『愛しさは薬か毒か』⑥
「あなたに選ばせてあげましょう」
しかし、イヴァンは質問には答えず、代わりに指を鳴らした。
途端、丸いガラステーブルの上に星屑の煌めきが舞い、そこから二つの物体が現れた。
一瞬警戒してテーブルを睨みつけたアレクセイの瞳に映り込んだのは、透明な薬瓶だった。
「こちらにある二つの薬瓶の内、こちらは男性用の"媚薬"、もう一つは強力な"毒薬"です」
イヴァンが順番に指差したのは、淡い桜色で妖艶に澄み輝く液体、と毒々しい紫沼色に蕩ける液体だ。
二つもの怪しい薬瓶を用意したイヴァンの真意は掴めないが、あまり良い予感はしなかった。
アレクセイの剣呑な雰囲気と警戒を察してか、イヴァンは愉しげに微笑んだまま答える。
「あなたがどちらかの薬を飲めば、今すぐタチアナを救ってさしあげましょう――」
イヴァンが自身の耳元で揺らめかせるのは、小さな小瓶に収められた半透明の液体――解毒薬だ。
イヴァンの申し出を直ぐに理解したアレクセイは、固唾を呑みながらも強気に口を開く。
「つまり僕がどちらかの薬を飲めば、タチアナを解放してくれるってことだね?」
「ええ。ただし、あなたが薬を煽ったら最後――穢れた欲獣と化してタチアナを壊すか――。
もしくは全身の細胞を内側から焼かれていくような苦悶の末に自ら死を望むか――。
どちらかになりますが、本当によろしいのですか?」
薬の効能と待ち受ける結果を耳にすると、想像するだけでおぞましい。
ましてや、自分がタチアナに欲情し、欲望のままに身体を暴くなんて。
最初から嫌な予感はしていたが、イヴァンはアレクセイを翻弄して追い詰めるために、この残酷な遊戯を用意したのだろう。
タチアナを邪な苦悶から救うためには、死と苦痛もしくは破綻の道しか残されていない。
しかも、今はタチアナを特別に想うアレクセイだからこそ、実質一つしかない選択肢を選ばせようとしているのだ。
「タチアナ――」
そっとタチアナの頬に触れてみると、太陽を帯びたようにじんわりと熱く汗ばんでいる。
淡い桜色の唇から漏れる荒い息は湿っぽく、声は甘い苦悶に満ちていた。
タチアナを静かに見下ろすアレクセイの様子に、イヴァンは穏やかに嘲笑うよう問いかける。
「どうかしましたか? やはり触れたくなりましたか。それとも――死を恐れているのでしょうか」
できることなら、今直ぐにでもタチアナを救ってやりたい。
決して死や苦しみを恐れているわけではない。
一度は死んだ身としては、タチアナを守るためならこの命を幾らでも捨てることに迷いはない。
ましてや、穢れた欲望を剥き出しに、純粋無垢なタチアナを壊すことは決してあってはならない。
ただ、また自分が死んだ後で独り遺されたタチアナがどうなるのかも、気がかりでたまらなかった。
「タチアナ――僕は――」
覚悟を決めたアレクセイはタチアナの耳元へ唇を寄せる。
熱に浮かされて意識が朦朧としているタチアナに、ちゃんと届くことを祈りながら。
「もう一度、君と逢えた――」
アレクセイの脳裏へ鮮やかに蘇るのは、タチアナとの初めての出逢いから最初の会話だった。
今振り返ると、前世を忘れていたとはいえ、最初から少しでもタチアナに優しくしてあげたかったなあ。
それから二人で街へ出かけたことや、一緒にお茶を飲んだこと、それに二人で冒した規則違反も、どこか懐かしくて。
そして、本当に生まれて初めてタチアナを抱きしめて"キス"を交わした瞬間の愛おしさ――それだけで。
「僕の人生は"幸せ"だったよ――タチアナ」
愛していた――声なき愛おしさを胸に沈めながら、僕はタチアナの熱い額にキスを落とした。
それから迷いのない動作で片方の薬瓶――赤紫色の液体が揺らめく容器を手に取った。
薬瓶の蓋を力込めて抜き、栓を失った容器を満たす毒々しい"死"そのものを煽ろうとする。
少年の究極の選択を見守るイヴァンの唇は愉快そうに弦を描く。
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