『聖なる藤の花と青空』②
「ねぇ、アーリャ」
「何……」
こちらを向いていないアレクセイの手をそっと取りながら、タチアナは柔らかく微笑みかける。
あの夜の出来事は夢だったのかもしれない……けれど。
「私ね、アーリャが傍にいてくれて嬉しいの」
「……」
「アーリャがいてくれたから、私はエメーリャさんにも自分の気持ちを伝えることができた。そのおかげで、何だか"お母さん"にも会えたような気がしたの」
アレクセイは何だかんだ言いながらも、事件調査に臨むタチアナに付き合ってくれた。
エメーリャを推理で追い込んだアレクセイのおかげで、タチアナは事件の全容を理解できた。
そのうえで、エメーリャの心の闇を言葉で祓うことができた。
もしも、目の前の罪人に対して、自分の母であればどんな言葉をかけるのかを想像しながら。
またタチアナ自身も、エメーリャと同じく愛する家族を喪った悲しみを抱え引きずっていた"同志"として。
まあ、タチアナを密かに"舞台裏"へ連れ出してくれたイヴァンにも感謝している……とは、アレクセイの前では口に出せないが。
「それに、これからもずっと一緒にいてくれるのよね?」
苦しみも止める時も――。
これからは、きっと幸せと喜びも――ずっと一緒だと。
互いに出逢えて幸せな人生だったと――。
あれは夢の中のアレクセイが囁いた幻だったのかもしれない。
それでも不思議と懐かしくて、切なくて胸に深く刻まれていた。
天真爛漫に微笑んだタチアナに向かって、アレクセイは再び溜息を吐く。
「痛っ」
「何、今更変なことを言ってるの」
「何するのっ。痛たたっ」
アレクセイは眉を顰めながら、タチアナの両頬を両手で摘んだ。
しかも、タチアナが涙目で訴えても引っ張る力を緩めない。
アレクセイからすれば、自分とは違って、“肝心の過去”を未だ思い出せていないタチアナに対する、ささやかな報復でもあった。
「そう言うならさぁ――」
「痛いってば、アーリャ。いい加減離して――」
タチアナの頬を摘む力が緩み、両手が彼女の顔を包み込んだ瞬間。
大きく見開いたエメラルドの瞳に、淡い空色の瞳が間近で映り込む。
花びらが地面に落ちるように、ごく自然と二人の唇は重なった。
突然の状況にタチアナは内心動揺しているはずが、瞬きすら忘れて動けずにいた。
それから、さりげなく唇を離したアレクセイは、タチアナを見下ろしながら口を開いた。
「僕が"タチアナのもの"であるように、君だって"僕のもの"だっていう自覚を、これからはちゃんと持ちなよ」
アレクセイの言動の真意が尚も理解できず、タチアナは呆然と立ち尽くすしかない。
仄かに頬を赤らめて固まったままのタチアナに、アレクセイはフッと呆れた様に笑ってみせる。
「分かった? 非行の聖女様――」
敬意も忠義も欠片すら感じられない眼差しと物言いに、タチアナは屈辱に拳を握りしめたくなる。
「ば、ばかっ」
けれど、タチアナの唇からようやく漏れたのは、小さな子どものような罵倒のみだった。
それは自分を小馬鹿に見下ろしている空色の瞳の奥が、不思議と優しい色に揺らめいていたからか。
しかも、唇に残る小さな余韻も、どこか懐かしくて切ない温もりがした――。
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