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矢島昭からの連絡は喫茶店で出会った翌々日の昼過ぎにあった。
当日の夜では早過ぎるし、三日を過ぎてしまえば分別も働く。
狙ったのかどうか不明だったが、その意味で、昭からの電話は最適時に掛かってきたのであった。
さらにその時間帯も康代にとってちょうど良かった。
修三と結婚して二年目に生まれた娘の修子は現在小学校五年生になっていたの。なので、当然平日の昼過ぎに家にはいない。もちろん修三は会社である。修三はこれまで康代の過去を詮索したことは一遍もなく、また若かった頃の康代の悪い噂を殊更広める人間もいなかったので、康代の行動に疑念を抱いたりすることはないはずだが、それでも家族が同じ家の中に居るのと居ないのとではやはり大違いであった。だから康代はほっとした気持ちで昭からの連絡を受けた。
「矢島昭です。先日はありがとうございました」と昭は言った。「今、お時間いただけますでしょうか」
丁重だが他人行儀な口調は近くに知り合いがいるためか、それとも二人の間柄がまだ遠い他人であったからだろうか。
「構いませんわ。お電話をありがとう。でも本当にお掛けになっていらっしゃるとは思いませんでしたわ」と康代は思ったままを口にした。
すると――
「わたしの方も、この電話があなたに繋がるかどうか疑問でしたよ。嘘の番号を教えられ、それで偶然まったく知らない他人に繋がったらどうしようかと冷や汗ものでした」
昭に言われて、なるほど、そういう展開もあったのか、と康代は想像を巡らせた。
「それで蓉子さん、わたしの側の最短の空き日は来週の土曜日になります。その日は一日中空いています。ついでに言えば、翌日の日曜日も空いています」
昭から蓉子と呼ばれて康代は一瞬戸惑った。自分で名付けた仮りの名前に怪しい響きを感じたからだ。蓉子の名は近頃読んだ小説の主人公から借り受けた。羽村は慶二があのとき選んだ女の姓である。昭に仮名を名乗ろうと思い立ったとき、咄嗟に羽村の姓が頭に浮かんだ理由はわからない。そう名乗れば、今度こそ慶二と結ばれるかもしれぬ、と仮初めの夢を追ったとでもいうのだろうか。
羽村の名を口にしてすぐ、康代は「しまった。昭は慶二の甥だった」と気づいたが、慌てて見つめた昭の表情に変化は見られない。それで、あのとき自分から幸せを奪った羽村美知に、少なくとも慶二とともに歩む幸せが訪れなかったのだ、と知ったのであった。
携帯電話の中から昭が蓉子に呼びかけている。
「蓉子さん、これはゲームみたいなものですから詮索はしませんが、あなたが一人身だとも思えませんし、そうであれば、たとえ疾しいことは起こらないにしても、夜間の外出は難しいと思えるのですが、いかがでしょうか」
それに答えて康代は言った。
「お気遣いくださって、ありがとうございます。確かに曜日を問わずに自由に自分の時間を持てる身ではありませんが、その日ならば出かけられると思います。街も見てまわりたいですし、ショットバーJのことも気になります。午後四時くらいにお会いしたいですわ」
昭が指定したその日は偶然大学時代の友人が上京してくる予定日だった。友人自ら、あまり時間は取れないが当時の仲間数人と昼食することは可能だろう、と言っていた。それで仲間で計画を立て、日付を決めていたのだった。だから、その会食が長引いて夜にずれ込むことになっても修三に疑われることはないだろう、と康代はすぐに算段した。夫と娘の昼食は早めに用意して冷蔵庫に入れておけば何とかなるし、夕食は店屋物を取るか、外食を勧めれば良いだろう。娘の生誕後にわかったことだが、修三はとても子煩悩だったし、また修子も父親を嫌う年齢にまだ達していないのか、それとも元々そういう性格なのか、父と二人で過ごすのを厭わなかった。
「あなたが良ければ、わたしの方は何の障害もありません」と昭は言った。「待ち合わせ場所はR駅近くのHという喫茶店を考えていましたが、判り難いなら改札近くに変えても構いませんよ」
康代はどちらかというと方向音痴で、高校の受験のときなど場所を間違えるのが怖くて試験数日前の休日に現場を下見に行ったくらいだ。
なので――
「改札近くにしてくださった方が、わたしとしては助かります」と答えた。「R町は土地堪もありませんし、それに道にも迷い易い方ですので……」と付け加えた。
それに喫茶店で昭が先に見つけてくれれば問題はないが、そうでない場合は若い男の姿を求めて店内を探しまわらなければならないのが億劫だった。
「わかりました。では当日、午後四時に地下鉄R駅の改札近くで……と言っても、そうですね、路線は何本もあるし、ちょっと待ってくださいね」
昭はパソコンを立ち上げたのか、あるいはスマートフォンを操っているのか、暫く言葉を発しなかった。漸く発した言葉の内容が康代が利用する予定の地下鉄路線名の問いかけだった。そこまで詳しく考えていなかった康代はターミナル駅のSに出るから、そこから利用し易いのはどの地下鉄かと逆に昭に尋ねた。昭は最初ウェブサイトにある路線ガイドを参考にしていたようだが、やがて自分の経験の方が確実だと思い直したようで、それでやっと目指す改札の場所が特定された。
「出会いや曜日には偶然があっても良く知らぬ同士の逢引に偶然はないのねぇ」
昭との些細な電話の遣り取りが思ったよりも楽しくて康代がそう口にすると、「偶然じゃない恋なんてありえませんよ」と昭が康代の耳許で囁くように呟いた。
昭に言われて、康代は、なるほど自分は修三に恋をしたことはないと思った。
結婚生活はそれなりに幸せであり、康代は修三の浮気や娘の反抗期に煩わされることがまったくなかった。胸焦がすような想いはなかったが、代わりに穏やかな日常があった。体力に自身のある修三が、多少疲れていても夜の務めを怠ることはなく、それが康代の四十一歳の肌に瑞々しい潤いを与えていたが、康代はそれには気づかなかった。夫は優しく、自分が大切にされていることはわかっていたが、修三の愛撫は型を食み出すことはなく、毎回というわけではなかったが、康代は自分が夫から取り残されたような感覚を抱くことがあった。
女はいつまで経っても女だが、美しく咲く期間は限られている。自分はまだ辛うじてその期間の中にいるが、時間は情け容赦なく過ぎ去っていく。水洗いが続いた後、うっかりして補修を怠ると手の甲に皹が走り、やがてそれが深い皺に変化する。目じりの皺も気にかかる。化粧で幾らでも誤魔化せるとはいえ、厚塗りをするのは厭であった。修子を産んだ後、かなり気を遣って管理したので体型にまだ大きな崩れはないが、皮下脂肪は年々着実に増え続けている。見かけに関しては娘の学年の母親の中でも上位に属するだろうことは、まだ若いあるいは壮年の男親や教師たちからあからさまに自分に向けられる目つきから気付いていた。が、それもいつまで続くかわからない。
康代は何不自由のない生活の中で底の見えない獏とした不安を感じていた。例えばそれは昔の友達と連れ添ってカラオケ店に出かけて大声を張り上げればそのときは霧散してしまうような小さなものだったかもしれないが、澱のように康代の身体の中に溜まっていった。康代には激しい恋の経験は慶二とのことしかない。その切なさを思い出して涙を流すことはもうなかったが、甘美な思い出に胸を焼かれて身体が疼くことは幾度もあった。
康代の中の冷静な部分は偶然の出会いが生んだ昭との逢引で何かが起こるとはまったく期待していなかった。が、冷静ではない康代の原始的な野生の部分は、そこに何かを期待していた。けれども康代自身、自分のそんな揺れる感情をまったく理解してはいなかった。