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熾火  作者: り(PN)
8/11

「やあ、遅かったね。楽しんできたかい」ではなく、「疲れただろう、食事は済んでいるだろうから早く風呂に入りなさい」という辺りが夫としての修三の魅力だろう。

「ありがとう、そうするわ」と康代は二階の夫婦の寝室に上がって服を着替えると、洗濯物と着替えを持って風呂に向かった。廊下を擦れ違った娘の修子に「結局、晩御飯はどうしたの」と尋ねると「早めに鰻を食べに行ったわ」と単に状況報告をするように修子が答えた。

「そう、良かったわね。総菜屋の先の鰻やさんね」

「残念でした。駅ビルの中のお店にしたのよ。……っていうか、最初は鰻にする予定じゃなかったんだけど、当てが外れたってことかしら」

 風呂場の横の洗濯籠に洗濯物を入れると、康代は風呂に入った。湯船に浸かるとじんわり広がる疲労の中に今日一日のことが思い出されてくる。

 R町での別れ際、昭は康代の唇を求めて彼女の背中を抱きかかえた。が、康代が「今そうしては、この関係は終わりです」とやんわりと拒絶すると弾かれたように腕を放した。

 昭のあの驚きは実際何を意味しているのだろうか、と康代は思った。これまで昭が付き合ったことのない年上のしかも人妻に衝動的に欲望を感じたことを恥じ入ったのか、それとも本気で康代と付き合いたいと思い始めていたのだろうか。

 修三と別れるとなると康代はまず住む家を失う。もちろん現金収入もゼロになる。多感な娘は迷った末に父親を選び取るような気もしてきた。そうなれば康代は身一つで若い昭の元に向かうことになるのだろう。それは人生の再出発には好都合かもしれないが、気持ちの整理は簡単には付きそうもない。

 夢だわ、夢。あるいはゲーム、と康代は自分の幼稚な想像を嘲笑った。

 若い昭がいつまでも年上の自分を愛してくれるわけがない。いやその前に、昭が今わたしに惹かれているのが真実だとしても、それは一時的な気の迷いだろうと康代は冷静に自分と昭の心の動きを分析した。良くて数回の逢引、逢瀬。それから身体の関係を持って、さらに数回。そのくらいの短い期間で昭は自分の将来を危惧し始めるだろう。若い昭には康代など比較にならない良縁がこれから幾つも控えているに違いない。会社の上司や、もっと上部の娘や親戚との縁談だって考えられる。または、ある日突然激しい恋に落ちる可能性さえあるのだ。

 それらの可能性をすべて投げ遣ってまで、昭が自分を選び取ってくれるとは、康代には到底思えなかった。

 それに昭と関係を持てば、その恋に溺れるのは自分の方に決まっているとわかっていた。昭が康代を重荷に感じ始めるその時期に、康代の方はすっかり昭に舞い上がっているに違いない。

 修三との結婚生活が、これまで特に波風もなく続いてきたのは、康代が修三を愛していなかったからである。もちろん彼のことを嫌いではない。人間的に尊敬できたし、自分を大切に扱ってくれることはわかっていた。娘には優しく、また仕事に託けて家庭を顧みない多くの夫族とは違って家庭サービスも心がける。実は裏では遊んでいるのかもしれないが、家族に知られず、また警察沙汰になるような問題でも起こさなければ夫としては合格であった。それに実際のところ康代には修三が愛する家族に隠れてひとりで遊んでいると想像することさえできなかった。

 そんな何ひとつ欠点のない修三を自分は裏切ろうとしているのだ、と考えて康代は心底ぞっとした。それも生涯ただひとつの狂えるような恋の燃え滓に再び別の火を点けようとして……。

 惨い女だ、と康代は自分のことを省みた。稼ぎのない夫や精神的に可笑しな夫に嫁いでいれば、自分はそんな夢を見ることもなく、あくせくとそれこそ日銭を稼ぐために馬車馬のように働いていたに違いない。手に技のない康代が働くとすれば、家政婦か病人の付き添いか、あるいは住み込みの店舗や小ビルの掃除係くらいしか仕事はない。または喫茶店や料理屋の手伝いか、年齢を誤魔化して夜の蝶に挑むくらいだ。

 そう考えると康代は暗然たる思いに沈んだ。いっそ修三が浮気をするか、既に愛人を囲っていて、その事実を突きつけられた方が楽なような気がしてきた。

 ああ、わたしは何を考えているのだろう。

 康代は風呂上りにわざと冷たい水を浴びて、手遅れにならないうちに昭に対する自分の気持ちの整理を付けねばならないと思った。


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