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実家での小用を済まし、残暑に火照る身体を休めようと地階の喫茶店に入った西堀康代は、ふと数テーブル先に一人で陣取るその男の後姿を垣間見て、近年感じたことのなかったような戸惑いを覚えた。
単に雰囲気が似ていると言うのではない。男までの距離は十分離れていたというのに、まるで過去の一日が不意に蘇って来たかのように、男は矢島慶二の人となりを康代に向けて発散していたのだった。
男は康代から見て背中を向ける位置に座り、また康代の気配を感じたようにも思えなかったが、不意に男が振り返り、その鋭い視線に射竦められたら、康代は眩暈を起こしてその場に倒れてしまうのではないかと鼓動を速くした。それほど男は過去の矢島慶二にそっくりだったのである。
が、何を馬鹿なことを、と康代はすぐに思い返した。あれからもう二十年近い歳月が過ぎ去っている。自分も老けたが、同じ時間を過ごしたはずの慶二だって歳相応に加齢しているはずだ。
康代は当時と変わらず今でも四、五歳は若く見られるから娘の授業参観などでクラスの親たちに四十歳を越えていると打ち明けると吃驚される。慶二は康代より八歳年上だったが、銀行員という硬い職業のためか、実年齢より数歳年上に見られることが多いと当時冗談交じりに聞かされたことがあった。康代がはじめて慶二と出会ったときの印象もまた彼のその言葉を裏付けるものであった。
康代と慶二が付き合いはじめたのは互いが実年齢で二十二歳と二十八歳のときだったが、彼や彼女を知らないホテルやショットバーの従業員たちには、見掛けで二十歳そこそこの未熟な女と三十台前半の妻子ある男との不倫カップルと勘違いされて映っていたかもしれなかった。
康代は目の裡に当事の光景を思い浮かべて軽い溜息を吐いた。
矢島慶二に出会う前、康代は特に目的もなく二流と三流の中間くらいの大学の文学部に籍を置き、そこで適当に勉強をし、また適当に男選びを繰り返しながら安穏に三年半を消費した。友達以上、恋人未満の男友達は数人作り得たが、それ以上に踏み込んで付き合いたいと思う相手には在学中遂に出会えず仕舞いだった。
時代的には就職難だったにも関わらず、何処を気に入られたのか二部上場の医療機器製造販売会社に、康代はすんなりと就職が決まってしまった。深い考えもなしに大学の指定掲示板に張られた数少ない求人表の最初に目に付いた数社に出向き、面接わずか三社目にして内定が貰えたのである。テレビやラジオのニュースではバブル崩壊による景気後退の影響で企業が軒並み人件費抑制のために新卒採用枠を縮小したと報じており、また実際に一九九二年から二〇〇四年にかけて新卒者に対する雇用環境が著しく悪化して就職の機会に恵まれずにニートやフリーターになることを余儀なくされた者が急増していた。さらに『女子学生は採用しない』という女性に対する就職差別さえあったのだが、康代にとって、それはまるで違う世界の出来事のように感じられた。
康代の就職が内定すると、大学で親しかった同じクラスの琴美や沙耶香、それに良く合コンで一緒になった遊び仲間の麻里絵や由香たちは素直におめでとうと祝ってくれた。が、それからかなりの日々が過ぎ去り、数十件の求人面接をこなしてさえ働き口が決まらない同じクラスの他の女学生たちは悔し紛れに康代が会社面接の折、中年あるいは壮年の面接官たちに媚を振りまいたのだと触れまわった。
大学に入った頃には自覚しなかったが、康代は自分のまだあどけなさの残る幼い顔立ちや括れた腰、着痩せして細っそりと見える割には出るところが出ている体型を老若問わず多くの男たちが好むのを次学年に進む前には肌で感じていた。が、いくら何でもただそれだけで就職が決まろうとは思っていない。なので自分を揶揄する同性たちの遠吠えに苛つきを覚えはしたものの、あえて声に出して反論しようとは思わなかった。就職に関して自分は高望みせず、また選り好みもしなかったから偶々上手く行ったのだろうと康代は考えていたが、事実上勝ち組の彼女に面と向かって苦情を言われては揶揄した者たちも退くに退けなくなるだろうという心積りもあった
十一月前に就職先が決まってしまったので、康代にはそれから大学ですることがほとんどなくなってしまった。卒業論文の作成はまだ手をつけたばかりだが、明治時代の高名な作家の作品論を既に書きはじめていたし、さすがに未完では許されないようだが、論文の出来不出来に関わらず単位が貰えることは最初からわかっていた。が、そうなると元々勉強のためというより大学の置かれた街の利便性や辺りに集う人々の雰囲気が好きでG学院を選んだだけに、せっかく手に入れた貴重な青春の時間を論文の洗練や推敲に当てる気にもなれなかった。
もっとも康代は当事本当に若かったので、その時期が自分にとってとりわけ貴重なものであるという意識は薄かったかもしれない。
が、手に技があるわけでもなく、自慢できる取り得も持たない自分のような人間が十分に自己アピールできる唯一の時期なのであろうという薄ぼんやりとした自覚はあった。この時期、例えば異性に対する自己アピールを失敗すれば、その先手に入れられる結婚相手の質がどんどん劣化していくだろうという漠然とした不安もあったのである。
矢島慶二と初めて出会ったのは、だが康代の気に入る大学のある街でではなかった。
その日曜日、康代は十歳以上歳の離れた姉に頼まれ、姉や他の素人作品が展示された人形展の受付を手伝うために渋谷区O町にある展示会場にいた。会場に当てられたK画廊はJR線からの連絡も良く、多少方向音痴の気がある康代でもまったく迷わずに辿り着くことができた。名称は画廊だったが、実際には人形や写真をはじめ種々の展示物がほぼ週単位で入れ代わって展示される。坪数は八坪ほどで広いとは言えないが、場所柄もあって途切れることなく繁盛していると康代は姉から聞かされていた。
康代がK画廊の前まで来るとガラスを透かして姉の雪代ともう一人年配の婦人がテーブル越しに向かい合って座っている姿が見て取れた。ガラス張りの扉を開けて三段の低い階段を降りると、康代は「おはようございます」と挨拶した。時刻は朝の九時前だった。話を聞くうち、年配の婦人は人形教室の生徒ではなく先生であることがわかった。本人は痩せて細っそりした身体つきだが、その手になる人形はふっくら丸々としており、素敵な存在感と愛嬌があった。康代は一目見てさすがにプロの作品は違うと、K画廊に展示された下手ではないが何処か一点欠けたような素人作品群と見比べた。
「では、わたしはこれで……」
康代が来て五分くらい経ってから、丁寧に頭を下げてU先生がK画廊を去った。その日は展示会場に来る予定ではなかったのだが、他の用事が出来たついでに立ち寄ったということだった。
「ふうん。でも場所が良くてもお客さんが来るとは限らないのね」
姉たちの人形展は九時半始まりだったが、その時間を過ぎても一向に客が集まる気配がないので、展示された二十体ほどの色も形も大きさもさらには形式も違う人形たちを既に数回見終わっていた康代は姉に問いかけた。
すると――
「そりゃあ、仕方がないわよ。素人の集まりなんですもの」と事も無げに姉の雪代が答えた。「来るのは作者かその家族、あるいは友だちがほとんどよ。でも、ときには振りのお客さまが訪れることもあるけどね。……あら、いらっしゃい」
いつもとは違う姉の華やいだ声に釣られて入り口の方に目をやると、そこには男女の二人連れがいて、姉の顔を確認すると躊躇うことなく画廊の中に入ってきた。
「おはうございます、支倉さん」と康代の姉と同年輩と思える三十代前半の婦人が康代たちに声をかけた。姉と婦人の顔に自然と浮かんだ笑みから、康代はこの人は雪代の知り合いだろうと見当をつけた。
「いらっしゃいな。矢島さんたちが最初のお客さんだわ」と雪代が答え、ついで「これは妹の康代です。よろしくね」と康代を二人連れに紹介した。それから「こちらは矢島章子さん。人形教室の先輩よ」と二人連れの婦人の方を先に康代に紹介し、「こちらのお連れの方は弟さん。お名前は、ええと何て仰ったかしら」と言って僅かに首を傾げた。
すると――
「矢島慶二です」と連れの男が高くも低くもない声で答えた。まわりが女ばかりの雰囲気に戸惑いがあるのか声に緊張が覗えた。が、「無理やり姉に連れて来られました」と、すぐに紡いだ言葉には既に緊張の色はなく、顔にも笑みが浮かんでいた。
「慶二は趣味がないからね。強引にでも引っ張って来なくちゃ、何処へも行こうとはしないのよ」
姉の章子がそう言うと、「いいんですの。日曜なのにデートの約束とかあったんじゃありませんか」と雪代が慶二に水を向けた。「背も高くて、すっきりしたハンサムだし、若い女性に引っ張りだこなんじゃありませんか」
慶二が雪代の質問に答える前に姉の章子が素早く言った。
「あら、そうでもないのよ。こないだわたしの娘とC市にある慶二のアパートに遊びに行ったんだけど、女っ気なんか何処にもないんだから。お揃いのカップや歯ブラシがあるわけでなし、長い髪の毛が落ちているわけでもなし……」
慶二は姉に言われるままに微笑んでいる。康代はそんな慶二の態度に好印象を抱いた。
「とにかく、まずお名前を書いて頂戴な」
人形展の訪問者が名前と住所を記帳することになっているノートを指差しながら雪代が矢島姉弟に言い、二人は大人しくその申し出に従った。康代が遠目にノートを覗くと、矢島慶二はその性格を表すような几帳面な文字を綴っていた。
姉弟は雪代に案内されるように狭い画廊内に展示された人形を次々と見てまわった。雪代と章子は一々人形の前に立ち止まっては、慶二に、「この人はネコ専門の人なのよ」とか、「この人はプロの人形作家で、インカの画に惚れて昨年現地まで出かけて行って怖い思いをしてきたのよ」とかいった作者情報を交えて人形の形態などの解説をした。康代は奥に給湯室のある入口近くに一卓だけ設えられたテーブルに座りながら、眠いわけでもないのに、ただぼんやりとその声を聞いていた。他に客が来そうな様子はない。
「では、本日はこれで……」と矢島章子が暇を告げたのは来展から四十分ほど経ってからのことだろうか。
ただ見るだけなら人形を見てまわるのに三分間もかからない。細かな解説を加えたところで、せいぜい十数分といったところだ。なので残りの時間はお茶を飲みながら四人で四方山話をして過ごした。話題は自然と人形教室に関することが多かったが、慶二の勤め先に話が及ぶこともあり、それで康代は彼の勤め先が日本でも著名な銀行であることを知った。
「お堅いお勤めなんですね」と慶二の勤め先の話題を受けて康代が話を振ると、「勤めに合わせて人間まで固くなることはないのにね」と章子が笑い、雪代が「良いんじゃないの。女で放蕩されるよりは……」といくらか固い口調で付け加えた。
矢島章子はこれから慶二を荷物持ちにデパートに向う予定だと口にした。
姉弟が去ってしまうと人形展示会場はすぐに森閑としてしまった。姉弟と入れ代わりに次の客が来るでもない。
なので――
「ねえ、雪ちゃん。わたしが手伝いに来るまでもなかったんじゃない」と手持ち無沙汰に康代は言った。
すると――
「いいのよ。あんたはわたしの話し相手なんだから……」と姉の雪代が事も無げに言った。
「それなら娘の眞子ちゃんでも連れてくれば良いのに……」
「子供はね、一日中部屋の中にいたら飽きちゃうわよ。それに飽きたところで一人で帰すのは心配だし……」
「だったら春彦さんに連れてきて貰えば良かったじゃないの。それなら飽きた時点で一緒に帰せばいいんだし……」
「康代、今日、予定でもあったの。言ってくれれば呼ばなかったわよ」
「ううん、予定なんかないわよ。予定があったら来るもんですか。わたしは雪ちゃんの人形の実物を見てみたかったのよ。だから来たんだわ。前から話は聞いていたし、案内状の写真も見ていたけど、実際にはどんな感じなのだろうって想像を膨らませてね。でも……」と言って不意に言葉を失うと康代は暫く考え込んだ。ついで溜息を吐くように、「考えてみれば、わたしも趣味がないのよね。テニスや水泳だって誘われなければ行かないし、自主的にするのは、せいぜい本を読むくらいだし……」と言葉を紡いだ。
「文学部に進むくらいだから本を読むのは当たり前でしょう」
「それがね、結構そうでもないのよ。もちろん好きな本や課題の本は読むでしょうけど、料理や裁縫を習うのが厭で、あるいは簿記だとかパソコンソフトだとかで手に職を持つ気もなくて、家政科や専門の学校じゃなくて大学の文学部に入ってきた人たちが結構大勢いるのよ。そういう意味では、わたしなんかまともな方だわ」
「ふうん。わたしは商学部だったけど、結婚して今に役立ってるとは確かに思えないわね。それだったらあのとき、お料理教室にでも通っていた方が良かったなって」
「でもいまは人形教室なのね」
「だって、慣れたら手間をかけてお料理をする気はなくなるもの。そりゃあ、お料理を作るのが好きな人はそれが楽しいから良いでしょうけど、わたしは今以上に時間をかけて作る気はしないわね。それにレシピ本やスーパーで配っているレシピカードを見れば、ある程度の種類はすぐにこなせるようになるものよ。だから得意料理といえるものもないわね」
「ふうん。じゃあ逆に訊くけど春彦さんや眞子ちゃんは、雪ちゃんのどんなお料理が好きなの」
「夫は最近はあっさり系が好きみたいね。和風の和え物とか白身の魚とか……。眞子は普通にハンバーグとカレー。どうして子供ってみんなそうなのかしら。康代のときもそうだったし……」
「雪ちゃんだって、子供の頃はそうだったんじゃないの」
「わたしは子供の頃、本当は田舎のおばあさんみたいものが好きだったのよ。お味噌で漬け込んだ鰯とか粕漬けとか蕪の煮つけとかみたいなのがね。でもあんたが子供っぽいもんを好むから、お母さんにそっちに合わせさせられたのよ」
「新潟のおばあちゃんの味ね。そういえば、おばあちゃんが亡くなってからもう十年以上経つわね。雪ちゃん、フミおばあちゃんが大好きだったものね」
「そうね。でも、あんたはあんまり懐かなかったわよね」
「だって、家自体が田舎臭くて馴染めなかったんですもの。最初に行った頃は御不浄も水洗じゃなかったし……」
「ああ、あれはわたしも怖かったわ。だから子供心に夜おしっこに行くのが厭で飲みものを控えようと思ったんだけど、結局暑かったりして出来なかったわね」
「そうね。それにいまにもずるって落っこちそうな深さも怖かったけど、おつりが来るのが厭だったわ」
「ああ、確かに……」
午前十一時過ぎに次の訪問客が夫婦連れでK画廊を訪れた。彼らも人形教室関係者であった。康代は以後疎らに時間を置きながら展示場を訪れる人形教室関係者たちを姉から紹介されて、するとはなしに世間話をしながら、いつの間にか心の中で慶二のことを追っている、そんな自分に気がついた。
喫茶店の男が不意に振り返り、康代と目を合わせた。男の目の中には康代に対する不審の念が浮かんだようにも思えたが、それは仕方がないことであったろう。それくらい強く康代は男の後姿を見つめていたのであった。男の目の色の変化に、始めて康代は男を見つめる自分の視線の熱さを知った。と同時に康代はある種の身体の疼きを感じた。それは久しく感じたことのなかった女の身体の感覚であった。
康代が見ず知らずの男と目を合わせていた時間はごく短かかったはずだ。が、とにかくばつが悪いことこの上ない。居場所がない、あるいは穴があったら入りたいとは、こんな心情を言うのかと康代は我に返って咄嗟に男に目礼して視線を外し、痺れた頭の片隅で考える。じわりと身体中の毛穴から汗が噴き出してきて一気に全身が暑くなり、同時に羞恥の感情が頂点に達した。
すっかり忘れたはずと思っていたのに、佇まいが似ている男の姿を見ただけで、二昔も前の過去が鮮やかに脳裡に甦ることに康代自身が驚いていた。
目が合って偶然確認した男の顔は当然のように矢島慶二と同じではない。が、まるで似ていないというわけでもなかった。パーツの組み合わせ方は異なるが良く似た素材から違う構築物を組み上げたような感じがした。それで康代は慶二から話に聞いた彼の甥のことを頭に思い浮かべた。
が、それは康代に見られた男の方でも同じだったのである。