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『愛しさは薬か毒か』⑦


 「――!?」



 物が激しく倒れた衝撃の後、ガシャンッとけたましい音を鳴らしてガラス片が床に飛び散る。

 水晶の床を濡らしていくのは、澄んだ桜色が毒々しい赤紫に呑まれていく液体だった。

 アレクセイは床に倒れ伏せてしまい、中々直ぐに起き上がることは叶わない。

 何故なら――。





 「だめ……だよ……はぁ……っ……アーリャ……っ」


 「タチアナ……! どうして……っ」


 「ん……っ」



 寝台に伏せていたはずのタチアナがアレクセイを押し倒したのだ。

 その拍子にタチアナの両手が毒の薬瓶を振り払い、ガラステーブルを薙ぎ倒した。

 結局毒薬も媚薬もアレクセイの手から離れ、無惨に床に零れ落ちていく。

 予期せぬ結果に傍観しているイヴァンも、意外そうに双眼を見開いている。


 「アーリャ……私は……平気……だから……っ……」


 「でも、タチアナ……それじゃあ、君が……っ」


 「お願い……っ」


 意図した形ではないとはいえ、選択肢を奪われたアレクセイには、もうタチアナを救う手立てはなかった。

 イヴァンもアレクセイに解毒薬を渡すつもりはないだろう。

 先程と変わらず高熱に浮かされて息を吐くタチアナを、アレクセイは案じて呼びかける。

 すると、タチアナはこの上なく無邪気に笑ってみせながら……泣いていた。




 「もう……あなたにも……誰にも、死んでほしくない……っ……独りにしないで……っ!」




 アレクセイの胸に顔を埋めて、両手で背中へ強く縋り付くタチアナ。

 健気で切ない様子にアレクセイはイヴァンへの怒りが湧いてきたが、今この手を離すわけにはいかない気がした。



 「大丈夫だ……タチアナ……僕は決して君から離れないから……」



 アレクセイの中で唯一の選択肢は最初から定まっていた。


 タチアナを守るために己を失うのでもなく、ましてや死を選ぶのではなく――。



 「本当に……ずっと、よ……?」


 「ああ……もう独りぼっちにはしないから……っ……嬉しいのも、苦しいのも、これからはずっと僕が一緒にいるから……」



 タチアナの傍にいる――。


 ただ、それだけで、タチアナには十分すぎるほどの――。


 アレクセイとして生まれ変わった"エメーリャ"にとっても。



 「ありがとう……っ」



 今も煩悶とした熱に侵され、未知の感覚にもどかして苦しいはずのタチアナは、どこか満たされているようだった。

 静かに泣きながらも嬉しそうに微笑むタチアナを、アレクセイも同じ表情で愛おしく腕に包む。




 「――なるほど。またしても聖女であるあなたに、してやられたような気分ですね」




 一方、身を寄せ合う二人を見下ろしていたイヴァンは肩を竦めた。

 溜息と共に零れた笑みは、不思議とどこか清々しそうでもあった。



 「今回は"タチアナの選択"に免じて――ということにしてあげましょう」



 空中から地へゆっくり舞い降りたイヴァンは、アレクセイに向かって小さな小瓶を投げつけてきた。

 間一髪で片手に収めた小瓶は、まさに求めていた解毒薬だった。

 何故イヴァンがそのような行動に出たのか、アレクセイが瞠目している間に、イヴァンは既に遠ざかっていった。



 「これはあくまで、頑張ったタチアナへの褒美です。それを飲めば直ぐに楽になるでしょう」



 水晶壁に隔てられているはずの星空の闇へ融けていくイヴァンを、アレクセイは静かに見守った。

 タチアナも虚ろな眼差しでイヴァンのいる方向を見つめている。



 「それでは、また会いましょう――僕の愛しい"聖処女"」



 イヴァンの姿も声も完全に消えた後、急いで解毒薬を飲ませてもらったタチアナは安心したようにそのまま眠りへと落ちた。


 それでも、アレクセイにしがみつく両手は離れないままだった。


 今回はまたタチアナに助けられたということだな……。


 イヴァンの言葉にそのまま同意するのは少々癪だが。

 それでも精一杯の力を振り絞ってアレクセイから薬瓶を奪い、破壊したタチアナの勝利といえる。


 イヴァンという得体の知れない魔法を使い、薬に精通した謎の僧侶に心を開きながらも、彼の生む毒と 死の闇すら掻い潜るタチアナの不思議さに、アレクセイも頭が下がるしかなかった。




 「僕のために頑張ってくれて、ありがとう……おやすみ、タチアナ」




 解毒効果からかすっかり顔色のよくなったタチアナの穏やかな寝顔を、アレクセイも眠る最後の瞬間まで見つめた。




 仲睦まじく肩を寄せて眠る聖なる二人を、女神様が舞っているように煌めく星空は見守っていた。




 ***


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