第36話 カンピージョス国際ピアノコンクール②
コンクール当日。
私は鏡の前に立っていた。
ライトに照らされたドレスは、柔らかな光を帯びている。
お祖母ちゃんの着物をリメイクした特別な一着。深紅と金を基調に、袖の意匠をそのまま生かしたドレスは、和と洋が溶け合った唯一無二の存在感を放っていた。
「目立つよね、これ」
頭は花魁風に盛り上げられ、簪や花飾りが咲き誇っている。重量感が凄い。首の筋肉トレーニングになりそう。
この衣装を提案したのは容子さんだ。
“世界で戦うなら、埋もれるな”――そんな無言の圧を感じる。
「燈由ちゃん、目を閉じて」
真由美さんの声に従い、そっと瞼を閉じる。
海外遠征にまで同行してくれるとか本当に女神では? ヘアメイクの最終調整をしながら、彼女は微笑む。
「今日の演奏、楽しみにしてるわ」
「容子さんからチケット貰ったんですか?」
「うん。スペインまで付いて来るお礼だって。ホテルもタダだし、燈由ちゃん様々よ」
現金だなぁと思いつつ、私は答える。
「課題曲がベートーヴェン『ピアノソナタ』第11番 変ロ長調。自由曲は交響曲第5番『運命』」
「運命!? 月光じゃないの?」
そう。世間は私に“月光の少女”というイメージを持っている。
清楚。大和撫子。透明感。
でも、それだけじゃない。
「イメチェンだよ」
静かに言うと、真由美さんは一瞬だけ驚き、すぐににっこり笑った。
「いいじゃない。世界に見せておいで」
楽屋のドアがノックされる。
容子さんだ。
「……凄く綺麗よ」
珍しく素直なお世辞。
「何で花魁なの?」
「日本って感じがするでしょ? “私はここよ”って主張できる。一石二鳥」
やっぱり目立てってことね。
「頭、重いんだけど」
「良いパフォーマンス期待してるわ」
完全スルー。
〈筋力値に問題ありません〉
「イリス、今それ言う?」
深呼吸する。
〈心拍数正常。緊張は適度です〉
うん、大丈夫。
私は舞台へ向かった。
◇◇◇
――審査員席。
私はカンピージョス国際ピアノコンクールの審査員を務めている。
ダニエル・ド・カロ。
毎年、ここで若き才能と出会うのが私の喜びだ。
だが今年は違う。
東洋の真珠と呼ばれる少女がいる。
秋月燈由。
12歳にしてプロ。
彼女のCDは既に聴いた。だが、生演奏は未体験。
「目ぼしい子でもいるのか?」
隣のマテオが眉をひそめる。
「いるとも。君も驚くよ」
舞台袖から現れた少女を見て、マテオは露骨に顔をしかめた。
「ここは仮装大会じゃない」
確かに目を奪う装いだ。日本の遊女――花魁。
だが彼女の表情は静かだった。
椅子に座る。
指が鍵盤に触れた瞬間、空気が変わった。
◇◇◇
最初の一音。
運命が、叩く。
強烈な和音がホールを貫いた。
私は鍵盤に身を委ねる。
月光のような透明さは封じた。代わりに、激情と衝動を叩きつける。
〈打鍵圧、最適化完了〉
〈音響反射解析中〉
イリスの補助は最小限。あとは私自身。
荒れ狂う奔流。
だが、ただ激しいだけではない。
緩急。
呼吸。
沈黙の美。
観客の心拍が揃っていくのが分かる。
“運命が扉を叩く”――その解釈を、私は自分なりに描いた。
叩くのは恐怖か?
希望か?
挑戦か?
最後の楽章へ。
全身の筋肉が熱を帯びる。
頭の花が揺れる。
でも構わない。
今この瞬間、私は音そのものだ。
最後の一音を、丁寧に、丁寧に置く。
静寂。
次の瞬間、爆発的な拍手。
◇◇◇
ダニエルは涙を拭っていた。
CDとは別物だ。
生の音は、魂を直接揺さぶる。
「……何だ、これは」
マテオが呟く。
先ほどの不機嫌は消えている。
彼女の後に演奏する者が気の毒だ。
今この瞬間、基準が塗り替えられた。
秋月燈由が、新たな標準だ。
◇◇◇
舞台袖に戻った私は、どっと息を吐いた。
「終わったぁ……」
〈最高出力の93%を使用〉
「まだ伸び代あるの?」
〈当然です〉
楽屋のドアが開き、容子さんが抱きついてきた。
「最高よ……!」
真由美さんも涙目だ。
結果発表。
優勝――秋月燈由。
歓声が響く。
トロフィーを受け取る瞬間、私はほんの少しだけ空を見上げた。
お祖母ちゃん、見てる?
イリスが静かに告げる。
〈賞賛変換スキル、大量経験値取得〉
「現実的すぎるよ」
でも、悪くない。
審査員席でダニエルは夢想していた。
彼女と連弾できたら――。
彼女とコンサートを開けたら――。
世界はきっと、さらに美しく震えるだろう。
カンピージョスの夜。
東洋の真珠は、世界の舞台にその名を刻んだ。




