【未送信のメール】
to: mayumi_sasakura@████.ne.jp
from: takaomi_kagurazaka@████.ne.jp
最終保存日時:2026年5月20日(水) 14:32
佐々倉 真弓さん
名前をちゃんと名乗るのは初めてですね。神楽坂響子です。
今まではずっと神楽坂とのみ記してきました。
なので貴女はずっと私のことを神楽坂孝臣だと信じ込んでいたのでしょう。
夫、孝臣はあの日の事故で悠馬とともに亡くなりました。
ご存じなかったのも仕方ありません。
孝臣はすでに一線を退き名誉教授として籍を置いておりました。
貴女以外にも孝臣あてに連絡をとってきた方は多くいらっしゃいましたから。
さて、こうして貴女にメールを書いているのは、一つの答えを示すためです。
貴女はこう思っていらっしゃるでしょう。
何故、と。
貴女には知る権利があるでしょう。
もっとも私はこのメールを送信するつもりはありません。
でも、もし、私に何か良からぬことが起こったならば、その懺悔の証だと思って下さい。
孝臣と私は晩婚でした。
私が40歳、孝臣は62歳でした。
それでも私たちは子供が欲しいと思っていました。
難しいのは分かっています。二度流産をして、次はもう無理だと言われていました。
けれど、そんな中で奇跡のように授かったのが悠馬だったのです。
出産は多大な痛みを伴うものでした。
何度も危ない場面がありましたが、私たちはなんとか乗り切りました。
産後もまた平穏とは言い難く、2000gしかなかった悠馬はその後も何度も入退院を繰り返しました。
本当に奇跡、……奇跡と奇跡を繋ぎあわせて、綱渡りの日々を過ごし、……ようやく悠馬も3歳になりました。
そんな中、あの事故が起こったのです。
相手の車は居眠り運転だったそうです。
なぜ、私だけが助かってしまったのでしょうか。
何故、何故、何故。
何度繰り返しても決して戻って来ない問いかけ。
佐々倉さん、貴女は心が壊れた事がありますか?
映画やドラマで、極限状態に立たされた人がふいに笑いだしたりするシーンがありますね。
あれ、本当にあるんですよ。
何もかもが最悪な方向に進んでしまった時に、どうしてか笑いたくなるんです。
おかしなものですね。
そう、私は壊れていたんです。その自覚は十分にありました。
でもだからといって、それがどうだと言うのでしょうか。
周囲はセラピーを受けろと言いました。
けれど、そんなものを受けてどうなるのでしょうか?
壊れたのは私だけじゃない。
私を取り巻く全ての日常が壊れてしまったのに、何故私だけが正常に戻れるというのでしょうか?
そんな中、貴女からのメールが届きました。
そして、「魚宿三潴」の存在と、夫の書いた論文の事を知りました。
不思議なことってあるものですね。
夫はあの湖に沈んだアイドル、沢井美智子のファンでした。
あの歌、「深海のディーバ」もたまに聞いていた。
夫の論文を読んでいる時に、ふいにあの歌が聞こえてきた気がしたんです。
それで私は、運命を感じたんです。
悠馬を取り戻す。
もう一度あの子を「産みなおす」ために、「魚宿三潴」に行かなければならないと。
あの夜のことは偶然だったんです。
私は貴女たちがあのタイミングで湖に訪れるなんて知らなかった。
鉈だって、野生動物を警戒して持っていただけです。
ただ私は、貴女たちの調査が強制的に終了になるであろう事を予感していた。
だから、調査段階が終わり、現地が封鎖される前にどうしても湖に入らなければいけなかった。
信じてくれなくても構いません。
あるいは、本当に、……それが、――貴女たちの血が、必要だったのかも知れませんから。
私はこれから実家に戻って、出産に備えます。
あの子はとても元気に、私のお腹を蹴っているんです。
どんどん、どんどん、お腹の皮がはち切れそうなくらい、力強く。
ああ、こんなに嬉しいことがこの世にあるのかしら。
佐々倉さん、貴女には申し訳ない事をしたとも思っています。
でももし、貴女が母親になったら、その時には私の気持ちが分かる筈です。
神楽坂 響子




