第48話 セレーネ
それはまだ、私が中学受験を終えたばかりの頃の話だ。
芸能活動と学業の両立だけでも周囲からは無謀だと言われていたのに、私はさらに無謀なことを企んでいた。
――独自プラットフォーム【月読計画】の中核AI、《セレーネ》の本格運用。
月読計画は、単なる趣味ではない。私が未来で見た技術水準に少しでも近づくための布石であり、芸能活動を含めたあらゆる情報発信を自律管理する基盤でもあった。
だが、理想と現実の間には巨大な壁がある。
回線速度。
帯域保証。
セキュリティレベル。
当時の国内回線では、《セレーネ》の同時多層処理に耐えられない。
だから私は決めた。
「売り込みに行こう。」
相手は国内有数の通信インフラ企業――《綾小路情報通信》。
財閥系。堅実。保守的。
普通なら中学生が門前払いされる相手だ。
けれど私は、中学生の肩書きで行くつもりはなかった。
◇
会議当日。
私は白のブラウスに紺のジャケットという、年齢より数歳上に見える装いを選んだ。髪はきちんとまとめ、メイクも最小限。
芸能界で学んだことがある。
第一印象は、武器になる。
受付で名を告げる。
「秋月燈由と申します。本日、技術提案のお約束を頂いております。」
一瞬、怪訝な顔。
当然だ。どう見ても未成年。
だが事前に送った提案書は、既に技術部門で話題になっているはずだ。
やがて会議室へ通された。
重厚な木製テーブル。壁一面のモニター。磨かれた床。
空気が違う。
そこに座っていたのは三名。
技術部長の《三崎宗一郎》。
インフラ統括の《鷹宮誠》。
そして――
私より数歳年上に見える、静かな目をした少年。
《綾小路英隆》。
当時の私は、彼が御曹司だとは知らなかった。
「……君が、提案書を書いたのか?」
三崎部長の声は半信半疑。
「はい。」
私は頷き、資料を広げた。
「本日ご提案するのは、超低遅延・帯域保証型専用回線の共同開発モデルです。」
ざわり、と空気が揺れる。
単なる利用契約ではない。
共同開発。
踏み込んだ言葉だ。
私は続けた。
「現在御社が保有するバックボーン回線のうち、未活用帯域を仮想分割し、動的帯域保証を行うことで、ピーク負荷時にも安定処理が可能となります。」
モニターにシミュレーションを映す。
《セレーネ》による負荷予測グラフ。
同時接続数増加時の遅延比較。
暗号鍵更新アルゴリズムの自動最適化モデル。
鷹宮が眉をひそめる。
「この予測モデル……どこの研究機関と組んでいる?」
「どことも。私個人の開発です。」
沈黙。
疑念。
当然だ。
だが、ここで揺らいではいけない。
私はゆっくりと言った。
「私は芸能活動をしています。今後、映像配信・双方向通信・リアルタイム解析が必要になります。既存回線では足りません。」
三崎が腕を組む。
「それなら専用線契約をすればいい。」
「専用線では遅いのです。」
きっぱりと断言する。
「私が欲しいのは“現在最速”ではありません。“三年後でも最速”です。」
その瞬間、静かだった《綾小路英隆》の目がわずかに細められた。
観察されている。
試されている。
私は覚悟を決めた。
「御社にとっても悪い話ではありません。」
モニターを切り替える。
「将来的に動画配信・遠隔医療・教育プラットフォームは爆発的に伸びます。その時、帯域保証技術を既に確立している企業が勝ちます。」
未来を知っている私だから言える断言。
「私は実証実験体になります。」
三崎が目を見開く。
「中学生が?」
「ええ。炎上も含めて、全てデータになります。」
静まり返る室内。
数秒。
いや、体感では数分。
やがて。
「面白い。」
初めて声を発したのは、《綾小路英隆》だった。
その声は低く、落ち着いている。
「君は、自分が何を差し出しているか理解している?」
「理解しています。」
私は彼をまっすぐ見返した。
「私はリスクを取ります。その代わり、御社も未来に投資して頂きたい。」
視線が絡む。
探るような沈黙。
やがて彼は、わずかに口角を上げた。
「思考回路を、もっと詳しく聞きたい。」
その瞬間、交渉の流れが変わった。
技術論から、戦略論へ。
私は二時間、未来予測、市場拡張、国際競争、セキュリティ進化について語った。
途中で喉が渇いても止まらなかった。
《セレーネ》の可能性を、私は誰より信じている。
会議が終わる頃。
三崎が苦笑した。
「君、本当に中学生か?」
私は微笑んだ。
「戸籍上は。」
小さな笑いが起きる。
だが《綾小路英隆》だけは笑っていなかった。
彼は私を見ていた。
値踏みではない。
分析でもない。
――興味。
あの日。
私は回線契約の仮合意を取り付けた。
だがそれ以上に。
私は一人の少年の記憶に、強く刻まれてしまった。
後に中学の入学式で再会するとは、その時の私は思いもしなかった。
あの売り込みは、単なるビジネス交渉ではない。
《セレーネ》の未来を切り開く第一歩であり。
そして。
《綾小路英隆》との、静かな戦いの始まりでもあったのだ。




