『愛しさは薬か毒か』②
一時間ほど前の事――。
「タチアナ……具合はいかがでしょうか」
今夜も聖域で療養するタチアナのもとへ、イヴァンは見舞っていた。
寝台の上で目覚めたタチアナはイヴァンの姿に安堵すると同時に、どこか落胆に近い色も浮かべていた。
その一瞬でタチアナの心中を過ぎった存在を察したが、イヴァンはあえて気付いていない振りをした。
「ありがとうございます……イヴァン様のお薬のおかげもあってか、今はすっかり痛みもありません」
「よかったです。ですが、傷口が完全に塞がるまでは決して無理をなさらぬように……」
「もちろん、承知しております……イヴァン様、あの時は申し訳ございませんでした」
「何のことでしょうか」
「あの時、イヴァン様の許可なくクローゼットから出てしまったことです」
「それは……けれど、あなたは後悔していませんよね?」
「う……それは……はい……」
タチアナの心中を見透かすイヴァンの言葉に、彼女は返答に詰まる。
爽やかな微笑みからは怒っているのかどうかも判別は付きそうにない。
「むしろ、あなたには怪我を負わせてしまった事は申し訳ないですが――私はあれで“よかった”と思っていますよ、タチアナ」
"あの事件"の後――連続殺事件の真犯人だったエメーリャ・オーキドは現行犯逮捕されたが、ほぼ自主の形で警察と共に去っていった。
本来であれば“不浄者”としての烙印を押され、国から追放の刑に処されてもおかしくはない。
けれど、タチアナとしては願わくば、エメーリャ自身が己の罪と向き合って回心していることが認めら れ、国内で罪を償う形を取られることだった。
一方ドロレスはタチアナを切り付けた罪によって一旦身柄を拘束されたが、精神的錯乱が認められたことによって心療内科院へと送られた。
タチアナ本人は右手首を切り付けられたが、幸い傷は浅く命にも別状はなかった。
とはいえ、タチアナは暫くの間は聖域内で念入りに療養することを王である父に命じられた。
そして、タチアナと共にいた――。
「あの……アーリャは、ここに訪ねてきませんでしたか」
「彼ですか……残念ですが、未だ目覚めていないようです」
「そうなのですか……大丈夫、なのでしょうか……」
タチアナが切り付けられた場面を目撃したアレクセイは、何かしらの強い衝撃を受けた様子で意識を手放した。
アレクセイも医務室へ搬送され、診断を受けた。
医師の見立てでは外傷も異常もないらしいが、今も眠り続けているらしい。
あの瞬間、アレクセイの身に何が起きたのか、目覚めない理由もまるで心当たりがないタチアナは心配で胸がいっぱいになる。
「大丈夫ですよ、タチアナ。彼は"必ず"目覚めますよ。それまで、タチアナも元気になってくださるほうが、きっと彼も喜びます」
「はい……いつもありがとうございます、イヴァン様」
「ところで、タチアナ。不謹慎かもしれませんが……あの時のあなたはご立派でしたよ」
「え?」
「エメーリャ・オーキドの心を動かしたのは、間違いなくあなたの想いでしたよ、タチアナ」
突如、タチアナを讃えたイヴァンの言葉の意味を理解したタチアナは、気恥ずかしいような誇らしいような複雑な笑みを浮かべた。
「そんな……あの時はただ無我夢中でしたので……それに、最終的に心を開いてくださったのはエメーリャさんでしたので……」
それにエメーリャ・オーキドに向かって叫んだ言葉は、結果的にはタチアナ自身の心も解かしたような気がした。
タチアナ自身も心の隅では、母の死と喪った悲しみと寂しさを引きずっていた。
けれど、タチアナ自身も叫んだ通り、辛いことを無理に忘れて乗り越えようとする必要はないし、そんな自分を責めなくても良いのだと。
それに、きっと、母の想いもタチアナの心で生き続け、これからも彼女を励まし続けてくれるのだろう。
「けれど、あなたの言葉がけさえなければ、きっとエメーリャ・オーキドの魂は囚われたままだったでしょう。
やはりタチアナ……あなたは私にとっても特別な"聖女様"なのですよ」
我が子を慈しむような微笑みと同時に、女神に向けるような崇敬を宿した眼差しに、タチアナの胸は甘く高鳴った。
まさか、こんなにも、嬉しいなんて、初めての感覚だ。
今までは聖女としての教養や勉学も期待も姉には至らない部分が多く、アレクセイにすら"聖女らしくない"と揶揄されていた自分が褒められるだなんて。
しかも、タチアナにとっては唯一初めて信頼と尊敬、思慕を集めた相手から贈られるなんて。
あまりの喜びに言葉すらタチアナに向かって、イヴァンは温かく微笑みながら懐に収めていたものを取り出した。
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