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彼だけがバレないと思っている

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/03/19

 王都ベルナディアの貴族屋敷街は、昼より夜のほうが人の動きがはっきり見える。灯りの並ぶ石畳の道、同じ時間に通る馬車、同じ散歩道を歩く人影。半年も暮らしていれば、誰がいつ帰るかくらい自然に覚えてしまうものだ。


 元伯爵令嬢で、リヒテンベルク伯爵家の若き当主夫人、クラウディア・フォン・リヒテンベルクは、屋敷の二階の窓からその通りを眺めていた。


 結婚して、ちょうど半年。

 夫は騎士団所属の貴族子息でリヒテンベルク伯爵家当主、ルーカス・フォン・リヒテンベルク。見た目も良く、礼儀もわきまえ、王都の社交界では「理想的な夫」と呼ばれているエリート騎士だ。

 少なくとも、表向きは。


 玄関ホールの時計が九時を指した頃、扉が開く音が聞こえた。外套を脱ぐ気配がして、階段を上がる足音が近づく。

 クラウディアは窓から離れ、応接室の椅子に腰を下ろす。

 扉が開く。


「まだ起きていたのか、クラウディア」


 騎士団の制服のまま、ルーカスが肩を回しながら部屋に入ってきた。


「ええ。今日は遅かったのですね」

「夜の訓練が延びてな。最近は新しい隊が入ってきたから、指導も増えている」


 彼は水差しからグラスに水を注ぎ、一息で飲み干す。

 クラウディアは穏やかに頷く。


「お疲れさまです」


 ルーカスは満足そうに笑った。


「こういう仕事だからな、遅くなることもある。君に心配をかけていないならいいんだが」

「心配、ですか?」

「夫が夜に帰らないと、不安になる妻も多いらしいからな」


 クラウディアはゆっくり瞬きをする。


「そういうものですの?」

「ああ。だが君は違うだろう?」


 ルーカスは椅子に腰掛け、どこか誇らしげに言う。


「俺は妻を裏切るような男じゃない。君だって分かっているはずだ」


 その言葉を聞きながら、クラウディアは、そっとグラスの縁を指でなぞる。夫の声は自信に満ちている。本気でそう思っている顔だ。


「ええ」


 クラウディアは微笑む。


「そうですわね」


 ルーカスは満足したように頷いた。


「信頼というのは大事だ。疑い始めると、夫婦は長く続かないからな」

「そう聞きますわ」

「だから俺は隠し事はしない」


 堂々と言い切る。クラウディアは心の中で、ふっと息を吐く。隠し事はしない。それは嘘だ。

 彼は確かに隠すつもりで行動している。だが、隠せていない。それだけの話だ。


 クラウディアは窓の外へ視線を向ける。石畳の道の向こうに、小さな広場がある。昼は子どもたちが遊び、夜は、ひっそりとした散歩道になる場所だ。

 その広場で、数日前の夜。ルーカスは女性の手を取っていた。長い栗色の髪の少女。近くの屋敷に住む子爵令嬢、アメリア・グラーフ。クラウディアはその姿をはっきり見ている。

 夜の灯りの下で、彼が笑いながら何かを囁き、彼女が肩を寄せて笑う姿を。あれは偶然ではない。その二日前も見た。そのさらに前の夜も。

 馬車留めの横、庭園の小径、広場の噴水。

 屋敷街は広いようで、実はとても狭い、毎晩同じ時間に出歩けば、同じ人に会う。それだけのことだ。


「クラウディア?」


 ルーカスの声がする。


「どうした、ぼんやりして」

「少し考え事を」

「珍しいな」


 ルーカスは軽く笑う。


「君はいつも落ち着いているから、悩みなんて無さそうだ」


 クラウディアは首を傾げる。


「そう見えます?」

「ああ。君は賢いし、冷静だし、嫉妬なんて無縁そうだ」


 嫉妬。

 その言葉を聞きながら、クラウディアはゆっくり立ち上がる。窓辺へ歩き、カーテンを少しだけ開く。夜の屋敷街は静かだ。だが灯りは多い。人の姿もちらほら見える。


「ルーカス」

「ん?」

「この屋敷街、夜はよく見えますわね」

「そうか?」

「ええ」


 クラウディアは通りを指す。


「同じ時間に歩く人も、すぐ覚えます」


 ルーカスは笑った。


「半年も住めば、そりゃ覚えるだろう」

「そうですわね」


 クラウディアはカーテンを閉める。部屋に戻り、ゆっくりと椅子へ座る。


「あなたはよく夜に出ますもの」

「夜回りの警備だからな」

「ええ」


 クラウディアは微笑む。


「よく見かけますわ」


 ルーカスは肩をすくめた。


「仕方ないだろう。この街の警備は夜が忙しい」

「そうでしょうね」


 クラウディアはグラスを持ち上げる。赤いワインが灯りに揺れる。夫はまだ気付いていない。

 自分の行動がどれほど目立っているか。この屋敷街で、どれほど多くの人が見ているか。

 そして、妻もその一人だということを。


 彼女は、ゆっくりとグラスを置く。怒りはない、泣きたくもない。ただ、少しだけ呆れている。

 隠しているつもりなのだろう。けれど、あんなに灯りの多い場所で、あんなに人通りのある道で、手をつないで歩けば気付かない人のほうが少ない。そう、ひそやかに思う。

 ――隠しているつもりなのね。そしてその夜、夫は何も知らないまま眠りについた。



 屋敷街は、昼より夜のほうが人の顔がはっきり分かる。昼は馬車と使用人が行き交い、誰がどこへ向かっているのか見分けがつかない。けれど夜になると、歩く人は限られる。だからこそ、誰がどこへ向かうのか、驚くほどよく見える。


 リヒテンベルク伯爵家当主夫人、クラウディア・フォン・リヒテンベルクは、夜会の会場でグラスを手にしていた。

 中央の公爵邸で開かれる夜会は、屋敷街に住む貴族たちの顔ぶれがほとんど同じになる。半年も参加していれば、挨拶を交わす相手も自然と決まってくる。

 その中の一人が、クラウディアの友人である侯爵令嬢エレナ・フォン・ヴィンターフェルトだった。


「クラウディア、あなた今夜も一人ですの?」


 エレナは隣に立つなり、呆れたように言った。


「ええ。ルーカスは騎士団の仕事があるそうです」

「また?」

「最近忙しいそうですわ」


 クラウディアはワインを軽く揺らす。赤い液体がグラスの中でゆっくり回る。エレナは眉を上げる。


「忙しい、ねえ」


 その言葉の後、少し間が空く。やがてエレナは声を落とす。


「クラウディア」

「はい?」

「一つ聞いてもいいかしら」

「どうぞ」


 エレナは周囲を見回し、さらに声を低くする。


「あなたのご主人、最近よく見かけるの」


 クラウディアは穏やかに頷く。


「そうですの?」

「ええ」


 エレナは少し困った顔になる。


「その……あなた以外の女性と」


 クラウディアはグラスを唇へ運ぶ。一口だけ飲み、すぐに置く。


「ええ」


 短く答える。エレナが驚く。


「ええ、って」

「見ていますわ」

「知っているの?」

「ええ」


 エレナは言葉を失う。クラウディアは肩をすくめる。


「屋敷街で暮らしていれば、夜の散歩で顔を合わせることもありますもの」

「でも」


 エレナは声を潜める。


「あれは散歩というより……」

「そうですわね」


 クラウディアは微笑む。


「とても楽しそうに歩いていますわ」


 エレナは額に手を当てた。


「あなた、怒らないの?」

「どうして?」

「どうしてって」


 エレナは思わず声を強めかけて、慌てて抑える。


「夫が別の女性と歩いているのよ」

「ええ」

「それを見て、何も言わないの?」


 クラウディアは少し考えるようにグラスを見る。


「言う必要があります?」

「ありますでしょう普通!」


 エレナは思わず言い切った。周囲の貴族が一瞬こちらを見る。エレナは咳払いをする。


「……失礼」


 クラウディアは笑う。


「落ち着いてください」

「落ち着ける話ではありません」

「そうでしょうか」


 クラウディアは、淡々と言う。


「だって、とても目立っていますもの」

「目立つ?」

「ええ」


 クラウディアは夜会場の大きな窓を指す。


「広場の噴水、見えます?」

「ええ」

「その横の道、夜によく歩いていますわ」

「誰が」

「ルーカスと、子爵令嬢アメリア・グラーフ」


 エレナは完全に固まった。


「名前まで」

「同じ屋敷街ですもの」


 クラウディアは穏やかに続ける。


「庭園の木陰でも見ました」

「……」

「馬車留めでも」

「……」

「この前は広場のベンチでした」


 エレナはゆっくり言う。


「クラウディア」

「はい」

「それ、隠していると思っているの?」


 クラウディアは首を傾げる。


「思っているのでしょうね」

「正気?」

「どうでしょう」


 クラウディアは小さく笑う。


「でも、あれだけ人通りの多い場所を選んでいますもの」

「ええ」

「隠す気があるのか、少し不思議ですわ」


 エレナはワインを一気に飲む。


「あなたの夫、思ったより大胆ですわね」

「大胆というより」


 クラウディアは少し考える。


「楽観的なのかもしれません」

「それ、同じ意味では?」

「似ていますわね」


 エレナは深く息を吐く。


「それで」

「はい?」

「あなた、どうするの」


 クラウディアは窓の外を見る。夜の庭園、灯りの下を歩く人影、王都の夜は明るい。


「もう少しだけ」


 クラウディアは淡々と言う。


「様子を見ます」

「様子?」

「ええ」

「どうして」


 クラウディアはグラスを持ち上げる。


「隠しているつもりなら」


 一口飲む。


「少し気の毒でしょう?」


 エレナは目を丸くした。


「気の毒?」

「ええ」


 クラウディアは微笑む。


「この街の半分くらいは知っているのに」


 グラスを置く。


「本人だけが知らないのですもの」



 街の春は夜のほうが賑やかだ。昼は役所や商館が忙しく、貴族たちは屋敷にこもる。けれど夜になると、広場も庭園も馬車の音が絶えない。

 その夜も、屋敷街の灯りは遅くまで消えなかった。


 リヒテンベルク伯爵家の応接室で、クラウディア・フォン・リヒテンベルクはワインを注いでいる。

 テーブルの向かいには、ルーカス・フォン・リヒテンベルクが座っている。

 帰宅したばかりの彼は外套を椅子に投げ、ようやく落ち着いた顔をしていた。


「今日はずいぶんと長い間、黙っているな」


 ルーカスが言う。


「そうですか?」

「君が何も言わないと、妙に落ち着かない」


 クラウディアはグラスを差し出す。


「ワインをどうぞ」

「ありがとう」


 ルーカスは受け取り、一口飲む。


「今日は夜会に行かなかったのか?」

「行きました」

「誰のところだ」

「ヴィンターフェルト侯爵家です」

「ああ、あそこか」


 ルーカスは頷く。


「最近は夜会が多いな」

「王都の春ですもの」

「確かに」


 彼は少し笑う。


「騎士団の仲間もよく出ている」

「そうでしょうね」


 クラウディアは椅子へ腰掛ける。


「ルーカス」

「ん?」

「少しお話ししましょう」


 ルーカスはグラスを持ったまま頷く。


「いいだろう」


 クラウディアは穏やかな声で言う。


「結婚を終わりにしましょう」


 ルーカスの手が止まる。


「……は?」


 数秒、部屋の空気が止まる。


「今、何と言った?」

「結婚を終わりにしましょう」


 クラウディアは同じ調子で言う。

 ルーカスは笑った。


「冗談だろう?」

「いいえ」

「急に何を言い出すんだ」

「急ではありません」


 クラウディアはグラスを持つ。


「ずいぶん前から考えていました」

「理由は?」


 ルーカスは眉をひそめる。


「夫婦仲は悪くないはずだ」

「そうでしょうか」

「少なくとも喧嘩はしていない」

「ええ」


 クラウディアは頷く。


「喧嘩はしていません」

「なら問題はない」

「あります」


 クラウディアは、はっきりと言う。


「あなた、子爵令嬢アメリア・グラーフと毎晩会っていますもの」


 ルーカスの顔が固まる。


「……誰だ」

「アメリア・グラーフ」

「違う、そうじゃない。誰に聞いた?」


 ルーカスは椅子から身を乗り出す。


「どうしてその名前を知っている」


 クラウディアは少し首を傾げる。


「屋敷街でよく見ますもの」

「見る?」

「ええ」

「いつ?」

「広場」

「……」

「庭園」

「……」

「馬車留め」


 ルーカスの額に汗が浮く。


「見間違いだ」

「そうでしょうか」

「俺はそんなところに行っていない」


 クラウディアはグラスを置く。


「噴水の横のベンチ」


 ルーカスの顔色が変わる。


「先週の夜」

「……」

「青いドレスを着ていました」


 彼は言葉を詰まらせた。

 ルーカスは立ち上がる。


「どうして分かった!」


 大きな声が応接室に響く。


「誰が言った!」

「誰も」


 クラウディアは穏やかに答える。


「見たのです」

「嘘だ」

「嘘ではありません」

「あり得ない」


 ルーカスは歩き回る。


「俺は誰にも見られていない」


 クラウディアはゆっくり言う。


「広場の真ん中で手をつないでいました」


 ルーカスが止まる。


「……」

「灯りの下で」

「……」

「とてもよく見えました」


 長い沈黙。やがてルーカスは低く言う。


「他に知っている人間は?」


 クラウディアは肩をすくめる。


「屋敷街の人なら」


 少し考える。


「半分くらいは」


 ルーカスが叫ぶ。


「そんなはずがない!」

「あります」


 クラウディアは、理由を言う。


「夜は人が少ないから、よく見えるのです」

「俺は隠していた!」

「そうでしょうね」

「完璧だった!」


 クラウディアは少し笑う。


「ルーカス」

「なんだ」

「あなた」


 穏やかに言う。


「隠すのが下手なのです」


 ルーカスは言葉を失う。

 クラウディアは立ち上がる。


「だから」


 そっと続ける。


「結婚はここで終わりにしましょう」


 窓の外では、夜の屋敷街の灯りが揺れていた。その灯りの中で、誰かが歩く姿が見える。



 ここは朝から賑やかだ。屋敷街では日の出と同時に馬車が動き、庭師が水を撒き、使用人が門を開ける。

 その朝、リヒテンベルク伯爵家の門の前には一台の馬車が止まっていた。荷台には大きな木箱がいくつも積まれている。使用人たちが忙しく行き来している中で、クラウディア・フォン・リヒテンベルクは門の前に立つ。

 外套の上から軽く腕を組み、屋敷を振り返る。半年暮らした屋敷。だが、不思議なほど未練はなかった。


「奥様、こちらの箱はもうよろしいでしょうか」


 執事が声をかける。


「ええ、馬車へ」

「かしこまりました」


 木箱が運ばれていく。その様子を眺めながら、クラウディアは小さく息を吐いた。後ろから足音がする。


「本当に出ていくのか」


 振り向くと、ルーカス・フォン・リヒテンベルクが立っていた。騎士団の制服のまま、寝不足の顔をしている。

 クラウディアは軽く会釈する。


「おはようございます」

「挨拶の話じゃない」


 ルーカスは門の外の馬車を見る。


「こんなに早く決めることじゃないだろう」

「早くはありません」

「昨日の話だぞ」

「ええ」


 クラウディアは穏やかに答える。


「昨日、口に出しただけです」


 ルーカスは眉を寄せる。


「どういう意味だ」

「前から考えていました」

「……」

「決めるまでに時間はかかりました」


 ルーカスは黙る。やがて低く言う。


「俺は謝った」

「ええ」

「もう会わないとも言った」

「言いましたね」

「それでも出ていくのか」


 クラウディアは少し首を傾げる。


「ルーカス」

「なんだ」

「あなた、昨日も言いましたね」

「何を」

「完璧だったと」


 ルーカスは顔をしかめる。


「……」

「隠していた、と」


 クラウディアは小さく笑う。


「それを聞いた時に思いました」

「何を」

「この結婚は、ここで終わりですわ」


 ルーカスが声を荒げる。


「なぜだ!」

「簡単です」


 クラウディアは、はっきりと答える。


「あなたはまだ、隠せていたと思っている」


 彼はまた、口をつぐんだ。


「けれど」


 クラウディアは続ける。


「ここの屋敷街は、思っているより狭いのです」


 門の外で馬車が揺れる。使用人が最後の箱を積む。執事が近づく。


「奥様、準備が整いました」

「ありがとう」


 クラウディアは頷く。ルーカスは動かない。


「クラウディア」

「はい」

「……本当に行くのか」

「ええ」

「戻るつもりはないのか」


 クラウディアは少し考える。


「ありません」


 ルーカスは言葉を失う。クラウディアは馬車へ歩き、扉に手をかけ、振り返る。


「ルーカス」

「……」

「どうぞ元気で」


 それだけ言って馬車へ乗る。扉が閉まり、御者が手綱を引く。馬車はゆっくりと動き出した。

 屋敷街の石畳を進み、やがて角を曲がる。リヒテンベルク伯爵家の門は見えなくなる。



 その日の夜。

 王都の別の屋敷街。新しい家の応接室で、クラウディアはワインを注いでいた。向かいの椅子には、侯爵令嬢エレナ・フォン・ヴィンターフェルトが座っている。


「本当に引っ越したのね」


 エレナが言う。


「ええ」

「早いわ」

「そうでしょうか」


 クラウディアはグラスを渡す。


「乾杯しましょう」

「何に?」


 エレナが笑う。

 クラウディアはグラスを持ち上げる。


「新しい生活に」


 二人のグラスが軽く触れる。エレナはワインを一口飲む。


「それで」

「はい?」

「後悔は?」


 クラウディアは窓を見る。新しい庭、夜の通り、見慣れない灯り。

 そして小さく笑う。


「浮気されたのは最悪でしたわ」


 エレナは頷く。


「それはそうでしょう」


 クラウディアはグラスを揺らす。赤いワインがゆっくり回る。


「でも」


 少し考える。


「人生は」


 ワインを飲む。そして言う。


「むしろ良くなりました」



完。

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