第三話 黄昏の図書室
翌日の放課後。古びた図書室の前に、腕組みした少女の小さな背中があった。
問題児・篠座の姿は、しばしばここで見られるという。
「――燃えてくるよね」
自分に言い聞かせるように、少女――銘はつぶやいた。
夕日の差し込む廊下に伸びる影は、銘のもの一つだけだ。「絶対ついていく」と譲らなかった彩子の申し出を最後まで断り、銘は単身、学校の支配者と噂される男の根城を訪れたのだった。
親友の心配も無理はない。銘の高校には図書室が二つある。少子化によって余った一階の教室を改築した新図書室に対し、こちらは旧図書室と呼ばれている。需要の少ない専門書や児童書だけが残された、いわば分室だ。普段から人気はなく、司書も図書委員もいない。
いかにも不良が溜まりそうな場所なのだが、一匹狼の篠座が占拠して以来、寄り付く者は皆無という。彩子経由の情報が、どうやら外れていないことを、銘は今、肌で感じていた。
廊下に面した図書室の窓、すりガラスの向こうで人影が動く。
間違いない――篠座は、ここにいる。
銘は廊下の端に見つけた掃除用具入れをそっと開いた。箒を一本取り出し、両手で構える。三年続けた剣道は二段の腕前だ。手ごろな棒さえあれば、そこらの男に負けない自信があった。体格から考えても、篠座が腕力を武器にするタイプとは思えない。
不意に、ポケットの携帯電話が震えた。
彩子からのメールだ。内容は簡潔だった――『無茶しないで』。
口の端が緩むも笑みにならない。銘は心の中で親友に謝った。
……ごめんね彩子。ワタシ馬鹿だから、無茶くらいしないと、彩子みたいに上手くやれないんだ。
『まかせて!』と返事して、銘は大きく息を吸い込んだ。
ドアノブを回し、勢いよく図書室に飛び込んだ。
黄昏の図書室は、紅海の水底のようだった。
無論、紅海の水が赤い事実などない。けれど、その名から想像される幻想的風景がそこにあった。板張りの床と書架に囲まれた静寂に揺れる陽炎の緋色。並んだ机を跨ぎ、銘の足元に伸びる長い影。
その主は、正面の窓際に立っていた。
細身の若者だった。ブレザーの上着を脱いだシャツの白も、ここでは暖色の風味を帯びる。袖口から伸びた神経質そうな細い指。首周りも男にしては細く、そして長い。何より、西日を焼結したような紅縁の眼鏡が、銘に若者の名を確信させた。
「篠座くん……だよね?」
「――だったら?」
「えっと、ワタシは……」
「赤星 銘。一年A組のクラス委員長――ただし、(仮)」
唇の端を少し上げ、篠座が哂った。最後の一言に明確な悪意を込めて。
銘は息を呑んだ。初対面に等しい男性から、これほどはっきりと敵意を向けられたのは、初めてだった。
「あ……ご、ごめんね」
わけもなく謝り、思わず目を逸らす。
篠座の姿は、広い机を三つ挟んだ先にある。それでも威圧感に圧倒され、視線を合わせられない。留年生とはいえ、さしたる年の差もない同級生に。どんな人生を送れば、こんな空気を纏えるというのか。それともこれは、奇妙に現実離れした黄昏の図書室の魔法なのか。
外した視線の先に大きな鏡を見つけ、銘はまじまじと自分を見た。
威厳も何もない、ちっぽけな少女がそこにいた。少し怯えた表情に、握った箒が痛々しい――
しまった、と思った。
この格好、喧嘩を売りに来たも同然だ。篠座の冷ややかな態度もそう考えれば無理もない。
銘は慌てて、鏡の横に箒を立てかけた。今更ではあるがやらないよりましだ。赤面の隠れる時間帯なのが、せめてもの救いだった。
出足からつまづいた交渉を挽回すべく、銘は会話のとば口を探した。篠座のそばの机には、数冊の本が広げられている。どれも分厚く、児童書のようだった。
その内の一冊に、銘は見覚えがあった。
赤銅色の表紙に、緑と緋の文字で記された本文。
『はてしない物語』――著者は、ミヒャエル・エンデ。
日本では「ネバーエンディングストーリー」として、二十年ほど前に映画がヒットした。銘もテレビ放映された映画から原作を読んだ口だ。『ファンタージェン』と呼ばれる世界を救うため、本の中に呼ばれる主人公に、何度胸を躍らせ、憧れたものか。
『ナルニア国物語』『これは王国の鍵』……見れば、机上の書物はどれもファンタジーばかりだ。
「篠座くん……ファンタジー、好きなの?」
疑問の素朴さ故か、威圧感を忘れて、銘は尋ねた。
篠座は一瞥を返し、つぶやいた。
「飽き飽きだね」
「……えっ?」
予想外の返答に、銘は目を丸くした。
「飽き飽き……なのに、読み返してるの?」
「おまえには関係ない。――それより何故、ここに来た?」
口調にかすかな苛立ちを感じ、銘は詮索の手を引いた。今は本題を優先すべきだ。篠座から水を向けた好機を逃すわけにはいかない。
「掃除当番……篠座くん、ずっとやってないでしょ?」
「ああ、そうだったかな」
「どうして?」
「必要性を感じない」
寸毫も悪びれた様子のない篠座に、銘は語気を強めた。
「そんなの、おかしいよ。そりゃあ誰だって掃除したくないけど、みんな、仕方なくやってるんじゃない。篠座くんがサボってるから他の男子も真似して、真面目なコが困ってるんだよ?」
「奴隷の理屈だな」
「……ドレイ?」
目を白黒させる銘に、篠座の眼鏡が輝きを増す。
「自分だけ損を蒙るのが癪だから、他人を巻き込む――取り繕ったところでただの感情論だ。掃除が嫌ならしなければいいし、したければすればいい。義務でもない当番に、オレが縛られる謂れはない」
「掃除当番は義務でしょ?」
「ほう――根拠は?」
予想外の切り返しを受け、少女は言葉に詰まった。
「こ……校則……とか……」
「第何条、第何項?」
「え、えーと……」
「繚乱高校校則、風紀規定第三条第二項。『校内清掃は自主性を育むべく、生徒に一任する』――嘘はいけないな、委員長(仮)」
常識のように校則をそらんじ、篠座は蛇の眼差しで銘を見た。
「自主性と当番制は相反する理念だ。いつから掃除が当番制になったか知らないが、校則に則れば現行の状態こそ違法になる。つまりは生徒の誰も、掃除を強制されるいわれはない。当番を強制したいなら、まず校則を改正して制度化するよう、生徒議会に具申することだな」
舌を抜かれたように、銘は言葉を失った。
篠座の言い分が詭弁であろうことは銘にだってわかる。だが、反論する頭の回転も、弁舌の冴えもない自分に、何が出来るというのか。
何より悔しいのは、篠座が明らかに遊んでいることだった。
言い訳すら本気でない。言葉を弄し、間抜けな訪問者をからかうのが主眼なのだ。危ない噂が真実かどうかはまだ判らないが、銘は確信した――この男の底意地の悪さだけは、掛け値なしに本物だ!
「だ……だけど……」
それでも、銘は引き下がらない。
知恵も魅力もない自分にできる、唯一のこと。
あきらめない。怖がらない。前に進む。
「……篠座くんの言ってるコトは正しいかもしれない。でも、困ってる人がいるのも本当なの……。無理強いはできないけど、お願い……助けると思って……」
「フン――結局は泣き落としか」
搾り出すような銘の訴えにも、男の答えはにべもなかった。
「生憎、オレはフェミニストじゃない。ボランティアにも興味はない。それとも何か? 掃除当番を引き受けてオレにメリットがあるか?」
「……ある」
「ほう。言ってみろ」
「クラスのみんなと、仲良くなれる」
一瞬、あっけに取られた様子の篠座が、次いで乾いた笑いを漏らした
「クックック……なるほどな。おかしな噂のある留年生が、年下の同級生に馴染めず、孤立している――それが、委員長サマのお見立てというわけだ。さしずめ、同病相哀れむというところか」
「……えっ?」
「おいおい、いくら無能でも、少しは自覚があるだろう」
歩き出す篠座。机を避け、前へ。口に酷薄な笑みを貼り付けたまま。影が動く。銘との距離が詰まる。
「教室にいなくても噂は聞こえてくる――馬鹿な新入生の噂だ。席が最前列というだけで選ばれた臨時の委員長職で有頂天になり、クラスの揉め事解決を買って出るも空振りばかり。当人はくそ真面目なだけに誰も強くは言えず、余計に性質が悪い。本音では皆、馬鹿の友人の秀才に期待しているのだが、秀才は友人に気兼ねし、推薦を辞退するという。業を煮やした周囲は、役不足を自覚させるべく、面倒ごとを次々と回すが、馬鹿は張り切るばかり。自覚はおろか、影で秀才がフォローしている事実にすら気付かない」
胸に突き刺さる刃の音を、銘は聞いた。
「そして最後の姦計――学校一の危険人物と目される男に、馬鹿をけし掛けた。噂が真実であり、まともに戻って来ないことを期待して。あまつさえ馬鹿は一人でやってくる。身の程知らずな秀才への対抗意識を抱えて、自分が使い走りに過ぎない自覚もなく、がんばればいつか認めてもらえると、まさに馬鹿のように信じて――だ」
床を見詰める銘の視界に、男の靴が現れる。
「そんなおまえに同情されるとはな……クククッ、実に傑作だ。おかげでずいぶんと暇が潰せた。情報はその礼だと思うんだな。――わかったら、帰れ。オレの領域に二度と立ち入るな。おまえが何をどうがんばろうと、あのクラスで認められることはないし、ここでの努力は全て徒労に終わる。――あきらめろ」
最後の宣告は、意外にも情の音色を伴って響いた。
「……篠座くん……も……」
顔を伏せたまま、つぶやくように銘が言った。
「篠座くんも……あきらめたの?」
「あきらめる以前に、望んでいない。オレは一人で生きてきたし、これからも生きていく。それがおまえとオレの根本的な違いだ」
「そんなこと……ないよ」
ぐいと目元をこすり、銘は顔を上げた。
太陽のような笑顔が、そこにあった。
「――何だと?」
「だって、篠座くんは図書室にいるもの。本当に一人がいいなら、学校に残る必要なんてないでしょ?」
若者の薄笑いが、日に照らされた霞のように消えた。
「おまえに何が――」
「うん、知らない。ワタシ馬鹿だから」
あっさりと認め、篠座を見つめる少女。
「でも、最初に篠座くんを見た時、思ったの――この人はここで、誰かを待ってるんじゃないかって」
攻守は、いつしか逆転する。
「多分ね……ワタシもそうだから」
若者の眉間に、深い皺を刻んで。
銘の横を抜け、篠座は廊下に出る扉へと向かう。
立ち去るため――ではなかった。ドアノブが音を立て、施錠を告げる。
「よほど、オレをお仲間にしたいらしいが――」
振り向いた篠座の放つ、これまでと異質の気配に銘は戦慄した。
改めて思い出される数々の恐ろしい噂。そうでなくとも密室に男女二人という状況に、ようやくにして思い当たる。
その隙を、篠座は見逃さなかった。旋風のように回りこみ、入り口付近の壁際に銘を追い詰める。
「――助けのない場所で同じ台詞が言えるか、確かめてやる」
銘の退路を断つべく伸ばされる、男の両腕。
悲鳴は声にならず、武器は手元にない。箒――入り口の壁に立てかけたそれを探す銘の双眸が、不意に見開かれた。
篠座の背後、数メートルの壁に、有り得ざる現象が具現化していた。赤く染まる壁に浮き上がったのは、青色の光で描かれた幾重もの円と星型の図形、そこに配置された謎の文字。耳朶をくすぐる高音。
それが魔方陣と呼ばれるものと、銘は気がついた。しかし、何故?
直径にして二メートルはあろうそれが、壁から放たれたのは次の瞬間だった。垂直に屹立したまま、前触れもなく。
篠座を、背中から飲み込むように。
「――危ないっ!」
銘は、反射的に手を伸ばしていた。
自分を狙い、迫っていた男の手を掴むと、全力で引っ張る。
一瞬、篠座が自分の手を握り返すのが感じられた。
そして何故か、自分の手が、逆に引っ張られたのも。
「……あれ?」
刹那、魔方陣の青色光が、視界を蹂躙した。
痛みも、感触も、匂いもなく。
篠座と銘は、魔方陣に飲み込まれ――図書室から消滅した。




