第20話 私にとっての燈由ちゃん
星箕学園の春風は、あの日より少しだけ柔らかく感じられた。
宮園さんが去った教室は、まるで長い嵐が過ぎ去った後のように静かだった。誰もその名を口にしない。けれど、机が一つ空いているだけで、そこに確かに何かがあったのだと分かる。
「……静かだね」
私がぽつりと呟くと、隣の席の燈由ちゃんが小さく笑った。
「うん。でも、これで終わりじゃないんだよね」
その言葉の意味が、すぐには分からなかった。
騒動は収束したはずだった。
週刊誌もテレビも、今度は宮園さんの虚言を大きく取り上げ、世間の矛先は完全に彼女へ向いた。燈由ちゃんのイメージは回復し、ドラマ『HURIRU』も再評価され、彼女の演技力を称賛する声が増えている。
それでも――。
「私ね、ちょっと怖いんだ」
放課後の音楽室。夕陽が鍵盤を橙色に染める中、燈由ちゃんは静かに言った。
「また誰かが、何かを言い出したらどうしようって。証拠があっても、なくても、一度広がった噂って簡単には消えないから」
胸が締め付けられた。
私は守れたと思っていた。
けれど、守りきれてはいなかったのだ。
炎上は収まっても、検索すれば過去の記事は出てくる。悪意の切り抜き動画も、匿名掲示板の書き込みも、完全に消えることはない。
「……じゃあ、もっと強くなろうよ」
気付けば、私はそう言っていた。
「強く?」
「うん。言われても揺らがないくらい、誰にも否定できないくらい、実力で」
私は作曲家だ。
まだ未熟だけれど、音楽だけは嘘を吐かない。
「私、次の学園祭でオリジナル曲を出す。燈由ちゃんに歌ってほしい」
彼女の目が丸くなる。
「え、私が?」
「うん。今の燈由ちゃんのための曲。誰が何を言っても、あなたがあなたである証明になる曲」
沈黙の後、彼女はゆっくりと微笑んだ。
「……それ、すごく素敵だね」
こうして私たちは、新しい目標を持った。
学園祭のメインステージ。
そこで披露する完全オリジナル曲。
タイトルはまだ決めていない。けれどテーマは決まっている。
“再生”。
作曲は想像以上に難航した。
感情が入りすぎて、旋律が重くなる。怒りや悔しさが滲む。
「違う……これじゃない」
何度も書き直した。
欲しいのは復讐の歌じゃない。
前に進む歌だ。
ある夜、ふと燈由ちゃんの笑顔を思い出した。
勉強を教えてくれたときの、あの柔らかな声。
――ああ、そうか。
守るための歌じゃなくていい。
彼女がもともと持っている光を、ただ広げればいい。
ピアノに向かい、指を落とす。
軽やかな前奏。少し切なく、でも温かい旋律。
翌日、私はデモ音源を燈由ちゃんに渡した。
放課後の空き教室。
イヤホンを外した彼女の目には、うっすら涙が浮かんでいた。
「……これ、好き」
その一言で、全てが報われた気がした。
歌詞は二人で考えた。
傷ついた日々も、迷った夜も、無駄じゃないと。
あなたはあなたのままでいい、と。
練習が始まると、クラスメイトも自然と協力してくれた。
光ちゃんはステージ演出を担当し、二階堂君は音響機材を手配してくれた。
あの騒動を経て、クラスは以前よりも団結していた。
そして迎えた学園祭当日。
体育館は満員だった。
芸能コースの生徒も多い星箕学園では、学園祭のステージは半ばショーケースのようなものだ。
幕が上がる。
スポットライトの中に立つ燈由ちゃん。
一瞬の静寂。
そして、前奏が流れた。
彼女の歌声は、以前よりもずっと強く、澄んでいた。
噂にも誹謗中傷にも負けなかった、芯のある声。
サビに入った瞬間、観客席からどよめきが起こる。
それは驚きと感動の混じった音だった。
私は舞台袖で、拳を握り締めていた。
――大丈夫。
歌い終えた彼女は、深く一礼した。
数秒の静寂の後、割れんばかりの拍手が響く。
その音は、何よりも雄弁だった。
終演後、楽屋で燈由ちゃんが私に抱きついてきた。
「ありがとう、命ちゃん」
「ううん。こちらこそ」
私は気付いた。
恩返しなんて、もう考えなくていいのだと。
私たちは対等で、支え合う友達なのだ。
後日、このステージ映像はYourTubeにアップされ、大きな反響を呼んだ。
「これが本当の秋月燈由だ」
そんなコメントが並ぶ。
過去の記事よりも、新しい評価が上書きされていく。
放課後の帰り道、夕焼けの中で燈由ちゃんが言った。
「ねぇ、命ちゃん。これからも一緒に何か作ろうよ」
「うん。次はもっとすごい曲を書く」
風が吹く。
もう嵐の気配はない。
けれど、もしまた何かが起きても――。
今度は守るだけじゃない。
一緒に立ち向かえる。
星箕学園の空は高く澄んでいた。
その下で、私たちの新しい物語が、静かに始まっていた。




