第27話 イリス覚醒
コンサートの熱がまだ身体の奥に残っている夜だった。
楽屋からホテルへ戻り、ドレスを脱ぎ捨て、シャワーを浴びてもなお、指先がじんわりと熱い。
――今日の演奏は、確実に何かが変わった。
ベッドに腰掛け、私はそっと右手を見つめる。
意識を落とす。
すると、視界の端に淡く光る半透明の板が浮かび上がった。
【SKILL BOARD】
慣れたはずの表示。
けれど今日は、中央でひときわ強く瞬く文字がある。
――スキル《イリス》。
取得済。
レベル:3 → 4
「……上がってる。」
小さく呟く。
スキル《イリス》。
前世で死に、逆行した私の人生に突然現れた不可解な能力。
“音の色を視る”力。
人が奏でる音の奥にある感情、揺らぎ、未来の選択肢までも、色彩として知覚する。
最初は幻覚かと思った。
だが、この力は確かに私を導いてきた。
コンクールでの解釈。
作曲の転調。
観客の心の動き。
すべて、《イリス》が色として教えてくれた。
今日の舞台。
八百万たまきの音は、深い群青だった。
静かな海のようでいて、底に揺るがぬ光を抱える色。
そして、私自身の音は――。
薄い金色。
まだ未熟で、だが確かに伸びていく光。
《葬送の調》を弾いた瞬間、客席が一斉に淡い桜色に染まったのを、私は見た。
悲しみと、共鳴。
あの瞬間、《イリス》が大きく脈打った。
だから、レベルが上がったのだろう。
コンコン。
ノック。
「燈由ちゃん、起きてる?」
容子さんの声。
私は慌ててスキルボードを閉じる。
「はい。」
ドアを開けると、彼女は少しだけ真面目な顔をしていた。
「今日の公演、海外からも問い合わせが来てるわ。たまきさんとのデュオ、ツアー化の打診もある。」
やっぱり来た。
商機の匂い。
でも、私は首を傾げる。
「……どう思う?」
珍しく、意見を求められる。
私は少し考えた。
《イリス》を意識する。
未来の選択肢が、ぼんやりと色の分岐として見える。
海外ツアーは眩い金。
成功と名声。
だが、その奥に濃い灰色も混ざっている。
過密。
消耗。
私が“私”でなくなる可能性。
「今すぐじゃなくていいと思います。」
そう答えた。
「どうして?」
「まだ、足りないから。」
何が、とは言わない。
でも分かる。
今日、たまきさんの音と重ねて、私は思い知らされた。
私はまだ、守られている。
技術も、環境も。
けれど、本当の意味で“強い音”は、もっと別の場所にある。
容子さんは私をじっと見つめ、やがて小さく笑った。
「……分かった。無理はさせない。」
ドアが閉まる。
再び静寂。
私はベッドに座り直し、《イリス》を開く。
スキル詳細が表示される。
《イリス Lv4》
・他者の音の感情値を色彩として視認
・共鳴時、一時的に相手の解釈を取り込む
・一定条件下で未来分岐を微弱感知
未来分岐。
まだ曖昧。
けれど今日、はっきり見えた瞬間がある。
アンコールの最後。
たまきさんが私を見たとき。
彼の色に、一瞬だけ赤が混ざった。
情熱。
闘志。
そして――対等という認識。
私は嬉しかった。
子供扱いではなく、音楽家として見られたこと。
《イリス》が教えてくれなくても、分かる。
でも、《イリス》があるからこそ、私は踏み込めた。
明日、たまきさんと食事の約束がある。
コンサート後の打ち上げではなく、二人で。
音楽の話をするために。
私は決めている。
《イリス》に頼りすぎない。
色が見えなくても、音を感じられるように。
だって、本当に欲しいのはスキルの力じゃない。
自分自身の力だ。
スキルボードの端に、小さな未解放欄がある。
???
条件未達。
その下に、うっすらと文字が浮かぶ。
――《イリス・覚醒》。
「……何それ。」
思わず笑う。
でも、胸が高鳴る。
きっと、もっと高みがある。
音の頂。
頂はまだ遠い。
でも、今日一歩近づいた。
たまきさんと並び立ったあの舞台。
客席を染めた桜色。
あの感触を、忘れない。
私は枕に倒れ込み、天井を見つめる。
「もっと、強くなる。」
音で。
心で。
そして、《イリス》と共に。
眠りに落ちる直前、最後に浮かんだ色は――
夜明け前の、淡い金だった。




