(五) 待ち伏せ
作五郎に疑いを抱かせないために、これまでと同じように清六が石を見つけに行くことにした。
向かい岸からの見張りは、石が置かれる場所辺りに近づく人間をすべて覚えるか、書き留めて置かなければならない。退屈でぼんやりしたり、居眠りしかねない見張りだ。しかし、時蔵達のねぐらを突き止める大事な見張りである。時々、深川掛かりの安藤と定町廻りの大野が気を緩めないように顔を出すと言ってくれた。
源二郎は翌日からは夜にはるの看病と添い寝をすることにし、昼間は探索に費やして夕方に舟庵の診療所へ戻った。
昼過ぎに万蔵を使いにして、様子は確認していた。
はるの熱は下がっていない。
半日ぶりに見たはるは、たださえ年の割に小さく細かったのが、さらに小さくなったと源二郎は感じた。
舟庵の診療所は、はるを丁寧に治療し、世話もしてくれていた。頭にうごめいていた虱が綺麗に消えていたのだ。
そして、元気ものの清六も疲れた顔になっていた。はるの状態が上向かないことへの心配と、父親の心配か。
清六はこれから石を探しに海辺橋の南側へ行き、そのあとを万蔵がつけることになっている。清六が逃げないようにということもあるが、護衛の意味もある。
今夜こそ印のついた石が置かれていることを源二郎は願った。
源二郎は添い寝する前にはるの額に手を当ててみた。少し熱が下がった気がしたが、気のせいの気もした。
この日のはるの夜食は薄目の甘酒だった。
甘酒と酒がついているが、酒精分はない。甘いから子供はたいてい大好きだ。また経験則から病人に良いと考えられていた。昼間も甘酒を少し飲んだと万蔵から聞いていた。
源二郎は熱で朦朧としているはるの口許へ吸筒に入った甘い液体を持っていった。少し開いている口へ一滴垂らしてみた。はるがうっすらと目を開けた。
「おはる、甘酒だぞ。甘くて美味しいだろう?」
源二郎ははるが飲みやすいように、背中を支えながら、吸筒を口に当てた。
すると、はるは弱々しくも源二郎の手の上から吸筒に両手を添え、乳飲み子が乳を飲むようにごくんごくんと甘酒を飲みはじめた。
源二郎は驚きと嬉しさで手が震えそうになった。
「いいぞ、おはる。しっかり飲むんだ」
源二郎は山を越えた気がした。
熱はさほど下がっていないが、昨日まではなかった食欲が出てきたのだ。明日にはぐっとよくなるかもしれない。
吸筒に入っていた甘酒をはるは飲み干した。
大した量が入っていたわけではないので、まだ欲しいかと源二郎は声をかけた。
はるは答える代わりに身体を横に向けて源二郎の鳩尾の辺りに顔を埋めた。すぐに寝息が聞こえてきた。
はるが汗をかきはじめたのはそれから半刻ほどたった頃だ。暑がって源二郎から離れようとした。
汗をかくのは熱が下がり始めた証しだと舟庵から聞いていた源二郎は心底ほっとし、布団から出てはるの汗を拭いた。
しかし、はるに回復の兆しが見えたことに喜ぶ一方で、源二郎は清六と万蔵が戻ってこないのが気になり始めた。
堀江町から石が置かれる海辺橋の向こうまでの往復にかかる時間は半刻程度のはずである。
既に一刻(約2時間)以上経っていた。
「旦那、印のついた石が置かれてやした!」
姿を見せるなり、万蔵が興奮気味に言ったのは、出かけてから一刻半近く(約3時間)経った頃だった。
一方、清六の顔つきは暗い。
時間がかかったのは、遠回りしたから、らしい。
「ちょいと気になる奴が後ろにいたんで、いったんなめくじ長屋へ行ってしばらく間を置いて、ここへ来たんでやす」
「時蔵の手下か?」
「そこまではわかりやせんが、こっちを気にしてたのは間違いねぇです」
詳しいことは話さないが、万蔵は清六くらいの年に相次いで両親を亡くし、その後は源二郎と出逢うまでに、危ない橋を渡ったことが何度もあるのだ。人殺しはしていないというが、刃傷沙汰はもちろん、強請騙りの類いにも関わったことがあるらしい。そんな綱渡りの暮らしが万蔵に悪党を見分ける術を会得させていた。
その万蔵が自分たちを気にしてたと言いきるのだから、その男は万蔵か清六を見張っていたに違いない。
こうなると、明日、川岸に作五郎だけが来るとは思えない。
源二郎は一つ頷いて万蔵に指図した。
「明日は俺が海辺橋へ行く。安藤さんにつないでくれ。下っ引きを二人、作五郎が現れる辺りに潜ませてくれと。どう転ぶかわからないから……」
そこまで言って、源二郎はためらった。
どう転ぶかわからないのに、安藤に鯨舟で近くに控えていて欲しいとは言いづらかった。水夫も駆り出すことになる。
「下っ引きを二人貸して欲しい、だけでいい」
そう言い直して源二郎は清六に向いた。
「明日の夜はおはるについててくれ。さっきから汗をかきはじめたから、熱が下がり始めているようだ。だが、油断は禁物だ。汗をかいている時に変に冷えるとまた熱が上がったりするんだ。今日から明後日の朝まで正念場だぞ」
源二郎は清六に厳しめに言った。軽く考えられては困る。回復しかけた時の油断で再び悪化したという話を何度か耳にしている。
源二郎は万蔵だけを帰らせ、清六は舟庵の診療所に泊めてもらうことにした。
清六は源二郎に返事もせず、ずっとはるを見ていた。
源二郎がはるの汗を拭く様子もじっと見ていた。やっと口を開いたと思ったら、
「旦那は独り身なんだろ。なんで縫い物も料理も、ちっちゃい子の扱いにも慣れてるんだ?」
思いがけない清六の問いだった。
「独り身だからさ」
半分自嘲気味に源二郎は答えた。
「貧乏御家人が独り身でいるには、一通りのことはできるようにならないとな。子供の扱いは……」
そこで源二郎は言葉を切った。
思い返すと、深く考えもせず、当然のようにはるを懐に入れて舟庵の診療所へ駆けだした。匙で飲ませることも、吸筒で飲ませることも、ためらいなくできた。
どうしてそんなことができたのか。
それは微かな記憶があるからだ。育ててくれた芳乃が幼い自分をそうやって懐に入れてあたためてくれたり、匙や吸筒でなにかを飲ませたりしていた記憶が。
今のはるくらいの年齢の頃、源二郎は真乃よりも頻繁に体調を崩していたらしい。芳乃はその度に添い寝し、看病してくれていたのだ。そして、その頃、源二郎を養子にしたいとしきりに言っていたらしい。
というのも、源二郎が体調を崩す原因は青井家と榊家の行き来にあるのではないかと芳乃は考えたからだ。
おとなしくて聞き分けがよく、その点では手のかからない子だったが、別の形で芳乃の手をかけさせていたことになる。
――幼い自分がよく体調を崩していたのは、芳乃の伯母上にかまってほしかったからなのだろうか?
その頃の自分の気持ちを全く覚えていないが、状況を聞いてあり得る話だと思った源二郎である。
もちろん与力の妻である芳乃が一人で真乃と源二郎を育てたわけではない。乳は大半、芳乃が与えたが、世話は乳母として雇った女と手分けしていた。
なのに、実のところ、源二郎は乳母のことを覚えていない。真乃はぼんやり覚えているというのに、である。
源二郎は、後に起きてきた芳乃と真乃の確執は、自分が幼い時に芳乃を独り占めするように手をかけさせていたことが関係しているのかもしれないと思いもした。そのことを真乃に言ったら、笑い飛ばされた。
「そんな、ほとんど覚えていない幼い頃のことは関わりない。母上とうまくいかなくなったのは、私が剣術を習いはじめてからだ」
源二郎は思い出に引き込まれそうにるのをなんとか踏みとどまり、軽い調子で言った。
「俺も昔、育ててくれた人にそうやって看病してもらったからさ」
清六は「ふうん」と納得したような、してないような、微妙な返事をした。
「おまえはどうなんだ?おまえは母親を覚えているのだろう?」
源二郎はずっと、聞きたいと思っていたことをついに口にした。
夜更けは人が心の奥底にしまっている箱の蓋を開けてしまうところがある。
清六が答えるまでに間があいた。
「よく覚えてるよ。おはるを産んでからはずっと寝込んで……」
清六の声が震えた。
母親を知らないのも、自分を産んだことが死に繋がったことも辛いが、幼い時に母親が死んでいく姿を見るのもどんなにつらかったかと源二郎は清六の様子に改めて思った。六才は物心がついている年である。
昨日まで自分を可愛がり、世話をしてくれた人が今日はいない。明日もいない。もう二度と会えない……
源二郎は十一才の時に芳乃の死でそんな経験もした。あの経験がもっと幼い時に起こっていたら、どうなっていただろうかと考えると、自身が浴びた姉の言葉からも、尋ねたくなることがある。
――おまえは心の奥では、心のどこかでは、おはるを恨んでいるのか?母親の死に繋がってしまったおはるを……そんな気持ちがあの冷え込んだ夜におまえを惑わせた?
さすがに口にはできなかったが、源二郎は心の中では清六にそんな問いかけをしていた。
「おっ母と約束したのに……おはるを守るって……お父とだけじゃねぇ、おっ母とも約束してたのに、おいら……」
源二郎はじっと清六が心のうちを吐露するのを待った。
「おっ母はおいらに約束させたんだ。おはるを守るって……け、けど、お、おはるを恨んだこともあったよ。おはるを産まなきゃ、おっ母はもっと長生きできたんじゃねえかって。おいら、そんないい子じゃねえからさ。けどさ、そんなおいらなのに、おはるはおいらの顔を見たら、笑って、よちよち歩きであとを追っかけてきてさ……しゃべれるようになったら、『あんちゃん、あんちゃん』って……おはるが最初にはっきり喋ったのは『あんちゃん』だったんだ……」
清六の複雑な気持ちが源二郎にはよくわかった。同時に、兄、恭一郎も幼い時には同じような葛藤があったのではないかと思った。記憶にある限り、自分に優しかった兄だが……。
「過ちを一度もしたことがない奴なんていない。一昨日のことを取り返すためにも、おまえがやらないといけないことは、わかってるだろう?さぁ、もう寝よう。明日は長い一日になるぞ」
源二郎の言葉に清六はこくりと頷いた。
翌日の夕方、はるの世話を藤吉に懇ろに頼み、源二郎は清六と共に海辺橋へ向かった。
朝になって清六は自分も海辺橋へ行くと言って引かなかったのだ。
まだ平熱にまで下がってはいないが、はるの熱は源二郎が舟庵の診療所に駆け込んだ時からはずいぶん下がっていた。
はるが回復し始めたのを見て、清六が気を変えることを源二郎は恐れたが、清六は黙って源二郎の後ろを万蔵と並んで歩いていた。
そして、時々聞こえてくる万蔵と清六のやり取りは、源二郎の思いを強くした。
――万蔵と清六、中身はあまり変わらないな。
冬の日が落ちるのは早い。この時代は日の出日の入りに合わせて時刻を変えているから、道中に時の鐘が告げたのは夕の六つ刻だが、源二郎はついさっき昼九つ(正午)の鐘を聞いた気がした。
源二郎達が海辺橋に着いた時には、西の空に明るみが残っているだけだったが、東の空には満月に近い月が出ていた。雲は少ない。
提灯をつけなくても、なんとかなりそうな夜だ。
清六が石が置かれていた場所へ向かい、源二郎と万蔵は二手に分かれて少し離れた茂みに潜んだ。
別に勘六親分の下っ引き二人もどこかに潜んでいるはずである。向かい岸の、これまで見張ってきた家からも張り番の下っ引きがこちらを窺っているはずだ。
源二郎は自身の気配は隠しつつ、辺りの気配を読み取ろうと試みた。これからなにかをしようと思っている輩は、知らずそうした気を放っているものである。
源二郎は勘六親分の下っ引き、二人の存在を微かに感じた。同時に第三の気配も感じた。
――作五郎とその見張り役はもうここへ着いているということか?




