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「どうかされたんですか。浮かない顔をして……。やはり、わたしとの逢引を後悔していらっしゃるのではないですか」
沙耶香との会食は思ったよりは長引いたが、沙耶香本人に予定があるため、ずるずると何時までも延びるということはなかった。それで昭との約束時間に五分と遅れずR駅の地下改札に着いた康代だったが、昭との約束が気に掛かり、熱心に聞いていないつもりだった沙耶香の話が思った以上に心に染みて自分ながらに驚いていた。
けれどもだからといって昭に会いたいという気持ちが萎えてしまったわけではない。会いたい気持ちは逆にいっそう深まっていた。しかしこの先事が間違った方向に進んでしまい、しかもそれが公になった場合に、自分にはすべてを失う覚悟があるのだろうか、と康代はふとそんなふうに思ってしまったのであった。
その僅かな気持ちの揺れが康代の表情に混じり込み、それを昭が敏感に感じ取ってしまったのだろうか
けれども康代は心の別の部分で、この逢引は単に昔の感傷に浸るだけのゲームなのだ、そんな自分のゲームに親切な若者の昭が付き合ってくれるだけなのだと考えていた。そして単なるゲームなのだから、どうしたところで間違いが起きるはずはなかろうと高を括ってもいた。
「いえ、そうではないんです」と康代は答えた。「ただ、こちらに伺う前に会った友達の境遇を思いやると、まるで救いがないようなので考え込んでしまっただけなのです。あなたのせいでも、ましてや今回のお約束とも関係はありません」
康代は咄嗟にそう答えたが、しかしまったく関係ないといえるのかどうか。
昭を見ると怪訝な表情を浮かべている。なので、単にそれだけを伝えられても昭には意味が通じなかったのだと判断し、康代は槁本沙耶香の現在の境遇を掻い摘んで説明した。
すると――
「そうですか。そんなこともあるんですね」と昭が答えた。「わたしは一人身だから、正直言って、どう答えたら良いのか検討もつきませんよ」
昭はそれだけ言うと口を閉ざした。なので康代が付け加えた。
「もちろんこれは昭さんの問題ではありませんし、昭さんからお答えをいただこうとも思っておりませんわ」
そう言って昭に笑みを見せ、康代はこの件はこれで終わりだと意思表示した。昭もそれ以上何かを聞いてこようとはしなかった。
「街の雰囲気はずいぶん変わったと思いますが、当事と同じ場所とか、わかりますか」
改札に続く地下通路から階段を昇って最寄りの出入口から表通りに出ると昭は尋ねた。
まだ午後の四時過ぎなので通勤ラッシュやアフターファイブの賑わいはないが、往来に人の姿は多く、それが交通機関の立てる喧しい騒音と混じり合ってR町らしい混沌とした雰囲気を醸し出し始めていた。この後陽が暮れて夜の帳が街に降りれば、それに妖しさが加わるのだろう。
「交差点付近は確かに覚えていますが、すでに印象が違いますわね」
「ということは、この街で店を探すなんて無理なのかな」
「文字通り、見当も付きませんわね」
「当事から今までに一度もここを訪れたことはないのですか。そんなに遠い距離でもないでしょう」
「別れてから数年してふと懐かしくなって衝動的に来てしまったことはありますが、電車を降りたら急に悔しさが込み上げてきて、すぐに帰りましたわ。今思えば、あのときはまだKとのことが思い出になっていなかったのでしょうね」
「現在はどうなんです。人物Kはまだ生きていますよ。会おうと思えば会えるわけです。あなたは現在のKに会いたいとは思われないのですか」
「正直言って、わかりません。でも、そのご質問は残酷ですわ。どちらも当時とは違っているのですから……。老けた自分をKの前に曝したくはありませんし、また若さを失ったKを見たいとも思いません」
「あなたはまだ十分お若いし、とても綺麗ですよ。その意味では、わたしは現在の人物Kに蓉子さんを会わせたくはありませんね。焼け木杭に火がついては、わたしが面白くありません」
「お上手だこと。そうね、あなたがあのときのKなら良かったのかもしれませんわね」
「だが、同じことをしたかもしれない」
「おばあさんになったわたしに惹かれた素振りをする昭さんならば、そんなことはありませんよ」
そう口にして康代は顔を赧めた。自分の発した言葉の大胆さに眩暈がしそうだった。
「ああ、あれ!」
そのとき康代の目に旧いビルの一廓が映った。思い出が過去からさあっと立ち上がる。確実なことは言えないが、康代は自分に見覚えのあるビルだと思った。
「見つけましたか」と康代の反応に昭が康代の顔を覗き込んだ。二人の目と目が絡み合う。「行ってみましょう」
康代と昭が向かった先はR町の繁華街から若干外れていて、表通りに面するビル一棟分奥まったところに建つ旧い建物だった。近づいてみると、そこだけ時代に忘れられたような感じがした。
「まだ四時半にもなっていませんが、一応向かってみますか」昭が訊いて、康代が首肯く。「でも、案内するのはあなたですよ」
外観は当事を髣髴とさせたが、薄暗いビルの中までまったく同じというわけにはいかなかった。床に敷かれた絨毯は古めかしいが明らかに記憶の中のものとは違っていたし、壁に掛けてあったはずの幾つかの洋画の額縁も見当たらなかった。
当事康代は必ず慶二に伴われてそのビル地階のショットバーJに向かった。康代一人で先に店に入り、そこで慶二と待ち合わせをしたという経験はなかった。だから慶二と二人で歩いたはずの道筋に記憶の確実さはなかったが、当事から現在に至るまで夫や知人と似たような店に入ったことがなかったので、当時の記憶が他の店の記憶に紛れてしまうことはないはずだった。
「何だか怖いですね」
「ええ、まったく」
薄暗い階段の突き当たりに無骨な木製のドアがあって、そこに店の名『J』が刻まれていた。康代は当事と変わらぬその文字を発見して、はっと息を飲んだ。
「ここですか。ありましたね」と昭は言ったが店自体は閉まっていた。
現時刻でJが閉まっていて午後五時や六時から営業するという意味ではなく、明らかに商売をやっていない雰囲気を醸し出していたのだ。ドアには店の名前が残されていたので、営業を止めたのはそんなに昔のことではないのかもしれない。それとも時代に置き忘れられたようなこのビル自体に既に商品価値がなく、取り壊される時をじっと待っているところなのだろうか。
「残念でした」と言って昭がショットバーJの扉に手をかけた。するとギーッと乾いた音を立ててドアが開いた。「驚いたな。鍵も閉まっていないなんて……」
それで昭は大胆な気持ちになったようで、携帯電話の灯りを頼りに店の中に入って行った。照明スイッチを探すために壁沿いに歩く。
「昭さん。誰かが来たら叱られるわよ」
そんな昭の後を追ってJの中に入った康代だったが、四十過ぎの主婦の分別が働いたのか、思わずそんな言葉を口にしていた。が、昭は面白がって照明スイッチを探すのを止めようとしない。店の中は既にすっかり片付けられているようで、康代の見知ったカウンターの奥も空っぽ。椅子もテーブルもない闇の空間がやけに広く感じられる。
漸くのことで昭はスイッチを探し当てたが、それを入れても店に照明が灯ることはなかった。仕方なく入口ドアまで戻ると店に電力を供給する電源ブレーカーがドアの上に見つかった。けれども昭は敢えてそれをオンにしようとはしなかった。
「普通の部屋なら入口ドアのすぐ傍に照明スイッチがあるはずですが、ここはお店なので、店に入ってきたお客さんが間違ってそれを消してしまうのを用心して、カウンターの近くに設置したのでしょうね。それで、いつもはそれをオンにしておき、店を開けるとき、切ってある証明用のブレーカーをオンにして電気を点けていたのでしょう」
昭は康代に笑みながら、そんな推論を展開した。それから、「わたしも怒られるのが怖くなってきましたよ。実際、歳若い学生ではありませんし、会社にバレたら何を言われるかわかったものじゃない」と言って舌を出した。
その子供っぽい仕種に康代は虚を突かれたように気づかされた。自分の心の中一杯に昭への愛おしさが充たされている事実を隠すわけにはいかなかった。
「では、管理人か警備員が来ないうちに引き上げましょう」
昭にそう促されて康代はショットバーJを去った。慶二との思い出の場所ではあったが別に名残惜しくはなかった。
結局、R町の繁華街に戻って適当な店を探して食事をすることにした。二人の間には慶二の事以外に共通項はなく、それで会話も弾まなかった。
本日の逢瀬の主たる目的が昭から慶二と自分とのエピソードを聞くことだったにも関わらず、康代は直ちにそれを話題にするのも憚られるような気がして、何を話して良いのか戸惑った。
「十年一昔とは言うけど、十歳以上年齢が離れていては世代的に共通の話題はないわよねぇ」
食事を終えて飲み物を楽しみながら、康代は少し淋しげに、けれども甘えるように昭に言った。
すると――
「子供の頃の体験なんかは確かに時代で違いますよね」と昭が答え、「蓉子さんは子供の頃、どんなお子さんでしたか」と問いかけた。
「どんなって、ごく普通の子供だったわ」と康代は答えた。「歳の離れた姉がいてね、母が裁縫の仕事をしていたから、その姉に育てて貰ったようなものだったわね」
康代は物心ついた幼い頃のことを思い出していた。時代的には大きな事件が犇きあっていた年代だった。石油危機に物不足、大手商社の買い占めに金大中事件、日航機ハイジャック、大洋デパート火災、江崎玲於奈ノーベル物理学賞受賞、自衛隊違憲判決、滋賀銀行女子行員九億円詐取事件、それに魚介汚染など、たった一年を振り返っても相当騒がしい時代に幼年期を過ごしたと康代は思う。が、実際に子供だった頃の自分に、そのような自覚があったとは思えない。近所の子供たちを相手にオママゴトをしたり、あるいは幼稚園に通う専用バスを表通りに面した路地で楽しみに待っていた記憶の方が大きいのだ。
「昭さんにとって、例えば石油ショックは歴史上の事件でしょうけど、わたしはそのとき三歳だったわ」
康代が言うと昭が答えた。
「わたしが三歳の頃には、三原山が大噴火して、撚糸工連事件があって、イギリスのチャールズ皇太子とダイアナ妃が来日して、現金輸送車の三億三千万円強奪事件があって、衆参同時選挙で自民党が空前の大勝利をして、スペースシャトル・チャレンジャーが爆発して、さらにチェルノブイリで原発事故が起こっていますよ。やれやれ……。まさに激動の一年ですよね。……もっとも当時のわたしが、そんなことに頓着していたとは思えませんが」
「そういえば昭さんは小学校から土曜日がお休みだったんじゃありませんか」
「ええ、確かに小学校の二学年から五学年まで第二土曜が休みでしたね。それから高校卒業まで全土曜日がお休み」
「羨ましいわね。わたしは小学校から高校卒業まで土曜日にはすべて学校があったわ。ねぇ、最初に隔週で土曜日が休みになったのって何時からでしたっけ」
「わたしの記憶が確かならば、一九九二年の二学期からですね。平成でいえば四年です」
昭のその言葉を聞いて、康代は、ああ、そうだったんだと思い当たった。
「わたしがKに出会った頃、昭さんの通った小学校が土曜休日になったんだわ」思わず口にしたが、そこに何の関係もあるはずがない。「その頃は昭さん、きっとやんちゃなお坊ちゃんだったのでしょうね」
すると昭は康代に答えた。
「そんなことを言ったら、蓉子さんだって二十二歳の若くて素敵な娘さんだったわけでしょう。返す返すも人物Kが憎らしくなりますよ。聞くところによれば、偶然の再会だったというじゃありませんか」
二人の会話が漸く慶二に行き着いたようだった。
「Yと最初に出会ったのは姉に連れられて年に一度の人形教室の展示会に出向いたときのことだったよ」
昭が伯父の矢島慶二から仮名・羽村蓉子のことを聞いたのは二月ほど前のことであった。
「そのときは綺麗なお嬢さんだとは思ったが、自分とは住む世界が違うと感じたな。おれは表では真面目そうに振舞っていたが、裏では時間を見つけては悪さをしていたもんだよ。信用第一の銀行員だったから、その中のいくつかの遊びがバレたら首になっていた可能性もあるな」
慶二は昔を懐かしむような表情を昭に見せると言葉を紡いだ。
「一目見て、Yは両親に大事に育てられたお嬢さんの感じがしたよ。質素で清潔と言えばいいんだろうか。そりゃあ昔の華族や金持ちの箱入り娘とは比較にもならんのだろうが、おれにはそう感じられたな。庶民の花だ。だから愚連隊崩れのおれなんかと住む世界が違うと感じたんだろう。逆に言えば、そんな機会はないと思った。だからおれなんかが近づいて、やがてこの人に訪れるかもしれない幸せを奪ってはいけないだろうと自分を戒めたな。お前は笑うかもしれないが、若い頃のおれにそう思わせるくらいの煌びやかな美しさがYにはあったんだよ。驚いたことにYがおれのことを気に掛けていて、しかも数日後に偶然再会しなければ、おれはYのことを忘れていただろう。偶々同じ時間を共有した一人の娘として……」
慶二はそこでウイスキーグラスに口を付けた。その口許がどこか寂しそうだった。昭がそれを指摘すると慶二は笑いながら答えた。
「今は止めたが、当時はシガリロに凝っていてね。安い方ではベルギーものでキューバ葉のネオスとか、比較的高い方ではドイツだったかな、ハバナ葉のラ・キャピターナ・ミニとかを吹かしていたよ。煙草は絹子と娘の由美にやんやと言われて止めてから五年経つが、そうだな、昔の映画を見てると大抵の男が美味そうに吸っていて目の毒だな。あれは困ったものだよ」
そう言って慶二は、「いまではアメリカに輸出された煙草呑みのアニメの登場人物の煙草が無害な歯ブラシかなんかに描き換えられるっていうじゃないか」と苦笑いした。昭は珍しい伯父のトリビアを聞き流すと慶二に尋ねた。
「でもそう言うからには、Yさんとの思い出にも煙草が関係するんですね」
それに答えて慶二が言った。
「まあ、大したことじゃないけどな」と記憶を確かめるように目を瞑ると暫くしてから昭に言った。「シガリロなんて何処でも扱っているってわけじゃないから、家や銀行の近くに行き付けの店を幾つか開拓してあったんだよ。その中のひとつでネオスを買って外に出るとYがいたんだ。Yの方もすぐに気づいて、尋ねると、大学の帰りだと言う。その日は平日でおれは出先から帰るところだったんで、ただそれだけで別れたが、次の休日に同じ店で別の銘柄を買い、そういえば、この前ここでYに会ったなと考えているとYがいたんだ。Yの顔色を見てすぐに彼女の気持ちは見当が付いたよ。こちらから尋ねては可哀想だから、何故ここにいるのかとは訊かずに喫茶店に誘ったんだ。午後の三時くらいで、少し寒い日だったな」