花が紡ぐ秘密 1
セリーヌの執務室にはいつものように明るい光で溢れている。カイルは完璧な所作でいつものように紅茶を注ぐ。
「カイル、この後の予定は?」
「午後から商談目的でフェイルド伯爵が訪れる予定となっています」
「そう、ならいつもの部屋を整えておいてちょうだい」
「承知しました」
彼は深く頭を下げる。その動作もまた完璧で、彼女が違和感を覚えることはなかった。だが、その背後でカイルは一瞬だけ表情を歪め、喉元に込み上げる咳を必死に抑え込んでいた。
(誰にも気づかれないようにしなくては……)
カイルはそう自分へ言い聞かせ、部屋の準備のためお嬢様のもとを離れる。
執務室を出ると、廊下の曲がり角で侍女のエミリーとすれ違った。彼女は何かを言いかけたが、そして言葉を飲んだ。カイルの顔色が、前よりも明らかに優れないことに気づいたからだ。
エミリーは、カイルが屋敷で一番信頼されている従者であり、お嬢様のそばに最も長く仕える存在だということを知っていた。
それゆえ、彼の体調の異変が屋敷全体にどのような影響を与えるかを案じていた。
「カイル様……最近、やはりお疲れのご様子ではありませんか?」
彼女が問いかけると、カイルは静かに微笑んで首を振った。
「お気遣いありがとうございます。しかし、何も問題ありません」
その答えは、表面的には確信に満ちたものだったが、エミリーにはその裏側に隠された苦痛が感じ取れた。
しかしエミリーはそれをあえて指摘はせず「そうですか……ですが、どうか無理をなさらないでください」と、頭を下げて去った。
エミリーのあっさり引く様子を見て訝しんだが、そのままカイルはお嬢様の命令を遂行するため部屋まで歩いて向かう。
***
エミリーはそんなカイルに対し、やはりきちんと休養を取るべきだと思い、彼女はその足でお嬢様の元を訪れ、こう進言した。
「お嬢様」
「どうしたの、エミリー。そんなに緊張して」
普段仕えている様子とは違い、どことなく緊張した様子のエミリーの言葉に、書類から顔をあげるセリーヌ。
ごくり、と息を飲み込みエミリーは続ける。
「最近、カイル様の体調がすぐれないように見受けられます。少し休ませたほうがよろしいのではないでしょうか?」
「カイルが?」
「はい。お嬢様がカイル様をどれだけ信頼しているのか、どれだけ重用しているのか、もちろん理解の上でお伝えしています。
そこまで深刻な状態ではないと思いますが、万が一、何かの感染症だった場合、お嬢様にも影響が及ぶ可能性があります。
また、お嬢様に何かしらの影響を与えること自体がカイル様が望まないと思います」
エミリーの覚悟のこもった言葉にセリーヌは考え込む。ゆっくりと口を開く。
「……今の話に偽りはない、と誓れるかしら?」
「もちろんです。お嬢様に誓って」
「そう……そろそろまとまった休養を取らせる予定だったのよ。それを少し前倒しにしましょう」
「お嬢様……!もしかして、その休養って……」
今までの重い雰囲気から一転して、春の晴れた日のような空気へ変わる。エミリーがキラキラとした目でお嬢様を見つめる。
「えぇ、エミリーの考えている通りのことよ。そろそろ頃合いだとは思っていたの」
「楽しみですね……!いつ頃発表になるんですか?お嬢様の婚約発表は!」
「来年の春頃を予定しているわ。もしかするともう少し早くなるかもしれないけれど」
和気あいあいとした空気が執務室の外まで漏れ出す。廊下には誰もいないはずだった。
__否、準備を済ませお嬢様に報告をするために執務室へ入ろうとしたカイルを除いて。誰もいないはずだった。
(俺は……お嬢様にとって不要だった……?
お嬢様の婚約?一体誰と……俺は、何も知らない)
だらん、と扉をノックするために伸ばした手が落ちる。そのままカイルの口から感情がこぼれ落ちる。吐き出された漆黒の花びらには、赤い光が揺らめいていた。
その光は、愛が手の届かない場所にあることを嘲笑うかのようだった。
そうして、声をかけることも立ち去ることもできず、少しの間その場にカイルは呆然と立ちすくんでいた。