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熾火  作者: り(PN)
3/11

 これも時間経過の賜物なのだろうか、と康代は思った。

 最初にドキリと心臓を動かされたのは康代の方だ。が、真偽のほどは定かでないが昭と名乗った青年は、康代が最初に感じたほどには慶二に似てはいないことがわかった。それは会話が進むほど露になった。

 それでも康代は昭に心を動かされなかったわけではない。

 昭の視線が心地良かったし、ゆったりと進む会話につれて、明らかに昭が自分に興味を抱いてくるのが感じられて楽しかった。

 取り立てて不自由があるわけではないが、平坦で変化の少ない日常からの小さな逸脱が康代の心を弾ませていた。さらに自分よりも十歳以上も若い男と次にも会えるのだと思うと康代は身体が熱を持つのを感じた。

 もちろん康代にも人並みの分別はある。何といっても人妻である。身体の関係は持たないにしても夫や自分の知り合い以外の男と秘密で会うのは躊躇われた。

 康代は二十二歳の大学卒業間近に知り合った矢島慶二と約一年ほど付き合って別れた後、すべてが信じられないような気持ちになって、荒れた生活を数年間続けた。その間も親戚や実家の近所に住む世話好きの知り合いが幾つも見合い話を持ってきたが、康代は気が進まないことを理由に毎回それを断っていた。姉の雪代は、「あんただって、いつまでも若くて綺麗っていうわけにはいかないのよ。男はどんなに歳を取ったって若い女が好きなのだから、気が付いたら行かず後家になってしまうわよ」と結構真剣に意見をしてきたが、当の康代の気が動かないではどうにもならない。

 そのうち姉が指摘した通りに自分でも気づかぬうちに三十歳目前になってしまい、康代は急に焦り始めた。

 慶二との関係で負った心の傷は、さすがにその頃までには癒えていた。少なくとも康代自身はそう思っていた。結論からいえば、康代と付き合っていた同時期に慶二が他の女とも付き合い始め、最終的に慶二が康代を選ばなかったというだけのことだった。世間に有り触れた恋愛沙汰の結末だろう。康代は生まれて初めての身も心も蕩けるような恋に己を失い、冷静ならば気づいたはずの慶二の態度や持ち物の変化に気づかなかった。康代を抱くときの慶二の前戯やその先の指遣いが僅かにいつもと違っていてもわからなかったし、康代がプレゼントしたものでも、また慶二の趣味とも思われないネクタイを慶二が締めていたときも、「無理やり親から貰ったんだよ」という慶二の説明を疑うことはなかったのだ。

 康代がはたとその事実に気づかされたのは、慶二に別の恋人がいると知れた後のことであった。

 慶二と別れてから康代は会社の同僚や上司あるいは街を歩いていて声をかけてくるような男たちと乞われるままに付き合った。その中の何人かとは身体の関係にまで及んだが、慶二とのときのような、自分の存在が無に消えてしまうような快感を与えてくれる男は唯一人もいなかった。もちろん恋愛は身体の繋がりばかりで成立するものではないと康代は頭ではわかっていた。が、当時まだ若くて無垢だった康代にとって、自身の身体の疼きを満足させてくれる行為が恋愛だった。

 叔母の文枝が持ってきた縁談相手が現在の夫の西堀修三だ。

 当時康代には自分に入れ込んでいる相手がいて、しきりと結婚を迫られていた。が、遊ぶには良いが自分と同じ歳のその男に康代は残りの人生を預ける気がしなかった。生きるための真摯な仕事や、あるいは現在稼ぎに繋がっていなくても何れは身を立てる目標でもあれば別だったが、技術を持たない康代が将来を安泰に暮らすには結婚相手の収入や財産を当てにするしかないのである。それに康代は来年は三十の大代に乗ってしまう。高校のときに親しかったバレー部の未婚の先輩も、「そうなのよ。この歳になると持ってこられる見合い相手は×一だったり、子持ちだったり、初婚でも何処か問題があったからこれまで結婚できなかったと思えるような四十過ぎの男だったりって散々よ」と笑いながら電話口で愚痴を漏らした。

 見合い写真の修三は小島慶二とはまた違った豪胆な感じの二枚目だった。今年で三十四歳になるという。もちろん本人にも家族にも特殊な病気を持つものはいない。家族書きにも文句の付けようがなかった。

 今に限らず写真に修正は付きものなので直接本人に会えば失望するかもしれないと思いつつ、執く結婚を迫る現在交際中の男と別れる口実にもなるだろうと康代はその見合いを受けることにした。叔母の文枝も姉の雪代も珍しく見合いを断らなかった康代の気持ちが変わらないうちにと早速席が設けられ、康代が返事をして僅か一週間後には修三とその両親に自分の両親及び叔母夫婦ともども引き合わされた。

 実物の西堀修三は写真の人物と大差ない、学生の頃はさぞや好青年だっただろうと思わせる落ち着いた雰囲気の好男子だった。写真だけからではわからなかったが性格は気さくで、学歴や勤め先の有名企業を自慢することもない自信に満ちた溢れた態度に康代は好感を抱いた。

 ネームバリュー欲しさに必死に勉強して有名大学または有名企業に入った者は、その時点で人生の目的を終了しており、その先他の生き甲斐でも見つければ別だったが、凋落すれば他に自慢するものを失ってしまう。康代の人生経験は到底深いものだとはいえなかったが、知り合ったり、あるいは付き合ったりした男たちの中にはそんなタイプの人間もいたので、事実に裏打ちされた修三の自信ある態度が康代には心地よく感じられたのかもしれない。

「では、あなたたちもそんなに若いわけではないから、後は勝手に何処へでも出かけて楽しんできて頂戴な」と昼食を済ませた後、直ちに叔母の文枝が言って、「修三さんも心試積りはあるのでしょう」と修三に康代のエスコートを促した。修三はそれに首肯くと、ゆったりした物腰で康代を都内の美術館に誘った。

「映画でも良かったのですがね、さすがにあなたの好みがわからないし、それに暗いから顔だって良く見えませんから……」

 一九五〇年代のアメリカの写真作家を期間限定で特別展示していた皇居前の美術館を巡りながら、照れたように修三は康代に打ち明けた。誠実そうな修三の言葉を聞いて康代は、ときめきはないかもしれないが、代わりに波乱もないだろうと、修三との結婚生活を想い描いた。小さいが首都近郊に一軒家を持ち、幼い娘とブランコを楽しんでいる修三とそれを見守る自分の光景が瞼の裏に浮かんできて、それもまた人生の選択なのかもしれないと康代はつくづくと思うのであった。

 康代の結婚をほとんど諦めきっていた両親とは違い、叔母と姉は内心ハラハラしていたのだろうが、そのことを表に見せず、また口を出すでもなく、康代と修三との静かな関係を見守った。修三の方はすぐに気持ちを決めていたので、康代がその申し出を飲むかどうかが、この見合いが纏まるかどうかの鍵になった。康代は結婚するのなら、この先修三以上の相手は到底見つかるまいとは思っていた。が、親しくなっても康代の身体を求めてこない修三の女に対する控えめな態度が気になっていた。

 大学では弱小だがラグビー部に在籍していたと話す修三が、まさかこれまで一度も女を知らないことはないだろうと康代は考えていたが、それを本人に尋ねるのも憚られ、康代は「さてどうしたものか」と考え込んでしまった。派手な浮気は困るが、若い頃に遊んでいない男ほど歳を取ってから女に狂うと人の噂に聞いている。実際大学の友人にも、ある日突然若い女と蒸発してしまった、それまで真面目一方だった夫を持つ者がいた。その後、夫と女の居場所は特定されたが、友人の夫婦関係は修復せず、現在離婚に向けて争議中だということだった。修三が将来女狂いになるとは康代にはとても思えなかったが、何処までも真面目一辺倒な修三の自分に向ける対応に康代は一抹の不安を拭い去ることが出来ないのであった。

 手に職のない康代にとって結婚に失敗することは人生そのものの失敗と同じだった。また結婚自体は成功でも、子供が出来た後、浮気ではなく本気をされたら、その先どう生きていけば良いのか見当もつかない。

 世間に幾らでもある不幸な恋愛と比べれば、それは贅沢な悩みだったが、康代はその一点だけがどうしても気にかかるのであった。しかし叔母と姉の、それに両親からの無言の圧力にも圧され、康代は半ば諦めるようにして修三からのプロポーズを受け入れた。そのとき修三が康代に見せた笑顔はとても眩しく、弾けるような喜びがあった。そんな修三の笑顔に康代は新たに始まる自分の幸せを感じたのであった。

 結婚が決まると、今度は両親、特に父親の方が、康代の門出を逆に遅らせようとした。康代が家を出れば他に同居者のいない康代の家は両親二人だけになってしまう。父と母の夫婦仲は特に悪いとは思えなかったが、知らぬ間に康代が緩衝材になっていたこともあるのだろう。康代は遅い子供だったので、まるで早い孫のように両親に可愛がられて育った。父親は、娘を手放すことはもちろんだが、自分たち夫婦二人だけが過ごすには広過ぎる家で妻と毎日面と向かわねばならないことに戸惑いを憶えていたのかもしれなかった。

 けれどもそうはいっても康代が三十歳前には式を挙げたいと主張すると、それを退けてまで反対意見を言う父親ではなかった。

 支倉康代は生まれて二十九歳十一ヶ月で西堀康代に名前を変えた。


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