『救済の花は血に染まる』⑨
"聖なる女"――。
神と信仰にその身と生涯を捧げる、清純高潔な存在。
聖なる偉業や実績を成した者ともいう。
しかし、聖女でありながらも天真爛漫で、それらしからぬ言動を無邪気に繰り返す少女みたいな女性がいた。
まさしく目の前で罪人を抱き締め、彼のために涙して微笑む彼女がそうだ。
不思議なことに聖女らしくない彼女こそが、"真なる聖女"として存在していた。
「タチアナ」
「アーリャ……」
「後は僕に任せてくれるかな」
「ええ……この方をお願いいたします……」
連続殺人事件の真犯人・エメーリャの嗚咽が落ち着いた頃。
静かに見守っていたアレクセイは二人に歩み寄ると、先ずはタチアナに声をかけた。
アレクセイの指示を理解したタチアナは快く頷いた。
「エメーリャ・オーキド。僕と一緒に来てもらっていいかな」
アレクセイの声かけに対して、エメーリャは抵抗することもなく、静かに頷いた。
無言で差し出された両手を縄で巻いていく中、アレクセイは目線を上げる。
空色の瞳に映るのは、涙に濡れながらもどこか晴れやかな顔をしたエメーリャの姿。
ここにきて初めてアレクセイは、タチアナという不思議な聖女を認めた。
タチアナは目の前の罪人と戦わずして心を動かしたのだ。
正論と武力で相手を挫く自分では、決して成し得なかった業だ。
自分にはないものを以て、罪人の心に救済と回心をもたらしたタチアナの不思議な力は何なのか。
それは聖女ならではの"慈愛と信仰心"、"カリスマ性"だけでは説明のつかないものだ。
タチアナの生み出した波紋は、エメーリャだけでなく、アレクセイ自身の心にも静かに広がっているような気がした。
「大丈夫ですか、ドロレスさん」
エメーリャを拘束し終えた後、屋敷の外で待機中の警備部隊へ連絡用の白鳩を窓から飛ばしていた最中。
タチアナは壁の隅で憔悴したように座り込んでいるドロレスへ歩み寄っていた。
ドロレスの具合を心配するタチアナに対して沈黙していた彼女は、絞り出すように答えた。
「……どうして、くださるのですか……せっかく……終わりにできると……思っていたのに……っ」
氷沼から這い出たような眼差しと声で訴えてきた無念に、タチアナとアレクセイは真意を悟れた。
ドロレスの計画の中では、殺人犯であるエメーリャが自分の望みを成就させてくれるはずだった。
しかし、アレクセイの登場とタチアナの乱入によってその計画は大いに狂わされたのだ。
エメーリャの心は救われたが、ドロレスは未だ不安と絶望の沼から抜け出せていないのだ。
警備部隊を待つアレクセイとエメーリャが見守る中、タチアナはドロレスにも手を差し伸べた。
「ドロレスさん……これからのことはゆっくり一緒に考えていきましょう……あなたは独りではありません……国の福祉の方々もあなたの味方ですから……」
ドロレス独りでは抱えきれなかった未来への不安と絶望感を知った今、タチアナや福祉関係者も彼女を理解した上で支えることが可能なはずだ。
タチアナの言葉を耳にしたドロレスは、差し出された右手を注視すると同じように右手を伸ばしてきた。
タチアナは穏やかに微笑んだまま――。
「"ふざけないでください"――っ」
薄闇に銀色が閃いた瞬間、床に赤色が滴る。
「え――」
威嚇する猫のように息を切らしたドロレスの右手には、食事用のナイフが握られていた。
ナイフの先に滴る赤い血は、銀に反射して閃いていた。
「タチアナ――!」
目の前の状況を瞬時に悟ったアレクセイは叫びながら駆け出した。
風のような速さでドロレスの背後に周り、首根に手刀を落とした。
衝撃によって失神したドロレスの体は力無く崩れ、右手からナイフが落ちる。
ドロレスの動きを確認したアレクセイは、真っ先にタチアナを支える。
「アーリャ――っ」
「タチアナ! しっかりしろ! 傷口を押さえるから! 右手を高く上げてっ」
アレクセイ自身も分かりやすいほど動揺している。
タチアナも一体何が起きたのか把握し切れていない様子で、アレクセイを力無く見つめる。
懐から取り出したハンカチで右手首をしっかり押さえる。
瞬く間に布を染めていく鮮血に、アレクセイは顔を歪める。
「大丈夫だから、タチアナ。すぐに駆けつけてくれるから。心配いらないからっ」
常に冷静沈着なアレクセイらしからぬ様子に、タチアナは自身の危うい状況を実感する。
「アーリャ、ごめんなさい……泣かないで……」
アレクセイにすれば不可解な謝罪と慰めの言葉を最後に、タチアナはゆっくりと目を閉じた。
「タチアナ――ぅ――っ」
アレクセイ自身も突如襲ってきた激しい頭痛に意識を持っていかれてしまう。
痛い――頭が割れそうだ――。
何故、よりによって、こんな時に――。
タチアナ――僕は君に――っ。
アレクセイが最後に確認できたのは、扉を打ち破る警備部隊、エメーリャとドロレスを連行する警察、タチアナと自分に駆け寄る医療班の姿――頬を濡らす涙の感触だった。
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