の黒い円が狭まっていく。
閉じている。
いや。
瞬きをしている。
◆
エリオは翌朝、北塔で目を覚ました。
どうやって戻ったのか覚えていない。
王都は静まり返っていた。
街路には人が溢れている。
皆、生きている。
だが、誰も動かなかった。
空を見上げたまま、幸福そうに微笑んでいる。
老宰相も。
国王も。
兵士も。
子どもも。
誰もが同じ方向を向いていた。
エリオは北塔の観測台へ上った。
星は消えている。
朝だからではない。
空そのものが、なくなっていた。
天井のような白いものが、世界を覆っている。
滑らかで。
湿っていて。
ゆっくりと上下していた。
呼吸するように。
観測台の机には、見覚えのない記録帳が置かれていた。
表紙には、エリオの名が書かれている。
開く。
最初の頁には、昨夜までの星の数。
次の頁には、震える文字で一文。
自分の筆跡だった。
«星は近づいていたのではない。»
その下に、何度も書き直した跡がある。
インクが滲み、紙が破れるほど強く、最後の言葉が刻まれていた。
«あれは星ではなかった。
殻の外側に並んだ、歯だった。»
エリオの頭上で。
白い空が、ゆっくりと閉じ始めた。
ホラー作品を書くのが楽しくなってきたので、なろうらしくファンタジーと私の好みのコズミックホラーを融合して作ってみました。
まだまだ書く技術が足りないので良かったらコメントでアドバイスいただけると嬉しいです。




