第16話 土地の買い占めと出資の依頼
世界はまだ静かだった。
けれど、その静けさの裏で、確実に歯車は回り始めている。
谷博と市川純一への融資が正式に決まり、契約書にサインが交わされた日の夜。私は自室の机に肘をつき、薄暗いスタンドライトの下で指先を見つめていた。
――この手が、未来を動かした。
まだ小さくて、ピアノの鍵盤を叩くのも少し背伸びが必要な手。けれど今、この手は四億円という資金を動かしたのだ。
怖くないと言えば嘘になる。
未来の記憶があるからこそ踏み出せた一歩。けれど、記憶は絶対ではない。歴史はわずかなズレで変わる。
もし、私が関わったことで何かが狂ったら?
胸の奥に小さな不安が芽生える。
だが私は、深呼吸を一つしてパソコンを開いた。
コフトバンク(仮)と楽天の株式取得比率、議決権割合、将来の希薄化リスク、ストックオプションの発行予定……。
十一歳の少女が考える内容ではない。
それでも私は、冷静にシミュレーションを重ねた。
「……三段階で売却」
二〇二〇年ピーク前に三分の一。
天井圏で三分の一。
崩れ始めたら即撤退。
欲張らない。
それが鉄則だ。
◆
数ヶ月後。
谷の会社は通信事業の基盤整備に着手し、市川の会社はネット通販サイトの試験運用を開始した。
まだ利用者は少ない。
「ネットで買い物? 本当に届くの?」
そんな時代だ。
だが私は知っている。
やがて人々は、ボタン一つで世界中の商品を買うようになる。
私は市川に提案した。
「ポイント制度を導入してみたら?」
「ポイント?」
「買い物するたびに還元するの。現金みたいに使える仕組み。囲い込みになる」
市川は目を見開いた。
「それは……面白い」
未来の楽天経済圏の核となる発想。
私はあくまで“思いつき”として渡す。
歴史を壊しすぎないように、慎重に。
一方、谷にはこう言った。
「通信と端末はセットで押さえたほうがいいよ。回線だけじゃ弱い」
「端末まで?」
「独自色がないと、大手に飲まれる」
後のアイポン独占契約を思い浮かべながら、私は遠回しに方向を示す。
彼らは真剣にメモを取り、何度も頷いた。
その姿を見て、胸が少し熱くなる。
私は未来を“奪っている”のではない。
“早めている”だけだ。
そう自分に言い聞かせる。
◆
だが、順風満帆というわけではなかった。
ある日、父が険しい顔で帰宅した。
「銀行が、うちの資金移動を怪しんでいる」
私は手を止めた。
「マネーロンダリングの疑い?」
「そこまでは言われてないが、説明を求められた」
当然だ。
十一歳の少女が、複数企業の大株主になり、不動産を買い漁り、新興企業に四億融資。
普通ではない。
私は冷静に言った。
「透明性を確保しよう。法人化して、資産管理会社を作る」
父は目を細めた。
「……本当に子供か?」
少しだけ笑ってしまう。
「中身は三十代だからね」
もちろん冗談だ。
だが父は、どこか本気で考え込んでいた。
◆
資産管理会社『AKプロジェクト』が設立された。
名目は文化支援と教育投資。
私はそこに、自分の理想を少しずつ流し込む。
奨学金制度の準備。
地方の学校へのIT機器寄付。
日本舞踊振興基金への定期拠出。
お金は、増やすだけでは意味がない。
流してこそ価値になる。
前世で、進学を諦めた友人がいた。
学費が払えず、夢を断念した子。
あの時の悔しさが、今も胸に残っている。
だから私は、決めた。
「選択肢を奪わせない」
◆
そんなある日。
自宅に一通の手紙が届いた。
差出人は、海外投資ファンド。
封を開けると、丁寧な日本語で書かれていた。
“あなたは、世界を動かす存在になり得る。
我々と共に来ないか。”
私は静かに手紙を閉じた。
世界を動かす。
甘美な響き。
だが私は、操られる側にはならない。
「……まだ早いよ」
そう呟き、シュレッダーにかけた。
◆
夜。
ベランダで星を見上げる。
宮城の土地はすでに値上がりの兆しを見せ、浦和も開発計画が発表され始めた。
コフトバンク(仮)は契約数を伸ばし、
楽天は出店数を増やしている。
未来は、ほぼ記憶通りに進んでいる。
けれど――
どこかで分岐が生まれる。
私という異物が入り込んだ以上、完全な再現はあり得ない。
それでもいい。
私はもう、未来を“知っているだけの人間”ではない。
未来を“作る側”にいる。
部屋に戻り、パソコンを開く。
新しいフォルダを作る。
『教育プラットフォーム構想』
通信網が整い、スマホが普及する未来。
その時に必要なのは、情報を選ぶ力。
子供達が、自分で学び、考え、選べる場。
ブラック企業で思考停止していた前世の私のようにならないために。
カタカタとキーボードを打つ音が、夜に溶けていく。
十一歳の少女の部屋で、
国家予算を超える未来への設計図が描かれている。
まだ誰も知らない。
けれど、確実に世界は変わり始めている。
そして私は、次の一手を静かに考えていた。
――守るために、強くなる。
それが、逆行した私の選んだ道。




