第24話 セッション
合同リハーサルは三日後。その前に、私と八百万たまき氏は二人きりで“合わせ”をすることになった。
場所は都内某所の音楽ホール併設スタジオ。防音完備、スタインウェイのフルコンサートグランドが鎮座する、いかにも「本番前の聖域」といった空間だ。
私は早めに到着し、軽くスケールを流して指を温める。低音から高音へ、音の粒を揃えながら鍵盤の感触を確かめると、今日のコンディションは悪くない。
コンコン、とノック。
「失礼するよ、音楽の女神。」
……その呼び方、定着させる気なのだろうか。
満面の笑みで現れた八百万たまき氏は、いつものダンディーさを保ちつつも、どこか少年のような高揚を滲ませていた。
「本日はよろしくお願い致します。」
ぺこりと頭を下げると、彼は慌てたように両手を振る。
「こちらこそ。今日は対等な共演者として、遠慮なく意見を言ってほしい。」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
今回の演目は二曲。前半はモーツァルトの二台ピアノのためのソナタ、後半は私が編曲したオリジナル楽曲《黎明の祈り》を連弾用に再構成したものだ。
「まずはモーツァルトからいこうか。」
彼が腰を下ろし、軽く和音を鳴らす。
――柔らかい。
CDで聞いたよりも、ずっと優しく包み込む音だ。
私は頷き、呼吸を合わせる。
ワン、ツー。
軽やかな主題がホールに跳ねる。私が旋律を奏でると、彼はすっと寄り添うように伴奏を重ねてきた。
あれ?
思っていたのと違う。
もっと自己主張が強い人かと思っていたのに、私のテンポ、ニュアンス、ほんの僅かな揺らぎまで丁寧に拾ってくる。
一楽章を弾き終えると、彼は静かに息を吐いた。
「……素晴らしい。君のレガートは、本当に歌っている。」
「ありがとうございます。でも、今の二十小節目、少し走りました。」
「いや、あれは君の解釈だろう?私は好きだ。」
褒められるとむず痒い。
でも同時に、胸の奥がくすぐられる。
音で会話している。
それも、真剣勝負で。
二楽章、三楽章と進むうちに、私は完全に没頭していた。彼のフレーズに応え、挑発し、受け止める。音が絡み合い、ほどけ、また重なる。
最後の和音を響かせた瞬間、二人同時に顔を見合わせて笑っていた。
「楽しいな。」
彼がぽつりと呟く。
「はい。」
本心だった。
子供扱いされるのも、話題性で利用されるのも嫌だった。でも、今この瞬間、私たちは純粋に音楽家として向き合っている。
「では、後半の《黎明の祈り》を。」
私のオリジナル。
これは私の世界だ。
冒頭の低音を静かに鳴らす。闇の中で揺れる灯火のように。
彼が二小節遅れて旋律を乗せる。
……え?
想像以上に深い。
私が書いたはずの旋律なのに、彼が弾くと違う色を帯びる。
「この部分、君は夜明け前の静寂を描いたのだろう?」
「はい。」
「なら、私はそこに“希望の予感”を足したい。」
そう言って彼は和声を微妙に変えた。
鳥肌が立つ。
こんな解釈があるなんて。
曲が、広がる。
自分の作品が、他者の手によって進化する感覚。
悔しい。
でも、嬉しい。
「もう一度、最初からお願いします。」
私は思わず言っていた。
二回、三回と重ねるうちに、私たちの音は次第に溶け合っていく。
休憩に入ると、私はペットボトルの水を一口飲みながら彼を見た。
「どうして、最初は断ろうとしたんですか?」
聞いてしまった。
彼は少しだけ目を伏せる。
「正直に言えば、話題先行の子役と組まされるのが嫌だった。」
やっぱり。
「だが、君の演奏を聞いて考えを改めた。」
まっすぐな視線。
「私は長くこの世界にいる。だが君の音には、まだ無限の伸びしろがある。共演すれば、私も成長できると思った。」
胸が熱くなる。
子供扱いじゃない。
ライバル視でもない。
音楽家としての敬意。
「私も、先生と弾いて刺激を受けました。」
思わず本音がこぼれる。
「先生じゃなくて、たまきでいい。」
「……たまきさん。」
彼は満足そうに笑った。
「ところで、君は将来どうするつもりだ?」
不意の質問に、少しだけ視線が泳ぐ。
両親はプロを望んでいる。
でも私には、別の道もある。
「まだ決めていません。でも、音楽はずっと続けます。」
それだけは確かだ。
彼は頷く。
「それでいい。音楽は肩書きではない。生き方だ。」
その言葉は、不思議と胸に残った。
再び鍵盤の前に座る。
最後に通しで一度。
呼吸を合わせる。
今度は言葉はいらない。
音だけで十分だった。
弾き終えたとき、スタジオには静かな余韻が漂っていた。
スタッフが拍手する。
私は深く息を吐いた。
「本番が楽しみだ。」
たまきさんが言う。
「はい。でも、まだ負けませんよ?」
挑発気味に笑うと、彼は目を細めた。
「望むところだ、音楽の女神。」
コンサート前。
まだ幕は上がっていない。
けれど確かに、私たちの戦いは始まっていた。
――この舞台で、私はどこまで届くのだろう。
世界か。
それとも、もっと別の未来か。
答えはまだ出ない。
でも今はただ、音を重ねる喜びだけを胸に、私は鍵盤へと指を伸ばすのだった。




