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「ええ、最初の出会いはそうでした。わたしの方が既にKに魅入られていたのです」
昭の話に康代は当時の身の震えるような感覚を思い出していた。恋に落ちるとは摩訶不思議なもので僅か数十分しか話したことのない慶二の姿が日を追う毎に康代の胸を満たしたのだ。
「でもKは、わたしにはいつも紳士的に振舞っていました。先ほど昭さんが仰ったような粗野なところは、わたしにはまったく感じられませんでした」
それは康代の率直な感想だった。慶二が世に言う二枚目で、少なくとも当時、女にモテていたのは間違いない。自分が無垢だったから慶二はそれに合わせてくれて、そうではない男経験の多い女と付き合うときには裏……というか本当の顔を見せたのだろうか。
「人物Kは自分では愚連隊崩れとか言っていますが、ご存知のように大学は旧帝大で、そこで問題を起こしたという話は聞きません。また、それに先立つ高校や中学のときにも、ともにバスケット部に所属していて、チームはそこそこ勝ち上がって高校では全国大会で三位にまでなったのだから、悪さをする時間なんてなかったと思いますよ」
「でも、いつも女性がいたのでしょう」と康代が問うと、「人物Kが結婚したのは三十二歳のときでしたが、そのときわたしは十三歳ですよ。大人の女関係なんて判るはずもないでしょう」と少し剥れたように昭が答えた。
昭の言葉を聴いて、康代は、そうか、慶二はそんなに若く結婚したのかと少し驚いた。自分が惨めにいまでは名前も顔も憶えてもいない多くの男たちと付き合っていた頃、慶二は既に幸せな新婚生活を送っていたのだ。そう思うと康代は悔しいやら、情けないやら、どうにも気持ちの置き場に困ってしまった。慶二に、今度この人と付き合うことに決めたと羽村美知を紹介されたとき、康代は明らかに自分より容姿の劣る美知に女のプライドを傷つけられ、慶二に復縁を迫ることをしなかった。慶二の心の中に自分との体験を確かな思い出として刻みつけたという自負もあった。
が、それは泡の城のようなものだったのだろう。
今目の前にいる昭に慶二は康代のことを過去に付き合った中でも印象に残った女の一人として語っている。
しかし、それがどうだというのか。
康代が当時欲しかった幸せはここにはなく、せめて甥への昔語りに、慶二と共通のパーツを持つその甥の昭の口から当時の出来事を追体験し、なくしてしまった幸せの泡を再度膨らませようと試みた自分が康代は急に惨めに感じられてきた。
自分に幸せがあるとするなら、それは過去ではないだろう。そのとき康代は心に強く思っていた。
「あら、もうこんな時間になってしまって……」
腕時計で時間を確認すると康代は昭に言った。時刻は既に午後九時をまわっていた。R町にとってそれはまだ宵の口だったが、家庭を預かる主婦の康代にはそろそろ限界の刻限だった。
「また会ってくださいますか」と帰り支度を始めた康代に昭が問うた。「人物Kの話がまだ残っています。話の盛り上がりは、この先です」
それに答えて康代は言った。
「今日は偶々時間が取れましたが、次回はいつになるかわかりません。昭さんに、それが待てますか」
当時の康代は一日待つもの地獄だった。若さは時間に無防備なものだ。
慶二にどうしてももう一度会いたくて康代が仕組んだ煙草店での偶然を装ったあの再会の後、今にして思えば坂を転げ落ちるように康代は慶二にのめり込んだ。積極的に自分に身体を差し出そうとする康代のことを実は慶二は持て余し、そんなに望むのならば抱いてやろうと深い気もなく康代の身体を奪ったのかもしれない。それも康代を気遣いながら紳士的に……。
二人にとって不幸だったのは、康代と慶二の身体の相性が抜群だったことだ。これは慶二自身の口から聞いたのだから間違いない、と康代は思った。が、それも慶二の康代に対する気遣い、あるいは哀れみだったのだろうか。
「蓉子さんが欲しいな」と昭は言った。「いずれその機会が持てるなら、あなたの都合に合わせるしかありませんね」
昭の言葉は康代を酔わせた。が、その酔いの中に地獄が隠れていることを、もはや若くはない康代は身を持って知るのであった。