月明かりの庭に咲く片恋の花 2
昼間は人の往来でさざめく屋敷の中も、夜の静寂に包まれている。カイルは軋む身体を引きずるように歩みを進める。
そうして。
ふと、顔をあげると自分でも無意識のうちにお嬢様の私室へ足を運んでいたことに気づく。
閑散とした空気の中、昼間の何気ない言葉が耳に蘇る。
『カイル、貴方がいればわたくしは何の心配もいらないの』
とカイルを見つめ柔らかく微笑むお嬢様の顔。
あぁ、自分はなんと答えたのだろうか。
(お嬢様……あなたの言葉それだけで、胸が軋むように痛いのです。)
カイルは痛む胸を押さえる。花吐き病に罹患してからどのくらいたったのだろうか。
少し前なら我慢できていた花が、今は隠し通さなければならないセリーヌの前でも零れ落ちそうになる。
全てを諦めてお嬢様の前から消えるべきだと冷静な彼は叫ぶ。
しかし、それは彼にとって死ぬよりも辛い選択肢となることは明らかだった。
カイルの生きる意味はただ一つ__セリーヌのそばで、彼女のためにすべてを捧げること。
それを失えば、彼には何も残らない。
彼はそっと私室の扉に手を当て祈るようにささやく。
「お嬢様、今夜も安らかにお休みください」
言葉とともに零れ落ちそうになる花弁を押し止めるような嗚咽を一つ噛み潰す。彼は花吐き病に侵された身体を引きずりながら自室への道を歩む。
明日も完璧な姿でお嬢様に仕えるために。
それが彼の願いなのだから。
***
こんこん、とノックの音がセリーヌの執務室へ響く。
「いるわ、どうぞ」
セリーヌの返事とともに音もなくするりと紅茶の香りを漂わせた影が入り込む。
「おはようございます、お嬢様。本日の紅茶をお持ちしました」
にこやかにセリーヌへ紅茶を差し出すカイルには、花吐き病に蝕まれ、体力、精神力すべてを削られた姿はどこにも見えない。
お嬢様はふわりと夏の空のような澄んだ碧色の瞳を緩ませる。
「ありがとうね、カイル。わたくしのために働いてくれて。貴方の入れた紅茶がないとわたくしは一日が始まらないの」
セリーヌの一言に胸が軋むほど痛くなる。
せり上がってくる花弁を押し留め、完璧な姿を演じる。
「光栄です。お嬢様のためならば俺はなんだってできますから」
「ふふ、頼りにしてるわね」
碧色にカイルだけが映っていること、それだけで歓喜が彼の身体を巡る。我慢しきれなかった花弁をお嬢様には見えないように隠し通す。
ちらりと覗いた花弁は透明に近い赤色で、カイルは内心、自分の思いに反吐が出る。
(何が、真実の愛だ。ただの思い込みだ。俺だけがのぼせ上がって、天まで昇って落ちているだけ。)
こぼれ落ちた花弁はフェルマルティアの花。
恋人のプレゼントとして好まれる花だった。
「……カイル?どうしたの?」
ぼんやりと花弁を見つめていたカイルにセリーヌが書類から顔を上げて尋ねる。
身体が跳ねるのを押さえつけて、何事もなかったかのようにカイルは答える。
「っ!申し訳ありません、少し考え事をしていました。何か御用でしょうか?」
カイルにとってそれはいつも通りの笑顔、対応だったはずだが、セリーヌは違和感を感じたようだ。
形のいい眉を寄せながら、カイルへ
「貴方が考え事なんて珍しいわね。何か相談したいことがあるのかしら?」
と問いただす。
柔らかい口調のはずなのに、嘘の一片も許さないといった張り詰めた感情がカイルへ伝わる。
わずかに緊張を含ませて、カイルは口を開く。
「……いえ、お嬢様のお手を煩わせることではありませんので」
「そう、ならいいけど。貴方がいないと困るの。体調管理はしっかりなさい」
カイルの返答にやや不満そうに答えるセリーヌだが、興が削がれたと言わんばかりに書類の処理へ再度集中し始める。
「はい、もちろんです。お嬢様」
セリーヌとのやり取りに肺の中の花が騒いで、胸が軋む。
(お嬢様にとって、俺が必要だと言われるのは嬉しい。でも、この病が進行すれば、いずれ俺は……)
零れ落ちそうになる咳を抑えるために拳を握りしめた。
カイルの握りしめた爪が手のひらに傷を作る程度には、強く。
彼女のために、最期までお嬢様に仕える。
それが、彼の唯一の願いだった。
フェルマルティア:透明に近い赤色の花弁を持つ花。内側から灯る光が赤く輝く。時間帯によってピンクやオレンジの色合いも帯びる。恋人たちの愛を象徴し、恋人への贈り物として好まれる花。