第25話 本物の天才
スタジオを出た後も、私の胸は奇妙な高鳴りを収めきれずにいた。
――なんという子だ。
車の後部座席に身を預けながら、私は目を閉じる。指先に残る感触。あの小さな手から紡がれる、伸びやかで、迷いのない音。
秋月燈由。
十一歳。
だが、あの音は年齢という枠に収まらない。
最初は正直、侮っていた。スポンサーの顔色、世間の話題性、子役との共演という安易な企画。私の経歴に泥を塗るのではないかとすら思った。
だが――違った。
彼女は本物だ。
それも、恐ろしいほどに。
「旦那様、本日の合わせは如何でしたか?」
前席から秘書が問う。
私はしばし沈黙し、やがて小さく笑った。
「……楽しかったよ。」
それ以上の言葉はすぐには出てこなかった。
楽しい。
その感情を純粋に抱いたのは、いつ以来だろうか。
若い頃は、ただ上を目指していた。頂だけを見つめ、血の滲むような練習を重ね、コンクールを勝ち抜き、海外へ渡った。喝采も批評も浴びてきた。
だがいつからか、“失敗しない演奏”を選ぶようになっていた。
観客を満足させる、安全な解釈。
拍手を確実に得られる構成。
私は知らぬ間に、守りに入っていたのかもしれない。
彼女の音は違う。
危ういほど真っ直ぐで、時に大胆で、だが決して独りよがりではない。
私が和声を変えたときの、あの目。
驚きと、悔しさと、歓喜が混ざった輝き。
あの瞬間、私は確信した。
彼女は音で会話ができる。
それも、対等に。
「……先生じゃなくて、たまきでいい。」
思わず口にした言葉を思い出し、苦笑する。
大人げない。
だが、あの距離感のままでは共演などできないと思ったのだ。
彼女は礼儀正しい。計算高いほどに。
あれは芸能界で生きる術なのだろう。
だが、演奏中の彼女はまったく別人だった。
無防備で、むき出しで、真剣だ。
あの姿を、私はもっと見たい。
コンサートホールに到着すると、私はそのまま舞台を見渡した。
客席は三千。満席は確実だろう。
話題性も十分。
だが――私は今、数字よりも別のことを考えていた。
どうすれば、彼女の音を最大限に引き出せるか。
モーツァルトは問題ない。あれは既に完成度が高い。
問題は《黎明の祈り》だ。
あの曲は彼女自身だ。
夜明け前の静寂。
孤独。
そして希望。
十一歳の少女が、なぜあの旋律を書けるのか。
背景に何がある?
家庭か、経験か、それとも天性か。
私は資料で彼女の経歴を何度も読み返している。
五歳でショパン。
コンクール優勝。
作曲。
アイドルへの楽曲提供。
完璧すぎる。
だが、完璧な経歴の裏に、必ず何かがある。
それは嫉妬でも、葛藤でも、迷いでもいい。
人は矛盾を抱えているからこそ、深みが出る。
本番前日。
私は一人で《黎明の祈り》を弾いた。
彼女のパートを思い浮かべながら。
すると、不思議なことに、彼女の呼吸が聞こえるような気がした。
テンポの揺れ。
フレーズの終わりの微かな溜め。
彼女は常に“前”を見ている。
未来へ向かう音だ。
私は、どうだ?
過去の栄光に縋っていないか?
安全な評価に甘えていないか?
鍵盤から手を離し、天井を見上げる。
――まだ、やれる。
彼女となら、もっと高みへ行ける。
それは競争ではない。
共鳴だ。
本番当日の朝。
楽屋でネクタイを整えながら、私は鏡越しに自分を見る。
四十を過ぎた男の顔。
だが、目は若い頃に戻っている。
ノック。
「失礼します。」
入ってきたのは秋月燈由。
今日もきちんとした挨拶。
だが、その瞳の奥に、闘志がある。
「今日はよろしくお願いします、たまきさん。」
自然にそう呼ばれ、胸の奥が温かくなる。
「こちらこそ。遠慮は無用だ。」
「はい。負けません。」
ふっと笑う。
この子は、本当に恐れを知らない。
いや、恐れていても前に出るのだろう。
舞台袖。
開演のアナウンス。
拍手が響く。
私は深呼吸をする。
隣を見ると、彼女は静かに目を閉じている。
祈るように。
その横顔は、年相応の少女だ。
だが一歩舞台に出れば、彼女は音楽家になる。
幕が上がる。
光が差す。
私は思う。
今日、この舞台で何かが変わる。
彼女の未来も。
そして、私の未来も。
鍵盤に指を置く。
隣から、あの小さな手の温もりが伝わる。
――さあ、行こう。
音楽のその先へ。




